ぴくり、と隼の耳が動く。その様子に、始はニヤリと笑った。
「どうしかしたのか?」
「……成程」
今、泡が体内で弾ける感覚がした。恐らく、剣に与えていた隼の魔力が戻って来たのだ。隼の予想通り、二手に分かれた一方が郁の部屋で何かをしたらしい。こんなことができるのは、恐らく東の霊峰に住まう巫女候補の一人である、あの少女くらいか。自分と同じように真っ白な少女の姿を思い浮かべ、隼は小さく笑った。それから手を肩まで上げ、ヒラリと振る。
「……降参、参った。確かに、これ以上意地を張っても、意味はないね」
隼の言葉に、ほ、と陽たちの緊張が解れる気配がした。始もそっと息を吐いて、隼の傍らを通り過ぎ、玉座へ向かう。新たちも隼を一瞥しつつ、その後に続いた。抱き上げた春を新に任せ、始は玉座に座ったままの海と向き合う。虚ろな深海は、見る者の背筋を震わすような冷たさを孕んでいた。それに目を細め、始はそっと瑞希から受け取った剣に手を添える。
「だめ……だ、はじ、め……」
そのとき、新の腕の中で意識を失っていた春がポツリと呟いた。まだ頭がはっきりしないのか、薄い目を開けて始を見つめる。思わず振り返っていた始は、玉座から感じたことのない巨大な力の気配を感じて背筋を泡立たせた。
「海は……」
春の言葉を遮るような咆哮が、城内に轟く。



Moon Rabbit In Wonderland〜御伽噺の終わりと始まり〜



「な、なに……!?」
ぐったりとする恋の肩を支え、駆は咆哮によって揺れる城を見上げた。椿から貰ったブレスレット型の呪具によって隼の魔力という枷も、絡みついていた死の呪縛も解くことはできた。しかし恋の身体にも、負担が大きくかかったようだった。長距離を走ったときのように息を荒く吐く恋を背に負い、駆は立ちあがった。
「夜さん、葵さん、取敢えず始さんたちと合流しましょう!」
「そうだね」
足の悪い夜を葵が、まだ意識が朦朧とした様子の郁をヤマトが背負い、彼らは部屋を飛び出した。大急ぎで玉座の間へ戻った彼らが見たのは、
「何、これ……!」
灰色の、巨大な龍が始たちの前に立ちはだかる風景だった。白田の数倍はあろう巨体は、幸いにも無駄に高く作られた天井にはぶつかっていない。始は盛大に顔を顰め、隼も緊張した面持ちで龍を見上げている。
「ディアボロ……」
「知ってるのか」
「……伝説の、龍……」
始の問いに答えたのは、春だった。支える新の腕を解き、春は眉を顰めて灰色の龍を見上げている。
「デュランダルに封じられていた伝説の龍が、海の身体に宿っていたんだ」
「そんな……」
「春、お前どうしてそんなこと」
「海から聞いた」
その場にいた者たち全員が―――特に白兎は顕著に―――息を飲んで驚きを表した。春は隼へ視線を動かし、何かを堪えるように目を細める。
「海の心は確かにあの事件で身体から離れてしまった……でも、ずっと隼の傍にいたんだ」
今も、そこに。対である春にだから解る。眉を顰めて口元に笑みを浮かべ、隼をじっと見つめる海の姿が、そこに。春の言われるまま振り返って、隼は目を凝らした。千年生き、魔王と呼ばれた彼でも、そんな顔ができるのかと、始はつい驚いてしまう。
「今、あの龍は海の身体を媒介にしてるってことか?」
剣を抜いて夜を背に庇いながら、陽はギリと歯を噛んだ。新も葵を下がらせ、スラリと剣を抜く。
「だい、じょうぶ……」
「いっくん……!」
ヤマトの背で身体を起す郁へ、涙が手を伸ばした。それにニコリと笑って、郁はヤマトの背から降りる。しっかり二本の足をつく彼の傍らに寄り添い、涙はその手に指を絡めた。それに少し照れたように笑って、郁は始たちへ視線を向ける。
「あれは、実体を持たない力の具現です。海さんの身体からもう一度この剣へ戻せば……」
「海は救える」
言葉尻を拾う春へ、郁は強く頷く。
「けど、そんなのどうやって……」
困惑した様子で、夜は郁を見やった。彼としては、目覚めて早々まだ顔色の戻らない郁が心配なのだろう。郁は夜を安心させるように微笑んで、デュランダルを取り上げた。
「この剣で、龍を貫きます」
封印の禊はデュランダルだ。これを力の中心に据えることで、封印は発動する。それで、と彼の元へ駆け寄った隼が、眉を顰めながら口を開いた。
「海に影響はないの?」
「……解りません」
クッと目を伏せ、郁は消えそうな声で答えた。彼も、海の身を案じているのだ。そのことは痛いほど伝わってきて、隼の眉間がやわらぐ。ぽん、と郁の柔らかい茶色を隼は撫でた。少し驚いたように、郁は彼を見上げる。
「僕はいっくんを信じるよ。仲間だからね」
「隼さん……」
ニコリと笑って、彼の手から隼はデュランダルを取り上げた。龍へ向き直り抜刀しようと柄を掴んだ隼だが、剣がそれを嫌がるように手から飛び出した。
「デュランダル?!」
驚いた陽の前を通り過ぎ、デュランダルが収まったのは、春の手の中。
「おい、どういうことだ!」
「デュランダルは意志を持つ剣……デュランダル自身が、春に使われることを望んだんだ」
始の問いに答えながらも、隼自身も心底驚いたように目を見開いている。春はずしりとした質感を伝えるが重さはそれほどない剣を、グッと握りしめた。海の対である春だから、この剣は救い手に春を選んだのだろう。剣術は得意分野というわけではないが、選ばれたならばそれに答える義務が、春にはある。
「……やるよ、俺」
「春!」
「始」
始を落ち着けるように、その声は静かな何かを秘めていた。始は口を噤み、こちらを見上げる常盤をじっと見つめ返す。温かいアメジストに目を細め、春はふわりと微笑む。
「俺を信じて、始」
「……っ」
始はグッと唇を噛みしめ、拳を握った。それから大きく息を吐き、顔を上げる。
「……俺は、お前以外を宰相におくつもりはない」
「うん」
「……援護はしてやる」
短く言って、始はスッと春に背を向けた。彼のその手が腰の剣に触れるのを見て、春はそっと目を閉じた。
「ありがとう」
始と春が並んで、龍と相対する。その背中を見ていることしかできなくて、葵はくしゃりと顔を歪めた。そんな彼の手を、新がそっと握りしめる。
「大丈夫だ。俺たちの王さまと宰相さまだぞ」
「……うん、そうだね」
溢れそうになる涙を手で拭って、葵はしっかりと二人の背中を見つめた。もう、目を逸らさないように。
「涙!錫杖を!」
「あ、うん!」
隼の声に頷き、涙は抱えていた黒兎の錫杖を投げた。それを掴み、始はクルリと回転させる。一瞬の回転の後、それは黒い刃の剣へと姿を変えた。
「僕も援護はさせてもらうよ。僕らの事情に巻き込んでしまったわけだしね」
白刃の剣を携えた隼が、始の横に並ぶ。好きにしろと呟いて、始は龍を見上げた。それから腰にぶら下がる重い剣を、郁に投げて渡す。郁は驚きながらも、しっかりそれを受け取った。
瑞希から始へ預けられたものだが、郁に渡したとて支障はないだろう。今この中で、涙と郁だけが武器を持たないことになる。龍の攻撃の余波が万が一にも、彼らを襲わないとは限らない。武器は、手にしていた方が良い。
彼らの背を見つめ、夜は目を細めた。無意識に陽の背に置いた手が丸まり、彼の服を強く掴んでいた。くん、と背後に引かれる感覚に驚き、陽は後へ視線をやる。夜の「すごい……」という掠れた呟きに、陽は小さく頷いた。
「黒兎と白兎の王が、揃っている」
それはまるで、勇者が二人もいるような迫力と安心感を夜たちに与えていた。

「この世界とあちらの世界は、鏡合わせね」
ポツリと溢された瑞希の言葉を拾って、結乃は佇む彼女を見やった。淑やかに背を伸ばした瑞希は草原の中で、じっと始たちが去って行った方向を見つめている。彼らが戻ってくるまでここにいるつもりなのだろうとは簡単に察せられたので、結乃も黙ったまま彼女の隣に並んでいた。真夏の海のような瞳をじっと彼方へ向けて、瑞希は独り言のようにポツポツと口を開いた。
「あちらは黒でこちらは白。あちらの平和が続けば、こちらの戦争が続く」
ままならぬ。小さく呟いて、瑞希は風が巻き上げた髪を、そっと手で撫でた。結乃は彼女の髪についた花弁を指で掬う。ありがとう、と小さく笑って瑞希は結乃を一瞥した。
「……白と黒が交わるとき、」
結乃が指を開いて花弁を風に乗せると、瑞希がまたポツリと呟いた。すぐに見えなくなる花弁から視線を瑞希へ移し、結乃は目を細める。
「そこから生まれるものは―――」

「―――行くぞ」
始の短い言葉の後、三人は同時に床を蹴った。
「白田?!」
夜が声を上げた。それにつられて頭上を仰いだ涙は、真っ白い龍が飛んでいくのを目にする。それと共に舞う黒い龍の姿もあって、葵も息を飲んだ。
「あっちは……黒田神……!?」
絵本の挿絵で見た姿と、全く同じだ。
どうして、という呟きは黒兎と白兎、どちらから零れたものか。彼らの見つめる中、黒と白の龍は交差を繰り返しながら宙を舞う。それはディアボロの視線を誘導するような動きで、まるで始たちの突撃を支援しているように見えた。
「丁度良い、この好機を逃すなよ、春!」
「う、うん!」
「春、剣を刺すなら胸だよ」
「うん!……て、ええ!?」
隼のアドバイスに頷いた途端、浮遊感に襲われた春は声を上ずらせた。彼の襟首を黒田が口でくわえて飛空したのだ。
「あ、おい!」
思わず始は、それを止めようと声を上げる。
「春は、高所恐怖症なんだぞ!」
しかし始の言葉もむなしく、黒田は遊ぶように宙返りをしながらどんどん高度を上げていく。ディアボロの胸の高さも超えたそれに、黒田が完全に遊んでいるのだと始は頬を引き攣らせた。
一方、急に足元の感覚を失った春はといえば、自身の意識を繋ぎとめることで手いっぱいだった。何とか剣を両手で握り、身体が揺れないよう筋肉を強張らせる。高所が苦手な彼が、まだ意識を保っていられたのは、託された想いのお陰。
「―――いっ?!」
しかし突然首にかかる負担がなくなり、身体が落下する感覚にその覚悟も粉砕しかけた。ディアボロの頭上で、黒田が噛んでいた春の襟を捨てたのだ。かぱ、と大口を開けたディアボロの姿が視界に飛び込んできて、春の目尻に涙が浮かぶ。
「―――春!」
「!」
始と隼は咄嗟に手に持っていた剣を投げた。黒と白の軌道を描くそれらは交差し、ディアボロの顎を、まるで拘束具のように押し上げる。剣はそのまま勢いを失って落下したが、ディアボロの巨体は僅かに揺れ、口端は春の落下軌道からずれた。
「―――春」
ひゅお、と耳元で切る風に混じって、そんな声が聞こえた。
そこからはもう、スローモーションがかった世界だ。春が閉じていた目をそっと開くと、ディアボロの薄灰色の身体が飛び込んでくる。どくん、と心臓が鼓動を伝え、それと共鳴するような音がディアボロの胸からも聴こえてきた。よく見れば、灰色の皮膚の一部に、淡い青が灯っている。
そこか、と思うまで、三十秒ほどあったように春には感じた。しかし落下スピードから考えて、その思考時間はもっと短かっただろう。
春は剣を持ち上げ、グッと腕を伸ばした。剣が少し弾力のある皮膚を突き、ずぶり、と刺さる―――その瞬間、春の耳に周囲の音が一気に蘇った。
「―――春!」
始の声だ。剣の柄を両手で掴んで宙に揺れたまま、春は視線を巡らして彼の姿を見つける。
「始……」
それにホッとした瞬間、緊張が解けたのだろう。途端に始の周囲の風景までも視界に飛び込んできて、春は己が今、かなりの高所で宙ぶらりん状態にあることを自覚した。さぁ、と頭から血の気が引き意識が遠のく。
春の手が剣から離れてしまったことに気づき、始は慌てて動きを止めたディアボロの足元へ駆け寄った。落下する春の身体を始がしっかりと抱きかかえた瞬間、ディアボロの身体に変化が現れ始めた。
春の突き刺した剣を中心に、まるで夜に街を照らす月のような光が、ディアボロを覆う。パ、と散ったそれは、蛍の光のように広間を満たし溶けていった。その発生源、ディアボロの胸のあった位置に、剣と共に浮かぶ姿が一つ。隼は目を見開き、ゆっくり落ちてくるそれの真下へ駆け寄った。
落下地点を見極めつつ左右へ揺れながら、両腕を伸ばす。何とか抱き留めたものの勢いに負け、隼は尻もちをついた。からん、と少し脇の方で剣が床とぶつかる。
春と抱えて肩膝をつく始の周囲に集まっていた黒兎たちの横を、白兎たちが通り過ぎていく。隼の傍に集まった彼らは、彼の腕の中で横たわる白兎の姿に、顔を歪めた。
ゆるりと口元が弧を描いて、真夏の海のような瞳が細まる。とん、と剣を握りしめてまめだらけになった固い指が、隼の濡れた頬を叩いた。
「……なーにしけた面してんだよ」
少々か細い声だったが、聞き親しんだ快闊とした雰囲気は確かにある。
「誰の、せいだよ……っ」
陽の言葉に同意するように、隼は彼の身体を強く抱きしめた。

和やかな雰囲気の落ちる広間を飛空していた白田が、不意に降り立って剣をくわえた。傍らで同じように降り立った黒田は、白田へ向けて羽根を広げる。何かをアピールするようなその姿に一瞥もくれず、白田は剣をくわえたまま飛び上がった。黒田は小さく嘶くと、窓から出て行く白田を追っていった。

白田は剣を、霊峰へと持ち帰った。それを受けとった瑞希は安堵で胸を撫で下ろすとすぐに、異界との扉で向こう側にいる雪と共に、禊として打ち立てた。これにより、黒兎王国と白兎王国の、互いの世界の均衡を崩さない程度の干渉なら自由になったのだ。

「と、いうこと、なんだけど……」
先ほどからムッスリとした顔でこちらを見つめる駆に困り果て、恋はポリと頬を掻いた。上記の後始末をつけるため、一か月ほど留守にしていたのだが、駆はそれにご立腹らしい。
(確かに俺は帰らない的なこと言ったしなー)
駆からしてみれば、約束を破ったように感じたのかもしれない。さて、どうやって機嫌を直そうか。恋が腕を組んで考え込んでいると、突然駆は彼の肩を掴んだ。
「……恋」
「は、はい」
更には真剣な顔をして距離を縮めてくるものだから、恋は思わず声を上ずらせた。鼻先が触れあうのではないかというほどの距離に、恋の方が根を上げたくなる。
「……約束の、ことだけど」
「あ、ああ。ごめんやぶって」
「え?」
「え?」
キョトンとした駆の顔に、恋もつられて目を瞬かせた。少しして駆は何のことか察したらしく、ああと頷いた。
「別に留守のことなら約束破ったとか思ってないよ。必要なことだから少し帰っただけだろ」
「うん……」
「俺が言ってるのは……話の方」
―――帰ったら、……俺の話を、聞いてください
それはあの、『死亡フラグ』のことか。思い出すと同時に何故か恋の頬に熱が溜った。それを見た駆の顔も、ボッと赤くなる。
「な、何で赤くなるんだよ!」
「駆さんだって!」
至近距離で互いに赤面しながらギャーギャー言い合う二人には、色気の欠片もない。これから始まるだろう物語の予感も、また。

「やめとけ、葵」
「いや、だい、じょうぶ」
新の心配など無用だと首を振って、葵は最後の一枝に手をかける。新の手も借りて、一気に登った葵は、新と並んで枝に腰を下ろした。葵とは違って息を乱していない新は、小さく息を吐いて、頬杖をついた。
「急にどうしたんだよ、木に登りたいだなんて」
「ちょっとね……」
浮かんだ汗を拭って、葵は小さく笑う。幹に片手をついて、葵は葉の間から見える地面を見下ろした。
「これが、新が見ている景色か……」
もっと見たい。彼の隣に並んで、彼と同じ景色を見て、彼と一緒に歩いていきたい。
葵、と新の呼ぶ声が聞こえる。葵はフワリと笑って新を見やった。新は照れたように頬を掻き、そっと視線を逸らす。枝についた彼の手に空いている自分の手を重ね、葵は込み上げる恥ずかしさを誤魔化すように地面へ目を落とした。彼を一瞥して、新も同じように下を見下ろす。
「……まずは、体力作りだな」
「あはは、善処します」
ユラユラと揺れていた黒耳が、そっと触れあった。

「俺さ、もう我慢しないことにした」
その一言の直後、贈られた強烈な平手。髪と同じように赤い頬へペタリと手をやって、陽は呆然と夜を見つめた。夜は満足げな顔で、読みかけの本へ手を伸ばしている。
「いや、いやいやいや」
いつものように女たちから匿ってほしいと飛び込んでみれば、先の言葉と平手。これは何の仕打ちだ。いや、何の、とは解り切っているのだが、いつもの夜の対応と違う。
陽が詰め寄ると、夜は何の用だと言いたげに眉を顰めた。
「いや、何だよいきなり!平手するか?普通」
「俺だって怒ることくらいあるよ。……好きな人がいつまでも別の人ばかり見てたりするとね」
「……は?」
陽は思わず息を飲んだ。夜は真っ赤な顔を逸らしたくてたまらないという様子だ。けれど真っ直ぐ陽を見つめ、読んでいた本で口元を隠す。
「……好きだって、言ってるだろ」
「は、お前、……マジか」
ヘタリとその場にしゃがみ込み、陽は大きく息を吐くと髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。小さく呼吸し、陽は夜の手を取って顔を上げる。手の形など解らないくらい真っ赤な顔で、陽は夜を見上げた。
「……俺も、好きだ。お前を、守りたい」
「……うん。知ってた」
口元を綻ばせ、手汗の浮かぶ陽の手に、夜はそっと指を絡めた。

涙がハッと目を覚ますと、視界一杯に郁の寝顔があって、それにホッと息が零れた。ヤマトの腹を枕にして、中庭で日向ぼっこをしていた。その最中、みんなウトウトとしてしまったらしい。風に揺れる亜麻色の髪を、郁が起きないようにそっと指で弄る。
唇から零れる吐息、上下する肩、髪や頬や手の感触。彼は確かに、ここにいる。そのことに酷く安堵して、涙はそっと郁の胸に耳を当てた。とく、とく、と子守歌のような音に、また眠気を誘われる。
「涙……」
寝ぼけたような声が、頭上に落ちてきた。涙が顔を上げると、寝ぼけた様子の郁がふにゃりと微笑んだ。
「何だ、甘えん坊だなぁ」
よしよし、と涙の背中を撫でるように抱き寄せ、郁は赤ん坊をあやすようにそこを叩く。それに何となくムッとして、涙は郁の腕から抜け出ると、逆に彼を自分の腕の中に閉じ込めた。
「る、るい?」
ひっくり返った声が聞こえたので、郁はすっかり目を覚ましたようだ。慌てたような郁の態度にすっかり満足して、涙は彼の頭を自分の胸に押し付けた。郁は少し呆れたような吐息を溢して、居心地の具合を直すと目を閉じた。
「……涙はあったかいな」
「そう?」
「そうだよ……すごい、安心する」
消えるような語尾。また眠気が起こったのだろう。欠伸をする郁を見つめ、涙はそっとその唇へ自分のそれを落とした。
「る、い」
驚いた郁が咎めるような声を上げる間もやらず、何度も、何度も。
音に反応して耳を立てたヤマトが呆れの吐息を溢すほど、それは暫く続いていたそうな。

「……重いんだけど」
「んー」
海の欲しい言葉は、それではない。ソファに座る海の太腿を枕にして寝転ぶ隼は、至極ご満悦な顔だ。
「もう随分と海で癒されていなかったからね。海分補給しなきゃ」
「なんじゃそりゃ」
ちょいちょい、と頬を指で叩かれると、海は小さく息を吐いて身を屈めた。そっと角度を変えながら、唇を合わせる。隼にしては珍しく、啄むだけの軽いものだ。暫くして唇を離し、海はテーブルに置いた紅茶で乾いた口内を潤した。その間も、隼は海の腰に腕を回してサワサワと遊ぶように背中を撫でていた。白い髪を指で弄りながら、彼が楽しそうならそれで良いかと思ってしまう辺り、海も随分絆されている。
(ま、いっか)
これが御伽噺なら、ハッピーエンドはのんびりしたって良い筈だ。
「隼、喉渇かないか?」
「さすが海。丁度紅茶が飲みたかったんだ」
「そっか」
それでは、と海はカップを取り上げる。受け取ろうと起しかけた隼の身体を推し留め、海は紅茶を少し口に含んだ。そのまま飲みこまず、隼の口へ運んでいく。ゴクリ、という音がやけに妖艶に部屋へ響いた。ちゅ、と小さく音をたて、海は少し顔を離す。隼は丸くしていた目を細めた。
「……わぁ、すっごいサービスだね」
「お疲れの魔王さまには特別だ。……お代わりは?」
「……勿論、」
隼の手が海の後頭部に回り、彼を引き寄せる。鼻先を触れ合せると、どちらからともなく口元が綻ぶ。午後の御茶会は、少し中断だ。

「はいこれ」
明るい声と共にドサリと置かれたのは、書類の山。既に左右を同じもので囲まれていた始は、目の前の視界まで塞ぐようなそれに、ゲンナリと顔を顰めた。
「何だよこれ……」
「始が決めたことでしょ。白兎の国との交流を深めるための方策だよ」
ニッコリと良い笑顔で、春は山を叩く。始は筆を置いて、眉間を指で揉んだ。
「……ちょっと張り切りすぎじゃないか?宰相殿」
「期待には応えようと思って」
「は?」
始が思わず聞き返すと、春はクスクスと笑いながら、
「『俺以外に宰相を置くつもりがない』んでしょ?」
「お前……っ」
カッと始の頬に血が昇った。ガタン、と音を立てて彼は立ち上がり、春の襟首を掴んで引き寄せる。数枚の書類が床に散らばったが、二人ともそちらを見ることはなかった。
「……そういう意味じゃないことくらい、分かっているだろう」
「どういう意味?」
至極落ち着いた常盤の瞳が、苛々としたアメジストの瞳を見つめる。成程、と心の中で舌を打って、始は口元を歪めた。性質が悪い。解っていて、煽っているなんて。
乱暴に掴む手を離し、始はそれをそのまま顎の方へと滑らせた。
「……上等だ。お望みのままにしてやる」
「王さま横暴だよ」
「宰相さまは意地が悪い」
ニヤリ、と歪む口。そのままゆっくり食むように合わさって、アメジストと常盤が混ざり合う。
麗らかな午後の陽射しが満ちる、王宮の一部屋。新たな御伽噺は、きっとここからまた始まるのだ。


(20150830)
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