終奏
セネルは窓を開いた。青々とした空を、ゆっくり白い雲が流れていく。グリューネが消えて数か月。頬を撫で、髪を揺らす風は変わらない海の匂いを運んできていた。
「……よし」
セネルは自身の頬を叩いた。
「お兄ちゃん?」
どうかしたのかと、シャーリィはセネルの背中に訊ねる。セネルはゆっくりと振り返り、ふわりと微笑んだ。
「シャーリィ、俺――大陸へ行こうと思う」
シャーリィは海を映した瞳を、零れそうなほど見開いた。

「ヴァーツラフ軍の基地で見つけた」
それは、数日前のことだ。セネルはワルターに、一冊の薄い本を押し付けられた。絵本のようなその表紙は、長年日に当たってきたのかすっかり色あせている。
「これは……」
「どうやら、ゼルメスについて記したものらしい」
「!」
本来なら、発見してすぐ情報共有をしておくべきだった。しかし内容はジェイたちが見つけ推論した資料と重複しており、あまり必要性を感じなかったという方が大きい。
「……陸の民は、遺跡船内に打ち捨てられた地を造った。水の民への対抗策として」
ワルターの言葉を聞きながら、セネルは本の頁を開く。
打ち捨てられた地の基になったのは、陸の民への怒る滄我を諫めたいと思った滄我の欠片だった。水の民のテルクェスやもう一つの滄我を打ち消す力を持った打ち捨てられた地は、意思をくみ取る存在を求めた。
「それが、ゼルメスだ」
元々遺跡船の管理者であったゼルメスは、もう一つの滄我によって代行者に選ばれたのだ。白にも見える銀の髪と、青い瞳――それは遺跡船の管理者の力を受け継ぐ一族の証であるらしい。
「……俺の父さんや、母さんは、もしかしたら」
「その可能性もある、ということだ」
「……」
「……その本の巻末に、地名が載っていた」
かなり色あせて読みにくいが、どこかの村であるようだ。
「そこへ行けば、何か手がかりがあるのではないか」
ゼルメスについて、ではなく、セネルのルーツについて。
ワルターは強制するつもりはなく、一つの可能性として告げただけだ。本当はこれを告げることも彼は躊躇いを感じていた。やっと何の柵もなくなって手を繋げる二人を、また迷わせてしまって良いものかと。
しかし先の戦いでセネルがセネル自身を知らないままなのは、良くないのではないかと思った。だから、本を渡したのだ。
「それで、どうする? セネル」
「……」
セネルは答えず、ただ本を抱きしめた。

「で、リッちゃんは何て言ったの?」
「……考えさせてほしい、と」
少し涙も見せてしまったことを落ち込み、シャーリィは吐息と共に肩を落とした。いつかと同じようにバスケットに食事を詰めて輝きの泉にやってきたノーマとクロエは、呼び出した本人が始終この調子なので思わず顔を見合わせた。
「クーリッジも、何か考えがあるのだろう」
「でもさ、ほんと落ち着かないよね〜。折角ウィルっちがリッちゃんも一緒に暮らせるよう、手を回してくれてるところだったのに」
逃亡していた三年間、ずっと一つ屋根の下で暮らしていたので今更残念がることでもないのだが、こうもうまくいかないと落ち込んでしまう。シャーリィはまた大きく息を吐いた。
「……分かっているんです、お兄ちゃんだって、自分のルーツを知りたいこともあるんだって」
自身に秘められた力が血統に由来するというなら、尚更。シャーリィを理由にしてセネル自身のことを諦めてほしくはないと思う反面、寂しいという気持ちがないと言えば、嘘になる。
「私……面倒くさいですね」
「そんなことない!」
更に落ち込むシャーリィは、自力で靄を生み出しそうな勢いで、慌ててクロエはフォローを入れた。ノーマも後ろから腕を回し、胸へシャーリィの頭を押し付ける。
「誰かさんみたいに慰められないけど、私たちもいるって」
「ノーマさん……」
「そうだ、クーリッジの行動の根本には、いつだってシャーリィがいる」
クロエはシャーリィの手を強く握った。
「きっと今回のことも、巡り廻ればシャーリィのことを考えているのだろう」
「え〜、そうかな〜?」
ノーマの茶々をスルーして、クロエはニコリと笑う。
「ならばシャーリィも、セネルのことを考えて、自分のしたいように行動を起こせば良い」
「私の、したいように……」
「きっと、シャーリィのしたいことも根本は『セネルのため』になると思う」
ヒュウとノーマは口笛を吹き「ラブラブだねぇ」と呆れた声を漏らす。恥ずかしさも感じていたが、シャーリィは何か閃いた心地がしてクロエの手を握り返した。
「ありがとうございます……!」
やっと明るい表情を見せたシャーリィに、ノーマとクロエは安心して口元を和らげた。

「で、大陸に行くことを選んだんですね」
ジェイは焼き立てのパンを頬張りながら、セネルを見やった。彼は頭を抱えるような姿勢で机に突っ伏しながらも「……ああ」と頷く。落ち込んだときの気分転換なのか知らないが、セネルが量産したパンの山を前に、ウィルはそんな風になるならやらなきゃ良いのにと吐息を漏らした。
「シャーリィは何て?」
「……考える時間がほしいと……少し、泣かれた」
「そうだろうな」
「けど、決めたんじゃろ」
パンを口いっぱいに頬張りながら、モーゼスは言う。セネルはやっと身体を起こして、頷いた。
「お前が大陸に行ったら、誰がシャーリィを守るんだ」
「シャーリィはもう強い。それに、俺がいなくてもワルターたちがいる」
セネル自身が守ることに意味があるのだろうが、それは彼もよく理解しているのだろう。机の上に置いた手を組むセネルの横顔を見やり、ウィルは飲み物に口をつけた。
「……何を考えている」
「……」
セネルは目を伏せ、人差し指を弄った。
「……シャーリィと一緒に生きていくことを考えたとき、不安がないわけじゃないんだ」
ぽつり、とセネルは口を開いた。
「俺は、自分のルーツを何も知らない。ゼルメスのことも、分からないことがまだある。……そもそも、俺はメルネスと対になる存在だ。そんな奴が水の民であるシャーリィと共にいて良いのだろうか、と」
それは気持ちの問題ではなく、血統や遺伝に関する懸念なのだろう。そこまで考えているのかと、ウィルとジェイは少し驚いた想いでセネルを見つめた。
「……成長したな、セネル」
「何だよ、その目は」
ノーマがいたら、「おやじ臭い」と言われそうだ。それを自覚しつつ、ウィルはぐしゃぐしゃとセネルの頭を撫でた。
「あんだけ回り道をしたんですから、もう落ち着いたら良いとも思いますが……まあ、ルーツが気になる気持ちは、僕も分かります」
ジェイはポケットにしまっていた鈴を一瞥する。
「ま、後悔せん道を選べよ、セの字。ワイらも支えちゃる」
口端にパンの滓をつけたモーゼスもニカリと笑う。ウィルの手をやっとのことで引き剥がしたセネルは、少々の気恥ずかしさを感じて目を伏せた。
「……ありがとう」

次の定期便で大陸に渡ると決めていた。結局、あれ以来シャーリィとしっかり話せる機会はできず、面と向かって話したのは大陸へ行くことを告げた翌日の夜が最後だった。シャーリィは小さく笑って、「大陸へ行っても、忘れないでね」とだけセネルに告げた。「勿論だ」とセネルも返した。
あれから何故かウィルたちも多忙になったらしく、しっかり別れの挨拶をする時間もなく、見送りの姿も見つけられないまま、セネルは船へと乗り込んだ。甲板に上り、港を見下ろす。見送りの人間は何人かいたが、そこに仲間たちの姿はない。
寂しくないと言えば嘘になる。今生の別れではないし、本心に従った渡航だから、嘗て経験したそれらと事情は違う。それでも、最後に顔を見たかった。
「……随分、長い間遺跡船にいた気がするな」
逃亡生活より短い期間の筈なのに、人生の大半を過ごしていたような気分だ。何年かかるか分からないが、帰還を約束した旅だ。それを考えれば、少しは寂しさも和らぐ。
手すりに頬杖をついて、昨日別れを告げた少女の眠る墓がある方向へ目を向ける。それが見えなくなってから、セネルはやっと身体を動かし、甲板から降りた。

遺跡船から大陸へ渡る船に乗るのは、大陸からの旅行者が多く、そんな人々に快適に過ごしてもらうため船には個室が誂えてある。セネルも個室を借りており、大陸につくまでそこで身体を休めるつもりだった。
「……」
のだが、扉を開いてすぐ目に入ったのは、一人部屋にしては広かった部屋が狭くなっている光景だった。
「やっほー、セネセネおっそーい」
ヒラリと椅子から立ち上がった一人が、部屋の真ん中へセネルを引っ張っていく。セネルは頬を引きつらせた。
「どうしてみんなここにいるんだ!」
思わず声を荒げると、何を言っているのだと、セネルがおかしいと言いたげに彼らはキョトンと顔を見合わせる。セネルは頭へ手をやった。
「クロエ……」
「わ、私は祖国へ一度帰ろうと思ってな。遺跡船を狙っていたという情報も、気になるし」
いきなり名指しされ、クロエは少々面食らった様子だ。
「モーゼス……」
「ワイはギートの野生化を鎮める方法を探しにな! 大陸は広い。どっかにあるじゃろ!」
相変わらずの軽装に、本当に大陸で旅をするつもりかと疑いたくなる。
「ノーマ……」
「遺跡船のお宝はあらかた見つけちゃったからね〜。大陸のお宝も、トレジャーハンター・ノーマが頂いちゃおうと思って」
ぺろりと舌を見せ、ノーマはブイサインをセネルに突き付けた。
「ジェイまで……」
「そりゃあ、キュッポたちと離れるのは寂しいですけど……ノーマさんがお師匠さんの資料の中から、僕の鈴に彫られていた紋章と同じものを見つけてくれたんです。大陸の東の国のものだそうで、これっぽちも実の両親に会いたいとは思いませんけど、ルーツくらい調べても良いかなと思いまして」
少々早口で言って、ジェイは軽やかな音を立てる鈴を見せた。
「……ウィル。お前は島流しになったんじゃなかったのか」
「ミュゼットさんより送られた恩赦がある。それに、今回は遺跡船の陸の民代表として、王国へ挨拶するという名目だ」
街の保安は、部下とモーゼスの子分たちに任せてきたらしい。彼の隣には見覚えのある亜麻色の頭があり、セネルがジトリと見やると、胸を張るように前へ出てきた。
「ハティは一度お爺ちゃんのところへ戻るのよ。パパが頑張ってるって、伝えようと思って」
その後は、先に遺跡船に戻るつもりだと、ハリエットは楽しそうな様子だ。
「で、何故ワルターがいるんだ」
「俺が水の民代表だ。マウリッツから、次期里長を命じられた」
珍しく陸の民の服を着ているワルターが、こともなげに言う。水の民の衣装は悪目立ちするので、挨拶のときに着るらしい。成程、これらの準備のために皆あれほど忙しそうに動いていたのか。
「お前……フェニモールは良いのか」
「マウリッツと共に里の留守を任せてきた。それに、俺は護衛でもあるからな」
「護衛?」
キィと閉めた筈の扉が開く。セネルは自然と振り返り、目を丸くした。
「外交官として、ウィルさんやワルターさんたちと、挨拶しに行くのよ」
その後は各地にいる、まだ遺跡船に行きたくても行けない水の民や、留まることを決めた水の民の様子を見て回ろうと思っている。そう話しながら、入室した少女はセネルの前で立ち止まった。
「シャーリィ……!」
「お兄ちゃん、私も一緒に連れてって」
頷くより先に、セネルはシャーリィを抱きしめた。シャーリィは少し驚いたようだったが、嬉しそうに笑ってセネルの背中に手を回す。
「ほらほら、セネセネ、いつまでもラブってないでさ」
パシンとセネルの背中を叩いたノーマが、クルリと人差し指を回した。抱擁を止めたセネルは、シャーリィと手を握ったまま頷く。部屋に揃った仲間たちを見回して、セネルは握った拳を天井に向けた。
「皆で行こう、大陸へ!」
「おぉー!」
甲板にまで届くような気合の入った声が、部屋に響く。
彼らを乗せた船は大陸へ。未来へ向けて歩き出した彼らの旅路は続いていく。絆に結ばれたそれは、やがて伝説となるやもしれない。
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