オメガバ
「彼のことは、今でも悪かったと思っている――」
その瞬間、目の前がサッと赤く染まった。駆け引きの場であることも忘れ、傍らにいる男の存在すら視界から外れる。ギリリと歯を噛みしめ、耳元へ宛がったスマホを握り潰しそうな気分だった。
「――お前が、」
振り絞った声は低く、地を這うようなそれに傍らの男がビクリと肩を揺らした。しかし、今の自分に気にしてやれるほどの余裕はない。
「お前が、アイツと俺のことについて、知ったような口をきくな!!」
普段の姿からは想像できない、苛烈な気迫だったと、コナンは後に居合わせた男から聞くこととなる。



この世には、二つの身体的性がある。男女といったセクシャル性と、αβΩで区別されるバース性だ。身体の性だけで六通り、さらに心の性が加わると、人間という種族は定型にあてはめられないほど多種多様な生物と言える。
セクシャル性は基本的生殖機能と筋力、思考やホルモンに関与されると言われている。バース性は生殖機能全般に関係しており、前者に比べて職業選択に大きな影響を与えやすいというのが定説だ。セクシャル性だけでも差別だと騒がれやすい昨今であるが、こればかりはどうしようもない区別である。何せ、バース性によっては身体的不自由になる期間と、致命的な弱点があるのだから。
服薬や生活習慣、発達した医療器具によってバリアフリーやノーマライゼーションが推し進められているといっても、完全ではない。特にそれが個人の命にも関わることとなると、ある程度の条件が付けられるようになる。
降谷零は、そういった条件付けのもと、公安の潜入捜査官を勤めているオメガ性の人間だ。
コナンはそれを、実際目にするまで知らなかった。

以前より、赤いを目の前にすると冷静さを失う傾向があるとは思っていた。その話を聞いたときに思い出したのは、自分の服を掴んで「どうして」と泣いた少女の姿だ。普段の様子から想像もできない、感情露わに叫ぶ姿。それは今、コナンの目の前でグッと丸くなる灰色の背中に重なった。
「言った筈だ、お前がアイツと俺のことについて、知ったような口をきくなと……!」
地を這うような、ひたすら爆発しそうな感情を抑え込んだ声。いつか、通信機越しに聞いたセリフと、似た抑揚。それと共にブワリと、ずっと使っていなかったエアコンを起動させたときのように、空気の塊がコナンの身体に叩きつけられる感覚が沸き起こった。
「……っ」
思わず鼻を手の甲で覆い、後ずさる。同室していた数名も、驚いたように目を見開いていた。
噎せ返るような圧迫感の中、膝を少しも曲げずにいられたのはコナンと、それを正面から受けた赤井くらいだった。何れも、バース性でアルファの判定を受けていた人間だ。
赤井はポケットに入れていた手の左だけ取り出し、背を丸める降谷へ手を伸ばした。
「降谷くん、ここでその状態はまずい、ひとまず落ち着いて――」
パシン。噎せ返る空気ごと振り払うように、綺麗な音が部屋へ響いた。伸ばした赤井の手を、降谷が叩きあげたのだ。
「……風見」
「はい」
何やら荷物を探っていた風見は、その言葉で慌てて降谷の元に駆け寄った。風見が銀色のシートを手渡すと、降谷は殆ど視線を向けずに受け取り、二つほど錠剤を手の平に落として口へと放り込む。
その様子に眉を顰めたのは、赤井だった。
「抑制剤か。その調子での服用は、君の身体に負担が大きいだろう?」
「……余計なお世話です」
風見が続けて差し出した水のペットボトルの蓋を開き、降谷はそれを乱暴に煽る。その頃には圧迫する空気も随分和らいでいて、コナンは楽に呼吸をすることができた。覚えのある花の香りが鼻孔を通り抜ける以外は、元通りだ。その香りの発生源がどうやら降谷らしいと察し、コナンは思わず「まさか」と呟いた。
その声が聴こえたのか、降谷はチラリとコナンを一瞥し、赤井へ鋭い視線を戻した。
「お気遣いなく。数年前から定期的に発症する発作みたいなものです。……多少威圧してしまいますが、悪い想像通りのことは起こり得ませんので」
「それだけの匂いを振りまいておいて、素直に納得しかねるな」
「他でもない、アルファのあなたが平然としていられるのが証左では? 理性が強いのが、ご自分だけだと思わないことだ」
荒い降谷の息が、少しずつ整っていく。赤井曰く『抑制剤』である薬を服用したからだろう。
降谷の言葉を、コナンは信じた。まだアルファとして未熟な自分が、オメガのフェロモンに引っ張られずにいるのだ。他でもない、降谷が抑え込んでいるからだろう。
しかしコナンよりもアルファとして生きてきた年数が長い赤井は、些か納得しかねることだったらしい。眉を顰め、ポケットに手を入れ直すと、じっと降谷を見つめた。
「それだけフェロモンが流れ出るということは、君は未契約だろう? 組織時代も番らしき人物と接している様子なんて……」
そこまで言葉を続け、赤井は不意に口を噤んだ。緑の瞳が珍しく丸くなる様が、コナンの位置からよく見えた。
降谷の横顔が、フッと嘲るような笑みを浮かべる。
「潜入している捜査官が、そう易々と弱みを握られるわけもないでしょう……と、言いたいところですが、さすがのあなたも察してくれたようで何よりです」
精一杯の嫌味といったように、コナンには感じ取れた。降谷の、赤井曰くフェロモンである香りに咽ていたジョディが、それを聞いて眦を吊り上げる。
渋い顔をしていた風見が、喉元へ手を持ち上げる降谷を見て、サッと顔色を変えた。
「降谷さん!」
制止するような彼の声も虚しく、パチン、とボタンが外れる。ネクタイと襟に隠されていた降谷の首が、衆目の元に晒された。
褐色の肌にも映える、シンプルなデザインの革チョーカー。
「ご推察の通り、僕はオメガです。あなたが嘗て見殺しにした男の、番ですよ」
しん、と部屋が静まり返る。風見は顔を手で覆い、深く息を吐いた。
「そもそも、オメガ性の人間は、アルファとの番関係を結んでいないと、潜入捜査はできないことになっている。そちらの国は、どうだか知りませんが」
言葉を失う赤井たちを見回し、降谷は淡々と言った。既に襟元は正され、シンプルなチョーカーはすっかりワイシャツの下に隠されている。
赤井は苦々しい顔をして、少し視線を動かした。
「……しかし、なればこそ。アルファが彼だとするならば、君との番契約は解消されている筈だ」
番の解消。それが起こりうるのは、アルファの意思か、もしくは――アルファの死。
「ああそれは、」
しかし唯一、例外とも言うべき特例があることを、コナンでさえ知っている。
降谷はすっかり薬が効いてきたのか、落ち着いた様子でスッと胸元を指でさした。
「――運命、ですから」
運命の番は、例え死に別たれようと解消されることはない。それは、ホルモン分泌が不安定になることはあるが、未契約のオメガのように、他のアルファたちを誘惑するフェロモンを垂れ流す心配がないということだ。
――死が二人を別つとも、運命までは奪えやしない。
「あなたは以前、僕にこれほどまで恨まれているとは思わなかった、と発言したそうですね」
赤井の表情が、心なしか固い。コナンも口を挟めず、ただ二人を見つめた。
「これで、疑問は解消されましたか?」
降谷の顔が、苦々しく歪む。しかしそれはすぐに『安室透』のような笑顔に隠される。
シンと静まる中、降谷は風見に後を任せると言い置いて、部屋を出て行った。凛と伸びた背筋と高くなる足音は、運命の番を喪ったオメガには、少しも見えなかった。
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