ガイの受難な日々
「あら、遅かったですわね、ガイ」
そう静かに言って、彼女は口元へ運んでいたティーカップを置いた。ガイはゲッソリと肩を落とし、仕方なく彼女の向いへ腰を下ろした。彼女、ナタリアに呼び出されたのはアンティークな雰囲気の喫茶店。カウンターでは店長の男が豆を引いているらしく、ふわりと良い香りが漂っている。ガイは注文を取りに来たウエイトレスに珈琲を頼み、ナタリアに視線を戻した。
「急にどうしたんだ。君が学校をサボるなんて、珍しいじゃないか」
ナタリアは私立の女子校に通っている。俗にお嬢様学校と呼ばれるだけあって、規律やマナーには厳しい。この時間帯はまだ授業中の筈だ――まあ、あのナタリア嬢を面と向かって注意する勇気を持った教員も、中々いないだろうが――。それにしても授業を抜け出すなんて、ナタリアもルークたちの影響を受けてきたようだ。良いか悪いかは、別の話だ。
暫くして、ガイの注文した珈琲が運ばれてきた。ガイがそれを一口啜ったのを見てから、ナタリアはやっと口火を切った。
「……アッシュが帰って来ますでしょ、今日」
「ああ……そうだったな」
ガイが世話になっているファブレ家の嫡子アッシュ。ナタリアの婚約者だ。アッシュの双子の弟ルークと共に、ガイが子守役に務めている子どもたちだ。
「それで、私、アッシュへ渡したくて、その……ケーキを作りましたの」
もじもじと手を合わせ、ナタリアは恥ずかし気に目を伏せる。それはそれは、とガイは言葉を飲みこんだ。独創的な料理を作る彼女が、箱入り娘の彼女が尽力したのだろう。合わせた指には絆創膏が何枚も巻かれていた。
「で、完成したんだろう? その様子じゃ」
「勿論ですわ。……でも、受け取ってくださるかしら」
「アッシュは君にべた惚れだからなぁ。そういうのを、要らぬ心配って言うんだよ」
「……ガイ、渡すとき、立ちあってくださらない?」
それが本題か。予想はしていたが、ガイは苦笑を禁じ得なかった。こういう姿は普通の女子高生だ。ガイが頷くと、ナタリアは顔を輝かせた。
「ありがとうございます、ガイ!」
ナタリアが机に置かれていたガイの手を取ろうとして――ガイは大仰に身を引いて椅子から転げ落ちた。
「……ごめんなさい。忘れていましたわ」
持ち上げた手を胸元で組み、ナタリアは申し訳なさそうに眉根を下げた。

「……で、何でこんなことになるんだ」
力任せに縛られた手首が痛い。少し肩を揺らして痛みを緩和させながら、ガイは溜息を吐いた。傍らに座るナタリアは少々不服そうに、しかしその瞳の奥にしっかりとした興奮の光を宿して肩を竦める。
「帰路についた私たちを、あの方々が招待してくださったからでなくて?」
声音も心なしか弾んでいる。間違いなく、彼女はこの状況に興奮しているのだ。
喫茶店を出て少しして、ガイたちは黒いバンに行く手を阻まれた。すぐにナタリアを庇うためガイは前に出たが、塀とバンに挟まれた日中の道、派手に暴れまわるわけにも行かず、一先ず相手の目的を知るためにもと捕まったのだが。
(誘拐されたって分かっているのか……)
埃が薄ら積もった床や転がった廃材は、この場が放置されて長年経っていることを示している。敵の数は十数人――何れも二十代から三十代の男たちだ。見覚えのある顔はないが、向こうはガイたちを知っているのだろう。
野球帽の上からパーカーのフードをかぶり、顔を殆ど隠した男が一人、ガイの傍らにあった木材へ腰を下ろした。他の男たちよりも若く、十代といったところか。細身の足を組み、その青年はガイの方を見下ろした。ガイも冷静な目で彼を見上げる。
「さすが、落ちついているね。アビス・ファミリーの鬼子母神」
ガイはグッと顔を歪めた。「あらまぁ」とナタリアは呑気な声を上げる。
「……その呼び名は嫌いなんだよ」
「へえ」
青年は愉快だと言うように口元を歪めて笑った。彼はピンとコインを指で弾き、落下するそれを手の平で受け止める。コインの動きを目で追い、ガイは「目的は何だ」と訊ねた。
「アビス・ファミリーか」
「そうだね」
「私たちを攫ったということは、ルークやアッシュが狙いですわね」
「さてね」
青年はまたコインを弾き、受け止める。
「鬼子母神てさ、子どものために鬼となった女神だろ?」
青年は弾みをつけて立ちあがり、唐突にそんなことを言った。ナタリアは話が見得ず目を瞬かせ、ガイはまた顔を歪めた。
「大切な双子を守るアビス・ファミリーの守神――なんて、一部で噂されているよ、アンタ」
つまりその守神さえ抑えてしまえば、アビス・ファミリーの若頭である二人を制するなど容易い――彼らはそう考えているのだろう。その場を離れて行く青年の背を見つめ、ガイはそっと息を吐いた。
「……守神か鬼子母神か、はっきりしてほしいもんだ」
言及するべき点はそこだろうか、とナタリアは胸の内で呟く。しかし、とナタリアも吐息を溢した。
「『アビス・ファミリーの鬼子母神』の意味、取り違えていますのね」
可哀そうに、と男たちを見つめてナタリアは眉根を下げた。勘違いしてくれて結構だとガイは目を閉じる。
面白がってガイをそう呼び始めたのは、眼鏡を妖しく光らせる男だった。何度も止めてほしいと頼んだそれが、いつの間にか浸透しているのだから、ガイとしては面白くない。ナタリアたちはピッタリだと言うのが、また輪をかけて悪い。
「鬼子たちを鎮めるから、鬼子母神ですのに」
錆びた鉄扉が吹き飛ばされる。男たちは一斉に息を飲み、形を失った出入り口を見つめた。薄い霧のように漂う砂埃。その向こうで、ゆらりと何かの影が揺らめいた。「ひっ」と男の一人が情けない声を上げる。真っ赤な赤い髪が揺れ、ギラリとした視線が男たちを射抜いた。
「アビスの、若頭……」
男の一人が、震える声で呟く。長い赤髪も顔も、そっくり同じ双子。噂に聞いたアビス・ファミリーの若頭たちそのものだ。制服を着崩したルークが、苛立ったように唾を吐く。制服を規定通りに着込み、見た目は優等生然としたアッシュは、コキリと手首を鳴らした。
完全に頭へ血が昇っている様子の二人に、ガイは思わず顔を顰める。ナタリアはうっとりと目を細め、婚約者の姿を見つめている。
「ガイを、」
「ナタリアを、」
返してもらう――低く呟かれた言葉はリンクしながら、その空間に冷たく響いた。

「本当に大丈夫なのかよ、ガイ」
先ほどまでの狂犬ぶりはどこへやら、すっかり無邪気な仔犬のように髪を揺らし、ルークはガイの周りをクルクルと回る。赤く跡のついた手首を摩り、ガイは大丈夫だと彼の頭を撫でた。彼らの背後では、婚約者の胸に顔を埋めるナタリアと、彼女をしっかり抱きしめるアッシュの姿がある。血と埃の舞う背景に似合わぬ甘い雰囲気の二人はそのままにしておくことにして、ガイはそっとルークと共に廃屋を後にした。
「ご苦労さまです、ルーク、ガイ」
「ジェイド」
「師匠も!」
廃屋の出入り口で待っていたのは、眼鏡をかけた細身の男と、髭を蓄えた男。前者の方が年上だとは中々思うまい。ジェイドがニコリと微笑むと、ガイは思わず頬を引き攣らせた。
「アンタ、俺とナタリアを囮にしたな」
「え、どういうことだよ」
利用されたルークはやはり何もわかっていないらしい。ケラケラと笑うジェイドの隣で、ヴァンは何も言うまいといった風に目を閉じた。
「人聞きが悪い言い方ですねぇ。最近、コバエが煩わしいようだったので、露払いのお手伝いをしただけですのに〜」
「全ッ然可愛くないからな!」
噛みつくガイを気にした様子もなく、ジェイドは含み笑いを湛える。暖簾に腕押し、ガイはやり場のない怒りが腹へ溜るのを感じた。コホン、と場を取りなすようにヴァンが咳払いを落とす。
「こんな時にすまないがガイ、帰りに教団へ寄ってくれないか」
そう言いながら、ヴァンは手の平で自分の車を指す。勿論、屋敷まで送ると続けるヴァンへ不服の声を上げたのはルークだ。ルークは眉を顰め、腰へ手を当てた。
「ヴァン師匠、明日とかじゃダメなのかよ」
「できれば早急に渡したい書類があってな。疲れているようなら、後日にするが」
「俺なら大丈夫だよ。ありがとな、ルーク」
ぽんぽん、と赤い髪を撫でて笑えば、まだ不満げな顔をしていたもののルークは大人しく引き下がった。ジェイドも何やら言いたそうな笑みを浮かべていたが、眼鏡へ触れるだけに留まった。
ルークたちが乗りこみジェイドが運転する車を見送ってから、ガイはヴァンが開けた扉から黒塗りの車へ乗りこんだ。赤い布の張った座席は柔らかく、ガイは疲れの浮かぶ身体を沈ませた。ヴァンは彼の隣に乗り込み、運転席に座る青年へ車を出すよう声をかける。一つ返事をし、青年はエンジンを入れた。
ガイはジロリとした睨みを運転席へ向け、腕を組んだ。それから視線をヴァンへ向ける。
「……今回のこと、お前も一枚噛んでいるんじゃないだろうな」
「何か根拠でも?」
「可笑しいだろ。何でシンクがチンピラ集団に紛れ込んでいたんだ」
運転席を蹴り飛ばしたい気分だったが、深く腕を掴むことでそれを抑え込む。運転手はパーカーを落とし、ヒラリと手を振って見せた。ヴァンはそんなことかと、肩を竦める。
「貴公の警護とファブレ家の監視として動くよう命じている……前にもお話した筈ですが」
「ああ、聞いていた!」
しかしそれで収まらない腹の虫もある。ガイが不貞腐れて窓の外を見やると、そこに薄らと映ったヴァンの顔が情けなく歪んでいた。
「不安にさせてしまい、申し訳ありません、ガイラルディアさま」
「……別にいいよ」
幼い頃から良く知る男のそんな顔は中々見られるものではない。少し溜飲が下がって、ガイはヴァンの方へ顔を向けた。ヴァンは柔らかく口元を緩め、ガイの手をとった。赤く跡のついた手首へ唇を落とす幼馴染の頭を目で追い、ガイは目を細める。
ヴァン・グランツはアビス・ファミリーの幹部で、現在は宗教団体ローレライ教団へ出向している。剣の腕は一流で、ルークとアッシュの剣の師匠でもあるのだ。しかしそれは表向きの顔。正体はガイに剣を捧げた騎士だ。
「……もう十六年になりますか」
「そうだな」
十六年前、ガイ――本名ガイラルディア・ガラン・ガルディオスは家族を殺され、全てを奪われた。アビス・ファミリーの現首領クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレの手によって。ガイがガイ・セシルと名乗ってアビス・ファミリーの構成員として働いているのは、一重に復讐のためである。全てを奪った男から、同じように全て奪うため。
ヴァンの太い指がガイの手首を優しく撫でる。それを好きにさせ、ガイは空いている右手で窓辺に頬杖をついた。
「……情けないだろう。未だに俺は、屋敷の玄関で辱められているガルディオスの誇りさえ、取り戻せないでいる」
ガイは目を伏せ、下唇を噛みしめた。ヴァンの唇が、もう一度手の甲に落ちる。吐息が皮膚を擽って、ガイは思わず肩を揺らした。
「あまり思いつめられぬよう。ガルディオスの左右の騎士は変わらず貴方の傍におります」
ヴァンは狭い車内で身を屈め、跪くように頭を垂らす。
「ガイラルディアさまが笑顔でいてくださることこそ、我らの幸いにございます」
それを忘れぬように。そう囁いて、ヴァンは自身の額にガイの手の甲をつけた。ガイは顔の強張りを解き、笑みを隠すように手を口元へやった。
「お前のそれはくすぐったいよ」
何度も捧げられるそれに、中々慣れることができない。ガイの言葉に少し顔を顰めたヴァンが、意趣返しとばかり唇を頬へ寄せた。



(赤毛×ガイと見せかけつつ、本命はヴァンガイとアシュナタ)
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