横光利一と『    』
(あれは……)
横光利一がそれを見かけたのは、本当に偶然だった。
皮膚に触れる空気が冷たくなった秋の午後。図書館の裏庭の木々に隠れた場所に、一つのベンチが置かれていた。このときまで、横光もそんなところにベンチがあるとは知らなかった。ベンチというより、二人掛けのソファのような椅子だ。ガサガサ草を踏んでそちらへ寄ると、そこに座っていた人物の姿がよく見える。
「……」
曇り雲のようなふわふわとした髪と、口元から足元を覆う真っ黒な装束。文豪たちからいろんな意味で恐れられている助手が、無防備な姿で眠っていた。

▽横光利一と『  』

珍しいこともあるものだ。横光はそんな感想を心の中で呟き、マジマジと助手の姿を観察した。結姫は先ほど応接間で談笑している姿を見た。結姫の傍にいないこともそうだが、助手がこんな風に眠る姿を文士たちに見せたことなど、横光の知る限りない。成程、ここは助手の隠れ家であったか。
少し考えて、横光は助手の隣に腰を下ろした。風は冷たいが、襟元をしっかり閉めれば気にならない。横光は本を取り出し、栞の挟まっていた頁を開いた。
「……」
「……何をしている」
「おや、起きたのか」
どれほど時間が経っただろうか。
隣から不機嫌な声が聞こえてきたので、横光は栞を挟んで本を閉じた。ズルズルと横に倒れていた身体を起こし、助手はパチパチと瞬きをする。まだ少し寝ぼけているようだ。寝起きは機嫌が低下する性質なのか、助手はぐるりと目を動かして横光を睨んだ。
「なに、良い塩梅の隠れ家を見つけたのでな。あなたが設置したのか?」
助手はボリボリ頭を掻いてから、諦めたのか小さく息を吐いた。
「ここは春から夏にかけて良い木陰になるんだ。群青が、秘密基地みたいで素敵だと」
「成程。姫君のお城だったのか」
それは少し悪いことをしたかと、横光は眉根を下げた。つまりここは二人だけの秘密基地だったのだ。しかし助手は肩を竦め、気にするなと首を振った。
「群青のためにと思ったが、秋に入ると寒さが増すからな。この時期、あいつはここには来ない」
来ないというより、来させないようにしているのだろうが、横光は口を噤むことを選んだ。
ソファに背を預け、細い木の枝が模様を描く空を見上げる。小鳥の声も花の色もない場所であるが、中々どうして居心地は悪くない。冷たい風は毛布や温かい飲み物を持ってくれば防げるし、そういった寒暖の差は心地よいものだ。
チラリと横へ視線をくれれば、空色と灰色が混ざる風景に目を細める青年の横顔がある。
「……次は、毛布と……そうだな、善哉でも持ってこよう」
「はあ?」
「安心しろ、手前の給金から出す」
助手は顔を歪めたが、横光は気にせず口元へ笑みを湛える。助手は小さく息を吐いて、「……好きにしろ」と呟いた。
「ああ、そうだ」
思いついた、という風に横光は声を溢す。それから怪訝そうな顔の助手と向き直った。
「あなたの名前は、何というのだっただろうか?」
助手は少し驚いたように目を丸くし、やがて大きく息を吐いた。
「名無しの鼠だ。好きに呼べ」
そうか、と横光は一言。
この日を境に、食堂やバーで席を共にする二人の姿が見られるようになったという。

〇肆 横光利一
司書たちを『姫君』『助手さん』と呼ぶ。人付き合いの悪さから敬遠されがちな助手と、比較的良好な仲を築いている。二人きりのときは助手を『御影さん』と呼ぶらしい。
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