黎明―薄暮
各務一という男がいる。
内閣官房国家安全保障局に所属する、国家公務員である。冴えない地味な見た目と、出世欲の感じられない控え目な態度もあって、同僚たちからは『窓際族の血税食らい』等と陰口を叩かれている。隠しもしない侮蔑の視線も合わせて聞き知っているだろうに、各務本人がそのことについて反論したり、目に見えて苛立ったりした様子はない。
曲がりなりにも国家公務員だ、仕事ができないくらいで免職にはならない。せめて免職事項に接するミスとか、自ら退職を願い出れば良いものをそんな様子もなく日々粛々と茶汲みやコピーなどの雑務をこなしている。
陰口を叩かれ、自分より遅く入庁した後輩には仕事量や地位を追い越され。目立った趣味などに精を出している様子もなく、あの男は何が楽しくて生きているのか、同じ職場で働く者たちは不思議に思っているのだった。

命令や宣託といった神々しいものではない。いや、神と呼ぶべき存在からの指示であり、それは覆せぬ天命であるから、間違ってはいないのかもしれない。ただ、それを聞いたときの各務の状況がそういった厳かな雰囲気とかけ離れていたので、今の今までそういった感想を抱いていなかったのだ。
しかし、だからと言って夢物語と一笑に付することもせず、各務はその天命を頭の片隅に置いて今まで生を歩んできた。それくらいには、各務という男は真面目で素直な性格だった。
「俺こそが長義が打った本歌、山姥切」
電球色を受けても、冬の夜の月と見まごう輝きを持つ銀。美しいと、思った。さすが、付喪と言え神と名の付く存在である。本来の姿である刀剣の刃のように、澄んだ銀色をしている。
各務は、この時代に所蔵されている当該の刀剣を目にしたことがある。その道を定められどう生きるべくか考えたとき、取敢えず当の刀剣を見ておかなければ失礼かもしれないと思ったためだ。無趣味を貫いていた各務が突然博物館通いを始めたものだから、当時は周囲を酷く驚かせたものだ。
絨毯張りにも関わらず、その靴音は高く鳴った。その存在が、凛と空気を震わせただけかもしれない。小さく息を飲む同僚たちと同様圧倒されていた各務は、ハッと我に返ってソファから立ち上がった。
「この度は、」
礼儀作法は、入庁したときに叩きこまれている。ピンと伸ばした背筋で下げた後頭部に、何やら視線を感じた。フン、と小さく鼻を鳴らした相手は、すぐに室内に誂えた豪奢な椅子へと腰を下ろした。同僚たちは既に軍人よろしく、等間隔に整列している。各務はその列に加わることもせず、部屋の隅で山姥切長義と名乗った神の指示を聞いていた。
「もう少し胸を張ったらどうだ」
指示を受けた同僚たちが退室して、部屋には各務と長義だけが残った。長義は長い足を組み、じっと何やら考え込んでいる。その思考を邪魔しないよう、各務は肩を小さくして新しい茶を淹れていた。そんな折、かけられた言葉である。
「はあ」
各務は急須を手に、そんな返答をした。長義は片眉を持ち上げる。
長義が指摘したのは、初めの礼のことだったらしい。しっかり背筋を伸ばしたつもりだったが、いざ本物を目の前にした及び腰が隠しきれていなかったようだ。
長義は椅子から立ち上がった。全ての一挙一動が、常人とは違うことを物語るように凛としている。長義は足音を立てぬまま各務の前に立ち、黒い手袋で覆われた甲を胸にトンとぶつけた。
「仮とは言え、この俺の今の主は君だ」
人の姿を取っているとはいえ、長義は刀。その主とは、刀を振るうことに等しい。刀が握る者によって研ぎ澄まされるように、主の立ち振る舞いが長義の評価にもつながる。
薄く笑った長義の言葉に、各務は急須を持ったまま肩へと力を入れた。
「じ、自分は……剣道を嗜んでおりません、ので」
長義はヒクリと口元を引きつらせた。それから整った前髪をぐしゃりとかきむしり、深く息を吐く。
「……まぁ、精々気を付けるように」
はあ、それは勿論。そう各務は答えたが、長義が納得したかまでは、分からなかった。

自分が周囲から一歩引かれているのも、奇異の目で見られていることも自覚している。その上で、各務は黙したまま今日も、新卒者でもできる雑務すらこなし、日々を過ごしていた。全てはあの日から。来るかも分からない日のために。定められた役目を告げられたあのときから。
――アイツは、何のために生きているのか。
そう揶揄する言葉が、陰で吐かれていたことも知っている。各務自身、人生に何の楽しみがあるのかと問われれば、答えに迷う。それでも、唯一確かなことがあった。
「あ……」
心を取り戻した人々の混乱が渦巻くスクランブル交差点。自分の他に、その場に残った二人の仮の審神者たち。赤い稲光と共に次々と現れる時間遡行軍。失っていた色を取り戻し、状況に混乱しつつも刀先を下げない刀剣男士。そこへ、さらなる数の刀剣男士たちが色鮮やかに、東京へと降り立っていく。
何が起きても冷静に。他に仮の審神者と定められた人間たちが、一般人である可能性は高い。彼らの安全も、国家公務員である自分が保障しなければならない。それが、己へ与えられた役目の一部だ。例え、目の前でどんなことが起ころうとも。そう、自身を律していた。それでも。
様々な音と想いが耳をつんざく中、各務の鼓膜は一つの音を捉えていた。カツン、と。神事で響く澄んだ鈴の音のように、高らかに鳴る、靴の音。
口を開き、その光景に釘付けになる。その姿は、余程間抜けだったのだろう。つい、と動いた銀がこちらに気づき、地下で見せたときと同じ顔をして見せた。
ピンと各務の背筋が伸びる。
博物館で見た、銀色が脳裏で弾ける。忘れたことのない、あのときの感動が胸から頭へと突き抜ける。
ずっと、あの刀剣に出会うために。
その力となるために、生きてきた。
各務一とは、そういう男だった。
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