ひとつ
その黒兎に出会ったのは、茜さす図書室の片隅だった。
他人より立派と褒められることが多いこの耳は、どんな小さな会話も拾ってしまう。羽虫のように纏わりつく言葉に少々ウンザリして、静かな場所を探していた。そこで辿りついたのが、廊下の突当りにある忘れ去られた図書室だったのだ。きぃ、と軋んだ扉は少々抵抗があったが、長年誰も開閉していない様子ではない。ツンと鼻をつく古書の香り。チラチラと舞う埃が夕暮れの光を反射して、赤い雪のようだった。
「……だれ?」
彼は一番大きな出窓の縁に腰を下ろして、立てた膝と腹の間に本を乗せていた。スン、と鼻を啜る音も聞こえた気がする。こちらを見つめる目が赤かったのは、彼の背後から射しこむ茜だけのせいでないと、一目で分かった。
――見つけた。不意に心へ湧きあがったその感情の意味を知るのは、また暫く後のこととなる。

滑らかなクッキー色した煉瓦の道を踏んでいく。ふわふわの白い尾と耳がぴょこぴょこと揺れて、持ち主の感情を表現しているようだ。鼻歌交じりにステップを踏む涙の背中を眺めながら、郁はクスリと小さく笑った。
「楽しそうだね、涙」
「うん、楽しい」
涙はコクンと頷くと、クルリと振り返った。表情は相変わらずクールなままだが、頬がほんのりと紅潮しており、興奮していることが見て取れた。郁の口元も、自然と緩む。ぎゅ、と郁の手が、涙のそれに包まれる。
「いっくんと一緒だもん」
また一緒に、しかも町を丸腰で歩ける日が来るとは思っていなかった。涙の言葉に、郁は背中がむず痒くなって思わず視線を落とした。郁の腰に、嘗てあった剣はない。軍人となってから肌身離さず何かしらの剣を携えていたから、その重みがないのは些か心もとない。更に心までフワフワと羽根が生えたかのように落ち着きないが――それはまた別の理由からだろう。
「王さまたちに感謝、だな」
「そうだね」
二人は笑い合って頷き、手を握りしめると揃って足を踏みだした。
――ぞわり。ふと、視界の端で影が煙のように揺らめいたようだった。涙が足を止めてそちらを見やっても、真新しい煉瓦の家屋が並んでいるだけ。「涙?」と郁が呼ぶ。涙は「何でもない」と首を振って、顔を前へ向けた。
二匹の白兎が去った後。煉瓦の家屋が作る隙間に落ちた影がユラリと揺らいで、何かの形を持つ。す、と光と影の境に現れたのは、炎のように揺らめいて輪郭がはっきりしないがどうやら人間――少女のようだ。少女は白兎たちの背中を見つめ、薄く口元へ笑みを乗せた。
「……――ハンプティ・ダンプティ、塀から落っこちた。王さまも家来も騎士も、誰もそれを戻せない」
歌うように、囁くように。少女は唇を歪めると、そっと影の方へ身を沈ませた。現れたときと同じように、陽炎の如く消え失せた少女を気にする者はおらず。どこかでガラスが弾ける音が、聴こえた。



Mother Goose of Moon Rabbit〜ハンプティ・ダンプティ〜



香りは、紅茶の命だ。温度、蒸らす時間、葉の開き具合、全てを計算して琥珀色の液体を生みだす白兎の王は、魔王と呼ばれる自分よりずっと魔法使いらしいと思う。コポコポと鳴る音と鼻を擽る香りに頬を緩めていると、目の前で白磁器のカップへ紅茶を注いでいた海が、何を企んでいるのだと苦笑した。
「ひどいなぁ、海」
目を細めると、海は少し肩を竦めて、隼の方へカップを寄せる。それから彼は同じテーブルについていた夜へカップを差し出し、自分のものを手元へ引き寄せながら椅子へ座った。少し離れた窓辺では腕を組んだ陽が佇んでおり、三人のお茶会をそれとなく見守っていた。
「不審者?」
両手でカップを包み、夜はコテンと首を傾ぐ。陽は「ああ」と頷いて手の平を天井へ向けた。
「最近市街で目撃されている黒い靄……目撃者によっては、それが少女の姿に見得たらしい」
「黒兎なのか?」
「それがどんな獣の耳も見当たらなかったらしい。……ま、その目撃者も一瞬見たていどだから、見落としたってことも」
「どうだろうね」
陽の言葉を遮り、隼は胸いっぱいに紅茶の湯気を吸いこんだ。「だろうな」と呟いて、陽は腕を組み直す。
「俺も獣の耳を持たねぇ奴なら、既に知っている」
チラリと緋色の瞳が映した白き魔王は、澄ましたまま紅茶を楽しんでいる。その様子を見て、陽は小さく吐息を漏らした。
「……で、陽はその情報をどこから?」
ニッコリとした夜の微笑から逃れるように、陽はサッと顔を背ける。青い顔に冷や汗を流しているから、また女性のお友だちに聞いたらしい。本人はただのお喋り仲間だと言い張るが、相手方も同じ認識とは思えない。それはともかく、と海は頬を掻いた。
「実質的被害が出ていないとはいえ、民に不安を与えるようじゃあ、放置はできないな」
「黒兎王国からは何か?」
「特に何も……というか、連絡がなさすぎる」
それも気になっていることの一つだと、海は顔を顰めた。とある事件以来、鏡写しである二国は繋がりを持ち、定期的に情報交換を名目としたお茶会を開いている。しかしここ最近、さっぱり黒兎サイドは音信不通だった。
「そいで隼、その靄についてお前の意見は?」
「意見というか……」
隼は言葉を切り、目を閉じて紅茶の湯気を吸いこむ。そのゆったりとした様子に、陽は眉尻を持ち上げた。
「お前、何か知っているのか?」
「僕は白き魔王。天啓で選ばれ世界の一部になった海たちとは違い、元から世界そのものである存在だよ」
「また訳わからんことを」
付き合っていられないとポーズをとって、陽は肩を竦める。そんなことを言った陽も、夜や海も、探るように隼を見やった。隼はカップを置き、夜がお茶のお供に用意したマカロンを二つほど、自分の手元の皿へ乗せた。
「この世界と彼らの世界は、鏡合わせだけれども、隣り合っているだけで干渉はしていなかった」
水色と桃色のマカロンを並べ、くっつける。「しかし」と隼は続け、桃色のマカロンを水色の方へ乗せた。
「先の事件で、互いは深く重なり合うようになった」
不安定なため、グラグラと揺れるマカロン。隼はガラスのように澄んだ飾り用のピックをとりだすと、マカロンを縫いつけるように突き刺した。
「そこを安定させているのが、ディアブロを封じた魔王の末裔お手製の剣だ」
パッと隼が手を離すと、マカロンは不動のまま、皿に乗っている。
「だが、それを許さないのが『世界の意思』さ」
見目も良くない、そもそもこのままでは食べにくい。可愛らしいマカロンが大好きな少女は、折角のお茶会でもむくれ面だ。
『気に入らない世界なら、正してしまおう』
少女はピックを引き抜くと放り投げて、二つのマカロンを横に並べた。しかしピックを刺した穴が残っている。少女は閃いたと顔を輝かせ、デコレーション用の生クリームとサワークリームを穴の中へ詰め込んだ。
「……」
ファンシー、とも言い難い隼のたとえ話に、夜たちは何と言ったら良いのか分からず口を噤んだ。
「えっと……それはつまり、何の寓話だ?」
「この世界のさ」
ニッコリ笑う隼の両手には、それぞれ生クリームを詰め込まれた水色のマカロンと、サワークリームを詰め込まれた桃色のマカロン。前者は甘ったるいし、後者はそもそも美味しいのだろうか、と夜はこっそり思う。海は必死に頭を回転させ、漸く整理したところで「はい」と手を挙げた。
「つまり、その『世界の意思』とやらが繋がった二つの世界を気に入らなかったから、剣を引っこ抜いて世界を引き剥がし、辻褄合わせをするために〜……何かわからないけど何かをしているってことか?」
パチパチパチ、と隼は手を叩く。海は良しと拳を握った。陽は「いやいやいやいや!」と手と首を振る。
「どういうことだよ? 俺はさっぱりだ!」
「ま、まあつまり」
うまく咀嚼できない夜も、必死で頷き、胸の前で指を絡めた。
「また、俺たちの世界に『何か』が迫っている、ということですよね」
隼は小さく笑んで、紅茶を啜った。
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