十四
がちゃり、とまた扉が音を立てたとき、織田は壁際に膝を立てて座り、座布団へ顔を埋めていた。少し顔を上げると、扉の傍に人影があるのが見える。
「なんや、まだ用かいな」
「……」
返事はない。織田が顔をすべて上げると、それは頭巾を深くかぶった小林だと分かった。少し俯き加減でもあるので、表情が分からない。
「多喜二クン?」
「……」
小林はやっと二三歩進むと、不意にぐらりと揺れた。織田は咄嗟に立ち上がり、腕を伸ばす。
「多喜二クン!」
しかし織田が支えられたのはほんの数秒で、小林の身体は座布団の上に転がった。織田が少し肩に触れると、小さな呻き声と共に身体が揺れる。小林の左上腕に触れた指が、ぬるりと濡れた感触を捕えた。持ち上げた指先が、薄い赤に濡れている。
「な……っ!」
織田は慌てて小林の顔を覗き込んだ。彼は痛みを堪えるように顔を歪め、唇を噛みしめていた。肌の色は青く、脂汗が浮かんでいる。出血量からして傷は浅そうだが、痛みはさらなるものなのだろう。織田は近くの座布団を引き裂いて、作った布を傷口へ押し当てた。
誰に、どうして。それを小林へ訊ねるよりも、織田には気になることがあった。
「志賀直哉たちは何してんねん」
奇襲されたにしては、部屋の外は静かだ。小林以外部屋に入ってくる様子もない。
「……直哉サンは、」
「!」
うぅと呻きながら、小林は織田の腕を掴み、ゆっくりと身体を起こした。額には相変わらず脂汗が貼り付いており、苦しさを如実に知らしめている。小林は織田の身体に重心をかけながら、そっと背を壁に預けた。
「直哉サンは、悪い人じゃあ、ないんだ……」
「……まだそないなこと言うん?」
織田は顔を顰め、思わず視線を落とした。
「この傷、どうせその直哉サンがやったんやろ?」
「……よく分かるね」
「あのお人の考えそうなことや」
部下である小林を傷つけ、その罪を織田に着せる。そして、そんな情夫を囲っていたことを理由に、室生を糾弾でもするつもりだろう。
「嫌なお人」
きゅ、と小林の腕へ巻いた布に結び目を作り、織田は唾と共に吐き捨てる。だいぶ汗が引いた小林は、眉根を下げて笑みを浮かべた。
「……けど、俺にとっては光なんだ」
風に晒され、泥を啜って生きていた自分を照らした一筋の光――彼は正しく神さまだった。
「だから俺は、直哉サンを守るためならなんだってする」
「……多喜二クン、趣味悪いで」
「ははは」
乾いた笑い声を立てて、小林は薄く血の滲んだ布をなぞる。
「オダサクだってどうなんだ」
「……ワシ?」
「あの人は、オダサクにとっての、何?」
ここで示された人物が小林と同じ人物でないことは、織田とてようよう理解していた。
「さてなぁ。……あんお人にとって、ワシはそこらの野良猫と変わらん気ぃすんねんな」
腕の中へ立てた膝を入れるように丸くなり、織田はまだ手首を縛る錠を弄る。小林は肩を揺らして大きな息を一つ吐き、後頭部を壁へぶつけた。
「けど、そんな顔するんだ」
織田は石榴色の目をパチリと瞬かせ、ニヤリと細めた。それからスッと小林との距離を詰め、彼の後頭部へ腕を回す。
「野良猫かて、マタタビくれた人には懐くんよ」
柘榴石をはめ込んだようなそれを正面から受け、小林は思わず唾を飲みこむ。紅を引いた唇が、月のように細まった。
かちゃん。
「――え」
小林はそんな音と共に、右手首が重くなるのを感じた。目を落とすと、先ほどまで織田の手を拘束していたものと同じ手錠が、自身の右手首にはまっていた。そのままグイと引かれ、小林は腕を上げる。もう片方の輪がカチャン、と窓の格子に止められてやっと、小林は我に返った。
「え、え
「油断しとったらアカンでぇ、多喜二クン。三羽烏は手癖が悪いことで有名やから」
ニシシと笑って、織田は自由になった手をパッと広げて見せる。
「お、オダサク!」
自由な左手を使って手錠を弄るが、彼のように器用でない小林に、鍵もないままそれを外すことなどできない。
ニヤリと笑った化け猫は、綺麗に編んだ尻尾をユラリと揺らし、部屋を出て行く。
一人残された小林は悪態をついて、力任せに壁をドンと叩いた。

館を囲む塀に寄り掛かっていた武者小路は、少し視線を上げた。門を挟んで並んでいた有島も顔を上げ、館の方を見ている。彼は元来無表情であるが、今は少し眉根が下がり、敷地内の様子を案じているのだと、武者小路は解釈した。
「大丈夫だろうか」
「んー、志賀が僕たちを呼ばないから、まだ大丈夫なんじゃないかな」
武者小路が足元の小石を蹴り上げながら言うと、有島は少し驚いたように彼を見やった。
「……さすがだね、武者さんは」
「何が?」
「志賀くんのことを、よく分かっている」
有島はふわりと微笑んで、腰に結わえた剣を持つ手に力を込めた。その様子を一瞥し、武者小路はぐるりと首を回した。
「僕はただ、志賀が求めているものを知っているだけだよ。求めて、苦しんだ姿を知っているだけだよ」
簡単に言えば、理想が高いのだ、あの男は。万人の神たらんとするわけではない、それは彼自身とて無理なことは理解している。それでも、己の手が届く範囲の人々の神で在ろうと――志賀本人は決して『神』という単語を使いはしなかったが、武者小路から言わせればすべて同意である――振舞っている。
「まあ、自分で大仰に振舞って足元を掬われ易いとは、思うけどね」
武者小路は塀から背を離し、ググッと身体を解した。ピクリと有島も気配を察し、鞘に納めたままの剣を持ち上げる。
「こんな風にね」
砂を蹴る足音が聞こえる。武者小路は目を細め、抜いた銀へ現れた人間たちの姿を映した。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -