第4話 chapter1
「そこまで」
教師の声と共に、カリカリと紙をひっかいていた鉛筆の音が止まる。緊張や落胆のこもる吐息と、回収される答案用紙の音を聞きながら、太一はふと窓の外を見やった。
真っ青な空に、白い雲が浮かんでいる。温い風が窓から吹き込んで、じわりと汗の浮かんだ肌を撫でていく。
夏が、そこまで来ていた。

◇◆◇

鋭い咆哮が、天を貫いた。思わず、ミミたちは動きを止める。
「そんな……」
愕然と、タケルは空を見上げた。それから、ストン膝をついた。
微かに黒ずんだ翼が、青空を隠すように広がる。仮面の下に隠れている瞳が、赤く見えた。
タケルのポケットから零れ落ちたD3の画面に、砂嵐が起こっていた。
「エンジェモンが……」
ヒカリは口元を手で覆い、息を飲む。
光子郎の連絡を受けたヤマトたちが現場にやってきたのは、丁度そのときだった。
ヤマトは茫然と、その景色を見つめてしまう。隣に立つ空が口元へ手をやるのを目の端で捉えながら、ヤマトはコクリと唾を飲みこんだ。
「――暴走、した」
バサリ、と黒ずんだ翼が動く。
最初に我に返ったのは太一だ。太一はウォーグレイモンに声をかけ、セイバーハックモンを押しとどめた。
「エンジェモンに近づけさせるな!」
次に光子郎がハッとし、座り込むタケルの肩を掴んだ。
「タケルくん、D3を貸してください!」
「え……」
「先ほど治療プログラムの試作品が完成したんです! 試してみる価値はある筈です」
口で説明しながら、光子郎はタケルの隣に腰を下ろすと、許可を得るより早く転がっていたD3を手に取った。
電波を失ったテレビのようにD3は砂嵐を立てている。光子郎は思わず顔を歪めた。しかしすぐに手を動かしてパソコンとD3を繋げると、治療プログラムをインストールし始めた。
「頼む、効いてくれ……」
イッカクモンとリリモンが、暴れるエンジェモンを牽制している。
タケルは光子郎のパソコンを祈る思いで見つめていた。
「――よし!」
光子郎は手応えを感じて声を漏らす。
パソコンの画面に見えるデータ配列は、確かに治療プログラムが機能したことを示していた――最初は。
「え、」
「これは……」
一瞬安堵したタケルも、目を剥いた。
一度落ち着いたかに見えた配列が、また勝手に動き出したのだ。
「まさか、進化?」
「いえ、これは、ウイルスプログラムによる組み換えです……そんな、どうして」
治療プログラムが効かない――その事実に、光子郎たちは絶望が心に纏わりつく感覚を得た。
「……せや、光子郎はん、エンジェモン――パタモンは、古代種や!」
「ダークタワーの影響を受けないアーマー進化をできる種……そうか、ダークタワーのデータによる進化抑制が効き辛いんだ!」
エンジェモンはまた暴れ出し、拘束しようと近づいたイッカクモンとリリモンを振り払った。
「ヤマト、メイクラックモンを頼む!」
太一の声で漸くヤマトはやるべきことを理解し、ガブモンに声をかけた。勢いよく駆け出していくガブモンを見て、ピヨモンも飛び出そうとする。
「私も……っ」
しかし、後ろから抱きしめられ、羽ばたくことができなかった。空が慌てて引き留めたのだ。
「だ、駄目よ、ピヨモン。ほら、昨日の怪我がまだ治っていないでしょ?」
「空、これくらい大丈夫よ……」
言い返したピヨモンは、ギュッと自分の身体に回る腕が微かに震えていることに気づいた。首を回してパートナーを見上げる。空は唇を引き結んで、強くピヨモンを抱きしめるだけだ。
「空……」
「……っ」
彼女たちがその場にとどまっているうちに、進化したワーガルルモンはメイクラックモンへ飛び掛かった。歩道橋の屋根の上で、二体のデジモンたちはゴロゴロと転がっていく。
他方、暴走したエンジェモンはリリモンの投げた花飾りを杖で弾き飛ばし、高く飛翔する。
「ヒカリ!」
「テイルモン、お願い!」
アーマー進化を解いたテイルモンは、クルリと一回転して、地面を蹴った。
「テイルモン、超進化――エンジェウーモン!」
バサリ、と真っ白い翼を羽ばたかせ、エンジェウーモンはエンジェモンを追いかける。
その飛翔姿を目で追って、セイバーハックモンは足に力を込めた。跳躍しようとしていると気づき、ウォーグレイモンは鋭い爪を突きあげた。セイバーハックモンは腕を交差させ、それを受け止める。
「邪魔をするな」
「するに決まっているだろ、仲間だ」
「……」
セイバーハックモンは僅かに目を細める。そのとき彼の網膜を通り過ぎたのは、笑顔でこちらに手を差し伸べるデジモンたちの姿だった。一度目蓋を閉じてその影を消し去り、セイバーハックモンは足を持ち上げた。
「っ……」
刃になった足が、ウォーグレイモンの下腹部に刺さる。動きを目の端で捉えていたため、ウォーグレイモンは身を捩って僅かに除けることができた。それでも横腹を掠った痛みに、顔を歪める。
「昨日も言った筈だ。『いつか』に縋っていては何も変わらず、何も守れない」
「だとしても、黙って見ているなんてできる筈ないだろう!」
ウォーグレイモンはセイバーハックモンの肩を掴むと、空へ飛び立った。グルリと回転して、ウォーグレイモンはセイバーハックモンを地面へ叩きつける。
「……分かっている、選択しなければいけないことなんて……」
グッと拳を握り、太一は顔を歪めた。
彼の頭上で、エンジェウーモンたちが少しでもエンジェモンを落ち着かせよと奮闘している音が聴こえる。ワーガルルモンはメイクラックモンを捕縛しようと追いかけ、彼らの攻撃の余波から一般人を守るためにイッカクモンはハープンバルカンを打ち放った。
「でも、仲間を犠牲にしなければいけないなんて……」
立ち上がるセイバーハックモンへ、ウォーグレイモンは落下のエネルギーを利用して圧し掛かった。
「ぅ、おおおおお!!」
ウォーグレイモンと太一の叫び声が重なる。セイバーハックモンは、交差させた腕である程度威力を防ぐ。
「それが選択しなければいけない未来なら……俺たちが変えてやる!」
――ぱき。
セイバーハックモンは目を見開く。
腕の刃にヒビが入り、二つに折れてしまったのだ。
ウォーグレイモンの力に圧し負けた刃が、宙を舞う。それを思わず目で追ったセイバーハックモンの顔面に、ウォーグレイモンの拳が叩きこまれた。
「ホーリーアロー!」
エンジェウーモンの放った光の矢が、エンジェモンの翼に穴を開けていく。バランスを崩したエンジェモンは、頭から落下していく。
タケルは思わず駆け出していた。
「エンジェモン――!!」
ふ、と顔を動かしたエンジェモンが、タケルの方を見やった。唇が、彼の名を呼んで微かに動いた気がした。

――……さん。

「え」
ハッとタケルは目を見開く。
りん、と聞きなれた仲間の声が聞こえた気がしたのだ。ここにはいない筈の、少年の声だ。
タケルが足を止めかけると、彼とヒカリのD3が淡く光り始めた。

◇◆◇

スタジオが落ち着かない。少し前、見学していた仕事仲間の子どもたちが、何やら慌ただしくスタジオを飛び出していった。それは望月も気が付いていた。
収録は一度止まり、スタジオを何人ものスタッフが出入りしていく。
責任者の裕明がやってきて、奈津子と春彦へ何事か耳打ちした。すると二人は顔を強張らせる。望月もそちらへ寄って、何があったのだと訊ねた。奈津子は少々言い辛そうに口ごもって、テレビ局の外にデジモンが現れたらしいと教えてくれた。
二人の子どもは、そのためスタジオを飛び出したのだ。
望月は、娘のデジモン以外をこの目で見たことがない。興味が湧いて、息子と娘の安否確認をするという春彦たちと一緒に、スタジオを出た。
テレビ局の渡り廊下はガラス張りで、デジモンが現れたという入り口が見えた。
既に観客は何人もおり、望月たちは人ごみをかき分けて窓に近づいた。
まず目についたのは、三体の大きなデジモン。うち一体は娘のデジモンと似たデザインをしていた。
そして彼らのパートナーだろう子どもたちの姿。そこに混ざってデジモンたちの戦いを見守る娘の姿を見つけ、望月は目を丸くした。

◇◆◇

ハラハラと、黒みを帯びた白い羽根が、地面へと落ちていく。その一つが、ぱた、とメイクラックモンの頬に触れた。
つり上がった瞳を動かして、メイクラックモンは足元にも落ちたそれを見つめる。ザワザワと、メイクラックモンの毛が逆立つ。
様子が可笑しい。そう思ったワーガルルモンは、一度足を止めた。
メイクラックモンはバキバキと指を鳴らす。背中から、黒い靄のような物が沸き上がった。
「何か可笑しい!」
「止めろ、ワーガルルモン!」
ワーガルルモンが飛び掛かる。するとメイクラックモンが毛玉を飛ばした。小さな毛玉たちは分身となり、ワーガルルモンへ襲い掛かった。
ワーガルルモンが分身たちへ気を取られているうちに、メイクラックモンは跳躍する。進行方向には、落下するエンジェモンの姿があった。
「まさか、エンジェモンを狙っているのか?」
「そんな!」
「メイちゃん……」
メイクラックモンへ向けて、エンジェウーモンは降下する。それよりも早く、メイクラックモンの長い触手が、エンジェモンを襲った。
エンジェモンは身体を丸めて、皮膚を掠める触手をやり過ごす。それからエネルギーを貯めた拳をメイクラックモンへ振り上げた。ワーガルルモンがメイクラックモンを地面へ押し付け、その頭と腕を手で、腰を膝で押さえつける。
「っやめて……やめてよ、エンジェモン!!」
ワーガルルモンとメイクラックモンへ、拳を向けるエンジェモン。思わず喉を引きつらせ、タケルは叫んだ。ピクリ、と暴走状態にあるエンジェモンの身体が僅かに硬直する。
磨き上げられた仮面の表面に、タケルの顔が映り込んだ。
そのときだ。
フォン――マリンバを思い切り叩いたような音がした。エンジェモンの背後の風景が、テクスチャでも剥がれるように歪んでいく。やがて大きな穴のようなものが開き、別の世界の風景を映し出した。
「あれは……デジタルワールド、か?」
「うそ、え、ゲートが開いたってこと?」
ミミの言葉に、ヒカリは慌ててD3を確認した。
画面の周囲が光っている。久しく見ていない反応だった。
「どうして今になって……」
戸惑う彼らの目の前で、エンジェモンの身体がゲートの向こうへ吸い込まれていく。抗おうともがいているが、吸い込む力の方が強いのか、エンジェモンはジリジリとゲートへ近づいて行った。
タケルは、届かないゲートへ向けて手を伸ばした。
「っエンジェモン――」
声が震える。幼いとき、目の前で光の粒子となって消えた彼の風景と重なった。あのときのように、パートナーが自分の前から姿を消してしまう――その恐怖がタケルの胸を占めていた。
「タケ、ル……」
「! エンジェモン……」
エンジェモンの唇がゆっくりと動く。タケルは涙の浮かぶ目を凝らし、その顔を見つめた。
しかしタケルの手は届かず、言葉も切れる。エンジェモンをすっかり吸い込むと、ゲートは何事もなかったように閉じていった。
ガクリ、とタケルは膝をつく。
「……エンジェモン」
「どうして……」
「ホメオスタシスか」
茫然とする子どもたちと違い、セイバーハックモンは状況を理解したようだ。目を細め、チラリと一人の少女を見やる。
「どういうことだ、何を知っている」
こちらから目を逸らすセイバーハックモンへ、太一は苛立ち交じりに問いかけた。セイバーハックモンは落ち着いた様子で、彼に視線を向ける。
「……これが、お前たちの選択した未来だ、八神太一、ウォーグレイモン」
思わず力を緩めたウォーグレイモンを押しのけて、セイバーハックモンは立ち上がる。真っ直ぐとした瞳に、太一は爪が食い込むほど手を握りしめた。
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