いつか、海の見えるパン屋で
※セネル受けアンソロジー『Love You senel』にて寄稿させていただいた作品
※レイズ4部8章解禁前の3部中頃に妄想していたワルター参戦話


それは、誰が言い出したことだったか。
「すべてが終わったら、どうしたい?」
始まりは、時間を潰すためのただの雑談だった。
元の世界に戻る算段がない今、この世界で立ちはだかる困難を乗り越えてしまった後、どのように過ごしていきたいのか。
ある者は己の剣を更に磨きたいと言い、ある者は平和になった世界を親友と旅したいと言い、ある者は大切な人たちと穏やかに過ごせればそれで良いと言った。
そして、彼は。
「パン屋を開くのも、良いかも、な」
てっきりマリントルーパーとして働きたいのだろうと思っていたルカは目を丸くした。するとカイウスが、以前マルタと作っていたパンは――彼女作のパンは食べられたものではなかったが――とても美味しかったと言い出した。
それに礼を言って、セネルは表情を崩す。
「……海の見える場所で一緒にパン屋を開くのも一つだな、と何となく思っただけだ」
瞳と同じ色の海が見える場所で、麦の焼けた匂いを身にまとった彼が、金髪の少女と肩を並べる――そんな風景が、ルカの脳裏に鮮やかに浮かんだ。
「シャーリィとか?」
ユーリも同じ想像をしたらしく、ニヤリとした笑みを浮かべて問う。するとセネルは「それも良いな」と呟いた。
ユーリは呆れて表情を崩した。
「おいおい、誰との風景を想像したんだ? クロエとか?」
「なんでそこでクロエが出てくるんだ」
セネルは本当に分かっていないようで、ユーリはため息を溢して首を振る。さすがのルカも、クロエに同情して心の中で手を合わせた。
セネルはユーリたち――話を聞いている者の中には、本人と同じくさっぱり理解していない者もいた――の反応に眉を顰める。それから、拗ねたように目を閉じた。
「……ただ、元の世界では相容れなかった奴とも、そういった日常が送れるのかと、少し、思っただけだ」
ふと、「甘すぎだね」と毒づく仮面の少年の姿が脳裏に浮かんだ。
ルカは、そっと指に髪を絡める。
嘗て敵対関係にあった者たちとの和解は、別世界でも容易でない。ルカも、思いつく限り数人とは手を取り合える自信がなかった。
しかし、もしも彼の言う風景が実現したなら――いがみ合うことなく肩を並べることができたなら――それはやはり素敵なことなのだろうと、ルカは思った。



セネルの世界の鏡映点が新たに見つかったとルカが聞いたのは、それから暫く経ってからのことだ。
子細をルカが訊ねると、イクスは引きつった笑みを浮かべて言葉を濁した。その態度も無理ない。何せその人物を捜しに行った筈のイクスとセネルは、二人揃って腫れた頬を持って、医務室にやってきたのだから。
「はい、これで大丈夫だと思うよ」
塗り薬を塗った上にガーゼを貼り、ルカはこれでよしとひとまず胸を撫でおろした。
イクスとセネルは腫れた頬が目立っていたが、全身至るところ擦過傷だらけだった。中でも酷いのはセネルの左前腕部の骨折で、汚れた服を回収したアニーが発見した。
一目で折れていると分かるほど青く腫れていたのに隠そうとするから、アニーと、心配で様子を見に来ていたシャーリィに、彼は酷く叱られているところだ。
「ありがとう、ルカ」
「何があったの?」
イクスの表情から、重大な事件があったわけではなさそうだ。ルカが訊ねると、イクスは言葉を探して目を動かした。
「ねぇ、いつまで僕にこいつのお守りをさせておくつもり?」
すると、刺々しい台詞と共に、仮面の少年が医務室へと入って来た。
「シンク! ……と?」
彼が何故ここに。ルカの疑問は、彼が後ろに連れている、見覚えのない青年の存在に上書きされた。
それに答えたのはイクスだ。彼は立ち上がると、同じく首を傾げるアニーにも見えるよう、手の平を青年へ向ける。
「彼が新しい鏡映点。セネルたちの……知り合いの、ワルターだ」
青年を見た途端、微かに哀しみを浮かべたシャーリィの表情と、唇を引き結んで目を伏せるセネルの横顔が、ルカの目に焼き付いた。

思い返せば、鏡映点の特徴を聞いたときから、セネルたちの表情はあまり晴れやかではなかった。難色を示すクロエたちを押し切って自ら出向くと言ったのは、セネル自身だ。
同行すると何度も食い下がったシャーリィとクロエを宥め、セネルは自分一人で調べると言い張ったが、結局イクスが同行することで両者は合意した。ルカも、イクスとセネルが揃ってアジトを出て行く姿を見送っている。
訪れた町で、目的の人物は案外早く見つかったらしい。
顔を合わせてから、二人はぎこちない空気を漂わせていた――ワルターはジロリとした睨みを絶やさず、セネルは苦く口元を引きつらせていた――が、諍いになるような雰囲気はなかったと、イクスは語る。
このとき、二つの条件が重なった。
一つは、ワルターの体調が本調子でなかったということ。
もう一つは、救世軍が摘発したカジノの残党を捕縛するために、シンクがその町にいたということだ。
シンクに見つかり、追い詰められたその残党は、イクスたちのいる路地裏へと逃げ込んできた。そして、ワルターとセネルの方へ突進したのだ。
残党は隠し持っていた短刀を、反応の遅れたワルターへ向ける。咄嗟に、セネルはワルターの肩を掴んで身体を引き寄せた。それとほぼ同時に、追いついたシンクが蹴りを残党の背中に叩き込む。
ワルターの身体を自分の背中へ隠そうとしていたセネルは、蹴りを食らって体勢を崩した残党の体当たりを受け、そのまま端に積まれた樽の方へ転がって行った。
そのときに受け身をとれず、セネルは腕を痛めたのだ。
彼の行動にワルターは目を剥き、「何故庇った!」と怒鳴りだした。何とか宥めたイクスが鏡映点やこの世界について説明をすると、「これだから陸の民は!」と第二戦が始まり――。
「イクスの頬はそのときに?」
「ああ」
手当された頬をそっと撫で、イクスは眉尻を下げて微笑む。当然の報いだと、彼は納得しているのかもしれない。
(ワルターさんとセネル、仲悪い……んだろうな)
言動や見目からすると、ワルターは水の民だ。
陸の民と水の民の種族闘争については、ルカも知っている。和解は進んだと聞いたが、まだ完全ではないのだろう。
「巻き込んで悪かったな、イクス」
申し訳なさそうに眉を下げ、セネルは深く息を吐いた。彼の左腕は、ジュードが治癒功をかけて固定していた。
「セネル」
固い声で名を呼ばれ、セネルは顔を上げる。すると、眉間に皺を寄せたワルターと目が合った。
金髪から覗く瞳は深海に似ており、そこでセネルは、初めてワルターと真っ直ぐ見つめ合ったかもしれないと気づく。
「……悪かった」
「珍しいな」
「……あんなメルネスに言われれば、少しは咎める」
「はは、そうだな。俺も悪かったよ」
あの後、すべての事情を聞いたシャーリィから、ワルターも厳しい注意を受けたのだ。
それよりも、とセネルはワルターの方へ身体を向ける。
「これからどうするんだ? イクスたちは歓迎すると言ってくれている。けど、救世軍にはお前みたいな立場だった奴らが多くいるから、気安いかもしれないぞ」
「暫くはこちらに滞在する……が、勘違いするな。鏡士とやらも救世軍とやらも、未だ信用に値しない」
「陸の民だからか?」
「……この世界で、それは意味を持たないのだろう」
ワルターの眉間の皺が少し薄まり、何かの感情を浮かべるように目が伏せられる。
メルネス親衛隊長として育てられ、人生の最後までそのためだけに戦っていた男だ。いきなり自身の存在意義を失って、混乱しているのだろう。
「メルネスにもあの女騎士にも、自分のしたことに責任をとれと言われたからな。貴様の腕が治るまでだ」
「ありがとう、ワルター……けど、シャーリィたちは名前で呼んでやってくれ。ここではお前の言う通り、水の民も陸の民も……指導者(メルネス)なんてものも、関係ないんだからな」
ワルターの眉がピクリと動く。セネルが「頼む」と小さく笑いながら呟くと、「……考えておく」と視線を逸らした。
「……なぁ、ワルター」
話は終わりだと部屋を出て行こうとしたワルターを、セネルは呼び止めた。まだ何かあるのかと、ワルターは少々苛立たし気に振り返る。
「……お前は、どのタイミングで具現化されたんだ?」
セネルたちの記憶では、既に彼は斃れていた筈。仲間たちと少しずれた時間軸から具現化された者はいるから、不思議なことではない。
しかし、だとしたら彼はどの時間の彼なのか。
ワルターは暫し黙した後、口を開いた。
「私の最後の記憶は、」
それがどんな意味を持つのか、ルカやイクスは分からない。
「光跡翼で、貴様の顔を見上げた風景だ」
ただ、セネルの海色の瞳が大きく見開かれたことで、歓迎すべきタイミングでなかったことだけは、理解した。



それからワルターは、自身の宣言通り浮遊島に留まった。
数週間も経てばジュードたちの手当のお陰で、セネルの腕は副木が外れるほどまで回復した。包帯だけになり動きやすくはなったが、痛みはまだ走るらしく、そんなときはさり気なくワルターが手を貸していた。
「悪い、助かった」
「ふん」
例えば、セネルが開けられなかった瓶を取り上げて、サッと蓋を回して机に置く。そしてセネルの礼を払いのけるように踵を返して、ワルターはそのまま部屋の隅へ戻るのだ。
クロエはその姿に違和感を消せないと渋い顔をしていたが、ルカにはただ素直じゃないだけのように見える。
「セネルさま、ちょっといいか?」
軽食を済ませて一息ついたところで、少し慌ただしくコーキスが声をかけてきた。
セネルと同じテーブルを囲んでいたイクスとルカを見ると、コーキスは少しホッとしたように肩の力を抜いた。
「何かあったのか、コーキス」
「マスター、セネルさま宛に魔鏡通信が入ったんだ」
「俺に?」
浜掃除の手伝いに出かけているシャーリィたちだろうか。首を傾げつつ、セネルはコーキスの開いた魔鏡通信を覗き込んだ。
「よお、久しぶりだな、イケメンマリントルーパーくん」
「マーク!」
「イクスもいんのか。まあ、丁度良いかな」
突然通信を繋げた救世軍リーダーは、一人で何か納得したように顎を撫でる。それから、魔鏡通信の範囲外へ腕を伸ばすと何かを引っ張り上げた。すると、不機嫌そうに口をへの字に曲げた仮面の少年が渋々と顔を出す。
「シンク」
何事だろうと、ルカは少々緊張しながら話の続きを待った。
「この前の詫びというか、礼というか、まあそんな話をな」
「この前って……」
「ウチの残党狩りに巻き込んで、イケメンマリントルーパーくんの腕を折っちまったときのことだよ」
マークは無理に残党を追い詰めたシンクに、セネルの骨折の原因があると思っているらしい。
しかし、あのとき飛び出したのはセネルの意思であるし、怪我の原因は残党を避けることも受け身をとることもできなかったセネル自身にある――ワルターの反応が遅れたのだって、元の世界での傷を引きずっていたからだと考えれば得心がいくのだ――。
セネルの言葉に、マークはそんなことは関係ないと首を振った。
「重要なのは、『俺たちの任務に関わって、お前らが酷い怪我をした』ってとこだ。そこらへんはきっちりしないとな」
「はあ……」
「と、いうわけでこちらからそっちに提供したいものがある」
報酬のようなものだ。そう言ってマークが提示した『報酬』に、ルカは目を輝かせた。
「マーク、悪いが……」
「ま、待って、セネル」
断ろうとしたセネルを遮って、ルカは彼の右腕を掴んだ。
「一度見てみようよ……ワルターさんも一緒に」
珍しく積極的なルカの様子に、セネルもワルターも、イクスたちも首を傾げて顔を見合わせた。



潮と埃の混じった空気が、鼻をつく。
窓から滑り込む海風が貼りつける髪をそっと指で払って、セネルは部屋を見回した。
造りは、アジトの共有スペースと似ている。玄関から入ってすぐに広がるリビングには、近くの海が臨める窓と煤塗れの暖炉、奥の台所へ続く扉の隣にはカウンターがある。壁の棚には、空になったボトルが二、三個転がっていた。
ワルターはボトルを一つ手に取って、褪せたラベルを見つめている。セネルは開いたままの窓枠へ手を置いた。
先ほどより少し強い風が吹いて、前髪を持ち上げる。
「……海は、どこの世界でも同じだな」
風の匂いも日光を反射する色も、セネルたちの世界と何も変わらない。
セネルが振り返ると、ワルターは特に言葉を返さず、持っていたボトルを棚に戻した。
「……一度、外へ出ようか」
セネルの提案に返事はなかったが、ワルターは無言のまま扉へと向かう。苦笑して、セネルも後を追った。
マークの提示した『報酬』とは、岬にポツンと一軒佇む、この家だった。
元々は老夫婦が営むバーだったらしい。知る人ぞ知る隠れ家は、老夫婦の死後に放置され、そこに目をつけた残党たちの潜伏先となっていたのだ。捕えた残党共々、証拠品は回収し終えた後だ、好きに使って構わないと、マークは言った。
セネルとワルターが家を出ると、岬から海を見下ろしていたルカたちが駆け寄ってきた。
「どうだった?」
「中々良い家だな」
ルカはセネルの言葉を聞いて、顔を綻ばせる。先ほどからの彼の態度を不思議がって、セネルは少し眉を顰めた。
「何で、そんなに気にしているんだ?」
「ほら、セネルは覚えているかな。少し前に、すべてが終わったあとの話をしたこと」
「……ああ」
ワルターが何のことだと問うので、少々気まずさを覚えつつセネルは白状する。彼の話を聞いて、ワルターは眉間に皺を寄せ、案内役として同行していたシンクは「甘すぎだね」と毒づいた。
「マークから話を聞いたとき、ぴったりだと思ったんだ」
ルカは人差し指同士を突き合わせて俯く。押しつけがましいと自覚していたが、どうしても今、セネルとワルターに来てほしいと思ったのだ。
(だって、きっと、セネルが言っていたのは……)
ちら、とルカは前髪の隙間から二人を見やる。困ったように微笑むセネルに、やはり迷惑だっただろうかとルカはますます俯いた。そんな彼の肩を叩き、イクスは笑みを浮かべる。
「もう少し辺りを見て回ろう。ここは風が気持ち良いし、他にも何かあるかもしれない」
「なら、俺は浜の方へ行きたい! マスターも行こうぜ!」
うずうずと肩を揺らしていたコーキスは、真っ先にイクスの腕を引いた。
「分かったから、コーキス。シンクも行こう」
「は? なんで僕まで」
「いいから」
コーキスに取られているのとは別の手でシンクの腕を掴み、イクスは駆け出す。彼の目配せを受けたルカは、セネルたちを見やって「僕も行くね」と後を追った。
取り残されたセネルとワルターは、チラリと互いを一瞥し、足元へ目を落とす。
ざり、と砂を踏んだ靴先が、こちらを向いた。
「……どういうことだ」
「え?」
「さっきの話だ」
ああ、と頷いてセネルは頬を掻く。
「単なる雑談、世間話の一つだ」
時間潰しの話題を、ルカが覚えているとは驚きだった。
「……貴様は、俺と」
ワルターは躊躇うように、言葉を止める。
セネルは俯く彼を一瞥して、岬の端へ足を進めた。
心地よい風を運んでくる海は、天上の陽光を反射してキラキラと輝いている。
「……ここでは、陸の民も水の民も関係ない。だから、もし他の水の民がやって来ても、手を取り合えるんじゃないかと思ったんだ」
そう言ってセネルが振り返ると、ワルターは射す陽光が眩しいと言うように目を細めていた。
「……それがお前であれば良いとも、思っていた」
それ以上ワルターの顔を見ることができず、セネルは海の方へ目を戻した。
シンクの言う通り、都合の良い夢物語であることは承知している。
あの世界で、セネルはワルターと拳を交え、そして命を奪う結果を作った。相容れない点はそれだけではなく、別世界だからという理由では容易に打ち消すことはできない。
罵倒され、殴られる覚悟も持っていたが、思ったよりワルターの混乱は大きかったようで、想像は現実となっていない。今だって、甘い考えだと一蹴せずに黙ったままだ。被虐趣味があるわけではないが、拍子抜けと言えば否定はできない。
「……アジトで過ごす間、ずっと考えていた」
唐突に、ポツリとワルターは呟いた。
「親衛隊長ではない俺とは何なのか――メルネスを守り、水の民の本懐を果たせぬ世界で何をすべきか……幾ら考えても、分からないままだ」
背中でそれを聞きながら、それもそうだろうなとセネルは心中頷く。良くも悪くも真っ直ぐな彼は、シャーリィたちと出会う前のセネルのように、それ以外の世界を知らないのだ。
(しかし、だからこそ……)
何の柵もない世界で――水の民も陸の民も知らない世界で――新しい生き方を、見つけてほしいと思った。
「しかし、」
例え、隣(そこ)にセネルがいないとしても。
「元の世界でも……セネル、貴様と共に並ぶ風景を想像しなかったわけではない――あの戦いを経た、今でもだ」
ワルターの声は、すぐ後ろから真っ直ぐセネルの背中を叩いた。
驚きに目を丸くし、セネルは慌てて振り返った。それが、いけなかったのか。
「え」
ズルリと足が滑り、セネルの身体は岬から宙に投げ出されたのだ。
ぽかんと口を開いたワルターの表情に怒りが滲みだす様が、網膜に焼き付く。
ざぶん――白、そして青。
咄嗟に口を引き結んだので、酸素を大量に吐き出すことはなかった。意図していない飛び込みとはいえ、マリントルーパーのセネルには体勢を立て直す対応力がある。
突出した岩肌はなかったから、かすり傷一つ負わずに海へ落ちることができた。水面に叩きつけられたことで左腕や背中が痛んだが、動けないほどではない。
海底へ頭を向けていた身体を回し、セネルが水面へ顔を上げると、射していた光が急に陰った。次いで、気泡が付着していた体表が黒い光で覆われる。
セネルが陰の正体に気づいて目を丸くした途端、辺りは白い泡で満たされた。波が顔にかかったときのように、セネルは腕を掲げて目を細める。
そんな彼の腕を、力強い何かが掴んだ。
泡は一息のうちに果て、飛び込んできた男の苛立ちに満ちた顔を露わにする。
「この、間抜け!」
大きく口を開いて、ワルターは怒鳴る。酸素を失う恐れも、声が届かない危惧も抱かない様子に、彼もまた水の民だったと思い知らされた。
ポカンとしたままのセネルにますます苛立ったように顔を歪め、ワルターは彼の腕を乱暴に引っ張る。それからワルターは小脇に抱えるようにセネルの腰へ腕を回したものだから、セネルも思わず「え」と泡を吐き出してしまった。ワルターはそのまま、セネルを連れて水面へ浮かび上がった。
顔を出した浅瀬では、二人を心配したルカたちが駆け込んで来るところだった。彼らはワルターとセネルの頭が揃って水面に並んだので、心底安堵したように胸を撫でおろした。
「良かったー、吃驚したよ」
「ああ、無事でよかった」
ワルターに引きずられて、セネルは浅瀬へ上がる。
「マリントルーパーが溺れるなんて、まさに河童の川流れだね」
シンクの言葉に、セネルは口元を引きつらせて、頬に貼りついた髪を耳へかけた。ワルターは掴んでいたセネルの腕を払い落とし、海水で貼り付く前髪をかきあげた。
「そ、それにしてもすごいね、あれも水の民の力なの?」
空気を気にして話題を変えようと、ルカが訊ねる。そこでセネルは、海中で見た黒い光がワルターのテルクェスだったのだと思い至った。
ワルターに説明する気はなさそうだったので、セネルは代わりに頷く。ルカはまるで、虹やオーロラでも見たように目を輝かせて両手を合わせた。
「水の民ってすごいんだね、まるで海が祝福するみたいに光るなんて!」
前髪に差し入れていたワルターの指が、ピクリと止まる。セネルも思わず硬直し、ルカの言葉を噛みしめるように繰り返した。
水の民、海、祝福、光る――その単語から連想するのは、とある儀式の伝承だった。
「……おい」
ワルターが低い声を出す。その怒りの矛先はお門違いだと、セネルはブンブン首を振った。
「俺だって知るか! この世界に……いや、シャーリィはメルネスの力を使えていたし、ワルター、お前もさっきテルクェスを使っていた。滄我も何かしら別の形でエンコードされていてもおかしくは……」
「貴様は、」
言葉を並べるセネルを遮って、ワルターは真っ直ぐセネルを見つめる。
「――良いのか」
困惑が浮かぶ青の瞳と、暗い深海色をした瞳が重なり合う。
セネルの唇が、微かに震えた。
「……あ」
じわ、と浅黒い肌に朱が射し入る。日に晒された赤味ではない。それと一緒に、セネルはくしゃりと表情を歪めた。
ワルターは、カッと頭へ血が昇って行く感覚を自覚した。
「ッセネル!」
「なんで俺が怒鳴られるんだ!」
お互い朱色の顔を見合わせて言い争う二人の様子に、ルカは「あれ?」と首を傾げる。
「え、あんまり良くないことだった……?」
「俺には、ただ太陽が反射していただけのようにも見えたけど……」
ただの自然現象かと思ったが、彼らの世界ではよっぽど大きな意味を持っていたのだろうか。一人意味を察したシンクは、くだらないと吐息を溢した。
「で、どうでも良いけどあの隠れ家はどうするのさ? こっちは一応マークに報告しなくちゃいけないんだけど」
ハッと我に返ったセネルは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ルカたちの気持ちは嬉しいが、暫くは浮遊島のアジトに留まるつもりだし……折角だけど……」
「なら、俺が受けよう」
え、とセネルはワルターを見やる。少し調子を取り戻したワルターは、腰に手を当てた。
「俺も貴様らの任務に巻き込まれたのだ、マークとやらの話によれば、報酬を受け取る対象に入ってもおかしくない筈だ」
「……かもね。で?」
「あの隠れ家は俺が使う」
何を言い出すのだと目を丸くするセネルを一瞥して、ワルターはフンと鼻を鳴らした。
「言っただろう、救世軍も鏡士も、未だ信用に値しないと……俺はどちらの世話にもなる気はない。何か問題があるか、鏡士?」
「いや……ワルターさんがそれを望むなら」
イクスは緩く首を振った。
「良ければ、魔鏡通信の用意をさせてくれないか? その方が、ワルターさんも便利だと思うし」
「そうか」
イクスの提案を、ワルターは素直に受け入れる。
シンクは少し肩を竦め、その通りマークに伝えると約束をしてそこから去って行った。
すぐに小さくなる緑の背中を見送り、セネルは隣のワルターへ視線を向ける。顔を背けているため、セネルからは金髪から覗く耳しか見えない。
「……すべてが終わったら、」
ポソリ、とワルターは呟いた。隣に並ぶセネルにしか、聞こえないような声だった。
「先の話に乗ってやる」
「え」
意外だ、とセネルは思わず呟いていた。ワルターは眉間に皺を寄せて舌を打つ。
「陸の民も水の民もない、この世界で貴様とパン屋を営む呑気な己など、想像もつかん」
「まあ……そうだな」
よくよく考えれば、あのワルターがエプロンをつけて顔や腕を粉塗れにする姿は容易に想像つかない。自分は大層なことを空想していたものだ。
「しかし、それを夢想したいと感じる俺もいる」
セネルは再び目を丸くし、ワルターを見つめた。今度はこちらへ顔を向けていたワルターは苛立たし気に顔を歪めていたが、その頬はほんのり赤らんでいる。
「ワルター……らしくないぞ、どうした?」
セネルが怪しいものを見るように口元を引きつらせたので、ワルターは額に青筋を浮かべた。
「……貴様は相変わらず、愚鈍すぎるぞ」
「……シャーリィたちにも言われたが、俺はそんなに鈍いか?」
心外だと顔を顰めたセネルは、しかしすぐに眉間の皺をとった。
「ありがとう、ワルター」
「……フン」
ワルターは腕を組み、またセネルから顔を背ける。そんな彼の後頭部を見つめ、セネルはフッと微笑んだ。
「そういえばワルター、パンを作った経験は?」
「……準備しておく」
「頼もしいな」
照れ臭さで緩む頬を見られぬよう、セネルはキラキラ輝く海を見つめた。

浅瀬で言葉を交わす対照的な二人の姿を見て、ルカはホッと胸を撫で下ろした。自分の行動が強引すぎた自覚はあるが、それが原因で彼らの仲がより悪化する結果にはならなかったようだ。
「……なぁ、ルカさま、マスター」
声を顰めたコーキスが、イクスたちの耳へ口を近づける。
「結局、どうなったんだ? セネルさまたちは、仲直りしたのか?」
心底不思議そうなコーキスの様子に、思わずイクスとルカは顔を見合わせた。それから二人は耐え切れず笑みをこぼしてしまったので、コーキスにじとりと見つめられてしまう。
「まあ、そんなところだな」
イクスは、拗ねて唇を尖らせるコーキスの肩を宥めるように叩いた。ルカも眩しさに目を細めながら、コクリと頷く。
キラキラと陽光を受けて輝く金と白銀の髪。潮風と麦の焼ける匂いが漂う中、その二つが並ぶ風景は遠くない未来に実現するのだろう。
それはとても素敵なことに思えて、想像するだけでルカの胸はポカポカと温かくなった。


20210605再録
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