遠雷の子守歌
三好達治はその日の朝から、頭痛に悩まされていた。そしてそういうときほど、耳に届いてしまう声というものがある。
「ケッケッケ。もうけた、もうけた!」
軽薄で俗物な声。彼特有の笑い声が、骨を叩くように飛び跳ねて通り過ぎていく。三好は額へ手をやって、ぎゅうと目を閉じた。
「達治?」
隣できつねうどんを啜っていた堀がその手をとめ、如何したのだと顔を覗き込む。三好は額を抑えていた手をとって、大事ないと首を振った。
「昨日の潜書疲れが残っていたのかもしれない」
「そう? 気を付けてよ。季節の変わり目は、身体の調子を崩す人が多いから」
堀の言葉を聞いて、三好は顔を上げた。堀の丁度背後には庭を覗ける窓があった。そこから見得る木々は赤茶に染まり、ハラハラと花弁のように葉を散らしている。ひゅうう、と糸を擦るような風の音も聞こえて、三好はぶるりと背を震わせた。
「そうだな……けど、これから潜書しなければいけないから」
「そう……無理はしないでね」
麺が沈んだままの椀を盆へ乗せ、三好は立ち上がる。それから堀へ礼を言い、食堂のカウンターへ盆を返した。
「おやまあ、」
ひょっこりと背後から首を伸ばす気配がして、三好はまた眉間にしわを寄せた。そんな三好の様子を知らぬ三つ編みは、彼の頬を撫でるように揺れて麺の残った椀を覗き込む。
「珍しいこともあるもんやなぁ、三好クンが残すなんて」
ずきずきと、後頭部が痛む。
(嗚呼、嗚呼!)
まるで、銃弾が頭蓋骨の下で飛び交っているよう。
「三好クン?」
ふわり、と鼻を擽った色。頭痛が、わずかに止む。
何が傍へ寄ったのか、はっきり思い描くより先に、三好の手は天井を向いていた。ぱしり、とこちらへ伸びていた手を払いあげたのだ。俯いた面を上げなくとも、相手がきょとりと目を丸くしてそれからしようがないと言いたげに苦笑するさまが、まざまざと想像できた。
「どうかしたのか、オダサク」
低く落ち着いた別の声が聞こえる。三好はグラリと傾いた視界を抑えようと、手を目元へやった。驚いた声が上がる。ぐるりと視界が回り、三好の身体から力が抜けた。暗くなる世界の果て、猫の尾のように揺れる三つ編みが見得た。

▽遠雷の子守歌

ヒヤリと冷たいものが、額に触れた。三好はゆっくりと目蓋を持ち上げる。一番に目へ入ってきたのは、白い軍服の袖であった。
「目が覚めたか」
頭髪を後ろへ撫でつけた男が、そう言って身を引いた。どうやら、彼が三好の額へ濡れタオルを宛がってくれたらしい。
「俺……」
「疲労と冷えによる風邪だな。だいぶ熱が高かったぞ」
テキパキとカルテに何事か記しながら、森は懇切丁寧に三好がここに横たわるまでの経緯を教えてくれた。
突然倒れた三好を受け止めたのは、織田であった――さらに詳しく言えば織田は三好の体重に負けてよろめき、隣にいた小林に支えられたらしい――。三好はそのまま医務室へ運ばれ、森の診察を受けて今に至る。
「オダサクさんが……」
「後で礼を言うんだな。恩の前にくだらない意地を張るほど幼くはないだろう」
「……」
三好は答えず、持ち上げた腕を目の上で組んだ。森は小さく、吐息を漏らしたようだった。それから音がして、森は退室したようだった。三好はそのまま、ゆっくりとこみ上げる眠気に身体を任せた。確かに、随分疲れていたらしい。数分もたたぬうちに、三好は眠りに落ちていった。

ことこと、と小さな音がする。鍋が揺れるような音だ。眠りから覚めた幼子が音につられて首を上げると、気づいた母が振り向く。寝坊助さん――柔らかい声で笑って、濡れた手を布巾で拭う。
そんな情景がふと、浮かんだ。
「……」
三好もまた、とある幼子のようにその音で目を覚ました。後に続く胃を仄かに摩るような匂いはない。当たり前だ、ここは台所とドア一枚でつながった居間でない。だとしたら、この音は何だろうか。
三好は身体を起こし、頭へ一度手をやった。ぐっすり寝たお陰か、頭の重みは消えていた。ベッドから降りて空間を区切っていたカーテンを勢いよく開くと、音を立てていた侵入者はビクリと肩を飛び上がらせた。
「……なにしてるんすか」
ギロリと一睨みすれば、侵入者は何やら手を後ろへ回し、「ハハハ」と乾いた笑いを漏らす。
「オダサクさん」
三好が名を呼べば、織田は肩を竦めて笑い声を止めた。
「なんや、そう怖い顔せんで……もう大丈夫なん?」
「……お陰様で」
少し視線を外して言えば、織田は驚いたように目を丸くした。三好はスッとベッドから降りると、足を滑らせて織田の傍らへ寄る。そのまま流れる動きで、織田の後ろに回された腕を捻りあげた。
「おわ」
間抜けな声を上げて、織田は手を開く。骨ばった手から落下する瓶をしっかり受け止め、三好は織田の腕を彼の背に押し付けた。ぐ、と詰めた息が薄い背中越しに、三好の胸へ伝わる。
「全く、手癖の悪い」
「ど、どの口が言う……」
ケホ、と織田が小さく咳き込む。三好はパッと手を離し、彼をベッドの方へ押しやった。
「森先生が言っていたっす、最近戸棚を漁る泥棒猫がいるって」
視線をやれば、泥棒猫は居心地悪そうに視線を逸らした。この泥棒猫は医務室を牛耳る男がいない時間を見計らって、薬品戸棚を探っていたのだ。狙いはこの薬品だったらしい。疲労回復効果があるものだが、量によっては毒にもなる。
「お堅いなぁ、三好クンは」
織田は頬を膨らめ、頭の後ろで手を組んだ。三好は戸棚へ瓶を戻し、戸を閉める。コトコトと瓶が揺れて、音を立てた。
「……」
「ちょーっと拝借しようとしただけやん……」
ブツブツぼやく猫を一睨みで黙らせ、三好は吐息を一つ溢す。すごすご身を縮める織田は、いつものジャケット姿ではない。白いセーターは、彼の線の細さを強調している。先ほど触れた体の薄さが蘇って、三好は脇に垂らした手を握りこんだ。
「……自分、オダサクさんのそういう不真面目さを気取るところは嫌いっすけど、」
かちゃん。
え、と織田の口と目が丸くなる。三好はクルリと振り返って、手の中に隠していた戸棚の鍵を揺らして見せた。
「別にアンタのことがすべて嫌いなわけじゃないっす」
だから維持やプライドで礼を言わないことはない。だいぶ時間差を伴った森への反論を心の中で転がして、三好は彼からこっそり拝借した鍵を握りこんだ。
「三好クン、それ!」
「自分を寝坊助呼ばわりした仕返しっす」
鍵を胸ポケットに入れると、織田がビシリと人差し指を向ける。それをペシリと叩き落として、三好はまた医務室のベッドへ戻った。
「聞こえてたんかい……って、また寝るんかい!」
ぎゃーぎゃー騒ぐ織田を遮るように、カーテンを閉める。少しくぐもった声はまだ聞こえていたが、気にせず三好は枕とシーツを整えて仰向けに寝転がる。すると、やがて声は遠くなっていった。
頭痛はもうない。とんとん、と耳に心地よい足音が頭をノックする。それは子守歌に似た温度で、三好を眠りに誘っていった。
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