第1話 chapter1
ぴぴぴぴぴ。
目覚めの時刻を告げる無機質な音が、部屋に響く。
カーテンの隙間からは、白く輝く陽光が射しこんでいる。机上には開いたままの教科書とノート。隣にはシャープペンシルと一緒に、あの夏の思い出が転がっていた。
部屋の主はベッドから這いだす気配すら見せず、目覚まし時計の音は鳴り続けたままだ。
やがて扉が開き、部屋の主の妹が中を覗きこんだ。
「もう、お兄ちゃん!」
時計の音はリビングまで聴こえていた。一向に止む気配のない音に嫌気がさした妹が、叩き起こしに来たのだ。
彼女は膨らんだままのベッドを見て、溜息を吐いた。それからそうっとベッドへ近づき、掛布団の端を掴むと、
「起きて、お兄ちゃん!」
一気に引き抜いた。
突然掛布団をはぎ取られた兄は眩しさに顔を顰め、もぞもぞと枕へ顔を埋める。寝汚い様子に呆れ、妹は溜息を吐いた。
「もう、遅刻しても知らないよ!」
「ん……」
漸く兄は身体を起し、欠伸と共に伸びをする。妹は呆れながらリビングへ戻っていった。彼女の呆れを意に介さず、まだ鳴りっぱなしだった目覚まし時計を止め、兄はベッドから立ちあがった。
カーテンを開け、身支度を整えてリビングへ向かう。彼が席につくと、既に朝食を終えた妹が立ちあがった。
「お先に、お兄ちゃん」
「今日は早いな」
「そういうお兄ちゃんは遅いね。朝練は?」
「休み」
「私は日直なの」
小さく笑って、妹は食器を片付ける。兄は用意されていたトーストを齧る。つけっぱなしになっているテレビ画面では、女性アナウンサーがにこやかな笑顔で本日の天気を告げていた。
「太一、遅刻するわよ」
「はーい」
トーストの残りをお茶と一緒に流しこみ、兄は席から立ちあがった。
――八神太一、十七歳。最後の戦いから二年、あの夏から六年もの月日が経っていた。

◇◆◇

月島総合高校。文武両道を校訓に掲げ、勉学だけでなく部活動にも力を入れている高校だ。三年ほど前建て替えられたばかりで壁が白く眩しい校舎は、Lの形をしている。内角側には緑が色づく中庭が生徒たちの憩いの場となっており、外角側はサッカー部や野球部が交代で使用するグラウンドとテニス部用のコートが併設されている。
本日の朝、グラウンドの使用権は夏の全国大会へ向けて意気込む野球部にあり、太一の所属するサッカー部は自主練という名のお休みだった。
「成程」
予鈴まであと数分を示す時計の針を一瞥し、ヤマトは納得したように頷いた。教室へ向かう道すがら彼に捕まり、のんびりと登校した理由を訊ねられたのだ。
太一は鞄を持った手を肩に乗せ、ヤマトに見つからないようこっそり息を吐いた。
「そうだ、太一」
窓の方を見やっていた太一の視界に、ヒラリとした紙が突きつけられる。足を止めて何だと視線で問うと、ヤマトは小さな紙きれを更に突きつけてきた。
「チケット。今度ライブハウスでやるから」
「あー……ウルフルズ?」
「TEEN-AGE WOLVESだ。しかもあれは一時的に解散中」
「ふーん……」
取敢えず受け取り、黒いチケットに目を落とす。白いペンキで『KNIFE OF DAY』と殴り書き風にバンド名が記載されていた。思わず、口元が引き攣る。
「二枚あるから、ヒカリちゃんか光子郎でも誘って」
「悪い、俺この日試合なんだ」
二枚ともヤマトの手へ押し返すと、彼は肩を落とした。
太一とヤマトは並んで、再び歩き出す。
「そっか……丈は受験勉強だし、ミミちゃんはアメリカ。結局タケルくらいか……」
「タケルが来てくれるなら良いだろ。俺だって観客ほしいんだから」
「仕方ないか」
「空でも誘えよ」
「私がどうかした?」
太一が開こうとした教室の扉がカラリと開き、ひょっこりと噂したばかりの女子生徒が顔を覗かせた。
ビクリと一瞬肩を飛び上がらせた太一は、「おはよう」と手を振る。太一の姿を認め、空は「あ」と眉尻を少し持ち上げた。
「太一、西島先生が探していたわよ」
「お前、何したんだ」
ヤマトまでも空と同じようにジト目で太一を見やる。太一は顔を顰めた。
「いきなり酷いな」
心当たりがないわけではない。が、それを二人に説明するのは、憚られる。
空は溜息を吐いて、腕を組んだ。
「とにかく、休み時間に国語科資料室に顔出すようにって」
「はいはい」
「で、何の話をしていたの?」
他の生徒の邪魔にならないよう一度廊下に出て、空は扉に凭れかかった。
「今度の日曜日、ヤマトのライブに行かないかって」
ヤマトが後ろ手に隠そうとしたチケットを素早く取り上げ、太一はニヤリとそれを振って見せる。カッと頬を赤らめるヤマトとは対照的に、空はキョトンと目を瞬かせた。
「私その日、太一の試合を見に行かないかって、ヒカリちゃんに誘われているんだけど」
太一の笑顔が引き攣り、ヤマトはピシリと音がつきそうなほど硬直する。「ごめんなさいね」と小さく微笑む空の言葉と共に、始業のチャイムが鳴り響いた。

◇◆◇

「それはそれは……」
ヒクリ、と光子郎の口端が引き攣る。やがて耐えきれなくなったのか、光子郎は自分の肩に口元を押し付けた。
「俺は笑えなかったんだぞ……」
ゲンナリと溜息を吐いて、太一は麦茶の入った水筒を煽った。
中庭の隅、特別教室棟に近い塀付近には、春に花を咲かせる木が植えられている。緑一色になったこの季節でも、昼頃は校舎と共に大きな影を中庭へ落とす。
太一たちが座りこむのは校舎や中庭入口からは死角になる場所で、光子郎曰く電波も良いので最高の隠れ家なのだそうだ。
漸く落ち着いた光子郎は、膝に乗せた愛用のノートパソコンが落ちないように支え、コホンと咳払い。太一はジロリとした視線を向けながら、水筒の蓋を閉めた。
「すみません、僕もその日はちょっと用事が……」
「えー」
「すみませんって。……その日、両親の結婚記念日なんです」
少し恥ずかしそうに笑って、光子郎は頬を掻く。それは仕方ないと、太一は口を噤んだ。少し拗ね気味の太一を見て、光子郎は困ったように笑う。
「まとまった貯金もできたので、食事を御馳走したいんです。……それが、僕にできる親孝行の一つかなって」
「……そうだな」
泉家の家庭事情を知っている太一は、小さく笑って光子郎の頭を掻きまわした。「止めてください」と光子郎が冗談めかして彼の腕を叩くと、太一はスッと腕を引いた。それから後ろ手をついて空を仰ぐ。
「あーあ、結局、応援に来てくれるのはヒカリと空だけかー」
「大輔くんたちには連絡したんですか?」
彼ならば一つ返事で駆けつけてくるだろう。太一はガシガシと頭を掻いた。
「それが連絡つかなくてさ…ディーターミナルも携帯も反応なし。ヒカリに聞いたら、一週間前から風邪で学校も休んでいるらしいんだ」
「あの大輔くんが……台風でも近づいていましたかね」
京は両親の仕事の都合で一時的に京都へ。伊織は親戚の不幸があったからと九州に。二人とも大輔と同じく、学校を長期欠席しているのだ。
「あ、いっけね」
「どうかしました?」
「休み時間、呼び出されていたんだっけ」
慌ただしく駆けて行く太一の背中を見送り、相変わらずだなと光子郎は独り言ちた。
 
◇◆◇

こぽこぽぽ――湯気たつ翡翠色の液体が、湯呑を満たす。それを持ち上げて少し啜り、ホッと息を吐く。背にしていた扉がカラリと開く音がした。漸く待ち人が訪れたかと内心吐息を漏らしつつ、肩越しに振り返る。
「よお、八神」
「……ども」
月島総合高校非常勤講師の西島大吾が笑いかけると、八神太一は仏頂面のまま入口を潜り部屋を見渡した。
国語科準備室と銘打たれた部屋は、他の準備室とは違い埃も少なく、教科資料は整然と並べられている。部屋の半分から窓へかけて、太一の膝ほど高さがある畳が置かれている。書道担当の西島が、ここで授業準備をするとき心を落ちつかせるためにと持ちこんだらしい。
若い非常勤講師だが結構やりたい放題に見得る振る舞いのため、教育委員会関係者の親族だとか、政治家の息子なのだとか、根も葉もない噂が流れている。
今も生徒の前で堂々とドーナッツを齧り、西島は畳に敷いた座布団へ座るよう太一へ促した。
「で、何の用ですか」
段差へ座る形で座布団に腰を下ろし、太一はチラリと西島を一瞥する。西島は机から太一の方へ身体を回転させた。
「分かっているだろ、進路希望調査票――担任の先生が困っていたぞ」
「……何で西島センセーが」
「一応、お前のクラスの副担任だからな」
机の上には食べかけのドーナッツと湯気たつ湯呑、そして授業の準備だろうか筆と墨汁、更に『夢』と書かれた和紙が並んでいた。
「……」
「お前なら、サッカーの推薦も狙えるぞ」
「んー」
以前なら、それも良いと思った。今でもサッカーは好きだし、推薦を狙えると聞いて心動かないわけでもない。
腑に落ちないと言った顔の太一を見て、西島は眉を下げて吐息を漏らす。
「何か、やりたいことはないのか? それこそ、サッカーだって良い」
「やりたいこと……」
太一は少し顔を上げ、ぼんやりと青い空を見つめた。
耳の奥で、忘れがたい声が甦る。嘗て、幼い自分があの空と同じ色の服を着て、あの太陽のように眩しい彼と駆け回った日々が、唐突に目の奥に浮かんだ。
「……友だちに、会いたいな」
「友だち? 石田や武之内じゃなくて?」
「ちょっと遠いところに、友だちがいるんだ……でも、暫く会っていなくて」
「海外か……だったら、国際系の大学とかか?」
少し的外れなことを呟きつつ、西島は顎を撫でる。何かを思案しているようだったが、やがて彼は諦めたようにヘラリと笑った。
「と言っても俺は進路指導専門じゃないからなあ。大学についてはさっぱり」
「……何で俺を呼び出したんだよ」
「提出の催促のため。……何だ、そんなに相談にのってほしいなら、今度調べておくよ」
もう退出しても良さそうだと見切りをつけ、太一は立ちあがった。
「八神」
扉を開けたところで太一は動きを止め、視線だけ後ろへやる。西島はヒラヒラと手を振った。
「あんまり難しく考えるなよ、やりたいことなんて、大学入ってから見つけても良いんだ」
「……はい」
小さく頷いて、太一は廊下へ出ると扉を閉めた。
パタンと閉じられた扉を見て、西島は手を下ろす。それから、チラリと机へ視線をやる。
和紙にのびのびと書いた『夢』の文字。その隣に、机の下へ隠していたノートパソコンを並べた。画面に映るのは、世界地図と何かを示すらしい数値のグラフ。とても、書道に関するものとは思えない。
「……あまりのんびりは、していられないかもな。八神」
西島の呟きは誰に聞かれることもなく、緑の湖面を揺らした。
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