小林多喜二と帝國図書館
この図書館は、少し変わっているらしい。
元々、ただの図書館ではない。とある目的のために設立された、帝國図書館である。
平和で近代風情が漂うこの時代、人々に個性と意思を与えるのは、多様な思想を含んだ文学賞だ。しかし突如、その文学書が黒く染まってしまう事態が発生した。文字や頁がすべて黒に溶けると、文学書の内容や、存在すら人々の記憶から消えてしまう――それは、負の感情から生まれた『本の中の世界を破壊する侵略者』による災禍であった。
時の政府は災禍を食い止めるため、特殊能力者『錬金術師(アルケミスト)』を『特務司書』として育成、帝國図書館を設立した。『特務司書』たちは文学書を守るため、文学に精通した過去の文豪たちを転生させることで、日夜侵略者へ立ち向かっている。
小林多喜二もまた、そういった事情と錬金術師の力によって二度目の生を受け、災禍と戦う使命を負った文豪の一人であった。

さて、そんな帝國図書館だが、国内に幾つか存在する。そして帝國図書館ごとに特務司書が一人と、数多の文豪たちが住み込みで働いていた。
しかし現在小林が所属するこの帝國図書館には、特務司書と呼ばれる立場の人間が二人いた――正確には片方が特務司書で、片方が錬金術師であるらしい――。
この図書館しか知らない小林からすればすんともこないことであったが、実際特務司書と錬金術師と接するうちに、確かに変わっているかもしれないと思い始めてきた。
「お疲れさまです、小林先生」
大きな池の臨む中庭のベンチに腰掛けて陽光に微睡んでいた小林は、ハッと我に返った。少し視線を動かすと、前下がりの髪を揺らした子どもと目が合う。
毛先にかけて色の濃くなる灰の髪と海よりも深い群青の瞳を持つこの子どもが、件の特務司書か錬金術師――どちらであるかは誰も知らない――の片方である。
「ああ」
返事をしながら、小林はチラリと辺りに視線をやった。いつもなら子どもにぴったりくっついているもう片方の姿が見当たらない。休憩中であろうか。そんなことを小林が考えるうち、子どもはごそごそと自身の懐を探っている。何をしているのだろうと小首を傾ぐと、「はい」と何かが乗った手の平を差し出された。
透明な包み紙に巻かれた、饅頭であった。
「お土産のお裾分けです。ここのお店、美味しいんですよ」
「……ありがとう」
小林がおずおずとそれを受け取ると、子どもはまん丸の目を細めて笑った。
この年頃によく見られる中性的な顔は、男女の別を迷わせる。文豪たちも子細は分からないらしく、ある者は女児だと言い、ある者は男児だろうと判じている。小林とてよくわからなかったが、男児ではなかろうかと思っている。子どもの一人称が『僕』であるからだ。
子どもは更に二三個の饅頭を小林の手の平に積み、他の文豪たちと食べるよう勧めてきた。
「姫さーん」
少し離れたところから、そんな声。子どもと共に小林が顔を上げると、大きく揺れる手と三つ編みが視界に入った。
「お、小林先生もいらっしゃいましたか。お二人で何してらしたんで?」
ニコニコと笑いながらやってきたのは、この図書館では古株の織田作之助だった。
子どもが織田にも饅頭を差し出して、土産のお裾分けをしている最中だと言った。織田は「ほお」と声を漏らし、小林の手に積まれた饅頭を見てニヤリと笑った。
「なんや、えろうもろうとりますな、小林先生」
「これは……」
咄嗟に言葉が出てこなくて、小林は一つ頷く。織田は本当に軽く揶揄しただけのようで、またカラカラ笑って、子どもに自分にももう一つ二つ饅頭をくれるよう頼んだ。
「ええ、構いませんよ。たくさんありますので」
「おおきに。犀星先生たちとおやつにでも食べますわ」
両手に乗ったそれらを溢さないよう持ち上げ、織田は口元と目を細める。
よく笑う男だ。小林から見上げた先にあるその顔は、背後に日光を負っているためもあってか、網膜を焼くように眩しい。
「どうかされましたか?」
そう訊ねたのは、子どもだった。子どもの目線は今、小林のそれに近かったから、フードの下で細めた目を見つけやすかったのだ。子どもの言葉を聞いた織田も、小首を傾げて顔を覗き込もうとする。小林は少し焦って、フードの裾を摘まんだ。
「少し……日が眩しくて」
嗚呼と納得して、子どもは空を見上げる。
「これから更に暑くなるでしょう。日向ぼっこも良いですが、お二人ともそろそろ室内に戻っては」
「せやな。そうや、今から犀星先生たち誘って、おやつにしよかな。小林先生も如何です?」
「え……いいのか?」
「小林先生が良ければ」
「……直哉サンと武者さんも、良いだろうか」
手に積まれた饅頭へ視線を落として、小林は呟いた。
「ええですよ」
さあ行きましょう、と織田は小林に微笑みかける。不安定な饅頭の塔を崩さないよう胸元へ引き寄せ、小林は立ち上がった。小林がうまく饅頭を落とさず立ち上がったことを確認すると、織田はもう一度子どもへ礼を告げる。
「あ、そや、姫さん」
歩き出そうとしたところで織田は一度立ち止まり、子どもの傍で腰を折って小さな耳へ口を近づけた。
「助手さんが探してはりましたで。いつもより怖〜い顔で」
小声だったが、近くにいた小林にはしっかりと聴こえた。子どもは、ひゃあと口元へ手を当てる。
「ありがとうございます、織田先生。急いで戻ります」
恥ずかしそうに頬を赤らめた子どもは、二人へ丁寧に頭を下げるとパタパタと足音を立てながら室内へ戻っていった。その背中を見送り、織田はさてと腰を伸ばした。
「ほな、行きましょか、小林先生」
「うん」
まずは畑仕事をしている室生に声をかけようということになり、小林は織田と共に裏庭を目指す。織田の半歩後ろを歩きながら、小林は動物の尾のように揺れる三つ編みを目で追った。
「……織田は、仲が良いんだな。あの子と」
「姫さんのことで? まあ、赤の他人よりは親しいと思いますけど」
それは小林とて同じだろう。織田の言葉に、小林はどうだろうかと言葉を濁した。
『姫』とは、織田他文豪たちが使う子どもの呼称である。上の名にその文字があるからと、織田が初めに呼び始めたらしい。下の名は子どもの瞳の色と同じだったと、小林は記憶している。
「ええですやん、小林先生も気軽に姫さんって呼べば」
お前は深く考えすぎなのだ――いつか師にそう笑い飛ばされた記憶が唐突に甦った。思わず、小林は顔を顰めてしまう。それはフードの下であったし、織田は相変わらず前を向いたまま小林の半歩前を歩いていたから、彼に気づかれることはなかった。
「……努力する」
「あっははー、小林先生は真面目やなー」
庭隅の草むらを掻きわけ、裏庭へ通じる道を踏む。数日前は雑草ばかりの道であったが、最近は室生の手が入っているのか、小林も見たことのある花が咲いていた。ふと、ブツブツと織田が何か呟いていることに気づく。よくよく耳をすませば、それは花の名であるようだった。小林の視線を感じ取ったのか、織田は少し照れ臭そうに笑って頬を掻いた。
「犀星先生の受け売りですわ。結構、楽しくて」
読み損ねていた文学書の傍ら、図鑑も読むようになったと織田はぼやいた。それから日に当たりすぎたのか赤らんだ頬をそっと指で擦り、織田は足元の花へ目を落とす。小林も、ブーツの爪先で揺れる黄色い花を見おろした。
「……」
「小林先生?」
立ち止まった小林を訝しがって、織田も足を止めて振り返った。
「好きなんだな、織田」
「へ!?」
「花」
一瞬声を裏返した織田は、続いた小林の言葉に目を丸くする。それからホッと吐息を溢し、そちらのことかと頭を掻いた。
「好き、というか、少し興味あるだけですわ」
それと、と織田はそこで言葉を切って、片方の手を腰へ当てた。
「オダサクでええですよ。親しい人は、そう呼びますし」
「俺がそう呼んでも良いのか?」
「ええですやろ、小林先生なら」
少々首を傾げてしまうが、小林はそれならばと口を開いた。
「……俺も多喜二と呼んでくれ。そう年も変わらないだろう」
そもそも、小林の性質が『先生』と呼ばれることに慣れない。そう言うと、織田は何とも言えないように顔を歪めた。
「……そりゃ今はそうですけど……」
「? どうした」
「いいえ! ではお言葉に甘えて……多喜二さん」
はにかんで、織田はその名を口に乗せる。ふわりと風が吹いて、そんな彼の三つ編みを揺らした。むず、と小林の口元が弛んだ。
「ほら、早く行きまっせ、多喜二さん」
「……ああ、オダサク」
とん、と織田の傍らまで二足で並び、小林はずれかけたフードを直す。織田は照れたように笑った。小さな花が咲く小道を、二人は並んで歩き始める。
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