男が一人、喫茶店の席に座っていた。彼の前に置かれているのは氷水の入ったグラスのみ。それに手を触れていないのか、中身が減った様子はない。マスターもカウンターの中で珈琲の豆を挽く手を止めず、注文を伺うこともしない。
男はそんな風に動かず目を閉じて座っているから、もしや眠ってしまっているのではと思う者も現れそうである。
やがて、ちりぃんと来客を告げるドアベルが鳴り、男はパッチリと目を開いた。
ドアは男の背後にあったので、来客を見るために彼はくるりと振り返った。それからふわりと相貌を崩す。
「待っていたよ」
ドアのところで立ち止まった来客は、片方の手で三つ編みの先を弄り、もう片方で着慣れない羽織の袖を摘まんでいる。男は立ち上がって彼へ歩み寄り、恥じるように俯く姿を頭のてっぺんから爪先まで見回した。
「よく似合っているよ」
「……堪忍して」
「俺に合わせて和装にしてくれたのか。普段の洋装も腰布が金魚の尾鰭のようで愛らしかったが……こちらも素敵だな。君は赤が良く似合う」
「堪忍してぇ……」
男の真っ直ぐな言葉に照れたらしく、来客である青年は袖を顔の前へ持っていく。その反応も愛らしいと言うように男は一つ笑い、顔隠す青年の手をとった。
「さ、行こうか」
片方だけ覗いた瞳を見つめ、男は剥がしとった手を握る。青年はまだ自由な片方を口元へ添え、コクリと頷いた。男はその返事をいたく気に入った様子で笑みを深くすると、マスターにひらりと手を振ってからドアノブを握った。
ちりぃん。ベルが鳴り、ドアが閉まる。
「……全く」
一人店に残ったマスターはカウンターに頬杖をつき、そっと吐息を漏らした。
「さて、どこへ行こうか」
喫茶店を出て数歩、唐突にそう言いだした男に、織田は思わず肩を落とした。
「なんや、計画があったんとちゃいますの?」
「ああ。本当は君に似合う着物を探そうと思っていたんだ」
織田はぎょっと目を見張った。この男はいったい何を言い出すのだろう。着物を選んで良かったと、織田は心から思った。
「もう一着あっても良いな」
「せ、先生、ワシこれ気に入っとりますの! 着物は間に合っとりますさかい」
顎を指で撫でる男に慌ててそう言えば、彼はきょとりと織田を見返した。それから、ニヤと笑う。
「そう言われると、それよりも一等気に入ったと言わせたくなる」
織田は絶句した。すると男はカラカラと笑い、冗談だと言った。
「君を困らせるのは本意ではないんだ、安心をし」
「さ、さいでっか」
「さあ、どこへ行こうかな」
男はまた前を向き、織田の掴んだままの手を引いた。背丈に見合わず、大股で歩く男である。そう思ってふと、織田は自身の歩幅に彼が合わせてくれるのだと気づいた。
少し視線を下ろさなければ、男の明るい髪色は見得ず、小さな旋毛も見つからない。薄暗い喫茶店の中でしか見ていなかった色彩は、太陽の下では想像より一層鮮やかだった。
(本当に杏子色やったんやな……)
「しかしこうして外に出てみると、」
織田の方を不意に見上げ、男は目を細める。じっと見つめていた織田は、ばっちり目を合わせてしまう。
「君の瞳は、想像より鮮やかな紅だな」
とくり、と何かが織田の胸を叩いた。むず、と口元が痒くなり、織田は手でそこを覆う。少し視線を逸らして口を開くと、男は続きを促すように小首を傾いだ。
「……ワシも、同じこと考えてましたわ」
男は目を丸くし、それからすぐに声を立てて笑った。
「それは嬉しいな」
子どものように無邪気な笑顔だった。重ねた年の差をまざまざと見せつける振る舞いをするかと思えば、時折男は少年のように笑う。
「……先生、ワシな」
織田は握られた手に少し力を込めて、男へ肩を寄せた。男はまた少し驚いたようだったが、身を引くことも払うこともせず、織田の言葉を待ってくれた。
「先生と、猫が見たい」
「……それでいいのかい?」
「いつも猫の話をしたのは先生でっせ。ワシ、生殺しだったんに」
「それはすまなかった。てっきり、君は獣が苦手なのだと思っていたが」
「気管支は弱い方やけど、少しの毛くらいは平気や」
成程と男は小さく呟いた。おそらく、マスターが言った織田の特等席の付近は禁煙席だという言葉をずっと気にしていたのだろう。着物に猫の毛がついていたことは一度もないし、始の一度以来、男が煙管や煙草を取り出したことはなかった。
「よし。ではとっておきの穴場へ案内しよう」
男はこちらだと手を引く。織田は頬を緩めて、袖をぱたりと揺らした。

「安吾」
名を呼ばれ、安吾は面を上げる。公園のベンチで、新聞を読んでいたのである。よれた新聞を下げれば、向いに立っていた深緑の軍帽がよく見得た。
「あんたか」
軍帽は目深にかぶったそれを上げず、寧ろさらに下げるように指を添えた。チラリと辺りを見回し、寂れたこの公園に二人と烏しかいないことを確認すると、安吾は新聞を閉じた。
「珍しいな、こんな風に声をかけてくるなんざ」
安吾の軽口を無視し、軍帽はベージュの封筒を投げる。新聞の上に落ちたそれを摘まみ、安吾は眉を顰めた。封蝋も落とされていない。開いて中を見て、ますます眉間の皺が深くなった。
「……なんだよこれ――三好」
軍帽は少し顔を上げ、下に隠していた瞳を安吾へ向けた。
「あの人が最近仲良くしている相手っす」
「……また太宰が怒りそうだ」
「さもありなん。俺としても、火の粉がかかるのは御免っすよ」
「は? なんであんたまで火傷するんだよ」
「……白樺と、密約を結んだんす」
安吾は目を見張る。しかし三好はクルリと背を向け、これ以上語ることはないと態度で示した。安吾は封筒を懐へしまい、ベンチから腰を上げた。
「ま、いつも心配かけて悪いな」
「全く。三田の駄烏は好き勝手に突きすぎっす」
「それが俺らの性質なんで」
ひらりと手を振り、安吾は三好を追い越す。三好は足を止め、一番気まぐれな青烏の背を睨むように見つめた。
「……それで射ち落されたら、こっちの夢見が悪いっす」
手入れする者もおらず、すっかり枯れた女神の噴水。彼女が天へ向けて伸ばした手に止まった烏が、一つ鳴いた。
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