杏子と猫と
胸から喉へとせり上がる感覚。耐えきれずコホリと溢せば、あとからあとからそれは生まれて、止まらなくなりそうだった。耗弱と名のつくほどの疲れはなく、他の文豪たち方が重傷で、彼らに補修室を譲って織田はそっと身を狭い廊下に滑り込ませた。
丁度裏庭に面した寮の廊下は、辺りの部屋がまだ空室のこともあって人気がない。最近織田が見つけた、とっておきの休息場だ。今日とて、人の目はない。これ幸いと細く笑んで、織田は窓の下の壁に背をつける形で座りこんだ。
「こほ」
嗚呼、また落ちた。受け止めた手が赤くないことが不幸中の幸いか。ただ因果としてそれらを持って来てしまった織田の身体は、時たまこうして悲鳴を上げる。多くは侵略者との戦いで疲弊したときにこみ上げることが多く、浸蝕した文学書に触れることが要因ではないかと司書たちは考察していた。
「ゴホゴホ」
先ほどよりも強い発作。織田は口元を手で覆い、背中を丸めて蹲った。もう片方を懐へ入れて、そういえば薬は全て室生と森に没収されていたと思いだす。代わりに持たされたのは喉飴だったが、この状態ではすぐに吐き出してしまうだろう。水が欲しい。
「オダサク」
びくり、と肩が震えた。見つかっただろうか。辺りへ視線をやるが、変わらず人の気配はない。いよいよ幻聴かと思い始めた頃、もう一度小さな声で「オダサク」と呼ばれた。ぎこちない呼び方と、低い声。この声は。
ハッとして顔を上げる。肩越しに振り返ると、窓の向こうに黒い影が見得た。影は裏庭で何かを探すように動き、やがて立ちどまった。
「……ここにはいないか」
そんな呟きが聴こえる。小林はどうやら織田を探しているようだ。非番だというのに、申し訳ないことをした。しかし咳の止まらないこの状態で姿を見せるわけにもいかない。幸い、小林のいる庭と織田のいる室内は壁と窓に隔てられているし、窓の傍には樹が伸びており、よくよく首を伸ばさなければ室内は見得ないようになっている。あとは大きな音を立てず、小林が去るのを待てばいい。
「……っ」
一際大きい波がきて、織田は口を覆ってまた蹲った。喉の奥に何かがありそうなのに、中々吐き出せない。頭へ熱が溜り、息苦しさが増した。
「……もう少し気にかければよかったな」
音を漏らさぬようにしていたせいだろうか、辺りが静かだったせいだろうか。小林のそんな言葉は、するりと耳に入りこんできた。
(嗚呼、嗚呼!)
そんなことを言わせてしまうなんて!
織田はもう一度顔を上げ、身体の向きを変えるとそっと壁に指を伸ばした。白塗りの壁は冷たく、先ほどまで火照っていた熱を覚ましてくれるよう。
「多喜二、さん……」
声は存外、掠れていた。更に口を開いた織田は、しかし声を上げる前に大きく咳き込んだ。先ほどよりも激しく止まらない咳。織田の身体は床へと倒れこむ。えずきながらも何とか片腕をつき、少し身体を持ち上げる。
「ほん、ま、ええかげんにして……」
ぴたり、と時が止まった感覚がした。床についた手の近く、白と黒の毛の短い絨毯が、赤くなっている――。
「!」
バッと身を引くと、背に壁がぶつかった。ゼーゼーという呼吸音が五月蠅い。まさかまさか、とひたすら焦りばかりが浮かぶ。確かに風邪は引きやすく、咳の発作も起こりやすいから無茶をするなと言われていた。だが司書たちは一度も、あの病まで引き継いでいるとは言っていなかった筈だ。
「……あ、なんや、ワシの……」
倒れこんだとき腰から外れた布が絨毯に広がり、そう見得てしまっただけらしい。
勘違いと分かると安堵が湧き上がり、ふっと力が抜けた。咳で体力を消耗したらしい。くらり、と身体が揺れた。床は少々固いが絨毯張りだ、痛みはない。ただ毛先はチクチクとしていて、頬に跡が残りそうだ。しかしそれすら些末なことと思えるほど、身体は弛緩し、目蓋も筋力を失っていた。そっと目を閉じ、意識が沈んでいくのを好きにさせる。
微かに、杏子の香りがした気がした。

目を開いて一番に飛び込んできた天井に、またやってしまったと察する。ぐしゃりと頭を掻きむしると、いつもしっかり結んでいる三つ編みが解かれていた。ぼさぼさと跳ねたそれを一房摘まみ、鼻先で揺らす。すると傍らからヒョイと顔が覗いて「目が覚めたかい」と柔らかい声が降ってきた。
「犀星、先生……」
室生はそっと椅子に腰を下ろし、額にかかる織田の前髪を掬う。
「全く、昨日潜書三昧で疲労が溜っていたというのに、徹夜したようじゃないか。そんな身体でまた潜書するなんて……相変わらずだね、君は」
「堪忍や……」
昨夜は筆がのってしまい、ついつい眠ることを忘れてしまったのだ。懐に薬はなかったが、支給されたインスタントコーヒーが役に立った。
室生は子どもの我儘を見守る親のような眼差しで織田を見つめ、そっと息を吐く。
「それは小林くんにも言うんだよ」
「多喜二さん?」
「君を捜すのを手伝ってくれたんだ。とても心配した様子だった」
その話を聞いて、織田は意識を失う前に裏庭で彼を見かけたことを思いだした。起きた今となっては半分夢だと思っていた光景だ。
「ワシを見つけてくれたのは、多喜二さんですか?」
「いや、俺だよ」
きっぱりとした様子で言いきった室生を、織田は思わずパチクリとした瞳で見つめた。杏子色の目を細め、室生はニッコリと笑う。ひえ、と織田は肩を竦め、掛布団を引き上げた。この笑顔は、相当お怒りだ。
一度、酒を飲んで暴れた中原が萩原を酷く泣かせた際、こんな笑顔で椅子を持ち上げた姿を見たことがある。背後に負う気迫が凄まじく、さすがの中原も一気に酔いが冷めたと顔を青くしていた。
「成程、猫の隠れ場所がまた一つ分かったよ」
「堪忍してください……」
織田はがっくり項垂れるしかない。しゅんとする織田を見下ろし、室生は小さく吐息を溢すと、寝癖の残る髪をくしゃりと撫でた。
「やめなさい、と言ってもまたやるのだろうね、君は。しかしこちらも心配しているということは、覚えていなさい」
「……はい」
「宮沢くんや山本さん……特に小林くんなんか、初めて倒れた君を見たのだろう? とても驚いていたよ」
「……そうですね、悪いこと、してもうた」
「ああ、悪い子だ」
する、と室生の手が織田の髪を滑り、微かに青い頬を包む。猫を撫でるような手つきがくすぐったくなり、織田は思わず顔を上げた。
「そうと分かって心配させるのは悪いことだが、心配されることは悪ではないよ……俺たちに心配させておくれ」
「……はい」
すんません、と織田が室生の手に自身の手を重ねる。ばたん、と補修室の扉が音を立てたのは、そのときであった。
「オダサクさん、起きた?」
シャッ、とベッドを区切っていたカーテンが開き、宮沢と山本が顔を出す。織田と室生の様子を見て、宮沢は口元へ手をやり、山本は「おや」と言葉を漏らした。
「お邪魔だったかな?」
「ちぃっとばかしね」
「そ、そんなことあらへんです!」
冗談めかして返答する室生の手を引き剥がし、織田は慌てて上体を起こした。宮沢と山本はクスクスと笑って、元気があるようで良かったと顔を見合わせた。織田はまだ赤味の残る頬を弛ませ、解けた髪を指に絡めた。
「お二人にも、ご迷惑おかけしたようで」
「織田くん」
室生が小さく口を動かし、「違うだろう」と呟く。ちらり、宮沢たちを見やると、二人は織田の言葉を待ってニコニコ笑っている。
「……ご心配、おかけしました」
「ううん。大丈夫だよ」
「筆頭殿が御無事で何よりだよ」
山本は顎へ扇子を添え、カラカラと笑った。織田は居心地悪くて、肩を竦める。
「少しでも悪気があるようなら、今度非番のときでもカフェへ付き合っておくれ」
「へ……?」
「さっき、山本さんと相談したんだ。街の喫茶店のケーキセット、美味しいって南吉が言っていたの。僕と山本さんの分、オダサクさんが奢ってね」
可愛らしい顔でニッコリと微笑み、宮沢は手を合わせる。それくらいで済むのなら、と織田は頷いた。
「絶対だよ? 次、非番の日に仕事を入れたらダメだからね」
うえ、と思わず織田は口ごもる。すると織田の手を持ち上げた山本が、小指を勝手に結んでしまった。
「はい。これで針千本」
強く結ばれた指は、中々外れそうにない。宮沢も反対の手を取って、ぎゅうと指を絡める。助けを求めて室生を見やるが、諦めなさいと言外に告げられ織田は肩を落とした。
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