20200801−07
白いカーテンが、ドレスの裾のように踊っている。それをぼんやりと見つめながら、少しずつ狭まる視界に目を細めた。
大人たちの慌てる声、自分のか細い呼吸音、甲高い機械音――そして、微かな鼓音。全て聴こえている。
母の流す涙の感触も、手を握る温もりも、ちゃんと伝わっている。それに酷く安心し、満足した。
惜しむらくは、彼女が傍にいないこと。今は遠い土地にいる彼女が帰ってくるまでは、と思っていたのに。
自分がいなくなったら、彼女はどうなるのだろう。どう、するのだろう。自分の世界に帰ってしまうのだろうか。それとも、共に。
それだけはありませんように、と心の中で呟いて、腕を伸ばす。最後の力を振り絞るようにして、枕元に置いていたD3を握りしめる。手の平に伝わる固さに何故か口元が綻んで、同時にしょっぱい何かが口元に触れた。
もう一度だけ、変わった名前の彼女に会いたかった。
「―――Nacchan」



布を引き裂くような断末魔を上げて、デーモンの身体が光に飲み込まれていく。
「まだだ……まだ……!」
光の檻を破るように、デーモンは四肢に力を込めてそれを抑える。オメガモンとインペリアルドラモンは警戒を解かず、オメガソードを構えた。
「戻るものか……ダークエリアに戻るなど……――ここで、終わるなど」
「いいや、」
ド、とデーモンの肩を赤い刃が貫いた。
「お前はここで終わりだ」
ジャスティモンは刃を引き抜く。力を失ったデーモンは、瞬く間に光の中へと飲み込まれていった。
静かな鏡の大地に、暗黒デジモンの面影は、どこにも見られなかった。



「タイチ」
アグモンは急いで太一の元へ駆け寄り、共にブラックウォーグレイモンとアスタモンを見つめた。既に身体の半分が粒子となっていた彼らは、蛍が飛び立つようにその姿を消していた。
「コロモン」
アスタモンが、空を見上げてポツリと呟く。ウォレスは目を伏せ、背負った鞄にそっと触れた。
「――ありがとう」
その呟きを最後に、アスタモンは消えた。
一足早く全て粒子となったブラックウォーグレイモンのデジタマを抱え、太一は目を閉じた。



大輔たちが四聖獣の間へ足を踏み入れると、そこは出かけたときと雰囲気を変えていた。
真っ白い空間の中に、ポカンと浮かぶ赤ともオレンジともつかない暖かい色の光。その前に、なっちゃんが一人で立っていた。
「なっちゃん……?」
大輔が声をかけると、なっちゃんは振り返ってニコリと微笑んだ。
「だいすけ」
その声と笑顔に、抱かれる違和感。
「何を、して」
「デジモンに、明確な『死』という概念はなかった」
説明したのは、ゲンナイだ。
「すべてのエネルギーを失っても、デジタルワールド内なら始まりの街へ還り、デジタマとして新たに生まれ直す。何度だって。しかしこれからも人間たちとのパートナーシップ関係が続く以上、その概念は作り出されることだろう」
タケルはゴクリと唾を飲んで乾いた口内を濡らした。
「何を、言って」
「彼女はその、第一歩となる」
京は息を飲んだ。伊織は目を見開いて、拳を握りしめる。
「どうして、そんなこと!」
伊織の言葉に何も答えず、ゲンナイはフードの下から見える口元で笑んでみせた。
ヒカリは静かに、なっちゃんの背中を見つめる。
「良いのよ、私は」
「どうして! だって君にはパートナーが!」
ウォレスは思わず言葉を止めた。なっちゃんの笑顔が、あまりにも綺麗だったから。それと同時に全てを察した予感に見舞われたのだ。ウォレスは拳を握りしめた。
「私のパートナーね、多分死んじゃった」
大輔たちは絶句した。
なっちゃんと彼女のパートナーを引き合わせたのは大輔たちで、パートナーのことを大輔たちもよく知っていた。
胸に手を当て、なっちゃんはそっと目を閉じた。離れていても、何となく感じたことだ。それがパートナーとの絆のような気がして、少し嬉しい。
元々、病弱な子だった。なっちゃんと出会ったときも、もう数か月の命だと言われていた。それでも共に過ごした日々は楽しくて、幸せだった。
「私、幸せだった」
泣きそうに顔を歪める大輔に笑顔を向けて、なっちゃんは少し首を傾けた。
「ダイスケ、ありがとう」
「なっちゃん」
「その名前、忘れないでね」
なっちゃんはワンピースの裾を翻し、空間の奥へスキップを踏むように軽やかに進んでいく。大輔たちは何も言えないまま、光に溶けていくなっちゃんを見送った。
「バイバイ」
最後の笑顔が光と共に網膜へ焼き付いて、暫くは消えそうにない。



ちりぃん。風鈴が、鳴る。それをぼんやり聞きながら、大輔は床に寝転がって天井を見上げていた。足元に転がったエアメールは開封されぬまま、日に晒されている。
「ダイスケぇ〜」
扇風機の前で転がっていたチビモンが、パートナーを呼ぶ。けれど大輔から返答はない。何度か繰り返したやり取りに、チビモンは溜息をついて扇風機からの風を楽しむことにした。
蝉の声が、遠くから聞こえる。それに混じって、チャイムと扉の開く音もしたような気がした。しかし気にせず、天井へ視線を向け続ける。
ふと、枕元に誰かが立った。少し視線を動かすと小さく笑う賢と目が合って、大輔は漸く身体を起した。
「賢かよ……」
「お姉さんに上げてもらったんだ」
律儀に正座し、賢はお土産だと冷えたアイスを大輔に差し出した。そちらを一瞥し、寝転がったまま大輔は受け取る。自分の分とデジモンたちの分のアイスを開き、賢はそれを頬張った。
風鈴と扇風機とアイスを齧る音だけが、部屋に響く。
「……死んだら、何処へ行くんだろうな」
大輔の呟きは、扇風機の回る音と混じり合いながら、賢の鼓膜を揺らす。ソーダ味のアイスを飲みこみ、賢はこちらに背を向けたままの大輔を見つめる。
「……デジモンが、かい?」
「……デジモンてさ、一度死んでも、始まりの街へ行けば出会えるだろ」
実際、賢のワームモンはそうやって再会した。人間が取り残されることはない。ならば、逆になったらどうなるのか。
「俺が死んだら、チビモンはどうなる?」
ポリ、と大輔は項を掻いた。
「……その答えが、あの日のなっちゃんだよ」
「……」
シャリ、と賢はアイスを齧った。
はっきりと考えたことはない。しかし、どこかでぼんやりと思っていた。大輔たちが年を取ってしわくちゃになっても、ブイモンたちは変わらず傍にいてくれて、最期のときまで見守ってくれる。その後は、きっと、大輔のことを忘れずにデジタルワールドで生きていてくれるのだろう、と。そう、勝手に想像していたのだ。
パートナーを遺してしまうことが、デジモンたちにとってどれほどの苦痛で、哀しみで、辛いことか。それからは、目を背けていた。
「……幸せだったかな」
「……綺麗な笑顔だっただろ」
「うん……」
なっちゃんの結末は、ホメオスタシスたちが選んだデジモンたちのための結末だ。ならば、チビモンたちにとっても最善の筈。しかし、それを面と向かって訊ねることは、大輔にはできなかった。きっと、賢も。
膝に頭を乗せるチビモンをぐりぐりと撫で、大輔は大口を開けてアイスを齧った。
「……」
「ダイスケ」
チビモンが、膝に飛び乗る。そのとき大輔が前屈みになっていたので、チビモンの石頭が大輔の額にぶつかって嫌な音を立てた。
「っつ〜……何すんだ、チビモン!」
「いつものダイスケ!」
赤くなる額を抑えて大輔が怒鳴りつけると、チビモンは嬉しそうにニコニコと笑った。その様子に怒りが削がれ、大輔は大きく息を吐く。カクリと落ちた彼の肩を、賢が苦笑しながら叩いた。
「全く、お前ってやつは……」
「それで良いじゃないか」
大輔の隣に移動し、賢は残りのアイスを齧る。
「世の中、考えても仕方ないことはあるんだ」
ぽた、と溶けたアイスが、大輔の手に落ちる。濁ったその雫を指で拭い、大輔はへらりと笑って頷いた。
「そう、だな」
指についたそれを舌で舐めとり、大輔は未開封のエアメールへ手を伸ばした。
人間とデジモンは違う。人間の成長は、退化することのない進化だ。対してデジモンは、進化もするし退化もする。データの集合体であるが故。こんなにも違う二つの種族が、心を通わせて強くなり、世界を変える。これが運命なら、ここから生まれていくものは全て、奇跡の連続だ。
それだけで、今は十分だった。



「死んだら、どうなるんだろうなー」
机にペッタリ頬をつけて、太一は間延びした声で誰に言うでもなく呟いた。向いに座って参考書を開いていた丈は彼を一瞥して、さあ、と首を傾げた。
「魂の存在、輪廻転生、天国と地獄……死後の世界にはさまざまな説があるけど、どれも信憑性に欠ける。立証するには死ぬしかないけど、死人に口無しだからね」
「……至極真面目なお答えをどうも有難う」
渋い顔をして、太一は身体を起す。彼の机にも広げたノートと参考書があったが、太一がそれを進めている形跡は見当たらなかった。その上に頬杖ついて、太一は唇を尖らせる。
「さすがお医者サマー」
「喋ってないで、さっさと進めたらどうだい?」
困ったように笑い、丈は少し手を止める。最近よく勉強を見てほしいと言ってくる太一だが、何を悩んでいるのか彼はいつもこのような捻くれた問答を繰り返して手を進めない。
彼をリーダーと言ったのはどこの誰だろう、と丈は苦笑する。すると、そんな彼の顔に、小さな紙が突き付けられた。いつかも見た覚えのあるそれは、以前とは違い太一の筆跡で文字が書かれていた。その文字を目で追い、丈は目を瞬かせる。
「……太一、それは」
「今回のことだけが理由じゃねぇけどさ」
小さな紙を持ち上げ、太一は小さく微笑んだ。そこに書かれた文字を見て、丈は柔らかく微笑む。それから手元へ目を落とし、良いんじゃないか、と呟く。太一はニシシと笑って、紙を机に戻した。頬杖をついたまま窓の外を見やって、太一はそっと目を細める。
「俺も、変わらなきゃなぁ……」
人間は、成長する。さまざまなできごとの中で、その中で得る経験と思考によって。それが人間を作るのだ。
太一の横顔を見つめ、丈はフッと頬を綻ばせた。彼も成長したのだと思うと、兄や親でもないのに込み上げる想いがある。自分も甘いなと、苦笑が自然と零れた。
「頑張れ、太一」
「応」
『外交官』―――その文字を大切そうに指でなぞり、太一はニカリと笑った。



二体のデジモンがいる。
一体は丸いフォルムの黒いデジモン。もう一体は、紫の毛皮と角を持つ獣型デジモン。
獣型デジモンの周りを、丸いデジモンはゴムボールのように飛び跳ねる。首を動かして獣型デジモンは、その様子を目で追っていた。
一緒にいられることが楽しい、というように、二体とも顔を綻ばせている。
ゴムボールのようにぴょんぴょん飛び跳ねていた丸いデジモンは、ふと動きを止めた。それと一緒に、獣型デジモンもピクリと耳を動かして顔を上げる。二体が見やった方向は、同じだった。
光の溢れる道の向こう、こちらへ向かって手を振る影が見える。
「コロモーン!」
「サイケモーン」
二体は顔を見合わせた。そして綻ぶ顔を影の方へ向けて、駆け出した。
大切なパートナーの名を、呼び返しながら。
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