雨と珈琲と角砂糖
「私、男運がないのよね」
しとしとと、雨が降っていた。視界を遮られるほどの豪雨ではないが、窓に貼りつく雫が景色の輪郭を溶かしていく。
肘をついた手に持った暖かい珈琲のカップへそっと息を吹き込み、宮野はそう呟いた。向いに座ってその言葉を聞いていた相手は、持ち上げた珈琲カップを少し揺らしたものの、「そうか」と曖昧な言葉を溢した。宮野は彼の返答を期待していなかったので、気にせずに珈琲を啜る。
「灰原哀の初恋は、江戸川コナンだったの」
再び珈琲を口へ運ぼうとしていたのか、酷く咽た音がした。宮野はずっと窓の外へ視線を向けていたので、そこに座る青年がどんな顔をしているのかは分からない。しかし、簡単に想像はできた。
「けどね、安心して。それは水面へ届く前に消えてしまった泡沫なの。自覚する前に失恋を知ったものだから、成就させようだとかそんなことは考えていなかったから」
「お、おう……」
宮野は一度窓から視線をテーブルへ落とし、カップをソーサーへ置いた。そして伸ばした手で、角砂糖を一つ、黒い湖面へ落とす。
「灰原哀の初恋は実らなかった……宮野志保の初恋も、同じ」
トプンと、ミルクを淹れていなかったため濃い色の湖面が揺れる。ひと時揺れていた黒は、やがて波を落ち着かせると可愛げのない女の仏頂面を映した。
「……宮野志保の、初恋?」
たっぷり沈黙した後、青年は恐る恐ると言った様子で訊ねた。触れて良いものか迷いつつも、好奇心には勝てなかったのだろう。そういうところだと、持ち上げたカップの陰で宮野は口端を緩く持ち上げた。
「言ったでしょ、男運がないって」
その言葉で、聡い青年は全てを察した筈。しかし女心には明るくない彼は、また言葉に困ってカップを口に運んでいた。
「血筋なのかしらね。宮野の女に男運がないって」
二人の息子と身重の自分を置いて行方をくらました男を伴侶に持った伯母。不器用で女心を少しも理解していない男に恋をして、けれど愛に走り切れずに命を落とした姉。……母に関してはすべてがすべて父の選択のせいというわけではないから、『男運が悪い』に当てはまらないか。
「灰原哀は幼馴染しか見えてない推理オタクに淡い恋心を抱いて……宮野志保は懲りずに、幼馴染しか見てない公僕へ恋慕を抱いた」
ぶ、と下品な音が正面から聞こえた。宮野は既にカップを置いて窓の外へ視線を戻していたので、その様子を直視することはなかった。
「は、お前、……マジぃ?」
「それ、意図は聞かないでおいてあげるわ。どっちに対して失礼な感想を抱いたのか、ね」
チラリと横目だけ向けると、彼は口元を手で拭いながら肩を小さくする。
「しかしまぁ……あの人なら、確かに恋人とかは難しいだろうな……」
呟きながら、青年は目を細める。自分よりも長く該当人物と接してきた彼は、その内面へ触れるタイミングが宮野よりも多かったかもしれない。チリリと胸が焦げるような感覚は、嫉妬だろうか。こんなことくらいで嫉妬するだなんて、余程自分はかの男に対する感情を持て余しているらしい。
「分かるわ、あなたの言いたいこと。桜の紋処に心臓を捧げたような男だもの……ま、その瞳も、結局は幼馴染しか映してないんだけど」
頬杖をつき、宮野はホゥと吐息を溢す。
「おさな……なじみ?」
「あら、初耳なのかしら?」
戸惑ったような表情に、少し胸がすく。頬を掻きながら「あの人は自分のことを多くは語らないから」とぼやいた。
「長野県警の警部の弟さんよ」
別に周囲に聞き耳を立てる者がいるとは思えないが、宮野は視線と一緒に声を少し落として囁いた。端的なそれで青年は察したようで、ハッと目を開いた。それから何かをしっかり考えるように、顎へと手を添える。彼の考えていることに興味がなかった宮野は、珈琲へ口をつけた。甘さで痺れる舌を、薄く開いた口から吸いこむ空気に晒しながら、宮野はふと店内へ視線を向けた。
雨宿り目的の来客で、席はほぼ埋まっている店内。店名の書かれたエプロン姿で、二人の店員が忙しなく歩き回っている。一番奥にあるカウンターでは、年配の店員が少々のんびりとした手つきで珈琲をサーブしていた。
「……狡いわよね」
いっそのこと、自分が彼の幼馴染だったら良かったのに。その可能性はあった筈だ。まぁ、幾ら想像したって仮定は仮定、IFでしかないので無駄なのだけれど。
思考の海に浸りかけていた青年は顔を上げ、宮野の横顔をじっと見つめた。その視線を耳へ髪を掛ける指でサッと払い、宮野は頬杖をつき直した。
「あの人はね、桜に心臓を捧げていても、その瞳はずっと一人に向いているの。……家族と仲間を守るために、自分の心臓ごとその証を打ち砕いた幼馴染へね……」
そこには愛があった。空よりも高く、海よりも深い、愛だけが存在していた。たった一つの銃弾はこれから訪れる男のために放たれたものであり、足音はただ一人を想うが故に響いたもの。彼らの間に入り込めるものなど一欠けらもなく、寧ろ挟まれたが故に起きてしまった悲劇だった。
そんな二人の間に――例え現在は片方が欠けているとはいえ――割り込もうだなんて、宮野はそこまで厚顔無恥ではない。
「だからね、私はこのままでいいの」
「宮野……」
「ずっと別の一人しか見ていない誰かさんの隣にいたんだもの。その対象が変わっただけよ」
青年は苦く顔を歪めた。宮野は気にせず珈琲を全て喉へ流し、カップをソーサーに戻す。それから真っ直ぐと、向いに座る青年の顔を見つめた。
「宮野志保の初恋は叶わない……ただそれだけよ、探偵さん」
「……俺もあの人も、お前の幸せを願っているんだ」
「あら、嬉しいことを言ってくれるわね。……そうでしょうね、あなたたちは優しいもの」
「宮野」
「あなたなら分かる筈よ、あの人の気持ち……ずっと隣にいた幼馴染を、一途に見つめ続けたあなたなら。そんなあなただから、あの人の気持ちが決して私へ向くことがないことも納得できる筈」
青年は口を開いて、しかし言葉を見つけられずにグッと唇を噛んだ。机に置かれた手も骨が浮き上がるほど強く握りしめられている。
「良いのよ、優しい探偵さん。私は望んでこの道を選ぶの」
小さな探偵へ恋をした灰原哀も、桜に殉じるつもりの男を慕った宮野志保も、否定したくない大切な自分の心の形だ。それを受け入れて歩むこの道を、宮野は少しも不幸だなんて思っていない。
「そうね」と宮野は裏返された伝票を手に取った。走り書きされた金額は、宮野の財布で十分に間に合うものだ。
「天地がひっくり返ってこの恋が成就できたなら、祝ってちょうだい」
鞄をとって立ち上がろうとした宮野の手から、ヒョイと伝票が奪われた。宮野が目を瞬かせると、憮然とした顔をした青年が指で摘まんだ伝票を振ってみせた。
「バーロ、どうせだったらもっと欲張ったこと言えよ」
「……あら、応援してくれるのかしら?」
散々可愛げのないと形容された笑みを浮かべてみれば、彼は表情を変えずに「バーロ」と宮野の頭へ伝票を乗せた。
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