この街のシンボルは、中心に聳え立つ図書館だ。雲間を突き抜けるように天へ伸びる円柱のそれは、赤茶色と生成色の煉瓦が交互に積み重なることでできている。塔の中はひたすら螺旋階段が続き、その壁は一面本で埋め尽くされていると聞く。いつかあの図書館へ入って、蔵書をすべて読みつくしてしまいたい――それは読書家たちの夢であった。
ここにいる青年も、読みつくすほどでなくても一度でいいから図書館へ行って蔵書に触れたいと夢見る一人である。名を、織田作之助。白い肌と癖毛をまとめたチョコレイト色の三つ編みが特徴的だ。革ジャンを羽織り、赤い布を腰に巻いた姿は、凡そ真面目な学生とは見得ない。その通りであったので、織田に弁解する心算はない。
そう、織田は一端の学生である。しかし講義は休みがちで、単位はほぼレポートとテストで賄っている。
今日も今日とて、レポートをまとめるために資料の本とノートを抱え、織田は行きつけの喫茶店の扉を叩いた。
「おや、いらっしゃい」
金髪をさらりと耳にかけ、マスターが出迎える。いつもの席だね、という声に頷き、織田は特等席、壁際のソファ席へと向かった。
(おやまあ)
薄暗い店内は、机の真上にポツポツと電球がぶら下がっているだけ。足元や手元が見える程度には明るいから困ることはなく、落ち着いた雰囲気を演出している。そんな薄暗い中、織田の特等席の隣に、先客の姿を見つけた。
薄暗いからはっきりとした色彩は分からないが、セピアか橙系統の髪と瞳。幼い顔立ちで、背丈も織田より低いだろう。それだけならば織田より年下の少年と思ってしまう。しかし織田は果たしてそうだろうかと迷った。隣人の服装が着流しの肩に羽織りをのせた大人びたものであっただけでなく、机に紫煙が昇る煙管が置かれていたからだ。
織田が特等席についてそっと横目で様子を伺うと、隣人は熱心に文庫本を読む傍ら、ときたま煙管を持ち上げて口へと運んでいる。すぅ、と少し吸って、煙管から口を話して紫煙を吐く。紫煙からだろうか、杏子のような匂いがした。
その一連の動きがさまになっていて、織田は思わずほぅと吐息を溢してしまったほどだ。
「おや、ちょいと、」
織田へ運ぶ商品を載せた盆を持ったマスターが、隣人に目を止めた。隣人は文庫本から面をあげ、マスターを見やる。上向きになった瞳に照明の光が映り込んで、星のようだ。
「ここは禁煙だよ」
「そうだったのかい」
それは知らなかった、と隣人は懐を探ると携帯灰皿を取り出して、そこに灰を落とした。それから煙管をケエスにしまい、携帯灰皿と一緒に懐へ戻す。
「しかし今どき禁煙の店とはね」
「店ではなく、そこが禁煙席なんだよ」
マスターは小さく織田へ視線をやる。織田は慌てて視線を手元へ落とし、小さく肩を竦めた。
「ごゆっくり」
織田の前へ香高いブレンド珈琲を置き、マスターはカウンターへ戻っていく。いつも注文するブレンドの香りを楽しみながら、織田はノートと本を開いた。
「……」
「……」
見られている。これは確信だ。初めて見た隣人に、凝視されている。筆を動かす手を止め、チラリと三つ編み越しに隣を見やる。すると予想通り、頬杖をついた隣人が真っ直ぐこちらを見つめていた。こっそり、などではない。堂々と見ている、見つめられている。
「ど、どうも」
盗み見たつもりだったがまん丸の目とかち合った気がして、織田はニィと笑って声をかけた。隣人は体勢をそのまま、ニッコリと、それは楽しそうに微笑む。織田の笑みは今にも引きつりそうであったし、事実額から冷や汗がこぼれてしまった。初対面相手でもある程度仲良くなれる自信はある織田だが、この年齢不詳の隣人の視線はどうも居心地悪い。
「お兄さん、初めて見るお顔ですなぁ」
「おや、そうかい。そうだね、実は通い始めてまだ二三日なんだ」
「やっぱり。ワシはここに通って一年になりますさかい」
「常連さんか」
そこでやっと頬杖を外し、隣人は両袖に向かいの腕を差し込むと、柔らかなソファに身を沈めた。
「良い店だね。俺も、すっかり気に入ったよ」
「でしょう。珈琲は勿論、ケエキやパスタも絶品ですわ」
先ほどの居心地悪さはいつの間にかなくなっていた。織田が思わず拍子抜けするほどだ。やはり隣人は織田よりも年上のようで、言葉遣いや所作に年配の余裕が伺えた。織田はすっかりノートを閉じ、隣人との会話に熱中してしまった。
「へぇ、君は学生なのかい」
「ケケケ、立派な苦学生ですわ」
隣人の職業は、と織田が聞こうとしたところ、店内にりりりぃん、という音が響いた。電話だ。マスターがとって二三話す。彼はカウンターから出て、隣人の方に声をかけた。
「お月さまからお電話だよ」
「そうかい」
礼を言って、隣人は電話のところまで行く。彼も話していたのは一二分ほどで、長くはない。通話を終えた隣人は、一度織田の近くまで戻ってきて、名残惜し気に眉を下げた。
「もう行かなければならなくなった。ちょうど楽しくなっていたところなのに……残念だ」
「お仕事ならしょうがありませんな」
盛り上がっていただけに、名残惜しいのは織田も同じだ。
「けどワシは常連やし、お兄さんもそうなんですやろ? また会えますわね」
「そうか……そうだね」
隣人はふわりと微笑み、頷いた。
「猫さん、お名前は教えてもらえるかい?」
「猫?」
「石榴の瞳と三つ編みの猫毛が可愛らしいものでね」
栄養不足で枝毛だらけのぼさぼさ頭を褒められたのは初めてだ。三つ編みの先を弄り、織田は気恥ずかしさに視線を逸らした。
「なら猫のままでええですわ。……そちらさんはなんてお呼びすればええです? お月さんのお相手だから、太陽さん?」
「はは、それはいいね。……ふむ、しかしその法則なら、太陽ではなく星かな」
「お星さん?」
コトリと首を傾いで織田が復唱すると、星と名のった隣人は満足そうに眼を細めた。それから手を伸ばし、するりと肩にかけていた三つ編みを掬う。骨がごつごつとした手は、確かに織田より年上の、男の手であった。
「また、ね。石榴色の子猫ちゃん」
ふわり、とまた杏子の香り。隣人が立ち去ったことを告げる鈴の音がして、織田はようやっと我に返った。マスターが呆けていた織田の机を覗き、お代わりを淹れようかと苦笑する。半分以上残った珈琲は、すっかり冷めきっていた。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -