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その日は朝から体がだるく、なんとなく熱っぽかった。数日前から眩暈などの不調はあったから、それほど驚きはしない。どこで菌をもらってきたのかなー、と呑気に思いながら防寒対策はしっかりして登校した。しかしやっぱり無理は禁物だった。午前の授業が終わる頃には胸のムカつきまで起こって、仕方なく早退することにした。あれでいて何故か―――古市に対してのみなのだが古市本人は気付いていない―――心配性な男鹿が連絡し、ラミアが迎えに来て―――その時やはり花澤達にからかわれたが、引き攣った笑いを返す程度にしか気力は残っていなかった―――。古市も断ったのだが、ラミア曰く、もしベル坊が狙われるとしたら、いつも傍にいる人間の古市も決して安全というわけではないのだとか。只でさえ弱いのに体調不良で反応が鈍い今では、格好の人質だ。
まぁそんな説得に渋々納得させられた古市が、ラミアと二人して通学路を歩いている時、それは突然、文字通り降って来た。

「!うわっ」
「きゃぁ!」

突然空から降って来た黒い塊は、狙い澄ましたかのように古市の上に落ちた。大きく重いそれに乗られ尻餅をついた古市の横に膝をついて、その塊を覗き込んだラミアは、予想外の正体に思わず口に手を当てた。古市も体を起こし、脚にのるそれを見下ろす。

「!ヘカドスさん!?」

見知った悪魔は傷だらけで、息も荒い。慌てて抱き起こすと、僅かに飛んでいた意識を戻したらしいヘカドスが、薄く目を開いた。軽く視線を動かし、古市とラミアの姿を目視すると小さく舌を鳴らす。肩を支える古市の手を払い自分で立ち上がった。

「…そこの。早くこの人間を連れて…逃げろ」
「へ?」
「早く…!」
「待って、治療しないと!」
「…気にするな。いいから早くしろ!早くしないと奴が…!」

焦ったように言い募るヘカドスの背後から、黒い影が伸びる。それにハッとしたヘカドスが振り返る暇すらなく、ド、と重々しい音がする。大きく目を見開いて、ヘカドスの体が前に傾いた。

「わわ!」

慌てて古市が伸ばした腕でなんとか受け止めたものの、今度は完全に気絶してしまったようだ。背中には大きな傷跡。真新しいそれは、たった今出来たものだろう。

「ヘカドスさん!ヘカドスさん!」
「ちょっと、何なのよ!」
「―――見〜っけ」

焦る二人の耳に届いた声。体を押さえつけんばかりの殺気に肩を震わせながら声の聴こえた方へ視線を向け―――そして先程のシーンに戻る。

「…如何にも古市貴之ですが…可愛らしいお嬢さんが何の用でしょう」
「可愛らしいって、アタシのこと?ふふ、ありがとー」

ぴょん、と飛び跳ねて少女は道路に飛び降りる。警戒心を益々高め、古市はラミアを庇うように前に出た。少女はウリエルと名乗ると、古市をじろじろと見つめる。その視線に居心地悪く古市が目をそらすと、ウリエルはにっこりと微笑んだ。

「あ、あんた!」

バッと両手を広げ、ラミアは古市とウリエルの間に飛び込む。微かに肩が震えていたから、まだ怯えているのだろう。止めるように古市が上げた手は、しかし強さを増したウリエルの殺気に竦み空をかいた。

「て、天使が何の用よ!」
「悪魔に用はないのよ」

退いて。発せられた声は冷たい。ビリビリと震える空気に、逃げなくてはと頭では思うのに足は地面に縫い付けられたように動かない。金縛りにあったように動けないでいる二人をクスリと笑い、ウリエルはゆっくりと歩み寄る。そっと頬に伸ばされた手は、暖かった。

「退くのは、―――手前だ」

轟。空気を裂く、と言うより抉るように唸りをあげた拳が、古市の眼前を通り過ぎていく。間一髪身を引いて避けたウリエルは、後方に回転して塀上に飛び乗った。現れた新たな役者に、幼い顔が憎々しげに歪む。ラミアが腰を抜かしたように座り込む。日光を遮るように前に立つのは、真っ黒な背中。やっと金縛りの解けた古市は、は、と息を吐く。

「男、鹿」
「おう、何だ」

いつものように気だるげな、しかし奥に秘めた熱を隠さない様子の声色。こちらを振り向きもしない男鹿は、真直ぐにウリエルを睨んでいるのだろう。一緒に駆け付けたらしいヒルダは、ラミアと共にヘカドスの容体をみている。

「魔王の契約者か…」
「男鹿、なんでここに」

苛立たしげにウリエルは吐き捨てる。そんなことも気にならない程、古市は驚いていた。まだ授業中の筈だ。

「ヒルダが妖しい力の気配を感じたって飛び込んできたんだよ」
「坊ちゃっまが危ないかと思ったのだがな。しかし学校に妖しい人物はいなかった。次に狙われるとしたら、関係者の中で最弱のお前だ」
「来てくれたのは嬉しいけど酷い!」

色んな意味で涙が滲んだ、古市であった。はあ、と息を吐くと、気が抜けたからだろうか、今になって体の重さが増してくる。くらりと眩暈がして、あ、と思う間もなく力が抜ける。ラミアが泣きそうな顔で肩を揺する姿の奥で、柄にもなく大きく目を見開く男鹿の顔が、霞む視界に焼きついていた。

「…古市、」

突然倒れ込む古市。そう言えば、体調が悪いと言っていたっけ。ラミアが慌てて体を揺すっているが、意識はないらしく青白い顔に僅かな苦痛を滲ませているだけだ。驚いて思わず振り向いた男鹿は、名前を呼ぶ暇すら与えられなかった。ふ、と背後に気配が沸く。

「無視しないでよ〜」

ふざけた様に間延びした声がしたかと思うと、風の切れる音がする。咄嗟に身を屈めた男鹿は、空を蹴った細い足を掴みそのまま投げ飛ばした。崩れたバランスを空中で持ち直し、ウリエルは反対側の屋根に着地する。

「…お前が天使、ってやつか」
「そー。ウリエルよ、どーぞよろしく」
「狙いはなんだ?魔界転覆か?」
「んー、当たらずも遠からず?」
「は?」
「アンタ達はそこの人間を人質にされるかも、って思ってるだろうけど、違うのよね」

―――そこの人間こそ、アタシ達の目的なんだから

唇に人差し指を当て、少女の外見には不釣り合いなほど妖艶に、ウリエルは笑う。刀を構え、ヒルダは柳眉をひそめた。

「古市を?なんの魔力も持たぬのに」
「だーからアンタら悪魔は低能なのよ」

心底馬鹿にしたような物言いに、ヒルダの米神がピクリと引き攣る。小娘が…!と刀を振り上げかけた時、視界にいくつもの羽根が舞い降りた。

「…ウリエル、見つけた」
「もぅ、心配したんですよ」
「勝手な行動をとるな」

新しい三つの声。大きく真っ白な翼をはためかせ、三人の天使がウリエルの傍らに舞い降りた。仲間だということは、訊ねなくても解る。ぼんやりとした様子の天使が、ラミアの庇う古市に視線を止めた。

「…あれ、<霊珠>」

スッと伸びた白い指は、古市を指している。彼の言葉に、長髪の天使が目の色を変えた様に視線を古市に向けた。倒れる姿を瞳に映すと、にやりと口元を歪める。

「アレが…!ウリエル、よくやった」
「もっと褒めてよ、ミカエル」

不満そうに頬を膨らめるウリエルを横目に、ミカエルと呼ばれた天使は屋根から飛び降りた。真直ぐ足を進め、威嚇するラミアなど意にも介さず、眠ったままの古市に手を伸ばす。白い肌に触れる直前、それは男鹿によって遮られた。

「…触るな」

睨む男鹿に、ミカエルは薄ら笑いを返す。ぎり、と強く握りしめられた手を振り払う。彼の背後に残りの三人も飛び降りた。

「そちらこそ触らないでもらおうか、下等生物」
「天使様は雲の上でおねんねでもしてな」
「なんだと…っ」
「ミック!」

激昂したようにミカエルは顔を歪め腕を振り上げる。それを掴んで止めたのは、先程までぼんやりとしていた天使だった。声を荒げた彼は、仲間内でも珍しかったのだろう、ミカエルでさえきょとんとした顔をしている。

「ガビー…」
「…<霊珠>、まだ目覚めてない…完全に。…まだ、無理に」
「解ったよ」

口下手なのかたどたどしく紡ぐ言葉を遮って、ミカエルは腕を振り払い顔をそむける。大人しく踵を返したミカエルのこともウリエル達は意外そうに見ていた。

「…帰るぞ」
「おい、待て!」

決着もなにもないまま逃げられては堪らないと男鹿が足を踏み出しかけるが、それをヒルダが止める。睨みつける男鹿を、ヒルダは人睨みで黙殺した。

「男鹿辰巳」
「ん?」

顔を戻せば、大きな翼を広げたミカエルが太陽を背に冷たい視線を向けていた。ゾクリ、と強さを感じた体が震える。

「次はそこの人間、我ら天界が頂く―――精々残り少ない余生を楽しむんだな」
「は?どういう意味だ」

最後の問いは翼の音にかきけされ、男鹿も答えを得られぬまま。柔らかい羽根を残して、天使達は姿を消した。
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