固い床の上で目が覚めた。暫く白い大理石を見つめていた春は、すぐに気を失う以前の状況を思い出し、慌てて身体を起す。あっさり起き上がれた身体は、どこも拘束された様子がない。それに拍子抜けしつつも辺りを見渡すと、そこは牢屋などではなくだだっ広い場所―――黒兎王国の王宮の、玉座がある間によく似ていた。
光が当たればさぞ神々しいだろうそこは、影が幾つも落ちているせいで不気味な雰囲気を漂わせている。一等影が深いところには立派な玉座があり、そこに誰かが座っていると春はようやっと気が付いた。
真っ白で立派な耳に、上等な白い衣装。頬杖をつき足を組んで座る様は堂々としており、玉座の正当なる持ち主である確信を春に抱かせた。ただ、海のような色をした瞳は、深海のように深く、濃く、光が見えない。虚ろなそれに見つめられた気がして、春はゾッと背筋を泡立たせた。
「……あ、」
震える唇を開き、それでも言葉を発しかけた途端―――世界が、変わった。
いや、場所自体は変わっていない。変わらず、白い王宮のままだ。しかし急に光が増し、辺りから一斉の影を取り払う。突然神々しくなった周囲に、春はポカンと口を半開きのまま座り込んでいた。
「おーい、大丈夫かー?」
ひらり、と春の視界を横切るのは、手。続いて晴天下の海原のような瞳が覗きこんでくる。春は大袈裟に肩を飛び上がらせ、息を飲んだ。溌剌とした様子で春を見下ろしていたのは、先ほどまで虚ろな瞳で玉座に座っていた、あの白兎だったのだ。
尻もちをつくような体勢の春を見下ろし、白兎は小さく噴き出す。
「悪い、驚かせたか?」
「あ、いや……」
白兎はカラカラ笑って、春と目線が合うよう、その場にしゃがみ込んだ。
「もしかしてお前が、隼の言ってた俺の対か?本当にいるもんだな」
「え?」
単語の意味が拾えず春は目を瞬かせるが、海はそれを気にせず膝に頬杖をついて苦笑した。
「俺は海。お前は?」
「……春」
「春。悪いな、うちの魔王さまが迷惑をかけて」
魔王さま、とは誰のことだろうか。春が眉を寄せるうちに、海は何処か遠くを見やるように目を細めた。
「アイツも、悪いやつじゃないんだ……あのときも、俺や郁を救おうとしただけで……」
「あのとき……?ごめん、全く話が見えないんだけど……」
素直に春がそう言うと、海は一瞬きょとんとした顔を見せたが、すぐにまた苦笑した。
「すまん、何の説明もしてなかったな……」
「いや……うん」
「説明する前に、一つ頼んでも良いか?」
頼みごと?と春が小首を傾げると、海はくしゃりと笑った。その笑顔に何処か見覚えがあって、春は内心で眉を顰める。
「アイツらを―――」



Moon Rabbit In Wonderland〜白兎の国〜



とん、と軽い足音を立てて始たちは、広がる周囲の景色に感嘆の息を溢した。
「ここは……」
「綺麗なところ……」
入口となった薄暗がりの洞窟も、光を乱反射する水面が美しいところであった。今目の前に広がるのは、それとは別の打つ草を持つ、柔らかい萌黄とパステルカラーが点々とする草原だった。
葵や新たちだけでなく、陽や夜も驚いた様子で辺りを見回している。聞けば、初めに訪れたときは隼の力を使ったため、霊峰を通らなかったらしい。
かさ、と葉を踏む音がしたので、駆はそちらを見やった。
「ようこそ、白兎の王国へ」
宝石を転がすような声。ワンピース調の軍服に似た服で身を包んだ少女たちが六人、始たちを出迎える。彼女たちが、雪たちと対になる白兎の巫女候補なのだろう。真っ白な少女が一歩前に出て胸元に手を当て、天童院菫だと名乗った。
「話は聞いているわ。あなたたちに、魔王を倒す術を―――」
「それは要らない」
「!」
菫は大きく目を見開き、ゆらりとよろめく。能面のように表情筋の動きは見えないが、始の言葉が余程ショックだったらしい。傍らに立っていた麗奈が、苦く笑った。クスクスと笑いながら、瑞希が首を傾ぐ。
「何故、でしょう?あなたたちは、魔王を倒すためにやってきたのでは?」
「御伽噺の勇者になるために来たわけじゃない。迎えに行くべきやつがいて、そのついでにぶん殴りたい男をぶん殴りに行くだけだ」
淡々と言いながら、始は手を小さく動かす。それは殴るというよりアイアンクローの動きをしていて、駆と恋は頬を引き攣らせた。
瑞希は少し眉尻を下げる。彼女の名を呟き、結乃が剣に手をかけながら庇うように前へ出た。
「どうする?」
「力づく、無視する、説得する」
「できれば平和的にいかない……?」
結乃の問いへ答える祭莉に、あかねは苦笑を溢す。そのとき、カキン―――長閑な草原に似つかわしくない音が響いて、結乃と新、祭莉と陽の間に白刃が煌めいた。それぞれ抜刀した剣を突き合わせ、互いに目を合わせる。
「……いきなり女の子に斬りかかるなんて、男の風上にも置けないんじゃない?」
「俺だって超絶至極不本意だっつーの。けど、ここで押し問答していても埒あかないだろ」
「面倒。何であんたまで」
「俺も、ぶん殴りたいやつがいるんでね……」
ギリギリと揺れる剣は、互いの力が拮抗していることを示している。新たちが加減しているのか、結乃たちが手練れなのか―――その両方なのか。
フォン、と弦を弾くような音と共に、新と陽の背後に月の光で描いたような魔法陣が現れる。葵が見やると、彼らへ向かって手を伸ばす麗奈の姿があり、魔法陣は彼女の仕業と察せられた。
「結乃、祭莉。収めて。麗奈も」
「新、陽。落ち着け」
瑞希の静かな言葉と始の落ち着いた声に、四人は渋々剣を引いて納刀し、麗奈は素直に腕を下ろした。すぅ、と魔法陣も消えていく。瑞希は始と目が合うと、ニコリと笑った。
「全て、知っているようですね」
「ああ。陽と夜に、全て聞いた」
淑やかにふくよかな胸のところで手を重ね、瑞希は少し目を伏せる。少々の間目を閉じていた彼女は、意を決したように顔を上げ、きゅっと左右の指を絡めた。
「与えましょう、皆を―――魔王たちを救う術を」

黒兎の国から奪った錫杖を、隼は鼻歌交じりに手で弄ぶ。そんな彼を眺めながら、涙は僅かに眉を顰めた。彼の傍らにはロバほどの大きさの黒猫が、シャリシャリと上品に歩いている。ヤマトという名の、涙の友だちだ。
「……本当にそれで、いっくんたちを救えるの?」
「僕が信じられないかい?」
「隼のことは信じてる。信じてないのは、錫杖の方」
素直な涙に、隼はクスリと笑みを溢した。「信じてほしいな」と小さく呟き、隼はもう片方の手に持っていた白の錫杖をクルリと回す。
「彼……春と言ったかな。まだ寝ているのかい?」
「さあ?隼が放置したまま、僕は何もしてないよ」
箸より重い物は持ちたくない、白田の力でこちらの世界に戻って早々、隼はそう言って気絶した春を玉座の間に放り投げたのだ。箸というものがどういうもので、どの程度の重さなのか、涙はさっぱりわからない。けれどそれは、錫杖やティーカップや、郁や海より重いのだろう。あの春とかいう黒兎が海より重いとは、涙には思えないのだが。
鼻歌交じりに、隼は王の間へ続く扉を押した。涙が背後で扉を閉める音を聞きながら、隼は真っ直ぐ靴を鳴らして玉座へ向かう。
そこにはあの日から変わらぬ姿で、海が堂々と腰を据えていた。彼の足元近くには、隼が転がしたままの春がいる。爪先をぶつけたことで彼の存在に気が付いた隼は、そっと膝をついてぐたりとした肩を抱き上げた。
「呪いを解くなら、いっくんも連れてきた方が良いんじゃないの?」
少々苛立ったような口調で、涙が言った。ソワソワと服の裾を弄ったり耳を揺らしたりして、涙はのんびりとした様子の隼の傍らへ立つ。『デュランダル』に蝕まれた郁は、自室で寝かせたまま。今から黒兎の錫杖を使用するなら、彼も連れてきた方が二度手間にならぬ筈だ。
隼はしかしにこやかな笑みを浮かべ、いや、と緩く首を振った。
「今はまだ、この錫杖は使えないよ」
「え……?」
「この錫杖は、僕には使えない。本当の持ち主である、彼にしかね……」
ギィ……。背後で、重々しい扉の開く音がする。涙はそっと背後へ視線をやったが、隼は振り向かずとも、そこに誰がいるか解っていた。おい、と声をかけられ、漸く隼は首だけ振り返る。悠然とターンし、隼は目を細めた。
「やあ、来ると思っていたよ」
そこにずらりと並んだ、黒兎の面々。その中にはよく見知った赤い髪もあって、隼の口元は自然と緩んだ。
持ち上げた春の肩を床に戻し、隼はそっと立ち上がった。黒兎の錫杖を涙に預け、そのまま彼を下がらせる。それから、まだ入口付近に固まったままの始たちとの距離を、隼は悠然とした足取りで詰めていった。始は鋭く目を細めたまま、しかし腰に吊るした剣に手を触れず、その隼を見つめる。
「やあ始、君から来てくれるなんて嬉しいよ」
「よく言うな。そう仕向けたのはそっちだろう」
「……何のことかな」
変わらず笑みを浮かべながらも、隼はそっと目を細めた。そこでやっと、頭数に違和感を覚える。陽はいるのに、夜はいない。更に黒兎の王宮で見た顔が、二人ほど少ないような。
「……涙」
「なに?」
「……いっくんのところへ」
「……!」
涙はチラと始たちを一瞥し、コクリと頷いた。そっと後退し、涙は駆け足で彼らの傍を通り過ぎて王座の間を出て行った。予想外というか何となく予想できたことであるというか、始たちは素直に彼を通してくれた。
「……どういうことなのかな、始」
カツン、と床を叩いて隼は始を見つめる。口元は笑んでいるが、その目は閉ざされた冬のように冷たい光を抱いていた。しかし始は軽く肩を竦めるだけだ。
「さてな」
「……いくら始でも、僕怒るよ?」
「俺は既に怒っている」
だが安心しろと言って、始は少し足を開いた。抜刀するような足幅だが、しかし剣の柄には一向に手をつける様子を見せず、始は美しいアメジストを隼へ向ける。
「全部、知ってるんだよ」
全ては、陽と夜から聞いた。

「頼む……、涙たちを、助けてくれ……!」
俯いたまま、掠れた声で陽が吐き出す。
「ふざけるな」
そんな悲痛な陽の言葉が部屋に溶けるその前に、不遜な声がそれを蹴り上げた。驚く葵の隣から立ち上がり、新は陽たちの前に膝を折ってしゃがむと、陽の襟首を掴んだ。
「お前たちから臭い匂いはしない。けど、気に食わない匂いはするんだよ」
新の鼻は、特殊だ。悪意を持った者を、泥のような臭い匂いで判別できるのだ。陽と夜から、泥のような匂いはしない。しかし、例えるのなら色んな香水を混ぜ込んだような不快な匂いが、先ほどから絶えないのだ。それは、そう。
「嘘吐きの匂いだ」
陽と夜は、何かまだ隠している。
陽は目を大きく見開き、夜はまた泣きそうにくしゃりと顔を歪めた。その反応で、葵たちも新の言葉が正しいのだと察した。
陽、と震える声で夜が呟く。陽は苦虫を噛み潰したように顔を顰め、襟首を掴み上げられたままそっと目を伏せた。ぱ、と新は手を離す。陽も夜も、何も反論しなかった。無言で、肯定していた。
「……お願い、です……」
とうとう、夜の瞳から雫が零れ、彼の膝を濡らした。
「みんなを……助けて……!」
自分たちだけでは力不足なのだと、震えた声で呟く。それはあの魔王もかと葵が訊ねれば、夜はコクリと頷いた。
「……幾ら王が決まったからと言って、元々王の制度も天啓なんてものもなかった世界です。本当の意味での治安なんて、できていなかった」
ずず、と鼻を啜って嗚咽を飲みこみ、夜は赤い目で床を見つめる。
それは己の力不足だと、陽の語りを引き継いだ夜が呟く。
逆臣がいたと、夜は言った。王城の整備と組織が粗方完成した頃、漁夫の利として奪おうとした逆臣によって、海が腹を刺されたのだ。
ぼたぼたと、白い床に赤い血が零れる。
「海さん!」
「この……!」
「夜!」
逆臣を捕えようとした夜も、しかし片足のハンデによって腕を切られた。崩れ落ちる彼を陽は抱き留め、逆臣からゆっくり距離を取る。
腹を抑えて身体を丸める海を庇い、隼は冷えた目を逆臣へ向けた。その極寒を思わせる瞳に怯えた逆臣は、比較的手近にいた涙へ手を伸ばした。
「……っ!」
首に腕を回され、気道が圧迫される。顔を顰めた涙を見て、郁はギリと歯を食いしばった。
「涙!」
「いっくん……」
陽は、郁が抜刀したデュランダルを強く握りしめる背中を、ただ見つめていた。だから、誰よりも早く彼の異常に気付いたと言う。ゆらり、と影のような闇ような湯気が、剣から立ち上ったのだ。
「……おい、やめろ、郁!」
「よくも……!」
デュランダルの柄を両手で掴み、郁は大きくそれを揮う。鋭い白刃は、すっぱりと逆臣を薙ぎ払った。醜い悲鳴が、城内に響き渡る。それに耳を塞ぎ、降りかかる雫に目を閉じて涙はペタリと座り込んだ。
陽は夜を抱き留めたまま、ずるりと崩れるように膝をつく。息を飲むことしかできない。デュランダルから立ち上った影が、郁の身体を飲みこまんとする、目の前の状況に。
「郁!」
「海、いっくん!」
隼や涙の制止も聞かず、呑まれようとする郁を救おうと海も影へ飛び込んでいく。すると次の瞬間、真っ白い光が陽の視界を焼いた。
次に目を開くと、何故か影は消えていて、代わりに目を閉じた海と郁がぐったりとした様子で床に倒れこんでいた。
「一体、何が……」
「こうするしかなかったんだ」
陽の問いに答えるように呟いて、隼はそっと海の傍らに座ると、彼の身体を抱き起した。箸とかいうものより重いものは持たない主義なんじゃないのかとか、そんな小言が頭に浮かんだが、陽の口は乾ききっていてとても言える状況ではなかった。
海の頬をそっと撫でる隼の横で、泣きじゃくる涙が郁の身体に覆いかぶさっている。隼の持つ錫杖が嫌な煌めきを放っていると、陽はやっと気が付いた。
「おい、それ……」
以前、『死』を司る錫杖であるとか、隼がふざけた口調で言っていたもの。それをクルリと振って、隼は小さく笑った。
「言っただろう、こうするしか、なかった」
美しい銀が、射し入る陽光を反射している。その風景が、やけに印象的で、陽の網膜にこびりついていた。
デュランダルは、意志を持つ剣だ。郁の、涙たちを守りたいという意志に答え、彼にだけ力を貸していた。あのとき―――海が刺され、涙にまで危機が及んだ瞬間―――沸き上がった郁の怒りにデュランダルが同調した。そこから生まれた力は郁もデュランダルも制御できないものだったのだろう、過ぎたる力は持ち主の身体を飲みこんだ。その渦は死そのものであり、郁を助けようと飛び込んだ海もまた、死にとり憑かれた。今彼らの命を繋いでいるのは、『死』を司る錫杖―――その力をもってして、二人を蝕む死を抑え込んでいるのだ。理を捻じ曲げた対価なのだろうか、海は心を失ってしまったが。
「アイツは……隼は、全部の罪を一人で背負うつもりなんだ……!」
海と郁に死の呪縛を与えたのは、全て千年生きた魔王の仕業。そう思わせ、始に―――異界の王に自身を倒させる。そして、始に白兎の国を救わせる。
陽がそんな隼の思惑に気が付いたのは、白兎の王宮に残した筈の夜が黒兎の国に現れたときだ。隼は、全て見通していた―――夜が一人待つことに耐え兼ねて、白田の力を借り同じように黒兎の国にくることも、そのせいで陽と夜が黒兎たちに捕まることも。そうして、二人だけでも安全なところへ逃がそうとした―――陽が夜に、そうしようとしたように。
「つまり、春を攫ったのも態とか……」
始をおびき寄せるために。しかし、何故隼は始の一番大切な人が春だと知ったのだろうか。始が訊ねると、夜は嗚呼、と事も無げに言った。
「俺たちは対だって言いましたよね。きっと、隼の対は始さんで、海の対が春さんだったんですよ」
取り分け隼は、何でもござれのチート魔王だ。対である始のことを彼が知ったように話す場面も、何度か見ていた。
そのときのことを思い出し、始は苦く顔を歪めた。今思い返しても、私生活を覗かれているような不快さが湧き上がる。まあ、その対故のシンパシーも、新が陽たちの嘘に勘付けた要因なのだろう。
始の話に、隼は苦笑いを溢して肩を竦めた。
「参ったな……そこまで知られていたとはね……でも、僕を殺さないといっくんの呪いは解けないよ」
デュランダルは、隼が彼へ与えた剣だ。あの剣には隼の魔力も宿っている。隼を殺さなければ、その魔力は解除し得ない。
始は無言のまま隼へ歩み寄ると、前触れもなく彼にアイアンクローをかませた。
「いたいいたいいたいなにこれ始」
「ああ言えばこう言う奴だな、好い加減俺だって堪忍袋の緒が切れるぞ」
言うほど始も気が長い方ではない、と新はコッソリ吐息を溢した。ぱ、と始が手を離すと、不意をつかれた隼はヨロリと鑪を踏む。その足もギュルリと踏みつけ、端整な顔の歪むさまが愉快そうに口元に弧を描いた。
「あまり俺を舐めるなよ、世間知らずの魔王」

白く立派な城であるのに、そこは静かで人の気配が全くしない。あの事件以来、隼の力で夜たち以外の白兎が出入りすることを許していないのだという。
明るい色であるのに、光が射し入っているのに、ここは何処か薄ら寒い。葵はそっと腕を摩って、先を歩く夜の後に続いた。新は大丈夫だろうかと、そんな思いが浮かんでは振り払うように目を閉じる。そんなことを繰り返していると、さすがに気が付いたらしい夜が隣に並んで顔を覗きこんできた。
「新が心配?」
「うん、まあ……」
葵は少し目を伏せる。すると期せずして夜の引きずられた右足が飛び込んできて、咄嗟に別の方向へ視線を滑らせた。
「……俺たちは対だって言ったよね」
ふと、夜がそう口を開いた。葵は少し驚きつつ、前方を向いたままの彼の横顔を見つめゆっくりと頷いた。
「これは俺の勘なんだけど、葵は俺、新は陽の対なんじゃないかな」
「……」
葵が返事に窮していると、夜は柔らかい笑みを浮かべたまま彼の方を見やる。
「新の右目の原因、葵?」
「……」
背後で、恋と駆が何かを言いたそうに動くのが解った。葵は小さく唾を飲みこんで、夜の、黒い瞳を見つめる。
「―――そうだよ」
まだ、新と葵が幼い頃の話だ。葵が王子に選ばれ王宮に召し上げられると決まったとき、幼かった葵が家族と離れることを拒み抵抗した。しかし王宮の使いである兵士はそれを良しとせず、幼い葵を無理矢理連れて行こうとしたのだ。泣きじゃくる葵を助けようと、兵士に飛びかかっていったのは、新だった。兵士も、まさか子どもに剣を抜くような真似はしない。ただ、兵士が足に絡みつく新を振り払うと、軽い子どもであった彼の身体は予想以上に転がり、木にぶつかった。そのとき、落ちていた木の枝で右目に―――正確には目蓋に―――大きな傷を負ってしまったのだ。
自分を助けようとした新が、ダラダラ血を流している。その風景を、葵は今でもときたま、夢に見る。
「俺は、守られてばかりは嫌なんだ。俺も、新を守りたい」
実は、白兎の国に来ることを、葵は新から反対されていた。葵は黒兎の王子だ。護衛官として、彼を危険に晒すことは躊躇われたのだろう。だが、葵が押し通した。
真っ直ぐな目をする葵を見て、夜はクスリと笑った。
「やっぱり、葵たちは俺たちの対だね」
夜の言葉の意味が解らず、葵は首を傾ぐ。夜は少し声を潜め、陽も同じことを言っていたと告げた。
「でもね、俺は陽じゃなくて良かったと思ってる」
あのとき怪我をしたのが、右足を失うのが彼ではなくて、良かった。それは、夜の本心だ。
「きっと新もそう思ってるよ。『葵じゃなくて良かった』って」
夜はフワリと口元を緩めて、葵の手を握った。温もりに包まれる手を一瞥して、葵もそっと指を伸ばす。
「……陽もきっと思ってるね。『今度こそ夜を守りたい』って」
「そうだね」
夜の笑顔につられて、葵も頬を緩めた。
「……ありがとう、夜」
「ううん、こちらこそ。葵」
誰しもが、大切な人を守りたいと思っている。思うことは罪ではない。罪なのは、思われていることに気づかずに、その想いを踏みにじること。
(きっと、海さんや郁も……)
ここだと、夜は言って足を止める。郁の自室であるという扉を見つめ、葵は目を細めた。夜がドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開く。想像よりは広い部屋にポツンとあるベッド。そこに、風邪でも引いたような様子で郁が横たわっていた。
葵と夜に促され、そっと恋が歩み寄る。
その背中を見つめながら、葵は先ほどの夜の言葉を思い出していた。
(俺たちが対であるなら、郁の対は―――恋だ)
だからこそ、瑞希も彼に、郁を救う術を預けたのだろう。
郁の寝顔を見下ろし、恋はコクリと唾を飲みこんだ。枕元にあるデュランダルを一瞥し、そっと手を伸ばす。
「待て」
唐突に、ハイトーンの声が聞こえた。す、と視線を向けると、明け放した扉のところに、箸ってきたのか息を切らした涙が立っている。ヤマト共に、特に恋を睨み、涙はそこから離れろと鋭い声を飛ばした。
「涙」
「夜でも、邪魔はさせない」
仲間の言葉にも、聞く耳持たず。これは厄介だと駆はこっそり息を吐き、そっと前に出て涙との距離を詰める。
「……退いて」
「退かない」
陽たちの話から、涙が戦闘を不得手にしていることは知っている。剣をちらつかせば、予想通り涙は苦く顔を歪めても、それ以上踏み込むような真似はしない。
「……る、い……」
苦し気な吐息の合間に聴こえた、掠れる声。
涙も駆も、ハッとしてベッドを見やる。郁が苦痛に顔を歪めながらも口元を緩め、こちらを見ていた。そっと伸ばされる腕は、真っ直ぐ涙に向かっていて。思わず涙は駆け寄り、その手を強く握りしめていた。
「……ごめ……俺が、力不足で……みんなに……」
「そんなこと……そんなことない……!」
じわ、と涙の目が潤む。恋もくしゃりと顔を歪めて、剣へ視線を向けると、覚悟を決めてそれを掴んだ。



(20150713)
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