scene05
白い紙が、机の上に置かれている。窓から吹き込む風にそれが飛ばされないよう指で押さえ、太一は目を細めた。
「どうするんだい?」
丈が訊ねると、太一は窓の外へ視線をやった。太一の座る机の向いに立ち、丈も桃色で染まる窓の外を見やる。
どちらも何も言わないまま、春の甘ったるい風だけが彼らの間で揺れていた。
2004年春、そのある日の午後のことである。



無選択の傷



ずん、と建物が揺れた。地震ではない。恐らく、別の場所で起こっている戦闘のせいだ。ピクリと、コロモンの耳が立ち上がる。
「サイケモン……!」
心配げに歪んだ顔は、瞬く間に憎悪の色をヤマトたちへ向けた。
「サイケモンに何してるの……!」
「そっちこそ、タイチに、ボクのパートナーに何したんだ!」
アグモンも負けじと声を張る。互いに歯茎をむき出しにして威嚇しあうコロモンたちの傍らで、太一の肩がピクリと動いた。
「タイチはボクのパートナーだよ!タイチがちっちゃいときから、一緒にデジタルワールドを冒険したんだ!」
「何を言ってるの、あのコロモン」
ブイモンは訳が分からないと呟いて大輔を見やる。そんな顔を向けられても、大輔が答えを知るわけがない。ヒカリは、やはり何処か見覚えがあると呟いて眉を顰めた。
「タイチと冒険したのはボクだ!」
「ボクだもん!」
まるで水掛け論だ。互いが互いの主張を通そうとするだけで、平行線が続く。ここに光子郎がいればうまく取り持ってくれただろうに、とヤマトは顔を歪めた。
「……あぐ、もん……?」
か細い声が、ヤマトの鼓膜を揺らした。慌てて太一を見やると、彼は少し顔を上げて口を小さく動かしている。アグモン、と。今度は先ほどよりしっかりとその単語を呟いた。
「タイチ……!」
信じられないと言いたげなコロモンの横を通り過ぎ、涙目のアグモンは太一へ抱き着く。それを反射的に抱き留めながら、太一は困ったように笑った。
「アグモン、ごめん」
「全くだ、どうして」
心底安堵して吐息を吐いたヤマトが手を貸して立ち上がらせると、太一は首を傾げた。
「よく解らないんだよ。どうしてか、俺はずっとこのコロモンを友だちだって……」
太一は黒いコロモンを見下ろして、いや、と言葉を切った。
「友だちだったな、俺たち」
ごめん、と呟く。思わず兄を呼ぶヒカリを手招きして、太一は黒いコロモンに微笑みかけた。
「コイツ、あのときのコロモンだよ」
その言葉で察したのは、ヒカリだけだ。どういう意味だとヤマトが問うと、太一は小さく笑って肩を竦めた。
「光が丘に来たのは、このコロモンだ」
光が丘爆破テロ。世間的にはそう言われている、とある一夜のできごと。その渦中にいたのはヒカリと太一と、このコロモンだ。
それでは、と呟いて、ヤマトと大輔はコロモンを見つめる。ああ、と太一は頷いた。
「コイツは確かに、俺の友だちだよ」
あのとき、友だちの印を交わしたあのコロモンなのだから。忘れていてごめん、と太一は呟き、コロモンの頭を撫でた。
「そうだ、タイチはコロモンの友だちだ……」
絞り出すような声に、ヤマトと大輔はハッとしてそちらを見やった。
あちこち傷だらけの人型デジモンが、壁にもたれかかるようにして立っていた。ぽたぽたと床を穿つ赤が、出血の酷さを物語っている。サイケモン、とコロモンが呼んだ。そこでヤマトたちは、あれがサイケモンの進化系なのだと察する。
サイケモン―――アスタモンの背後から、駆けてくる光子郎たちの姿も見えた。何処かしら擦り傷と砂埃の汚れを負ってはいたが、酷い怪我はないようだ。ヒカリはホッと胸を撫で下ろした。
「ヒカリもタイチも……コロモンの友だち……だから」
ブツブツと呟き執念染みた視線を寄越すアスタモンの様子に、大輔はゾクリと背筋を泡立たせた。咄嗟にヒカリを背に庇う。
「サイケモン……!」
泣きそうな声を溢し、コロモンはグッと歯を噛みしめた。コロモンは
「よくも……ボクの友だちを……!」
「!まずい」
空気の変化を敏感に読み取った遼が、逃げろ!と声を飛ばした。デジモンたちがその声に反応し、自分のパートナーの身体を掴んで飛び退る。コロモンから黒いオーラが立ち上ったのは、そのすぐあとのことだ。
「コロモン……?!」
強かに尻もちをついた太一は、慌てて身体を起す。黒々とした炎のようなオーラを纏ったコロモンは、ギロリと鋭い視線を大輔たちへ向けた。
「ゆるさない」
ぐわり、と世界が揺れた。

「何だ!」
海上でハンギョモンたちを引きつけていた丈たちは、突然津波とは違う何かによって揺れる海に困惑していた。
「丈さん!」
このままイッカクモンに乗って海にいるのは不味い。京の指示で下降したアクィラモンに退化したゴマモンと捕まって、丈は海から離れた。
「大輔たちは大丈夫でしょうか」
不安げに眉を下げ、京は手を握りしめる。その手をそっと包み、賢は強く頷いた。
「大丈夫」
冷たかった手に、温もりが移される。京は固い表情を少し解くと、そうね、と頷いた。
やがて、海だけでなく空も渦を巻き始める。空はあまり離れないように、と声を張り上げた。
脳を直接回転させられるような気分だ。余りの気持ち悪さに、ミミは口元を抑えて蹲った。彼女を抱きしめるように肩を寄せ、空は必死にバードラモンの背へしがみ付く。
揺れが収まったのは、突然だった。
「え……」
「これは……」
黒い空とそれを映す黒い鏡のような大地。先ほどまで揺蕩っていた海は形を潜め、全く違う風景がそこには広がっていた。丈が視線を下ろし、声を上げた。
「ヤマト、光子郎!」
タケルや伊織たち、海へ潜ったメンバーがそこにいた。その中に太一の姿を見つけ、空は大きく息を吐いた。
「良かった……」
バードラモンたちを下降させ、空たちもその鏡の大地へ足をつける。ヤマトたちと同じように、しっかりと立つことができた。
「ヤマトくん、太一」
「空」
「無事で良かった」
大きな怪我をした様子のない二人に空は安堵する。何があったのかと問えば、ヤマトは微妙な顔をしてある方向を見やった。空は小首を傾げながら、彼と同じ方向へ視線をやる。
「あれは……」
それは例えるなら、黒い炎だった。それが、鏡の大地にぼぅと浮いている。炎の中には同じくらい黒いコロモンがいて、こちらを忌々し気に睨みつけていた。
「光が丘に現れたコロモンだよ」
太一の言葉に、丈たちは息を飲んだ。小首を傾げる賢と京に、大輔がそっと耳打ちで説明する。
「でも、それがどうして暗黒の海に?」
ミミは頬へ手を当てて首を傾いだ。太一はコロモンへ視線をやったまま、解らないと首を振る。
「コロモン!」
少し離れたところで傷だらけの身体を引きずるようにして、アスタモンが何度も呼んでいる。しかしそれすら聞こえないようで、コロモンは何かをブツブツと呟くだけだ。
「タイチは、ボクの友だち……サイケモンも、ヒカリも……だから」
―――ボクが、守る
コロモンは確かにそう呟いた。そしてその瞬間、炎は砕けた。
こつ、と鏡の大地を叩く足は、コロモンのものではない。その姿に大輔たちは息を飲み、目を見開いた。
「ブラックウォーグレイモン……」
その名を呟いたのは、誰だったのだろうか。
金の鬣に、銀の装甲。嘗てアグモンたちの前に現れたものとは違う個体だ。しかしその威圧感は引けをとらず、ビリビリと大輔たちの肌を刺した。
アスタモンでさえ、驚きで言葉を失っている。そんな中、くくく……というねっとりとした笑い声が聞こえてきた。身構える太一たちの前に、ずるりずるり、と蛸のような足が顔を出す。鏡の大地の下から這い出るようにして現れたそのデジモンを、アスタモンはダゴモンと呼んだ。
「ダゴモン……あれが……!」
子どもたちの警戒など意に介さず、ダゴモンは愉快そうに笑ってアスタモンとブラックウォーグレイモンを見やった。
「貴様、一体何を……!」
「くくく……このときを待っていた」
「何だと……!」
「海の核であるあの力を取り込めば、あの忌々しい悪魔など取るに足らぬ」
ダゴモンの言葉に、アスタモンは歯を噛みしめた。まさか、コロモンのデータを吸収するつもりか。痛みに歯を食いしばり、アスタモンは立ち上がると、ダゴモンの前に立ちはだかった。
「そんなこと、させない」
「死にぞこないが」
ダゴモンの触手が飛び、アスタモンの身体を大地へ叩きつける。ぐぅと呻く間にも幾本もの触手が追撃し、アスタモンはグッタリと倒れ伏した。
「酷い……」
ミミは思わず口を手で覆う。
「これ、どういう状況なんですか?」
アスタモンの怪我は、光子郎たちの戦闘によるものだ。そのことに少し罪悪感を抱きながら、伊織は胸を握りしめた。遼も光子郎も、他の子どもたちも、さっぱり状況が掴めない。ただ、あのダゴモンは敵であり、アスタモンはダゴモンからブラックウォーグレイモンを守ろうとしていることは、何となく解った。
「私から説明します」
幼く、何処か舌足らずな声。大輔は驚いて振り返り、そこにいた姿に素っ頓狂な声を上げた。しかし太一は冷静に彼女を見つめ、目を細める。
「ホメオスタシス……」
幼いヒカリの姿をしたデジタルワールドの意志は、静かな目で子どもたちを見つめていた。
「この姿が使いやすいので」
お借りしています、とホメオスタシスはヒカリへ頭を下げた。ホメオスタシスは意志そのものだ。器がなければ、言葉を伝えることはできない。1999年の冒険のときも、ヒカリの身体を借りて太一たちへ話しかけてきた。懐かし姿だと、太一は思わず呑気なことを考えた。
「説明って、この状況をか?」
「はい。ですが先に言っておきますと、私が今回の全てを理解したのはつい先ほどのことです」
だから、原因を知っていて静観していたわけではない。今の今まで、ホメオスタシスなりにこの事件を探っていたのだ。
「あのコロモンは、1995年の光が丘で太一さんとヒカリさんの元へやってきた個体……そして、暗黒の海の核そのものです」
大輔はゴクリと唾を飲みこんだ。
コロモンが光が丘に現れたのは、ホメオスタシスたちにも想定外のできごとだった。進化し続けるコロモンをデジタルワールドへ連れ戻すためにリアルワールドへ派遣されたのが、パロットモン―――なっちゃんである。
「しかし予想以上に進化によってレベルアップをしていたグレイモンに、パロットモンも苦戦してしまいました」
「何か……すみません」
「気にしないでください」
コロモンを孵化させたのはヒカリで、あのとき倒れたグレイモンを叩き起こしたのは太一だ。けれどそのお蔭で、デジモンと人間が共に在ることの利点を見いだせた。
「パロットモンとグレイモンの技がぶつかりあった衝撃で、パロットモンはデジタルワールドに強制送還されました。しかしグレイモンの方の行方は掴めなかったのです」
それも今なら納得がいく。暗黒の海―――当時はまだ海はなかったから暗黒の世界と称そうか―――へ落ちてしまっていたのだ。コロモンを核にして海ができ、暗黒デジモンたちが住みつくようになり、今に至るのだと、ホメオスタシスは言った。
「あのコロモンが……」
「ただのコロモンなら、これほどまでにはなりません。あのコロモンは、」
ホメオスタシスは言葉を切り、ブラックウォーグレイモンを見つめた。
ギロリ、と仮面の奥に隠れた瞳が子どもたちを捉える。ブラックウォーグレイモンの腕が頭上に掲げられ、手の間に黒いエネルギー体が溜る。それはやがて漆黒の太陽を思わせる大きさになり、辺りに風を巻き起こした。ブラックウォーグレイモンの投げた光球はダゴモンとアスタモンへ向い、両者を巻き込んで爆発した。
「あのコロモンは―――この世界のデジモンではない」
爆風で煽られる髪を抑えることもせず、ホメオスタシスは淡々と言葉を紡いだ。
轟音に耳を塞いでいたウォレスは、どういうことだと首を傾げた。
「リョウみたいに、別世界から来たってこと?」
遼がチラリとウォレスを見たが、ウォレスは気付かぬふりをしてホメオスタシスを見やった。
「次元は同じです」
「違うのは時間―――未来から来たってことですか」
「はい。恐らくは、今から23年後の未来から」
光子郎の言葉に、ホメオスタシスは頷く。ホメオスタシスの上げた数字に声を上ずらせ、丈はズレた眼鏡を戻した。ミミも頬に手を当て、驚きに目を見開いている。
「23年後って、私もうおばさんじゃない!」
「そこかい、ミミくん」
「あんまり年齢は考えたくないけど……子どもはいそうね」
喜んで良いのやら、と言った風に空は吐息を溢す。そこでふと、ヤマトたちは動きを止めた。
「―――子ども?」
そう言えば先ほど、あのコロモンは太一が幼いときから共にいたと言っていた。あれはてっきり光が丘でのできごとのことだと思っていたが、デジタルワールドを冒険したということは。
ヒクリ、と大輔は思わず口元を引き攣らせる。
「まさか、あのコロモンのパートナーって……」
恐る恐るホメオスタシスを見やれば、彼女はコクリと一つ頷く。大輔が言外に言わんとした事実が正解です、と言うように。
「……」
何とも言い難い沈黙が子どもたちの間に落ちた。
「……何か、すみませんでした」
「いや、太一が謝ることではないけど……」
太一は少し頬を掻いて、吐息を溢した。
「どんな理由があったにせよ、こっちに来ちゃったヤツは元の場所へ返してやらないとな」
上げた視線の先では、ダゴモンと戦闘を始めるブラックウォーグレイモンの姿がある。目は相変わらず怒りに塗れ、我を忘れていることをこちらへ教えていた。
あれは、迷子の目にも似ている。本当の自分の居場所を見失い、傍にあるものに縋る迷子の目だ。
ふと、ヤマトは口元を撫でた。あのとき感じた海の味、あれはそう、涙の味によく似ていた。暗黒の海は、コロモンの涙が溜ってできたものだったのかもしれない、ふと、そんなことを思う。
こつん、とヤマトの肩に拳がぶつかった。それは太一の拳で、ヤマトも同じように彼の肩へ拳をぶつける。足元に並んだアグモンとガブモンを見やって、ブラックウォーグレイモンを見て、小さく息を吐いた。
「―――行こうぜ」
「ああ」


(20150806)
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