十一
再び部屋の扉が開かれたのは、随分時間が経ってからのことだったと思う。何せ部屋には時計はなく、唯一時間を知る術と言ったら、窓から差し射る日の動きだけだったものだから、正確に何時間とは分からない。しかしその光の柱が少しばかり移動していたから、二時間は経っていたと思う。
扉の向こうに気配を感じ、欠伸を溢していた織田はそっと身体を横たえた。目を閉じて暫くじっとしていると、鍵の開く音がして、二三人の足音が部屋へ入ってくる。
「おや、寝ているようだね」
「はあ? 多喜二の話では目を覚ましたって」
全く、とぼやいて一番重い音を立てる足が、織田へ歩み寄った。頭上に影が落ちる。思わず動きかける目蓋を制して、織田は枕に埋めた鼻から息を吸った。織田の肩を、大きな手が掴んだ。
「おい、起きろ――……!」
 その手がごろりと織田の身体を仰向けにした、その瞬間、織田は長い足を振り回して手の主を床に転がした。
座布団が音を立てるが埃が舞う気配はない。余程上等なものなのだろう。そんな座布団に押し付けられる形で仰向けに転がした男へ跨り、織田は彼の首へ手をやった。
ち、と髪を数本削って、顔の横に銀の刃が添えられる。一緒に入室してきた男たちが抜刀したのだと、数瞬前から気づいていた。しかし織田は首を絞める手を緩めず、全体重をかけて男を床へ押し付けた。
ぐ、と長くしなやかな指が、織田の手を握る。
「ったく、とんだじゃじゃ馬だな……いや、じゃじゃ猫か?」
力では敵わないらしい。織田の指は簡単に引きはがされる。しかし織田は慌てず、相手も織田を引き倒す様子は見せない。
「……志賀直哉」
 その余裕な態度が気に入らないと伝えるように、織田は顔を顰めて呟いた。志賀はニヤリと笑い、片方の手で織田の手を握ったまま、もう片方を床について上半身を起こした。志賀が一瞥やると、頬に触れていた銀が離れていく。
「アンタみたいな人がワシになんの用や?」
「随分だな。お前にまで喧嘩を売られる覚えはないぜ?」
「阿保抜かせ。こないなことまでして、しらばっくれんなや」
志賀は冗談だと言うように肩を竦めた。織田は顰めた眉を動かさず、目を細める。
この男は、こういう人を小馬鹿にする態度が気に食わないのだ。太宰ほどではないが、織田も彼を好いてはいない。
志賀直哉。白樺組の頭領で、織田の兄貴分である太宰の天敵。まだ三人が三田組保護下になかった頃、太宰と志賀の間にあった諍いは織田と坂口にも影響しており、三羽烏と白樺は犬猿の仲と呼ばれるほどだ。当の志賀本人は、太宰たちのやっかみを子犬のじゃれつきだと面白がっているようだが。
「これが白樺サマの誘い方かいな。引っかかる女が多いようなら、ワシも試してみたいわ」
「本命はもっとしっかりエスコートするさ。誘っているのはそっちじゃねぇのか」
志賀は織田の腕を引いて、彼の下から抜け出す。ごろりと尻餅をついた織田は「阿呆」と、ますます顔を顰めた。織田の顔を見下ろし、志賀は愉快そうに眼を細める。
「そうだな、アンタが誘って尻尾振っているのは別の男だったな」
ぴり、と空気が張り詰める。織田は一瞬目を細めたが、すぐに目蓋を下ろして志賀の腕を振り払った。
「なんや、男の嫉妬は醜いで」
「俺は好みじゃないが、中々綺麗な顔してるしな」
振り払われたその手で、志賀は織田の三つ編みを持ち上げる。それも頭を振って払われ、志賀は苦笑交じりに肩を竦めた。
「回りくどいことはやめーや。何が目的かは知らんけど、どうせ秋声さんのことやろ」
「なんだ知っていたのか、紅露組の若頭のこと」
「初めっからな」
手錠で繋がれたままの両手を器用に動かし、織田は乱れた三つ編みを撫でつける。
紅露組の次期頭領の一人、徳田秋声。彼と織田が知り合ったのは、本当に大学の授業が元である。織田は声をかけた相手が紅露の若頭とすぐ分かったが、何もそれを理由に声をかけたわけでも、お近づきになろうと思ったわけでもない。課題を見せてくれそうな人が、彼以外見当たらなかっただけだ。
その後も交流が続いたのは、一重に性格の相性が合ったからとしか言いようがない。徳田はどうやら紅露組のことを隠したがっているようだったし、織田も三田組所属のことは話す気などなかった。傍からは表面的のように見えるが、しっかりとした友人関係を築けていた筈だ――織田にとっては、である。
 覚悟はしていたが、まさか志賀にこれを突かれるとは思わなかった。
小さく嘆息する織田を見下ろし、志賀は腕を組んだ。
「ま、そちらも興味深いが、今回は別件だ」
「別件?」
「もう一人いるだろ、アンタが野良ネコよろしく餌をもらいに通う相手」
織田は眉を顰めて小首を傾いだ。本当に思い当たらないということがそれで分かったのか、志賀は目を丸くする。
「なんだ、まさか知らなかったのか?」
「だからなんやねん」
「室生犀星」
ぽつりと言って、志賀は膝を曲げてしゃがみこむ。織田と視線を合わせた彼は、呆れたと云う風に吐息を漏らした。
「幾ら隣接してない対岸のことだからって、無知すぎるぜ、アンタ」
「はあ?」
織田は苛と腹を煮え立たせた。志賀の告げた名に聞き覚えはある。三田組と向かい合わせで地域を取りまとめる、北原組の幹部の名だ。
志賀はチラリと武者小路と有島へ視線をやる。二人も少し困ったように顔を見合わせるだけだ。除け者にされている雰囲気を感じ取り、織田は歯を剥いた。
「だから、北原の双璧がワシと何の関係が、」
「お星さん、だっけ?」
 ピクリ、と織田は言葉を止める。振り返ると、顎に指を添えた武者小路が「合ってる?」と小首を傾げた。
「なんで」
「太宰ほど能天気じゃないアンタなら、気づいていると思ったけどな」
志賀は立ち上がり、ぐるりと肩を回した。威厳を保つために飾り毛がたっぷりついた外套を羽織っているが、中々着慣れたものではない。脱いで肩に担ぐと、また織田が何故と呟いた。顔を見れば、いつも白い肌がほんの少し青味を帯びている。
認めたくないのか。この青年の中でそれほどの存在ならば、こちらの好都合というものだ。
志賀は自分でも知らず、口元を細めていた。武者小路たちに言われれば、『酷く悪そうな顔』というやつだ。
「アンタが尻尾振ってた星が、室生だった。それだけだろ」
 石榴色の瞳は、志賀も初めて見るほど震えた光を湛えていた。
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