青年が支度を整えて一息ついた頃、屋外が騒がしいことに気が付いた。耳をすませば「神様」という単語が拾えて、いつものあれだと分かる。窓から外を覗けば、きゃいきゃい色めき立つ群衆と、彼らの間を歩く三人の男たちが見える。「神様」まるで偶像(アイドル)のような見目、そして扱い。このあたりの地域性を考えると、それも致し方なし。
「なんば騒がしいのう」
食卓でまだ白米をかきこんでいた同居人の一人が、ゴクリと飲み込んでからぼやく。曖昧に微笑んで、濡れた手をエプロンで拭く。すると、食卓についていたもう一人の同居人が立ち上がった。彼は小さく「ご馳走様」と呟くと、食器を流し台の方へ運んでいく。
「もう行くのかい?」
青年が訊ねると、そのもう一人はコクリと頷いた。椅子にかけていた上着を羽織り、フードをかぶる。
「気を付けてね」
青年の言葉に応えるように手を振り、同居人は家を出ていく。食卓に残っていたもう一人が、心配するように眉を顰めた。
「また、神さんのところったい?」
呆れたような声音の同居人に小さく肩を竦め、青年も椅子に座る。
「……彼にとっては『神様』だから」
この地域を離れていた時期がある自分たちが言えることは、何もない。伏せた青年の目がそう呟く。同居人は最後の一口を飲み込んで、湯飲みに手を伸ばした。
「神さんに縛られて、大切なものまで壊さんとええけど」

街の中心に聳え立つ図書館は、この街のシンボルだ。それを起点に、この街は幾つかのエリアに分かれている。エリア――というより、縄張りと称した方が正確か。とある国の一部であるが、国の政策の遅れから、民間で自然的に発生した任侠組織が治安維持を行っているのだ。
有名なのが紅露組と白樺組、北原組そして安吾たちが使いっ走りとして保護を受けている三田一家である。ほかにも大なり小なり組織はあるが、大きな縄張りを持っているのはこの三つくらいだ。
四つの組織の中で、三田一家は一番穏健派と呼ばれる。逆に好戦的なのが白樺組と北原組だ。紅露組はこの中で一番歴史が長い。彼らに白樺や北原が粉をかけては、紅露が軽くあしらうのが、ここ数年続いたやり取りだ。しかしそれによって保たれていたように思われていた均衡も、最近崩れつつある。
三田一家頭領、佐藤春夫は眉間の皺を揉み、大きく息を吐いた。
「全く、平穏無事に暮らせないものか」
袖で口元を隠し、谷崎がクスクスと笑った。佐藤は手を頬へ添え、肘を机につく。
「で、その情報は正確なんだろうな、坂口?」
「ま、それなりの情報元なんで」
さすがに北原組に所属する友人から直接聞いた、とは言えない。安吾は心中で舌を出した。背後で太宰のじとりとした視線を感じたが、無視する。
井伏はうんと唸って腕を組んだ。
「白樺と北原が手を組んだか……対紅露に向けて、本気になったのか」
「紅露は今、跡取り問題で揉めていると聞く。その隙をついてのことだな」
佐藤も唸って目を閉じる。
「厄介な……」
「お任せください、春夫先生! 俺、必ずや先生のお力に!」
「何をする気だ、太宰」
落ち着けと彼に言い置いて、佐藤はまた吐息を漏らした。目を輝かせ胸をドンと叩いた太宰は、安吾に外套を引っ張られる。彼らに構わず、井伏は佐藤を見やった。
「紅露がこちらに協力を申し込んで来ますかな」
「その可能性は無きにしも非ずだな……」
しかしそれよりも厄介なものがある。佐藤はぼやいて、顔を顰めた。太宰はきょとりと目を瞬かせて、首を傾ぐ。安吾は眼鏡の奥で目を細めた。
「厄介なもの?」
「……派閥争いか」
安吾の呟きに、谷崎はゆっくりと頷いた。
「紅露組は次期頭領で二派に分かれていると聞きます。頭領候補二人に敵対意志などないそうですが……そう思わない人間が少なからず周りにいるのでしょう」
「それも面倒だが、問題はその二派がそれぞれ別行動をとる可能性があるということだ」
「派閥一がこちらに協力を依頼すると、派閥二が白樺・北原連合に協力する……てことか」
「三組の抗争に巻き込まれた挙句、紅露の派閥争いにも利用されるなんて御免だな」
吐き捨てて、佐藤は顔を歪めた。三田一家の目的は縄張りの自治のみ。縄張りを広げようとか、他の組より有利に立とうとか、そういう心つもりはない。ましてや他組織の争いに巻き込まれるなど、本意ではない。
どうしたものかと井伏は唸り、谷崎は形の良い眉を歪めた。太宰は黙り込んだ三人を順に見やって、それから安吾をツイと肘で突いた。
「オダサクのこと、言わないのか」
「今か」
太宰の方を見向きもせず、安吾は短く返す。つい声を荒げそうになって、太宰は寸でのところで言葉を飲み込んだ。
「今だろ。だって、オダサクが会っていた男は、」

小さく鼻歌を刻んで、織田は歩く。その道端で、背後から呼び止められた。
「オダサク」
「おやまあ、多喜二クン」
奇遇やなぁ、と織田は朗らかに笑う。フードの下で小さく笑って、手に下げていた袋を掲げて見せる。
「あんまん、食べないか?」
織田は目を丸くした。彼と出会うときは大抵、織田の方が食料を提供していたから、小林から何かもらうことは初めてだった。思わずそう指摘すれば、小林は少し恥じ入るように俯いて、「いつも悪いから」と呟いた。織田はニコニコと笑って、「ええで、ええで。ほな、あそこの公園行きましょ」と小林の手を引いた。
二人は寂れた公園のベンチに並んで座った。昼間だが、曇り空で肌寒いこともあってか、他に人の姿はない。小林は袋から取り出したあんまんを一つ、織田の手に乗せた。
ホカホカと白い湯気を纏った饅頭はツルリとしていて、滑らかな絹を丸めたよう。少し殻を破ると甘い香りを伴った餡が顔を出して、織田の口元が緩んだ。
「では、いただきます」
大きな口を開き、織田は白い饅頭にかぶりつく。自分の分を口元へ宛がいながら、小林はそんな織田の様子をじっと見つめた。餡と皮を噛んで、ゴクリと飲み込む。小林は一口も齧らない饅頭を膝まで下ろした。
「……ごめん、オダサク」
小林の呟きが聞こえたのか、織田は丸い石榴色の目をパチリと瞬かせた。

「だって、オダサクが会っていた男は、」
太宰はこちらを見ない安吾に焦れて、腕を掴んだ。安吾の顔が歪む。二人の大きな動きには佐藤たちも気づいて、何事かと注視した。太宰はそんな彼らの動きに気づかず、声を荒げる。
「白樺の番犬なんだから」
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