第1話 chapter2
ハリボテのような壁で囲まれた薄暗い控室に、チューニングの音が低く響く。ギターを見つめる真剣な青の瞳を眺めながら、タケルは返信マークがつかない『一乗寺 賢』のメールを閉じた。
「つまり、振られちゃったんだ、空さんに」
キィィン、と外れた音が鼓膜を劈く。タケルが両耳を手の平で覆うと、薄暗い中でも分かるほど顔を真っ赤に染めたヤマトは口をパクパクと開閉させた。
「ふ、ふ、ふられて、ねぇよ!」
ヤマトの声も、音が外れている。ライブ本番前に、こちらもチューニングが必要だ。
中学生の頃はあんなにラブラブで、お互いのことしか見得ていない、俗に言うバカップルという二人だったのに、いつの間にかそんな様子は見せなくなった。自然消滅してしまったようだとぼやいたのは、光子郎だ。中学時代を知る者たちの中に、現在も恋人同士なのかと改めて問う猛者はいない、残念ながら。
「……まあ、兄さんには僕がいるじゃない」
「は?」
意味が分からないと顔を歪めたヤマトだったが、弟がニコニコと微笑んでいるので問いただすことを諦め、チューニングに意識を戻した。

◇◆◇

空は唸り、床一面に敷き詰めた服を見下ろした。
太一の応援に行くというヒカリの誘いを受けたところまでは良かった。しかし何を着ていくべきか、さっぱり分からない。こんなに服装で悩んだことなど、嘗てあっただろうか。――何度かあった。
そんな風に唸っていると、軽快なチャイムが響いた。「ヒカリさん来たわよー」と空を呼ぶ母の声。大きく肩を飛びあがらせ、空は慌てて山から服を取り出し残りを部屋の隅へ押しやると、玄関へ向かった。
「ごめんなさい、ヒカリちゃん」
空の姿を見た少女は一瞬パッと顔を輝かせたが、すぐに柳眉を顰めた。
「……空さん、その恰好で行くんですか?」
「え」
言われて、空は視線を下げる。
オレンジ色の七分丈パンツに、蒲公英色のキャミソール。露出しすぎた肌を隠すため、キャミソールより色の濃い黄色のカーディガンを合わせたカジュアルな恰好。申し訳程度に首から下げたつもりのアクセサリーだが、赤いハート型のペンダントは派手すぎただろうか。
「変かな……」
「いえ、良く似合っていると思います」
ヒカリはニコリと微笑む。では、先ほど見せた表情は何だと言うのだろうか。しかし「まさかその色を選ぶなんて……安牌になったと思っていたのに……」などと何やらブツブツ呟くヒカリに何も聞くことができず、空は口元を引きつらせながら笑みを作った。

◇◆◇

太一はメールの受信画面を見て顔を顰めた。相変わらず、大輔からの返信はない。仕方なく鞄へしまったところで、太一は肩をチームメイトに叩かれた。
「よぉ、八神。調子はどうだ」
「んー、ぼちぼち」
首を回しながら、太一はグラウンドへ視線をやる。
ウォーミングアップをする選手たちが青い芝生を踏み締めている。観客席も疎らに埋まりつつあったが、ヒカリと空の姿はまだなかった。
そろそろヤマトのバンドがライブを開始する頃か。その特別席でタケルは兄の勇姿を見守っているだろう。光子郎は父母と共にレストランで食事中、丈は受験勉強に精を出している最中。ミミはアメリカでのんびりショッピングでもしていそうだ。
(いつか、また……)
ふと思い浮かんだ空想が、口の端を持ち上げる。試合前に気が緩んでしまった。それではいけないと気合いを入れ直し、太一は青空を見上げた。目を焦がす太陽が鎮座する青い空を――。

――ヴヴ。

「ん?」
不快な、機械音が聴こえた気がした。それと一緒に、ピロリン、と軽やかな音も。
(この音、は)
チームメイトや観客たちが空を見上げる中、太一はベンチに置いた自分の鞄へ手を伸ばした。
「何だよ、アレ……」
チームメイトの一人が、青天を見上げて顔を引き攣らせる。太一は鞄の中で薄青く光るそれを握り、空を仰いだ。
雲一つなかった青天がぐにゃりと歪み、黒い穴がぽっかりと開く。そこから、真っ赤な角が現れた。何が起こったのだ、何がやってくるのだと、騒ぐ声が聞こえる。
太一が――この場では彼だけが、あの赤い角を知っていた。
「……クワガー、モン……」
ずず、と穴から飛び出したのは、真っ赤な巨体をした甲虫型デジモン――クワガーモンだった。

◇◆◇

カラン、とグラス同士が奏でる軽やかな音。光子郎はニコニコと笑って、「おめでとうございます」と父母に伝えた。父母は少し照れ臭そうに顔を見合わせ、この場を用意してくれた礼を光子郎へ返す。
貯めた資金を使い、奮発したレストランでの食事会。今まで実子ではない自分を育ててくれ、パソコンなど好きに使わせてくれた両親への恩返しになったのなら、本望だ。
ワイングラスに入った水を喉へ流し、光子郎はウエイターに声をかけた。予約していたコースを始めるようお願いしたところで、ポケットに入れていた携帯が震える。緊急事態があったとき用に、マナーモードにしていたのだ。両親へ一言断って、携帯を取り出す。震え続ける携帯は、通話を求めていた。画面に映った文字は『太一さん』。
光子郎は眉を顰めた。彼には今日の予定を告げてある。しかもこの時間帯なら、試合が始まっている筈だ。だというのに、わざわざ電話連絡を求めている――何かあったのだと、光子郎は直感した。
「はい、光子郎です」
「光子郎!」
光子郎の予感は当たっていたらしい。太一は切羽詰まったような声で名前を呼んだ。息切れしている様子から察するに、走りながら電話をかけてきたのだろう。
「どうかしたんですか?」
不安そうな両親に微笑みかけ、光子郎は一度席を立つ。
「アイツが……!」
「アイツ?」
「――……モンが、」
声に、ノイズが走る。
トイレへ向かおうと歩いていた光子郎の横――外界と内部を隔てるガラスの壁の向こうで、巨大な何かが通り過ぎた。鳥や飛行機ではない。あんなに色鮮やかな鳥や飛行機を、光子郎は見たことがなかった。
「――!」
光子郎は息を飲んだ。
丸い瞳に、真っ赤な色が映り込む。

――街頭テレビにノイズが走った。電波障害だろうかと、足を止めた二人の少女は、空を見上げる。
――これからステージ始まろうとする頃、メンバーの一人に外へ連れ出された兄弟は、そこで見た光景に息を飲んだ。
――少女は、飛行機の機内でリラックスしていた。見ていた母国のテレビ番組の画面に、おかしな虹彩が映り込んでいるのを見つけて、首を傾げる。
――休憩中も単語帳とにらめっこしていた受験生は、他の塾生たちの言葉に、驚き、慌てて外へ飛び出した。

「クワガーモンが、出た!!」
光子郎の耳に、ノイズ混じりの太一の叫びが飛び込む。彼はプツンと切れた携帯を握ったまま、青い空へ飛んで行った赤い巨体を見送った。

◇◆◇

「――とにかく、一人で無茶しないでくださいよ!」
他のメンバーにも連絡すると、光子郎からディーターミナルに連絡がきた。太一はそれを確認してポケットにしまい、自転車のハンドルを両手で掴む。
試合会場から飛び去ったクワガーモンは、変わらず太一の進行方向にいる。途中何度か高く飛び上がられたが、完全に見失ってはいない。
試合会場まで自転車で来て良かった。ヤマトたちへの連絡を光子郎に任せ、太一はクワガーモンを追いかけることに専念した。
クワガーモンに、明確な目的地や目標はなさそうだ。上下左右、旋回を繰り返してはビルや歩道橋にぶつかって、道端に瓦礫を落としていく。そのたびに通行人や車両が立ち止まり、恐怖に蹲っている。
太一は、足を止めた。
「……っ」
崩れた歩道橋。立ち往生する車両と、恐怖に泣きわめく子どもや大人。怒号や、悲鳴が聞こえる。
太一はグッとハンドルを握った。
まさかまた、デジモンたちによる災害が起こるとは思わなかった。予兆はなかった。太一たち『選ばれし子ども』でさえ分からない。しかも、パートナーたちは隣にいないのだ。
「……くそ!」
太一は再びペダルをこぎ始めた。
新しい『選ばれし子ども』が現れたのだろうか。だとしたら、彼らはどこにいる。この事態に気づき、太一のようにクワガーモンを追いかけているのか。
「!」
クワガーモンが高度を下げ、電信柱に牙を突き立てた。ガララ、と倒れる電信柱の先には、眼鏡をかけた少女の姿。腰が抜けたのか足を負傷したのか、彼女は座り込んだまま動かない。
太一は咄嗟にそちらへハンドルを切った。頭を抱えて蹲る少女の近くで自転車を飛び降りると、彼女の体を腕で包んで、地面を転がる。
「きゃあ!」
「っ」
ゴロゴロと転がり、太一は壁にぶつかった。太一は腕の中の少女が息をしていることを確認すると、ホッと安堵して腕を離した。細かい擦り傷を作ってしまったが、捻挫や骨折の様子はない。それは太一も同じだった。
少女は恐怖から少し顔を赤らめ、パクパクと口を開閉する。太一はニコリと微笑んで立ち上がった。
「すぐに避難した方がいい。ここは危険だ」
それから太一は、自転車を探した。自転車は案外近くに転がっていたが、瓦礫に押しつぶされて原型を留めていなかった。
顔を顰める間にも、クワガーモンは飛び去ってしまう。太一は靴紐とポケットにいれた携帯、そしてデジヴァイスがあることを確認すると駆け出した。
風のように走り去った太一の背を、少女はぼんやりと見送った。やがてハッと我に返ると、まだ震える足を叱咤して立ち上がる。
「……メイちゃんを、見つけないと」
少しフレームの曲がった眼鏡をかけ直し、少女は瞳に強い光を浮かべた。
 
◇◆◇
 
「太一が一人で追っている?!」
ディーターミナルを確認したヤマトは、すぐに光子郎へ連絡をとった。クワガーモンはもう遠く離れていったのか、通話に支障はない。
ヤマトは驚くメンバーに生返事をしつつ、動きづらい衣装のジャケットを脱ぎ捨てると、財布の入った鞄を手に取った。
「兄さん」
「太一が一人で自転車かっ飛ばしていったらしい」
 それだけで兄が何をするつもりか察し、タケルは小さく息を吐いた。
「太一さんを短慮だなんて言えないからね」
「はあ?」
「先行ってて。適当に言い訳したら、僕も追いかけるから」
 そこで漸くヤマトは察したらしく、チラリとメンバーを一瞥して顔を顰める。タケルはそんな彼の背をグイグイと押して、控室から追い出した。
「なあ、ヤマトは……?」
「ちょっと野暮用です」
 不安げなメンバーに、タケルはニコリと微笑む。どうせ先ほどの混乱の中、観客もメンバーもライブに集中はできないだろう。彼らの頭の中は、未確認生物のことでいっぱいだ。機材トラブルとでも言って少し時間を置いた方が良いとタケルが進言すると、このままライブをするべきか迷っていたメンバーは顔を見合わせて頷いた。
 彼らが対応に駆け回る姿を横目に、タケルはそっとライブハウスを抜け出した。ディーターミナルを開いて見れば、空やヒカリはヤマトと同じように太一の元へ向かうと返信している。タケルも同じように返すと、事態を知って驚いたミミからの長文が送られてきた。
 しかし受験勉強真最中の丈と――そして、大輔たちからの返信は、一つもなかった。
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