第5話 chapter1
冷たい海で、一人漂っている。
目を開いて見上げた空も、暗く、黒い。この世界にはその色しかないことを、よく知っていた。

――……ん……ちゃん。

声が、聞こえる。フッと瞬きを一度すると、それまで黒に塗りつぶされていた視界に別の影が映りこんだ。
四つの人影は、誰かに似ている。

――……ヒ……リちゃ……。

手を伸ばされる。しかし力の入らない指先では、それを握り返すことができない。

――ひか……は…………の中……に。

声に、訊ね返すことすら、何も。

「ヒカリ!」
ハッとして、ヒカリは我に返った。
肌に触れる温もりにつられて視線を落とすと、こちらを心配げに見上げるテイルモンと目があう。散歩中にぼんやりとしてしまったらしい。
ヒカリは口元を緩めて、テイルモンの頭を撫でた。
「ごめんなさい。少しぼんやりしてた」
「あまり無理するな」
ヒカリの手に顔を緩めながら、テイルモンはしかし不安げな視線をやめない。それにあくまでも微笑みを返して、ヒカリは殊更優しくテイルモンを撫でた。
「大丈夫」
夢への不安はまだ拭いきれていないが、テイルモンの姿を見たお陰か、穏やかな心持だ。
ふと、何かが目の端を掠めた。まさか、という言葉がまず頭に浮かぶ。
ヒカリが顔を上げると、テイルモンも同じように驚いた様子でそちらに目をやっていた。
まさか――あれは、人間の子どもの影だった。
ヒカリたちの他に人間の子どもがデジタルワールドに来ているとは、ゲンナイから聞いていない。新しい選ばれし子どもだろうか。なら、ゲンナイがとっくに話しているだろう。
「ヒカリ」
テイルモンが声をかける。コクリと頷いて、ヒカリは影が走り去った方へ足を向けた。
木々の間を縫い、テイルモンと一緒に走る。中学生のヒカリの足でも、すぐに追いついた。それというのも、相手は小学生ほどの女の子であったからだ。
「待って」
暫く走って、相手の背中がすっかり見えるようになってから、ヒカリは声をかけた。少女は、大人しく足を止める。
ヒカリとテイルモンも足を止め、警戒しながら少しずつ彼女との距離を詰めた。
「突然ごめんなさい。あなた、人間ね? 選ばれし子どもなの?」
ヒカリが訊ねる傍ら、テイルモンは辺りに視線を向けた。推定『選ばれし子ども』の近くに、パートナーデジモンらしき気配は見受けられない。
「選ばれし子ども……そうね、そうだわ」
ともすれば、独り言のような言葉だった。少女は細く笑んで、くるりと振り返る。
ヒカリとテイルモンは息を飲み、思わずジリと後ずさった。
無邪気そうな笑みを浮かべ、少女はどうかしたのかと問う。
ヒカリはコクリと唾を飲みこんで、汗ばむ手を握りしめた。
「……あなた、名前は?」
少女はヒカリの様子を気にせず、胸元へ手を当てる。
「――姫川」
無邪気な少女の容姿に似合わず、大人びた声色だった。そのアンバランスさが、余計に彼女の不気味さを増している。
「姫川マキよ」
現実世界で出会った女性の面影を持った少女は、ニコリと笑って見せた。

◇◆◇

窓から入って来た風が、花瓶の中の向日葵を揺らす。
ベッド脇の椅子に座り、芽心はじっとそれを見つめていた。
母が家を出たのは、芽心が中学二年生の初夏だった。畑の向日葵の蕾が膨らんでいると聞いたから、今年の夏はいつ見に行こうか、相談したかった。
けれどその日、芽心が帰宅するといつも出迎えてくれる筈の母の姿は、なかった。それ以来、芽心は母の姿を見ていない。
「もう、三年になるのか」
眠っていたと思われていた男は、目蓋を持ち上げる。しかし視線を傍らの娘に向けることはせず、病室の無機質な天井を見つめた。
「……母さんが出て行って」
「……うん」
予兆はあったと思う。人の心の機微に疎い芽心でも、気づくほどだ。大学教授の父は休みもなく研究に没頭して、家庭を顧みなくなった。母はそんな毎日を退屈そうに――時折、苛立たし気に――過ごしていた。彼女を刺激したくなくて、芽心も団欒を避けるように自室へ閉じこもるようになった。それが、全てあの日に繋がっていたのだ。
見ないふりをしていた、知らないふりをしていた。気づかないふりをしていた。全て、芽心が自己保身のために。
「……お母さんは、私たちを捨てたんだね」
父の素っ気なさに愛想を尽かしただけだと、思っていたかった。しかし母は父だけでなく芽心にも愛想を尽かし、外に別の愛を育み、飛び出していった。
その事実を理解できても、受け入れられなかった。認めたくなかった中学生の芽心は、全て父のせいだと思い込んでいた。
「……私、全部、お父さんのせいにしてた」
俯く芽心の頭へ、父はそっと手を乗せた。
「いや、その通りだ。子どものお前が気に病むことなど一つもない。悪いのは全て、親である私たちだ」
芽心はフルフルと頭を振る。
「ううん。私、自分が寂しいのも、全部お父さんのせいにしてた。私が変わらなきゃいけなかったことも全部、人のせいにして……」
人のせいにして、人に判断を任せて、人に寄り掛かって、そうして芽心はここまで来てしまった。だから、簡単に大切な相手を傷つける言葉を吐くような、甘えた人間になってしまったのだ。母が愛想を尽かすのも、当たり前だ。
「ごめんなさい……私がもっと考えていれば……変わっていれば、お父さんもメイちゃんも、みんなも傷つかなくて済んだかもしれないのに……」
姫川に簡単に利用されたのも。メイクーモンを突き放したのも、全て芽心だ。自分がもう少し芯のある人間であったら、こんなことにはならなかったかもしれない。
芽心の言葉は、嗚咽で何度かつっかえた。ぽたぽた、とレンズに雫が落ちて、視界がぼやける。
父は全て言葉を聞き終えてから、芽心の頭にやっていた手を濡れた頬に動かした。
「芽心、よく聞きなさい」
芽心は少し目線を上げる。父は真っ直ぐとした視線で芽心を見つめていた。父と正面から見つめ合ったのはいつぶりだったろうか、芽心は思わず懐かしさが胸に占めて行く感覚に襲われた。
「お前はまだ子どもだ。私の大切な娘だ」
世間では大人と扱われることもあるが、同時に庇護されるべき存在でもある。高校生とは、曖昧な年ごろだ。親から見れば、尚のこと。
「他の誰もがお前が悪いと言おうが、私は何度も繰り返す。『お前は悪くない』」
「お父さん……でも」
「それでも」
消え入りそうな芽心の言葉を遮り、父は続ける。
「まだお前が何かを償いたいと、罪悪感に苛まれるのなら、こうも言おう――その心に見合う行動をとりなさい」
後悔ばかり繰り返して泣き続けるのは、何も変わらずにいるままと同じこと。それこそ、芽心が厭う自身の姿だ。
「心に芽生えた想いを、大切にしなさい」
「お父さん……」
「お前の名づけ親は、私だ」
芽心は涙の浮かぶ目を丸くする。父はフッと笑って、彼女のレンズに残った雫を太い指で掬った。
「芽心、これからどうしたい?」
父の手が、頬を離れる。
芽心はグシグシと手で目元を拭って顔を上げた。
「メイちゃんを、迎えに行く。そして、謝りたい」
「良く言った」
強い芽心の言葉に父が頷くと同時に、病室の扉がガラリと開いた。振り返った芽心は、そこに立っていた人物に目を丸くする。
「西島先生」
「もう先生じゃないけどな」
微かに隈の浮かぶ目元を細め、西島は笑って見せる。芽心は家族以外に泣き腫らした目を見せてしまったことに気づき、慌てて赤くなる顔を伏せた。
西島は少女の変化に気づいた様子もなく、病室に入ると二人の近くで立ち止まった。
「力を貸してほしい、望月芽心さん。君の力が必要だ」
赤くなる頬へ手を添えていた芽心は、キョトンと西島を見上げる。父は眉を顰めた。
「まさか、警察の捜査に協力させようというのか?」
「望月さんのお気持ちはごもっともです。しかしこちらの提案は、先ほどの芽心さんの目的の手助けにもなります」
言いながら、西島は父のベッドに取り付けられているテーブルにノートパソコンを置いた。
「あのデジヴァイスは持っているかい?」
「え、あ、はい」
芽心はポケットから黒ずんだデジヴァイスを取り出す。それを見て、西島は少しホッとしたように息を吐いた。
それから彼は、入り口の方へ視線をやる。病室の扉は既に閉められており、廊下には西島の部下が人払いと警備のために目を光らせているだろう。
「……姫川マキが、意識不明の状態で発見されました」
声を潜め、西島は望月親子へ事実を告げた。二人は息を飲み、父はガタリと痛みも忘れて身体を起こした。
「アジトにしていたと思われるマンションの一室で、です。傍には写真のようなパソコンがありました」
言いながら西島はノートパソコンを操作し、突入したマンションの一室の写真を二人へ見せた。
「……それを私たち民間人に教えて、何が狙いかね」
察しているだろうに、父は険しい顔をして訊ねる。芽心はさっぱり話が読めないようだ。
「我々はこう結論づけました――姫川マキは、何らかの方法でデジタルワールドへ逃亡している。身体は置いて、精神だけで」
「え!?」
「目的は未だはっきりとしません。しかし、彼女を追いかけられるかもしれない可能性は見いだせました」
「……デジヴァイスか」
「はい。姫川マキが作成したそれなら、彼女がデジタルワールドへ向かったプログラムと親和性がある筈です」
「えっと……つまり?」
苦虫をかみ潰したような父は、西島の言わんとすることを理解しているようだが、芽心にはさっぱりだ。
芽心を安心させる意味も込めてだろう、西島は少し表情を和らげた。
「つまり、君にデジタルワールドへ行ってほしいんだ。姫川マキと、メイクーモンを探すために」

◇◆◇

――姫川マキ。
その名前を聞いた途端、テイルモンは爪を鋭く尖らせて、目の前の少女を睨みつけた。
「姫川マキ? 私たちが現実世界で出会った、あの姫川マキか?」
テイルモンの問に、少女は少し何かを考えるように口を開閉させたが、やがて何を諦めたかフッと息を吐いた。
「取り繕うものもないわね。その通りよ」
推定小学五年生。そんな幼い少女の口から零れるのは、妙齢の女性を伺わせる台詞だ。
「あなたの狙いは何なの? それにその姿は一体……」
警戒心を解かず、ヒカリはゆっくりと訊ねる。パッと頬にかかった髪を払い、姫川は子どもらしくない笑みを浮かべた。
「私のデジモンを捜しに来たのよ」
「パートナーデジモンを?」
「そう。十年ほど前に出会い、そして別れてしまった私の大切なデジモン」
「それがあなたの目的?」
「ええ。何も悪いことではないでしょう? あなたたちだってそう望んだからここにいるじゃない」
「だが、お前は周りを傷つけすぎた。それは赦せることではない」
テイルモンの威嚇もどこ吹く風と言った様子で、姫川は腕を組む。
「しょうがないじゃない。幾ら待っていても、私のデジモンを返してくれないんだもの。望み通りにならない世界なら、『私が創り変えるしかない』でしょう? ――あなたなら、理解してくれると思ったけど」
姫川の瞳が、ヒカリを捉える。ビクリと肩を揺らした彼女の前に、庇うようにしてテイルモンが割り込んだ。
「ヒカリとお前を一緒にするな!」
「……意地悪はこれくらいにしておくわ。あなたのお陰で、この方法を思いついたのだしね」
「どういうこと?」
「ホメオスタシスに身体を貸したあなたを見て思いついたの。身体ごとは無理でも、精神だけならデジタルワールドへ行けるのではないか、と」
うすうす感じてはいたが、確信へと変わる。目の前に立つ少女は、現実世界で出会った『姫川マキ』そのものではないということに。
大人の身体(抜け殻)は現実世界に。デジタルワールドにいる彼女は、姫川マキの精神体。
「やっとこの世界に来ることができた」
姫川は、うっとりとどこか夢見心地な眼差しだ。その瞳が嘗て垣間見た黒い海を連想させて、ヒカリはゾワリと鳥肌を立てた。

◇◆◇

「ここは……」
パルモンたちに先導されてミミたちが足を踏み入れたのは、どこか懐かしい風景が広がる場所だった。
柔らかな芝生と、点在する揺籠のような繭。あちらこちらに幼年期や成長期の姿が見受けられる。
「はじまりの街みたいだ」
タケルはポツリと呟く。
ゴマモンたちの話によると、その通り、ここははじまりの街をモデルとした避難地であるらしい。ここへ入る前も、生い茂る森の中を歩いて来た。一種の結界のようなものだったらしい。
「おう、てめぇらか」
ぼんやりと風景を眺めていたタケルたちに声をかけたのは、オーガモンだった。
肩や頭に幼年期たちを乗せており、暴れていた頃の姿とかけ離れたその様子に、ミミは思わず笑みをこぼした。目敏くそれを認めたオーガモンは、居心地悪げに頬を掻いた。
「笑うんじゃねぇよ。仕方なくここの見張りをやってるだけなんだからよ」
「それにしても、すっかり懐かれているように見えるけど」
外敵の攻撃から幼いデジモンたちを守るため、あるデジモンが見張りをしているとゲンナイからは聞いていた。オーガモンだとは思わなかったが、それも納得である。
含み笑いを止めない丈たちにすっかり諦めて、オーガモンは他にもアンドロモンがいて、今は見回りで席を外していると教えてくれた。
「後で挨拶したいな」
「そうしてやってくれ。喜ぶだろうさ」
じゃれつく幼年期たちを地面に降ろしたオーガモンは、ふと思い出したように「そうだ」と呟いた。
「アイツもいるぜ。どうせなら顔だしてけよ」
キョトンとミミたちは目を瞬かせ、顔を見合わせた。
オーガモンはクイと指を背後へ向け、返事も待たずに歩き出す。ついて来い、という意味だと受け取って、ミミたちは緑色の背中を追いかけた。
オーガモンが案内してくれた場所には、先ほど見た倍以上の幼年期たちが集まっていた。その中心には、木に凭れかかるようにして一体のデジモンが座っていた。
「……レオモン!」
鬣を幼年期に遊ばれていたデジモンは、ゆっくりと目蓋を開いてミミたちの方を見やる。
「……無事だったか、選ばれし子どもたち」
ゲートに放り込まれた後、四聖獣の結界内で守られ、身体を癒しつつあったレオモンだ。
駆け寄ろうと足を踏み出しかけて、ミミはグッと身体を強張らせた。俯いて顔に右手をやる彼女を見て、タケルたちも足を止める。
「……ごめんなさい」
潤んだ声が、その場に落ちた。パルモンはそっと、垂らされたままになっている方の手を握った。
「助けられなくて、ごめんなさい。言葉通りにできなくて、ごめんなさい」
「ミミ……」
「……私、街や学校に現れたキウイモンやヌメモンたちは倒すことができたのに、レオモンやエンジェモンが暴走したとき、何もできなかった……それってすっごい狡いことだったんじゃないかって、後悔してて……」
ここでレオモンに謝罪したところで、どうしようもない罪悪感だ。ただの自己満足にしかない懺悔。それでも、ミミは言葉にせずにはいられなかった。
「ごめんなさい……ありがとう。無事で、良かった」
キュッと握られたパルモンの手が、温かい。
嗚咽を溢して俯いてしまうミミの背をそっと撫でて、丈も唇を噛みしめた。
彼女が自分を狡いと言うのなら、丈たちだって同じだ。しかし純真な彼女は、一人でずっと抱え込んでいたのだろう。
「ミミもジョーみたいに真面目だったんだな」
少々呆れたような、明るい声を上げたのは丈の腕の中にいたゴマモンだ。
「人間の手は二つしかないから、落としちゃうものもあるんだぜ」
「ゴマモン……」
「そうよ、ミミ!」
パルモンも声を上げて、ミミが顔に添えたままだったもう一つの手も握った。
「だったら、私の手も使って! そうしたら四つよ」
「パルモン……」
「ミミがものを落としたら、私が拾うわ! だから一人で抱え込まないで」
パチ、とミミは瞬きする。キラキラとした瞳から透明な雫が落ちて、空中に散らばった。
「こちらへおいで」
レオモンが太い腕を持ち上げる。ミミがパルモンと手を繋いだままそちらへ歩み寄ると、そっと幼年期たちは道を開けてくれる。
座るレオモンと目線を合わせるように膝をつく。そっと、大きな手がミミの頬を撫でた。
「ありがとう。君たちのその想いも、また誰かを救う糧となるだろう」
ミミはまたクッと歯を食いしばり、深く頭を垂れる。パルモンの手を握る彼女の頭を、レオモンは優しく撫でた。

「……! ……!」
何か騒がしい。
タケルが振り返ると、慌てたような幼年期と成長期がこちらにかけてきた。どうやら、オーガモンを呼びに来たようである。
「オーガモン、だれかきた!」
「侵入者か?」
オーガモンは眉を顰め、武器を肩に担いで幼年期たちの示した方へ歩いて行く。タケルたちも心配になって、後を追った。
「なんだぁ、コイツ?」
森の入り口付近で、何かが転がっている。少し遠巻きになってそれを見つめていた成長期たちは、オーガモンの姿を見つけるとサッと身を引いた。
侵入者らしい存在は、入り口で座り込んでいる。オーガモンが前に立つと、侵入者は逃げる様子も見せず顔を上げた。
オーガモンに遅れること数分、追いついたタケルたちは侵入者を見て目を丸くする。
「西島先生?」
声を裏返すタケルたちの方を見て、オーガモンは知り合いかと訊ねる。西島は居心地悪げに肩を揺らし、苦笑を溢した。
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