「取敢えず、名前を決めて置いた方が良いと思うんだよね」
そう言いだしたのは、恋だった。彼は頭上で仰向けになる笹熊にこめかみを引き攣らせながらも、キリキリ足を動かしている。恋の隣で笹熊を腕に抱きながら歩いていた、駆は「名前?」と首を傾いだ。
見た目ほど重さがないのは、さすが呪関係の産物といったところか、春曰く自身で体重の調節ができるらしい。しかし頭の上で――しかも仰向けで! ――脱力されるのは面白くない。ブンブン頭を振ってみても、駆の魂の一部だという笹熊はそこから降りようとせず、随分前に恋も諦めてしまった。
「駆の笹熊、とか言い辛いんだよね、長くて。そのうち笹熊の方を駆さんって呼んじゃいそう」
「それはさすがに間抜けすぎでしょ……」
「始さんと春さんも笹熊に名前つけていたんだよね。えっと確か……ハジュとハルル、だっけ」
「……成程、相手の名前に因んでいるのか」
「如何にも始さんがつけそうな名前だよ」
ではさて自分たちはどうしようか。チラリと視線で見合って、駆と恋は腕を組んだ。心なしか、笹熊たちもキラキラと輝かせた目を向けている。
「ん〜、恰好いい名前がいいかな」
「呼びやすい方がいいんじゃないかな」
駆の提案に、恋は「それだ」と手を打った。恋が身体を揺らしたことでバランスを崩し、笹熊が地面へと転がり落ちる。ポツポツ草の生える地面へ顎をぶつけた笹熊は、しかし不機嫌になることなく、鼻を擽る草へ興味を示していた。
「おお、それ採用! そうだよね、はぐれたときとか、呼びやすい名前じゃないと、」
妙案だと二人で笑い合っていたそのとき、フ、と視界から地面に転がっていた笹熊の姿が消えた。
ハッとして二人は顔を上げる。笹熊はすぐに見つかった。麻縄で適当な簀巻きにされた状態で、木の枝からぶら下がっていたのだ。伸びる縄は、木の枝に立つ一人の少女の手の中にあった。
橙色の髪を揺らした少女は縄を手繰って笹熊を持ち上げると、ぱぁっと顔を輝かせた。その無邪気な笑みに、駆と恋は文句を叫ぼうとした口を噤んだ。少女は可愛らしいものを愛でるようにキラキラとした瞳へ笹熊の顔を近づけ――――じゅるり、と口元に垂れた唾を舐めた。
「久しぶりの、お肉」
うっとりと、語尾にハートマークでもつきそうな声。駆たちが呆気に取れられるうちに、彼女は「よいしょ」と笹熊を肩に担ぐと、木の枝を飛び移りながら森の奥へと消えていった。
「……」
駆と恋はそっと顔を見合わせ、少女の消えた方向をもう一度見やる。ぷぎゅ、と恋の笹熊の鼻が間抜けな音を立てた。
「お……お、俺の笹熊ぁああ!!」
「まだ名前決めてないのにぃ!!」
とにかく追いかけないと、と駆けだそうとした恋の傍らで、ドサリと何かが落ちる音がした。見れば、駆が蹲るようにして座りこんでいる。「駆!」と慌てて恋は膝をつき、彼の肩を抱きあげた。駆は目を瞑り、抱いていた笹熊ではなく自身の胸元をグッと皺が寄るほどに握りしめている。口から零れる息は熱い。体調が優れないのだと、一目で分かった。
「くるしい……胸が、引き千切られるみたいだ……」
「そんな、どうして急に……!」
息を飲む恋の頬を、むいむい、と笹熊が叩く。恋が視線を向けると、笹熊は小さな手を一生懸命動かして、自分と森の奥を交互に指した。
「まさか、駆の笹熊……!」
笹熊は互いの魂の欠片。実体を持って別れたとて、欠片はまだ繋がっている。笹熊に危害が加わったり、遠く離れたりしてしまうと、魂の元となった者へ影響がでるというのか。
駆を背に負い、笹熊を肩へ乗せて、恋は少女の消えた森へと足を踏み入れた。

木の枝を飛び移って移動していた少女は、前方に岩場を確認すると地面へ降り、そのまま駆けだした。まるでそこが境界線のように、くっきり緑と灰色が分かれた地点。聳える岩場に空いた洞の前で、青空色の髪の少女が腕を組んで立っていた。橙の少女――千桜は、ニンマリと笑って、芝生と砂場の境を超えた。
「若葉! 久々の肉!」
「おお!」
千桜の帰還に気づいた若葉は、更にその手に握られた戦利品に顔を輝かせた。笹熊はゲッソリと青い顔をして逆さのまま力なく揺れている。しげしげとそれを眺めていた若葉は、口元へ手を当て、眉を顰めた。
「待って、確か大熊猫って草食よね」
「え? うーん、確かに、笹が主食だっけ」
「それはまずいわ……」
「何が?」
神妙な顔の若葉を覗きこみ、千桜はキョトンと目を瞬かせる。そこへ丁度、追いついた恋が森から飛び出した。
「――草食動物の肉は、固くて不味いらしい」
「! ……そんな……っ!」
ガクリと膝をつき、千桜は泣きそうな顔で笹熊の腹をグワシと掴んだ。
「こんなにモチモチしてるのに……!」
「そもそも食用じゃないからね! 笹熊!」
やはり食べようとしていたのかと、若干呆れながら恋は叫ぶ。駆と笹熊を下ろす彼に気づき、若葉が誰だと訊ねた。千桜はグスリと鼻を鳴らし、「大熊猫の近くにいた人」と答えた。
「えっと、大熊猫専門の狩人さん?」
「違う、違うから! そこの大熊猫――笹熊も、こっちの笹熊も、食用じゃなくて大切な相棒!」
「俺たち、都へ向かって旅をしているんだ」
恋の傍らへ立ち、まだ若干顔色の悪い駆が付け加えた。恋が心配そうに見やると、痛みは引いたから平気だと言う。
「そうだったの、ごめんなさい。千桜が先走ってしまって」
「ほんと、ごめんね」
二人の少女はぺこりと頭を下げ、素直に笹熊を返してくれた。話が通じる相手で良かった、と恋は胸をなでおろした。笹熊は恐怖が残っているのか、そそくさと恋の肩へよじ登り、桃色の髪へ顔を埋めた。
「私は若葉、こっちは千桜」
「恋です。こっちは駆」
「二人は、ここに住んでいるの?」
岩場に空いた洞を見やり、駆は訊ねる。洞からは微かに妖魔避けの香の匂いがする。二人は少し顔を見合わせて、首を振った。
「本当はこの少し先の町に住んでいるの。ちょっと訳あって、ここを仮拠点にしているだけ」
「訳?」
「旅人さんに言い辛いんだけど……」
若葉は苦笑して頬を掻いた。千桜は口をへの字にして、腰へ手を当てる。
「妖魔が出るのよ、それも人型の」
「妖魔?」
「そう。それで私たちの住んでいる町の端の家を襲うもんだから」
警護と討伐を兼ねて、この拠点を構えたのだと言う。妖魔は家畜まで襲い、町では肉が少々高価なものとなっている。だから、先ほど笹熊に飛びついてしまったのだと、千桜は申し訳なさそうに言った。
「でも町なら、退魔師が一人はいる筈じゃあ……」
妖魔の被害はどこの村町にもある。そこで政府からは警察や医師と同じように、退魔師の在住を各村町に命じていた。
「いたけど、御年を召した方で、先月亡くなってしまったの」
「新しい退魔師を政府に要請しているのだけど、中々返事がこなくて……」
そうこうしているうちに、妖魔の襲来が始まった。今は退魔師が遺した妖魔避けの呪いのお陰で大部分は守られているが、呪いの範囲外になるのか町の端に当たる家々は被害を受けている。
「……さっき、人型って言ったよね」
「ええ」
恋は眉を顰め、腕を組んだ。
妙だ。確認されている妖魔に、人型のものはない。妖魔のような力を持ち、人間のような姿をした種族もいるにはいるが――
「……」
「? 何さ、恋」
まさかな、と心の中で呟き、恋は曖昧に首を振った。獄族は人間と共存関係にある。遠い昔、獄族の王と人間の皇帝が交わした『盟約』に基づいているのだ。それを破棄してしまえば、あるのは戦争だけ。
「……新種の妖魔かな」
「かもね」
「……ねぇ、よければその妖魔退治、俺にも手伝わせてくれない?」
「恋?!」
突然の申し出に、駆は目を丸くし、若葉と千桜は顔を見合わせた。
「そりゃ男手があるのは嬉しいけど……良いの?」
「私たち、なーんにもお礼できないよ?」
「良いよ、そんなの。俺、大陸一の拳法家を目指しているんだ。その修行の一環だと思えば。……ちょっと寄り道になるから、駆さんには悪いけど」
「はぁ……別に良いよ。そんなに急ぐ旅じゃないしね」
しょうがないなぁ、と苦笑し、駆は恋の肩へ拳をぶつけた。若葉たちは嬉しそうに笑い、互いの両手を握りしめた。
「ありがとう、こいっく、かけるん!」
「こい……?!」
「かけるん……」
千桜の口から飛び出した愛称に、恋と駆は苦笑する。中々に個性的な感性だ。「むきゅー!」と駆の笹熊が興奮したように鳴き、テシテシと恋の頭を叩く。
「……気にいったのか、カケルン」
「別に嫌ではないけど……なんだろ、この微妙な気持ち」
その後の雑談で、恋の笹熊はレンレンと名付けられた。

やがて日が落ち、夜が来る。千桜は弓を背負い、若葉は槍を手にする。恋は軽く身体を伸ばして、やってくるだろう妖魔に備えた。戦いの最中離れてしまわないよう、カケルンはおんぶ紐で背に括りつけてある。少々間抜けな気がするが、致し方なし。
「来た」
千桜が短く言い、空を見上げた。恋もつられて、星しかない空を見上げる。一等眩く光を放つ星を、黒い影がかき消した瞬間だった。
ドシン、と三人の立っていた場所に何かが落下し、土煙が沸き立つ。後ろへ飛び退った千桜は、キリリと弓を引き、つがえていた矢を放った。土煙の中から伸びる腕が、矢を何事もないように捕まえる。煙が晴れ、現れたのは黒い中華服で身を包んだ男だった。ニィイ、と鋭い歯が見えるほど大きく弧を描いた口元が不気味で、千桜の背筋は泡立った。
若葉が突きだした槍も捕まり、彼女は森の方へ放り投げられてしまう。「若葉!」という千桜の声を背後に、恋は地面を蹴ると振り上げた踵で妖魔の頭頂を狙った。ガ、と手ごたえはあった。しかし妖魔の身体は揺るがず、恋の足首を掴んだ握力は常人以上のもの。
「……匂いがする」
「!」
足首を掴んだままブンと腕を振られ、恋の頭が揺れた。そのまま逆さで捕まってしまい、恋は咄嗟に地面へ手をついた。足元にある恋の顔を見下ろし、妖魔は目を細める。
「同族の匂いがするなぁ、お前……契約者か?」
「! お前、まさか……!」
「まぁ、どうせ裏切り者だろうけどな」
「!」
妖魔はそのまま腕を振り、恋の身体を岩場へ投げつけた。

ドシンという重い音に、洞の中で待機していた駆はビクリと肩を振るわせた。駆は獄族としての記憶がない。どのような力があり、どのようにそれを振るえば良いのかわからないのだ。しかし聴こえてくる音が気になり、更に本来ならば守るべき駆を放ってしまっている状況に情けなく感じ、駆はレンレンを抱きしめながらそっと外を見やった。
「……!」
酷い有様だった。地面は抉れ、岩場から落ちた石が辺りに模様を作っている。その片隅で傷だらけの若葉を抱きしめた千桜が涙を流し、中央では妖魔らしき男が恋の首を掴んで高々と彼の身体を持ち上げている。ザワリと、駆の何かが騒めいた。
「ん?」
妖魔は鼻を動かし、匂いの発生源を見やる。駆はレンレンから手を放し、据わった目で妖魔を見つめていた。妖魔は鼻を鳴らして笑う。ガフ、と恋の口から血の混じった唾が垂れた。
「そこにいたのか、人間側についた裏切りも」
「恋から手を離せ」
ブシュ。
一瞬だった。恋を掴む男の腕が肩からスッパリと消え、夜空に浮かぶ。一拍置いて、引き攣った叫び声が谺した。恋の身体を横抱きにし、駆が離れたところへ彼を寝かせると、レンレンとカケルンが傍に寄ってきた。痛みと怒りで血走った目を剥き、妖魔は歯を噛みしめる。
「手前、よくもぉ!!」
「……勝手に死なせないよ、恋」
妖魔の怒声を無視し、駆は恋の土と血で汚れた頬を撫でる。微かに恋の瞼が震え、薔薇水の瞳が駆を映す。
「……かけ、る……さ……」
「『約束』したのは、そっちなんだから」
ポソリと呟くと、駆は鈍い金色の目を細めたまま立ちあがった。獣のように唸り声をあげ、妖魔が鋭い爪を振り上げる。それを悠然と立ったまま見上げ、駆は少し腕を持ち上げた。
「誰にも、邪魔はさせない」

岩場の上で膝を折り眼下を見下ろしていた青年は、ピュゥと軽快な音を鳴らした。
「へぇ、すげぇじゃん。あの魔王さまが言っていた以上じゃね?」
「俺は恐ろしいよ……本当に、あの子を連れていくの?」
彼の傍らに立っていた青年が、怯えたように胸へ手をやった。口笛を吹いた青年は肩を竦め、ヒラリと手を振った。
「全ては魔王さまの仰せのままに……ってな」
すっかり眉を顰め、怯えた青年はもう一度下の景色を見やる。
無残に切り刻まれた妖魔の死骸を足元に、鈍い金色の少年は無表情のまま立っていた。

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