クロノスタシス
・スコッチ生存ルート@


アンドレ・キャメル捜査官は、何とかしなければと思った。自分のためではなく、敬愛する先輩捜査官のためである。滞庁許可書が乱暴な足取りに合わせて、腹のあたりを叩いている。それも気にせず、なんなら多少煩わしいと感じながら、キャメルは建物の中を歩き回っていた。
日本の警察庁の建物内だ。FBI所属であるキャメルがここにいるのは、何もまた事件に巻き込まれたためではない。彼はFBIの一捜査官として、日本の公安部との合同捜査に携わるためにやってきていた。標的は、例の烏色の組織である。
Xデーを設け、各国のエージェントと協力して各国の主要施設と日本にある本部を一斉検挙するという計画だ。キャメルはジェイムズたちと共に、日本の本部突入部隊に名を連ねることとなった。
その前哨戦として、都内近郊のとある製薬会社を摘発した。黒の組織と癒着していた小さな会社で、本番へ向けた予行練習といったところだ。万事うまくいき、数日後のXデーも問題なく行えそうだという手応えを得た。一つの懸念点を除けばであるが。
その功績と実力から、今回の作戦の中心になっている二人の捜査官の距離感だ。
目立った反発や妨害はない。必要があれば言葉を交わすし、互いのサポートも行う。それでもピリリとした肌を刺すような空気は、確かに存在していた。実力派の二人だ、揃うときには頼もしさがあるが、同時にその鋭い空気のせいで不安定さも同時に感じる。
つまり、キャメルの心臓に酷く悪い。
自分の肝が小さいことは認める、認めた上で他の捜査官のためにも、この失敗できない作戦を成功させるためにも。何が小石になるか分からないのだ、懸念点は徹底的に排除するべきだろう。
探していた人物は、喫煙室にいた。喫煙者の肩身は狭い。昨今の日本は道路ですら、禁煙とされている場所がある。警察庁も例外ではなく、ヘビースモーカーの彼は会議室から大分離れた喫煙所でニコチンを補給するはめになったことだろう。お陰で、居場所の特定は早かった。
ゴクリと唾を飲んで、キャメルはガラス戸を押した。

自身の右腕から受け取った缶珈琲を片手に、降谷零はぼんやりとカレンダーを見つめていた。休憩室に貼られた、交通安全標語つきのカレンダーだ。
「……」
新年を迎えてまだ三日、真新しいカレンダーはつるつるとした表面に照明を反射させている。
揃って手先がよく機械修理に長けていた幼馴染の二人組は、十一月の七日。面倒見がよく多様性を尊重していた男は二月の七日。そして、誰よりも隣にいた幼馴染は、十二月の七日。
「スリーセブンだな」
「? どうかしましたか?」
「いや、」
呟きを拾った風見が首を傾げる。軽く首を振って、降谷は残っていた珈琲を喉に流し込んだ。それから空になった缶を、専用のごみ箱へ放り入れる。
「占いの類を信じるわけじゃないが、僕らにとって七は不吉の数字だなと思ってな」
思わず口が滑る。それでもかまわないと降谷は思っていたし、それを当然察しただろう風見は少し眉を顰めただけで口を噤んだ。
そんな彼の気配を背後に、降谷は「行くぞ」と声をかけた。もうすぐ打ち合わせの時間である。Xデーまであと四日、あまり時間は無駄にできない。例え、その日が降谷にとって一番命日に近い日であろうと。
降谷が風見を伴って会議室のあるフロアへやって来た時、忙しない気配が廊下をさざめかせていた。発信源は降谷たちが使用したのとは別のエレベーターホールで、興味を隠し切れない野次馬が数人集まっている。
眉を顰めながらそちらへ歩み寄った降谷は、エレベーターホールの奥、都内を眺めることのできる窓辺を見やってため息を吐いた。漏れ聞こえる声から大体察してはいたが、FBIの三人である。何やらキャメルとジョディが赤井へ苦言を呈しているようだが、当の本人が取り合っていない。
全く緊張感のない。アウェーでこれだけ言い争いができるのだから、次の会議もさぞ忌憚のない意見を述べてくれることだろう。
降谷の背後で同じように状況を察した風見が「声をかけてきます」と進言したので、降谷は「任せる」と自分は踵を返した。
「あ、ミスター・フルヤ!」
しかしそれを止めたのはキャメルである。単に御しやすく間が悪いだけの男と認識していたが、実は違うのではないかと降谷は内心ため息を吐いた。
風見がチラリと視線を寄越す。特に指示がなければこのまま自分が諫めるが、と視線で告げる。それに右手を上げて答え、降谷は仕方なく呼ばれるまま彼らの方へ足を進めた。
「そろそろ次の打ち合わせの時間ですが、何か?」
「ほら、シュウイチ!」
ぐい、と赤井の腕を引いてジュディは彼を降谷の前に立たせる。
関係のない野次馬は風見とよく動く二人の部下が散らしてくれた。風見たち三人がエレベーターホールの入り口付近に立つ中、降谷は赤井を先頭にしたFBIの三人と向き合うこととなる。
「何か御用ですか?」
降谷零のときはあまり作らない笑顔で訊ねると、赤井は小さく溜息を吐いた。
「……俺は、時間があればいつでも話そうと思っていた。ここまで引き延ばしてしまったのは、俺の本意とするところではない。今も、そんな時間ではないと思っている」
「回りくどい!」
バシンとジュディが背中を叩いた。
「キャメルが言っていたでしょ、あなたとフルヤ、ピリピリしていて他の捜査官がやりづらいって。そんな状態で大切な日に失敗したらどうするの」
成程。降谷は合点し、チラリとジュディの後ろで困った顔をするキャメルを見やった。
「僕が、赤井との間にある確執のせいでいつ暴走するか気が気でない、とあなた方はおっしゃりたいわけだ」
「そこまで直接的じゃないわよ。でも、相手はあの世界的犯罪組織、少しの懸念点もない方が良いでしょ?」
ジュディの言葉に降谷は小さく肩を竦めた。それからチラリと風見を一瞥する。頷きを返した風見は、部下の一人に何やら指示を出して会議室へ向かわせた。残ったのは風見ともう一人の部下。それを確認し、降谷は腕を組んで赤井を見やる。
「さて、少しでしたらお話しましょう。あなたが話したい内容は分かります、彼のことでしょう?」
赤井は一度目を閉じ、長く息を吐いた。それから煙草を取り出そうとしたので、降谷は素早く「ここは禁煙です」と言い置いた。所在ない手を腰へ持っていき、赤井は頷いた。
「あの日、俺は彼を屋上へ追い詰めた。そこで捕縛するつもりが、拳銃を奪われさらに自決をさせてしまった。その点に関しては俺の落ち度だ。すまない」
「成程。現役FBIの捕縛を逃れて拳銃まで奪うんだ、さすが日本の公安警察の一員でしたね、彼は」
機密情報を守り抜こうとした姿勢も、まさに警察の鑑。
口元へ薄く笑みを浮かべ、降谷は少し首を傾けた。抑えているようだが、声は少々上ずり、テンポも早い。
「それで? まさか彼より銃の扱いに長けたあなたが、不意を突かれた程度で自決を見過ごしたと?」
「……シリンダーを掴み、同じNOCだと告げた上で自決を止めた、つもりだった」
「しかし彼は、」
そこで言葉を止め、降谷は微かに目を開いた。数秒、やがて平素の表情に戻った彼は「そうか」と呟いた。
「足音か」
「……」
赤井はまた長く息を吐き、両の手をポケットへ入れた。
「フィフティフィフティだ、降谷くん」
「……悪いが、それは信条に反する」
違法捜査の後始末は自分で。常日頃、降谷はそう部下に言い含めてきた。こちらの落ち度を相手の落ち度で相殺する――それは、降谷の言葉と食い違う。
降谷は口元へ手をやり「成程」と呟く。震える唇を隠そうとしたのかもしれないが、そこを覆う指先が既に揺れていたのを、赤井はおろかキャメルでさえ認めてしまった。
「……私情を挟んだことは否定しない。すまなかった、以後現場では気を付けよう」
低く、感情の読み取れない声。少し口早にそれだけ言って、降谷は踵を返した。
ジョディはまだ少し納得できていない顔だったが、キャメルはホッと胸を撫で下ろした。これで少しは、二人の間のピリピリとした空気が薄くなるかと思えば。
「赤井捜査官」
残った三人に声をかけてきたのは、風見だった。彼は既に会議室へ向かった上司の背を見送り、少し迷うような視線を見せる。
「……退庁後、お時間は?」
「あいにく、ここ数か月すっかり隠遁していたもので馴染みの店がなくてね」
「それでは、少しお付き合いいただけますか?」
「何だ、行きつけのバーにでも誘ってくれるのか?」
「バーというようなものではありませんが……馴染みのウイスキーについて、少し」
「!」
風見は顔を伏せる。その様子から、これは彼個人の判断であり、降谷の意思を通していないことが分かる。特にFBIと接するときはことさら降谷の顔色を窺う彼にしては、珍しい行動である。背後でキャメルとジョディが顔を見合わせる中、赤井はその申し出を快諾した。

「何故、この子どもがここにいるんですか」
風見の視線を受けた少年は、えへへと笑って見せる。
「僕も、安室さんのことが心配だったんだもん」
「機密の関係で立ち合いできないのなら、無理にとは言わん」
赤井の言葉を、風見がどこまで信用したのかは分からない。しかし眼鏡の位置を弄った彼は、小さく息を吐いて「こちらへ」とコナンたちを促した。
風見に連れて来られたのは、警察病院だった。受付で風見は一言二言話すと、赤井たちを連れて病院の奥へと進んでいく。
「随分、端だな」
赤井がチラリと廊下の後方を一瞥する。受付のあったフロアから随分離れている。赤井の言葉に適当な相槌を返し、風見は進行方向から視線を動かさない。やがて、風見はある部屋の前で立ち止まった。
警備らしき人影を先ほどの曲がり角で見かけた以外、人気はない。公安の息がかかったフロアなのだろう。
風見がノックすると、室内から柔らかい声が返事をした。
「失礼する」風見は短く言って、扉を開く。彼に続いて、コナンたちも入室した。
至って普通の病室だ。個室らしく、洗面所やテレビが設置されている。リクライニングできるベッドには、一人の男が座っていた。風見の入室に、男は本を閉じて顔を上げる。
赤井の気配が僅かに強張る。
「あれ、風見さん、今日はお客さんが多いですね」
柔らかい雰囲気を持つ男は、見た目から予想できるように人好きのする笑顔を浮かべた。
「初めまして。諸伏景光です」

「驚いた」
短い面会の後、赤井たち以外人間がいない休憩室で、赤井はポツリと呟いた。奢ってもらった缶ジュースに口をつけながら、コナンは言葉通りに見えない男の顔を見上げた。
「あの人、赤井さんの知り合い?」
「ああ。そして降谷くんもな」
「公安の人?」
「そして俺たちと同じように組織にもぐりこんだNOCだった」
一応灰皿があるため喫煙が許されていると判断し、赤井は煙草を口へ運んだ。
「諸伏景光。警察庁公安部に所属する潜入捜査官です」
自販機で購入したがプルタブを開かないままの缶を握りしめ、風見はぽつりぽつりと説明した。
日本警察から潜入していたもう一人の捜査官、それが諸伏景光――コードネームはスコッチ。長野県警の諸伏高明の弟らしい。潜入中にNOCバレし、赤井によって屋上に追い詰められ――あとは、降谷と彼が話した通り。
「一命はとりとめたのか。完全に心臓を貫通したと思っていたが、少し外れていたのか」
赤井の独り言のような言葉に、風見は曖昧に返事をした。その態度が少し妙に感じたコナンだったが、赤井の言う通り奇跡的な偶然なのだろうと思うことにする。
「しかし、そんな極限状態は、さすがの諸伏も耐え切れなかったようでした。現在の彼に、記憶はありません。仕事に支障はありませんが、組織の目から逃れる意味もあって長期入院しているのです」
「それって、組織に潜入したことを全部忘れちゃったってこと?」
「……いや、もっと前からだ」
「え、それって家族とか……?」
「いや、諸伏警部……ご家族の記憶はしっかりある。伊達警部他、同期と過ごした警察学校時代のことも――失ったのは、降谷さんとの記憶だ」
「安室さんの……?」
降谷零と諸伏景光は、幼馴染だった。小学生からの仲で、警察学校でも切磋琢磨しながら学び、所属は違えど同じ任務を与えられた者同士としても、励まし合い協力し合いながら生きて来た。そんな彼が失ったのは、大切な存在そのものだ。
「どうして、そんなことになっている?」
「……これはあくまで私の私見ですが、恐らく降谷さんを守ろうとしたのだと思います。NOCだとバレて次に諸伏が恐れたのは、同じ日本の捜査官で潜入している降谷さんの存在が暴かれることです。そのために携帯端末を打ち抜いたのでしょうが」
「降谷さんは、このことは」
「一応、私からも伝えました、何度も」
「何度も?」
おかしな言い方をするものだ。コナンは首を傾げた。風見はユルリと首を振った。
「降谷さんの中で、諸伏景光は既に死んだことになっています。まるで、親友の遺志を尊重するように。諸伏は降谷さんを守り、命を絶った。降谷さんの存在を、我々以外に秘匿したまま守り切った、それをなぞるように」
記憶は失っても諸伏の命は繋がれている。風見はその事実を確かに歓喜し、同じく歓びを分かち合えるであろう上司に伝えた。しかし、彼の脳はその事実と言葉を受け入れず、『諸伏景光は死んだ』という事実だけを記憶している。
「生きているのに、死んだと思い込んでるってこと? もしくは、任務のために自分で暗示をかけているとか?」
「いや、あれも一種の記憶障害のように思う。諸伏のことを報告するたびにぼんやりとしている」
あの降谷零が、唯一記憶できなくなっている、NOCバレ後の諸伏の現状。それは諸伏側も似た状況だ。降谷の中で諸伏という人間は死んでいるからこそそれ以上の新たな記憶は必要なく、諸伏の中で過去降谷という人間は存在していないために繋がるべき現在の姿は映らない。
「それって……良いこと、なの?」
うまく言葉が出て来なくて、コナンはそんな陳腐な単語を選んだ。風見は僅かに頬を和らげた程度で、首を少し揺らす。
「少なくとも、彼らにとってはそうだと信じたい。私はそう思っている」
風見のその言葉が、その場の終わりを告げていた。その後は誰も言葉を発しないまま、風見に導かれるままコナンと赤井はその病棟を後にする。
警護と療養のために隔離された男は、この件が片付けば唯一残る家族の元へ帰れるのだろう。何となく、コナンはそう感じた。しかし、帰りたいと望んだ二つの心は、永遠に帰る場所を失ったままだ。
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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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