恋が目を開くと、そこには見慣れぬ天井があった。梁をぼんやり眺めていると、甘い香りが鼻をつつく。顔を横に倒すと、こちらを向く駆の寝顔が見えた。彼の頬の包帯を見て、恋は自身の傷にも手当が施されていることに気づき、手を掲げた。
「あ、起きた?」
快闊な声がして、琥珀色の瞳が覗きこんでくる。慌てて身体を起そうとすると痛みが稲妻のように走り、恋は言葉を失った。
「ああ、まだ起きないで。君、酷い怪我だったんだよ」
掛布団を直し、琥珀色の少年はてきぱきと枕元で包帯やら手ぬぐいやらを準備し始める。起き上がることを諦めて、少し身体の向きだけ変えながら、恋はそっと窓を探した。少し離れた位置にあった窓から僅かに覗く街の風景は、恋の故郷より華やかに見得る。
「ここは……」
やっと恋がそれだけ口にすると、彼は「ああ」と頷いて窓を開けた。途端、がやがやとした喧騒が聴こえてくる。
「ここは都――その片隅だけど――ちょっと変わった茶店だよ」
俺は郁――そう自己紹介し、少年はニッコリと笑った。

昼間だというのに、店内に客の影は見得ない。聞くと、いつもこのような感じなのだと苦笑された。点々とした間接照明の下、藤で編まれた机が四つほど。一番奥には居住スペース他に繋がるカーテンと、何故か黒い鍵盤楽器が。客席の一つに座って振る舞われた茶を啜りながら、恋はじっと鍵盤楽器を見つめた。
「あれ、ぴあのっていうんだ」
恋の視線に気づいた郁がそう説明しながら、点心を置いた。この店は点心と茶を振る舞う喫茶店だと、先ほど聞いていた。
「涙が得意な楽器でさ、たまに弾いてくれる」
とても綺麗な音なのだと、恋たちの向いに座りながら郁は目を細めた。どこかうっとりとした表情に、その言葉が真なのだと知らしめる。茶器を加えた駆が、「涙?」と小首を傾げる。
「僕のこと」
すぅ、と溶け入るようにして、儚い雰囲気の少年が郁の傍らに立った。笑顔を見せない彼に苦笑して、郁が同居人だと説明した。涙はスンと澄まして、肉まんにかぶりつく。恋は少々居心地悪さを感じながらも、居住まいを正した。
「ありがとう。手当までしてくれて。えっと……憶えていないんだけれど、郁たちが助けてくれたの?」
「あ、違うよ」
「陽――僕たちの知り合いの人が、拾ったって言っていた」
夜中に突然やってきて、抱えていた傷だらけの恋たちを押し付けてきたのだ。涙の素気ない物言いを、郁は少々咎めるように名を呼んだ。すまないと詫びてから陽という人物の行方を聞くと、神出鬼没でねぐらもはっきりしない男なのだという答えが返ってきた。別にわざわざ礼をしに行かずとも気にしない男だと郁は言うが、それでは恋の気が済まない。それに、千桜たちのことも気にかかる。恋が食い下がると、郁は少し頬を掻いてできるだけ連絡がとれるよう善処する、と返した。
「まぁ、ともかく傷を癒すことに専念してよ。ゆっくりしてくれて構わないから」
点心も、お代わりを持ってこようか。郁はそう言って、駆が空にしてしまった皿を見やる。いつの間に! と恋は彼の食欲に顔を引き攣らせた。
「桃まんもあるよ」
「桃まん!」
駆が目を輝かせて立ちあがる。すると、ぽぽん――陽気な音がして、恋の頭と駆の背に重みがかかる。思わず駆は机に突っ伏し、恋は後ろへひっくり返った。郁も、涙さえも目を瞬かせている。
「ぷは!」
恋は慌てて、呼吸器を塞ぐ毛玉を放り投げた。
「カケルン!」
「レンレン……! 見かけないと思ったら……!」
どうやらそれぞれの魂の中へ戻っていたらしい。主たちがダメージを負ってしまったため、回復していたのだろう。
「びっくりしたぁ。恋たちも契約者だったのか」
「うんまあね……『も』?」
「さっき言った陽は獄族で、夜って人と契約しているんだ」
話が合うかもな――そう言って笑う郁の膝の上では蜻蛉玉を首から下げた大熊猫が欠伸を溢しており、涙の傍らでは青い布の首飾りつけた大熊猫がパンダまんを食んでいた。

桶に張った水の中へ苺を入れ、汚れを落としていく。慣れた作業の筈だが、今日は何故か手につかなくて葵は一つ溜息を落とした。理由は分かっている。先日旅立った顔なじみの少年が気にかかっているのだ。
(無事に街へ辿り着いたかな……駆って獄族がついているから大丈夫……いや、でも心配だ)
「はぁ……」
何度目か分からない溜息を吐いて、葵はハッと我に返った。水に濡れた手で、頬を張る。あまり落ち込んだ気分のままでは、これから作る菓子の味を悪くしてしまう。始たちに振舞う大切な菓子なのだ。
「これじゃあ、美味しい苺大福ができないな」
「へぇ、苺大福を作っているのか。甘いのか、それ」
「そりゃあ勿論。餡子をたっぷり入れるから……」
傍らから聴こえてきた問に自然と言葉を返していた葵は、ハタと硬直した。今、この家には葵しかいない筈であるし、声に聞き覚えがない。硬直する間にヒョイと後ろから爪の長い手が伸びてきて、水につけてある苺を一つ摘まんでいった。
「!」
「お、甘い」
少し酸っぱいが、と呑気に感想を述べながらモゴモゴと咀嚼する音。葵はバッと振り返った。そこに立っていたのは、若い青年だった。葵は慌てて身を引き、調理台に置いていた包丁を手に取った。震える手でそれ彼へ向ける。
ペロリと指についた赤い汁を舐めた青年は、そんな葵に視線だけ向け、全く脅威と感じていないようだ。
葵は術者ではない。しかしこの家にも、そもそも集落を囲う柵にも、妖魔除けの呪いは施されている筈。それを突破したということは、妖魔ではなく。
「君は、一体……」
「見れば分かるだろ、獄族。……あー、腹減った」
ぐぅと鳴る腹を撫でて、青年は桶に沈んだ苺を見つめる。
獄族。葵はゴクリと唾を飲んだ。窓の外を見れば、いつの間にか藍色の帳が下りている。余程自分は気を取られていたらしい。日が沈んだことにも気づかなかったとは!
「なあ、食っていいか?」
青年が苺を指さす。葵は慌てて首を振った。
「ダメだ! それは苺大福用の……!」
「苺大福って……何?」
「え」
呑気な質問に、葵は思わず包丁を落としそうになる。グッと柄を掴んだまま取敢えず刃先を床に向け、葵は甘味だと答えた。
「甘味!」
無気力に見えた青年の瞳が輝く。彼はズイと葵に近づき、クンクンと鼻を動かした。
「お前、甘味を作れるのか」
「え、まあ、人並みに……」
青年は頷き、ニヤリと笑う。
「決めた」
ようやっと青年は葵から距離を取る。威圧感が消えて、葵はホッと息を吐いた。
「俺は卯月新。お前は?」
「え。……皐月葵」
「葵。俺はお前と契約してやる」
「はあ?」
葵は思わず裏返った声を上げた。しかし新と名乗った獄族は気にせず、辺りをキョロキョロと見回している。葵が説明を求めると、新は今気が付いたという風に「ああ」と頷いた。
「俺はひっそりと山で暮らす善良な獄族だ」
自分でつける形容動詞ではないが、葵は言葉を飲み込んだ。新の話はつまり、そんな山暮らしの中、人間たちが食する甘味の噂に心惹かれ、この街へやってきたと。
何と欲に忠実な獄族か。葵は呆れ果てた。
「お前は俺に甘味を貢げ。それを約束する限り、俺はお前を守る」
どうだ、と新は指を突き付ける。その指先と相変わらず表情筋の動かない顔を見つめ、葵はゴクリと唾を飲んだ。
獄族との契約。葵の脳裏に一番に浮かんだのは、気高く凛とした二つの背中。術者でない葵が獄族との契約の機会に巡り合うなど、そうそうない。彼らの力になれるかもしれない、その予感が、葵の背を押した。
葵はゆっくりと頷く。新はニヤリと笑った。
「……これでいっか」
新は不意に、水につけていた苺を一つ取り上げて葵に握らせた。
「あ」
「へ」
口を丸く開け、新は自分の指でそこをさす。数秒経って、握らせた苺をそこへ入れろということに気づいた葵は、恐る恐る赤い果実を差し出した。鋭い牙で指まで齧られるかと思ったが、新は苺だけを頬張った。
(な、何なんだ……)
目を白黒させる葵の前で、新は苺を嚥下すると、次は自分の手首に口を寄せた。すると、がぶ、と自分の手首に牙を立てたのだ。たらり、と苺のような赤い液体が腕を伝う。それを舌で舐め、ズズと少し啜る。ちら、と視線を向けられ、葵はドキリと胸を高鳴らせた。
新は葵へ手を伸ばし、グイと頭を引き寄せる。あ、と葵は口を開いてしまった。
「――!」
それがまずかった。葵の口は新のそれで塞がれてしまったのだ。ぬる、と生暖かい液体が口の中へ流れ込み、葵はそれを思わず嚥下してしまう。自分の喉が勝手に動いたことで我に返り、葵は新を突き飛ばした。
「な、何するんだ!」
「何って、契約」
意味が分からない。更に問いただそうとした葵の頭上で、ポポンという音が聞こえた。そちらを見上げようとした葵の視界に、フワフワとした白黒の毛波が映る。
「へぶ!」
重く暖かい何かを顔面で受け止め、葵はしりもちをついた。顔に貼りつく何かを剥ぎ取ってみれば、それは丸々とした大熊猫だった。別の大熊猫を肩に乗せた新が、スッと手を差し出した。
「これで契約完了、よろしくな、葵」
二ッと笑う新の手を掴み立ち上がった葵は、
「口下手すぎる!」
「どわ!」
新の顔面に大熊猫を貼り付けた。新は葵の怒りの意味が分からないようで、目を瞬かせる。
欲望に忠実で少し常識外れな獄族と、そんな彼のために甘味を作ることになった人間の契約は、こうして始まったのである。

始たちの館を集落境から見上げる影が一つ。窓から見える薄緑と深い黒の髪に、影は目を細める。
「……古の『約束』は破棄された。これから戦争が起こる。そのとき、お前はどうする――人間の王よ」
ちゃり、と影の胸元で三日月を模した首飾りが揺れた。
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