徳田の家はその日、少し騒がしかった。特段、大きな声や足音が聞こえるわけではない。しかしあちらこちらでひそひそ話は聞こえてくるし、何となく家人たちの様子も落ち着きない。これは何事かあったのだろう。
「おや、秋声」
「鏡花」
藤色の着物に薄青の羽織を合わせた兄弟弟子は、徳田の手元を見て柳のような眉を歪めた。
「何を抱えているんです?」
「ああ、これ」
徳田は今思い出したという風に、抱えていたボウルを机へ置いた。ぼんやりとしていたため少し混ぜすぎたかもしれないが、まあ良いだろう。ボウルを満たす生成色の液体を一瞥して、鏡花は吐息を一つ溢した。
「また菓子作りですか」
「そんなこと言いつつ、いつもしっかり食べるじゃないか」
徳田の菓子は家人たちに評判が良い。型を並べながらじろり視線をやると、鏡花はコホンと咳払いをした。
「全く、次期家長ともあろう男が、菓子作りなど……」
「ストレス解消法なんだ。好きにさせてくれ」
このやり取りも慣れたものである。適当に言葉を返しながら徳田は型に生地を流し込むと、温めていたオーブンレンジにそれをいれ、ボタンを回した。外装も内装も和風の造りである家だが、台所だけは徳田の希望で最新の調理器具が揃っていた。それも、ここ数年で揃えたものである。ストレス解消法と徳田は言ったが、理由がそれだけでないことを鏡花はよく知っていた。
「で、何があったんだい?」
一つ別に除けられた、明らかに贈り物用の器を見つめていた鏡花は、徳田にそう声をかけられて慌てて視線を戻した。
「何が?」
「今日は何か、落ち着かないだろう」
すっかり甘い匂いを吸った前掛けを外し、徳田は肘まで捲り上げていた袖を伸ばす。鏡花はまた吐息を溢した。
「あなたに関係あることですよ、秋声」
「僕に?」
徳田はキョトンと目を瞬かせる。鏡花は頭が痛む気がして、額に手をやった。
「あなたはもう少し、周りに興味を持った方が良い」
「どういう意味だ、鏡花」
徳田はますます眉を顰める。鏡花は辺りに人の気配がないことを確認してから、そっと徳田の傍へ寄り、小さな声で囁いた。訝し気に鏡花の言葉を聞いていた徳田は、やがて目を見開く。
「まさか」
「事実です」
「でも僕は、」
「あなたの意思は最早関係ないのですよ」
鏡花は身を離し、少しずれた羽織の襟を正す。
「彼らはあなたのためを想っているようですから」
事実がご自分で。鏡花はそう言って手の平を広げる。顔を歪めていた徳田は、オーブンの時間を一瞥した。時間にして凡そ一時間。
「……鏡花、オーブンお願い」
「良いですよ」
「触らないでね。終わったら蓋を開けてくれるだけで良いから」
下手をすれば焦げるまで炙りそうな兄弟弟子を言葉で制し、徳田は足早に台所を出ていった。一人残された鏡花は少々不満げに腕を組み、オーブンを一瞥する。
「そんなに、料理下手に見えますかね」

ほう、と息を吐く。白味を帯びたそれが、すぅと溶けていく。最近は冷える日が続くと思ったが、これからさらに増していくだろう。
小林はもう一度生白い息を吐いて、それからほぼ一息にあんまんを頬張り、飲み込んだ。口端についた餡子は指で乱暴に拭う。は、とあんまんが纏っていた湯気が口から零れた。
膝に置いていた方片方の手に、柔らかいものが触れる。肩を少し動かすとそこに乗った重みが滑り落ちてしまいそうで、小林は張った気が抜けない。
極力肩を動かさないよう腕の筋肉に力をこめ、手の甲に触れた毛先をそっと摘まむ。鳶色、小豆色、栗梅色――どの名前がぴたりと当てはまるのか、小林には分からない。黒と茶色と、ほんの少し紅が混じったような色の毛。こんな風に触れるのは初めてだ。見た目通り、フワフワとしていた。
「……」
小林の肩に乗る頭は目を閉じている。手には飲みかけの缶珈琲が握られており、絶妙な角度で中身を溢さずに揺れていた。それを取りあげ、小林は半分以上残った中身を背後の土へ捨てる。そのとき少し体を捻ったものだから、肩の頭はずり落ちて小林の膝に着地した。小林は慌てて姿勢を戻し、それ以上彼の身体が滑り落ちないよう手で支える。
受け止め損ねた腕が一つ落ちて、指先を固い地面で擦った。
小林は太腿の方へ頭を動かし、額にかかる前髪を掬った。
「よお、多喜二」
名を呼ばれ、小林は顔を上げる。そこに立っていた三人の姿を認めると、かぶっていた頭巾を背中側へ落とした。
「……直哉サン」
三人のうち、一番背丈の高い男が一番に歩み寄って、ベンチに座る小林と小林の膝で眠る青年を見下ろす。それからニヤリと笑い、顎を撫でた。
「よくやった」
指の背で小林の頬をなぞり、耳の後ろから前頭部に向けて手の平で撫でる。優しく擽ったさもあるその手つきに、小林は目を細めて少し肩をすぼめた。
「で、志賀、その子どうするの?」
須天色の髪を揺らした男が、志賀の肩越しに覗き込む。雪色の男も、大きく表情には出していないが、興味深そうだ。
「お前ら、人の話聞いてろよ……」
顔を引きつらせながら、志賀は彼らの方を振り返る。小林はごみを袋に入れて腕にかけると、すっかり眠った織田の身体をヒョイと肩に抱えた。
「おお」
「……重くないのか」
「手伝おうか?」
感心する須天色と手を貸そうとする雪色に、軽いから大丈夫だと首を振る。事実その通りであったのだが、志賀たちは訝し気だ。須天色が話をもとに戻した。
「で、どうするって?」
志賀は吐息を一つ、前髪をかきあげるように手を動かした。
「まずは飼い主さんにお手紙でも出すかね」
×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -