第一話
夢を見る。夢の中で自分は上等な服と外套を纏い、身の丈ほどある鎌を振るう。切り裂くのは人間でも動物でもなく、墨で描かれたような何かだ。化物たちに憶することなく、踊るように動く姿に目を惹かれた。蝶のように舞い、蜂のように刺す。夢の中でも自分は、まさにヒーローだ。

ぴぴぴぴぴぴ――
胸高鳴る夢からの目覚めは、無粋な機械音だった。
太宰は半分夢見心地のままゆっくりと身体を起こした。ポリポリ頭を掻きながら、ふと枕元の時計を見やる。まだ鳴り続ける時計の針は、始業時刻三十分前を示していた。
「……」
太宰宅から学校までは走って十分ほどだが、身支度と食事に三十分以上はかかるのがいつもだ。つまり、遅刻確定。
「やば!」
ガバリと起き上がり、太宰は寝間着を脱ぎ捨てると制服を慌ただしく身にまとった。朝食は、適当にカバンへ詰め込んだパンを後で頬張れば良い。しかし身なりに妥協したまま登校するのは避けたかった。
「けどそうも言ってられないか……!」
時刻は始業開始十分前。やっと寝癖を正し、満足いく髪型に整えたところでタイムリミットだ。ジャケットを羽織り鞄とネクタイを掴むと、太宰は家を飛び出した。
「お、太宰。珍しいな、そんな恰好で」
ネクタイを結びつつアパートの階段を下りてきた太宰を見て、管理人の佐藤が目を丸くする。
「行ってきます、春夫さん!」
「気を付けてな」
日課の掃除の手を止め、佐藤は駆けて行く太宰の背を苦笑交じりに見送った。

「あれが太宰治か……」
慌ただしく通学路を駆けていく太宰を、屋根の上から見つめる姿が一つ。ぽつりと呟くと、小さなその影はヒラリと飛んで姿を消した。

【第一話 文学戦士の誕生】

始業時刻まであと三分。やっと見えてきた校門にホッと安堵しかけるも、同時に見えた人影に太宰は頬を引きつらせた。
「げ……三好……」
太宰の姿に気づいた相手が、門を塞ぐように仁王立ちする。腕に見えるのは『風紀委員』の文字が堂々と並ぶ腕章だ。
「遅刻っすよ、太宰さん!」
「まだセーフだろ」
「遅刻ギリギリに滑り込むその姿勢、感心しないっす」
この一年風紀委員は小姑かと思うように口煩い。太宰の赤髪は地毛と許されたが、おしゃれのために毛先を遊ばせようものなら整髪剤片手に追いかけられたほどだ。
現在門は殆ど閉じられており、人一人が通れるほどしか開いていない。しかもその通路も三好が立ち塞がっている。
仕方ない、と太宰は門まで行くことを諦めた。門の少し手前で踏切り、目を丸くする三好の前で塀に足をかけて飛び乗った。
「だ、太宰さん――!!」
怒り狂う三好の叫び声が聞こえるが、逃げるが勝ちだ。ニヤリと笑って太宰は塀から飛び降りる――が。
「おや」
「え」
下に人がいるとは思わなかった。避けることなどできず、太宰はそこにいた男の上に着地してしまった。
「いってて……って、すみません!」
跨る状態で下敷きにしてしまった人物へ、慌てて声をかける。ごろりと仰向けになっていた男は、「よいしょ」と上半身を起こした。
「大丈夫だよ。人気のないところを探していたのだけど、まさか上から来るとは思わなかったよ」
カラカラ笑う男が地面についた手の横には、封の切られた煙草とライター。まさか校内で喫煙しようとしていたのか。
煙草を思わず凝視してしまった太宰の頬を、男がそっと手の甲で撫ぜた。ハッとして視線を正面へ向けると、ふわりと微笑んだ端正な顔立ちを直視することになり、ボンと太宰の顔が沸騰した。
「怪我はない?」
「は……はい……」
「それは良かった」
ドキドキと胸を高鳴らせていた太宰は、塀の向こうから聞こえてきた「太宰さ〜ん!」という三好の怒声にハッと我に返り、慌てて立ち上がった。
「すみませんでした! 俺、急ぐのでこれで!」
深々頭を下げ、落ちていた鞄を拾うと、太宰は三好が来る前にと教室へ向けて駆け出した。

校舎の中へ消えていく赤髪を見送り、その場に座ったまま残った男は煙草とライターを懐へしまった。男にとってはタイミングよく、風紀委員の腕章をつけた一年生がやってくる。
「あ、芥川先生」
「やあ、ご苦労様」
膝を立てた状態で座ったままの男に眉を顰めながら、三好は軽く荒い息を吐いた。
「こちらに太宰治先輩は来なかったっすか?」
「さあ? どうだろう」
「どうだろうって……」
「それよりも、そろそろ本鈴が鳴るよ。風紀の取り締まりも良いけど、学業の本分を忘れずにね」
芥川の言葉と同時に、鐘が鳴る。三好はサッと顔色を変え、慌てて校舎へ駆けて行った。
三好の姿が消えてから取り出した煙草に火をつけ、芥川は白煙を吐く。
「太宰治くん、か」

「はあ……」
太宰は大きなため息を吐いて肩を落とした。結局、朝の件で昼休みは三好の説教コース、まともに食事をすることもできなかった。
ぐうぐう鳴る腹を抱え、コンビニで購入した軽食を持って向かったのは図書館のラウンジ。学校と自宅アパートの中間に位置するここは、地域の郷土資料と様々な国の歴史書が並び、調べものや自学習に最適だ。
おにぎりの包み紙を開き、口を大きく頬張ろうとした瞬間。
「はあ!?」
どこからかやってきた猫にそれを奪われてしまった。猫はおにぎりをくわえて床に着地すると、一度太宰を見やってから外へ飛び出していった。
「待ちやがれ!」
咄嗟に鞄を肩にかけ、太宰は猫を追いかけた。落ち着いて考えれば一度猫の口に触れたおにぎりは衛生的によろしくなく、ここは諦めて別のおにぎりを食べるべきだった。しかし空腹により限界を迎えた太宰の頭は落ち着いて思慮する力が残っておらず、結果苛立ちによる短絡的な行動をとってしまったのだ。
ヒラリヒラリと飛び跳ねた猫は、やがて人気のない裏通りで止まった。ぜーぜー息を吐き、太宰は顎に垂れた汗を拭う。
「はあ……やっと追いついたぞ、猫野郎」
猫はパッと口を開いて、おにぎりを地面に転がした。
「ああ!」
「……全く、本当に情けない。これが太宰治とは」
「……へ?」
砂だらけになるおにぎりに情けない声を上げると、不意に聞こえてきたのはそんな声。辺りに人影は見当たらず、太宰はもしやと猫を見やる。猫は肯定するように顔を撫でた。
「俺に名前はない。太宰治、お前を探していた」
成人男性を思わせる低い声が、今度こそ間違いなく猫の口から聴こえてきた。

人は最高潮に混乱すると声もでなくなるらしい。太宰は、猫が人語を喋るという光景に叫び声を上げることもできず、ただ正座して猫の話を聞くばかりだった。
曰く、この世界に悪の脅威が迫っている。曰く、浸蝕者と呼ばれるそれらは文学書を奪い、世界の教養知識、果ては人々の心を奪おうとしている。曰く、それに対抗できるのはかつて文学書を書いた文豪の生まれ変わりだけである。
「そしてその生まれ変わりが太宰、お前だ」
「俺?」
「ああ。お前は『人間失格』や『走れメロス』を書いた文豪・太宰治の生まれ変わりだ」
『人間失格』『走れメロス』――本は読むほうだが、そんな名前の本は聞いたことがない。『太宰治』という物書きがいたという話も、初耳だ。
「論より証拠。太宰、これを」
猫は毛づくろいするように背中へ首を回すと、何かを口にくわえて太宰へ差し出した。おずおずと受け取ると、それは四角いケースだった。深い赤色をしたそれは、横のところを押すとカチリと開く。中には大と小の歯車がハマっており、大きい方の歯車には真っ赤な宝石がついていた。
「これは?」
「所謂、マジックアイテム――変身道具だ」
「は? 変身するの?」
太宰は目を瞬かせる。しかし猫は余所を向き、クンクンと鼻を鳴らす。
「――丁度良い。近くで浸蝕者が出たようだ」
着いてこいと短く言って、猫は走り出す。腑に落ちないことばかりだったが、太宰は言われるまま小さな影を追って駆け出した。

猫に連れてこられたのは、図書館裏にある公園だった。夕方に近いとはいえ、まだ明るいため数人の子どもの姿がある。殆どが遊具で遊んでいたが、二人ほどは何やら本を広げてベンチで読んでいた。
「――来た」
猫の言う通りだった。平和な風景を切り裂くようにして、それらは突然現れた。
「何だよ、あれ!」
紙屑を丸めたような体の羊が、ふよふよと宙に浮いている。子どもたちは怯え、悲鳴を上げながら逃げ出した。しかし羊は真っ直ぐ、本を抱える少女へ向かっていった。
「危ない!」
太宰は少女を抱え、間一髪羊の攻撃を避ける。その際、彼女の手から落ちた本を別の羊が拾いあげた。
「あ!」
少女が手を伸ばす前で、羊はその本を誰かの手に乗せる。太宰は身体を起こし、これまた突然現れた男を睨んだ。
中割れ帽子に黒いトレンチコートの男は、滑り台の梺に佇んでいる。顔はよく見得ない。眼鏡のせいだろうか。滑り台の上部には着物姿の男も座っており、こちらは目元を洋風のマスクで隠している。ぶらぶらと揺らした足は眼鏡の男の頭を軽く小突き、不機嫌そうに手で払われていた。
クスリと笑い、マスクの男は羽織の袖で口元を隠した。
「まだそんなものが残っていたとはねぇ。お手柄じゃないかい、ナーヴェ」
「……君は茶々を入れるためだけについてきたのか、ラピス」
ナーヴェと呼ばれた男は本を持ったまま腕を組み、至極不機嫌そうな様子だ。ラピスと呼ばれた男は気にした様子もなく、クスクスと笑っている。
「私の本……」
太宰の腕の中で泣き出してしまった少女。彼女の頭をそっと撫で、太宰は傍らにいる猫へ声をかけた。
「アイツらが?」
「そう、浸蝕者の仲間だ。……恐らくあの本は、この世界にまで残っていた文学書。アイツら、あの本をこの世界から消す気だ」
消えてしまえば、文学書の存在も記憶も思い出も、すべて無かったことになってしまう。本を想って泣く少女の姿に顔を歪め、太宰は立ち上がった。
「その本、返せよ!」
「なんだ、人間か」
「威勢が良いじゃないか。ワタシは好きだよ」
笑うラピスに一つため息をこぼして、ナーヴェは本を持たない方の手を広げ、口元に近づける。手の平にフと息を吹き付けると、そこから黒い靄が生まれ、弾丸のように太宰を襲った。避ける間もなく、太宰は近くの木々が伸びる植え込みに倒れこんだ。
「ぐぅ……」
幹に強かに身体を打ち付け、太宰は呻く。
「太宰、無事か!」
猫が駆け寄る。太宰は何とか身体を起こした。
「生身でやり合うのは危険だ。変身しろ」
「変身するったって、どうやって……」
太宰は変身道具を取り出す。ぐ、と握ると忽ちそれは光を放った。それと同時に頭の中にある言葉が浮かんだ。
「ぴ……ピーチストーリーパワー、ライトアップ!」

か、と植え込みが光る。先ほど威勢の良い人間を捨てた場所だ。ナーヴェは眉を顰めた。ラピスは呑気そうに「おや」と言葉を溢す。
光が収束すると、一つの影が植え込みから飛び出した。
「桃の花咲く文学戦士、ブライ・ピーチ! 彗星の如く、華麗に参上!」
身の丈以上の鎌に、真っ赤な外套、編み込まれた髪――いつも夢で見ていた姿だ。が。
「な、なんじゃこりゃー!!」
太宰は思わず、声を上げた。外套の下は、フリルとリボンがあしらわれた可愛らしいものだったのだ。直視できず横目で見た胸元は、明らかに膨らみもある。
「どういうことだよ、猫!」
「どういうことと言われても……そら、来るぞ」
猫の視線の先では、突然現れた太宰の姿にナーヴェたちが目を丸くしていた。
「おやまあ」
「チ……面倒なことに」
感心するラピスの足元でナーヴェは忌々しげに舌を打ち、指を鳴らした。すると羊たちが一つに集まり、巨大化したのだ。巨大化した羊は太宰に襲い掛かる。太宰はキッと睨みつけ、鎌を振り上げた。
「はあああ!!」
一刀両断。羊はバラバラと解けて消えていく。太宰はそのまま足を踏み込み、呆気に取られて動きが遅れたナーヴェへ向けて横に薙いだ。鎌は襟元を少し切り、手から本を弾き飛ばした。宙を飛ぶ本を、猫がくわえてキャッチする。
「ち」
「ナーヴェ、ここは退こう」
「はあ? 何を言い出すんだ」
「不確定要素が現れたんだ。情報共有をしないとね」
「……」
ナーヴェはまだ不満そうだったが、頷いてヒラリとラピスの隣に飛び乗った。ラピスが羽織を広げるとそれは見る間に広がり、二人を飲み込んで消えてしまった。
「終わった、のか?」
「そのようだ」
ホッと息を吐き、太宰は猫から本を受け取ると、それを少女へ差し出した。
「はい。今度はちゃんと抱きしめておけよ」
「ありがとう!」
涙の残る顔に満面の笑みを浮かべて礼を言うと、少女は嬉しそうに駆けていった。その背中を満足げに見送る太宰を一瞥し、猫は尻尾を揺らす。
「太宰、」
「少し……思い出したぜ」
太宰は鎌を地面へ下ろし、猫に向けて苦笑を溢した。
変身した瞬間、そして鎌を振るった瞬間。太宰の脳裏を廻ったのは前世の光景だった。
命を削り、心を削り、只管に想いを原稿用紙に書きなぐった日々。辛いことの方が多かったように思う。けれど、その果てに生まれた作品は、素晴らしいものだった筈だ。その文学が消えてしまっている。嘗ての世界を取り戻すすべを、見逃すことはできまい。
「やってやるぜ。この仕事、完璧にこなせるのは俺しかいないでしょ」
得意げに笑う顔は、前世と何ら変わりない。猫は思わず微笑み、尻尾を揺らした。
(太宰治……予想通り、否――『以前通り』だ)
これなら、彼らに対抗できる。猫は確信していた。世界を救うには、この男たちの力が不可欠なのだと。
×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -