君の傍に
 蹲った世界で、ガツン、と激しい音が聴こえた。
 次いで男たちの悲鳴が響いて、引っ張られていた髪が解放される。
 私は涙と鼻汁でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
 初めに目に入ってきたのは、地面に転がる男たちを見下ろす『彼』の目。恐ろしいほどに冷え冷えとしていて、私の背筋に悪寒が走った。
 彼は手に持っていたナイフを放ると、返り血だろうか頬についた赤を手でお座なりに拭いとる。それから私の方へ視線をやって、氷のようなそれを途端に崩した。
「無事かい? 良かった。アイツラを見たときはどうしようかと……」
「来ないで!」
 両手を広げて近づいてくる彼から顔を背け、私はもう一度震える声で呟いた。彼は素直に足を止め、黙ったまま私を見つめているようだった。
「嘘つき……! ずっと、私を騙してたのね……!」
 少しでも心を許して、あんな言葉に喜んだ自分を殴り飛ばしてやりたい。悔しさでまた涙がこみ上げるが、嗚咽を聞かれたくなくて必死に下唇を噛みしめた。
 暫くの沈黙の後、彼はポツリと呟いた。ごめん、と。思わず、息を飲む。ああ、本当だったのだ。まだ心の何処かで彼を信じていた自分がいたことに気づき、私はますます顔を俯かせた。
「出てけ……! 出てけ出てけ出てけ! 二度と来るな!」
 ここまで喉を枯らすのは、初めてかもしれない。涙のせいで震える声を振り絞り、私は只管叫んだ。ぐ、と立てた爪が地面を抉って、茶色いそこに黒い滲みが落ちる。
「……ここに来たのは、確かに自分の為に君を騙そうとしてだ」
 けど、と彼は囁くように言葉を続け、私の少し前で膝を折った。
「初めて君を見たとき、想った。『なんて綺麗なひとなんだろう』と」
 ぽた、と地面についた手の甲に、雫が落ちる。彼の言葉は続き、そっと髪の一房が手に取られた。
「――一目惚れだったんだ。あのときの言葉も、嘘じゃない」
 それだけは、誓うよ――彼はそう言って、リップ音を立てた。髪に口づけたのだと、数瞬後に理解した。言葉は、返せない。ただただ息を飲むばかりで、口内がカラカラに乾いていた。
「ごめん。もう二度と、君の前に姿は現さないよ」
 さよなら、シオン――彼の言葉が風と共に耳に滑り込んで、流れるように髪が地面に落ちる。
 私が顔を上げると、既にかなり時間が経っていたのか、彼の姿はそこにはなかった。
「……ねぇ、何処に行ったの……?」
 そこにいるんでしょ? 何時だって、私が拒絶してもめげずに傍にいてくれたじゃない。いつもは騒がしいのに、こんなときだけ大人しいだなんて、そんなの酷い。
「……っ」
 ひく、と喉が引き攣って、私は額を地面に擦り付けるように蹲った。ボロボロと、また涙が溢れる。
「――もう……独りは、嫌だ……!」
 父さんがいなくなって、独りで過ごしていた時間を、あなたが変えてくれた。あんなに嫌いだった世界を、好きになれた。あんなにも世界に響いていた声が、今はもう――聴こえない。
「私も……好きなの……っ!」
「それは本当?」
 涙が、引っ込んだ。
 バッと顔を上げると、すぐ目の前に頬を赤らめた彼がいた。どうして、と私が問う前に、彼は名残惜しくて木の影に隠れていたのだと言った。
 彼がもう一度、それは本当かい、と問うものだから、私は先ほどの自分の言葉を思い出し、手で口を覆った。カーッと顔が熱くなる。きっと、彼に負けないくらい、私の顔は赤いのだろう。
 彼は優しく微笑んで、地面についたままの、傷だらけの私の手を取った。そっと、労わるように両手で包まれて、私は思わず彼を見返す。いつかと同じ、照れたような笑みを浮かべ、彼はそっと口を開いた。
「これからもずっと、近くで君を眺めさせてはくれないだろうか」
 私の答は――言わなくても、察してくれるだろう。



 アザミの溢した言葉に、セトたちはただ息を飲み、対峙する二人を見つめた。
「ツキヒコ……って、お爺ちゃんの名前?」
「それ本当か、マリー」
 コテンと首を傾いだマリーは、キドの言葉にコクコクと頷いた。でも、とマリーは中佐を見やって少々言い辛そうに口を開く。
「ずぅっと昔に、病気で亡くなったって聞いたけど……」
「そもそものお前が既に100年以上生きてるだろうが」
 マリーの祖父はただの人間である筈だ。
 キドは小さく息を吐いてチラと中佐を一瞥した。彼は微笑を崩さぬまま、その視線をアザミから外さない。
 徐に足を進めた彼に、キドたちは思わず身構える。しかしアザミのすぐ前で止まった中佐が次に発した言葉と起した行動に、
「なんて綺麗なんだ!」
「……は?」
 キドたちはつい、脱力してしまうのだった。
 手を無理矢理掴まれているのも忘れ、アザミもポカンとする。呆れたような狐面の吐息も、キドたちの事情を呑み込めず困惑する様子も気にせず、中佐はアザミを見つめその目を輝かせた。
「想像以上だ! こんなに美しい人を、僕は初めて見たよ!」
「ちょ、ちょっと待て……ツキヒコ!」
 アザミが声を荒げたため我に返ったのか、中佐はピタリと口を噤んだ。大きく息を吐き、額に手を宛がいながら、アザミは兎に角説明を求める。それに答えたのは彼女の目の前に立つ男ではなく、モモの持つ携帯端末であった。
 『通話中』と表示された画面を見せ、モモはそれを机の上に置く。
「シンタロー、さん?」
「取敢えずキドは短刀を下ろせ……マリー、アレを」
「え、ああ。うん」
 コクン、とマリーは頷いて、いそいそと肩から下げていた可愛らしい鞄を机に乗せた。彼女がその中から取り出したのは、モコモコとした白い、
「うさ、ぎ?」
 ヒクリ、とヒビヤの頬が引き攣った。シンタローに言われた通り短刀をしまったキドが、ああ、とそちらへ視線をやった。
「持ち運び用の人造体スペアだ」
「スペア?」
「あの身体を持ち運べるわけないだろ。コノハと同じサイズなんだぞ」
 一九〇近い巨体を想像し、ヒビヤはゲンナリと顔を顰める。成程、確かに無理である。つまりシンタローはクロハがこうなることを予測済みであり、蛇の形すら保てなくなるであろう彼を休ませるべくマリーにそれを持たせたらしい。
「名前は殿だ」
「……」
 満足げなシンタローの声をサラリと流すキドの脇を通り、マリーは兎――殿――を抱えると寝転がるクロハの傍らに膝をついた。
 クロハが薄ら視線を上げると、パカリと殿の口が開く。すると、シュルリと解けるように溶けたクロハの身体が、殿の口へと吸いこまれるように消えていった。ぱくん、と口を閉じ、モソモソと反芻するように殿の鼻が動き、髭が上下する。
「これで一応安心、なのかな?」
「ああ、一応はな」
 首を傾ぐマリーに言い添え、キドはモモの持つ携帯端末へ視線を戻した。
「それで、どういうことだ?」
「そうっす、カノは、」
「あ〜、カノさんは平気ですよ」
 モモが乾いた笑い声を立てながら、多分、と小さく呟く。多分、と彼女の言葉を反芻し、キドとセトは揃って彼女を見やった。二人の視線を受け、モモはちょっと頬を掻いた。
「外に転がっている人たち――どうも、朝比奈の家の人たちらしいんですけど――の武器に、痺れ薬が塗ってあったみたいなんです。それがほんの僅か、腕に掠ったようで……解毒は済んでますけど、その副作用で眠くなったみたいです」
「……へ?」
「ここまで何とか耐えてましたけど……セトさんの顔見て安心しちゃったんですかね」
 ふふ、と柔らかく笑って、モモは口元に手を当てる。
 すー、すー、とよくよく耳を澄ませば聴こえてくる寝息に、キドとセトは同時に拳を握りしめた。次の瞬間部屋に響いたのは、二つの固い音と、カノの驚いた悲鳴だった。

「いてて……」
「思わせぶりな」
「全くっす」
 頭頂を摩るカノの両脇で、腕を組んだキドとセトが憮然と言い募る。二人の様子に肩を竦め、カノは唇を尖らせた。
「しょうがないでしょー、解毒作用のせいで眠くなっちゃったんだから」
「タイミングが悪いっす」
「心臓が止まるかと思ったぞ」
 ごめんってー! と両手を合わせるカノだが、二人はプイっとそっぽを向く。
 ワイワイと騒ぐ三人を見つめながら、擬音をつけるとすればあれも『イチャイチャ』になるのだろうか、とモモはボンヤリ下らないことを思案していた。
 痛む頭を押さえたヒビヤが、それで、と語調を強めに話の本筋を元へと正す。
「で、どういうことなの?」
 スピーカーフォンになった携帯端末は、シンタローと繋がっていた。そちらを見やってから、ヒビヤはアザミと彼女に手を振り払われて尚擦り寄ろうとする中佐を一瞥する。
 モモと一緒に現れた狐面の少女は、すっかり殺気を失くした狐面の青年の手を握り、傍を離れようとしない。彼らの様子に吐息を一つ溢したヒビヤが携帯端末へ視線を戻すと、シンタローが丁度口火を切ったところだった。
「その男の名は心晴月彦――俺の推測が正しければマリー、お前の遠い血筋だよ」
「!?」
 ぱち、とマリーは瞬き一つ。人差し指で自分を指し、「私の……?」と訊ね返した。どういうことだとキドたちが携帯端末へ目を向けると、シンタローも溜息を吐いて言葉を続ける。
「変換機能を見て気づいたぜ……『小桜』の読み方の一つに『コハル』がある」
 中佐の名も『心晴(コハル)』だ。
「……それだけ?」
「マリー、お前のファミリーネームは父方のだろう?」
「え、うん、多分そうだと思うけど……」
「奴隷だったツキヒコに苗字はなかった。私は勿論、子どもであるシオンにも、そんなものはなかった筈だ」
 言い淀むマリーに、アザミが固い表情のまま付け加える。
「とすると、『小桜』はマリーの父親のファミリーネームだ」
 それが一つ目の疑惑。二つ目は、色だ。
「中佐はマリーと同じ白髪だ。この辺りじゃ、その色の地毛は珍しい」
 シンタローの言葉に、中佐はちょっと自分の髪を摘まんで指先で捩じった。
 その二つの疑惑と、心晴家に纏わる化物と拐かされた少年のお話――その三点を繋げば、ある程度察しはつくというもの。その逸話は実話であり、少年とはつまりマリーの父親ではないか、と。
「アンタが蛇について妙に詳しいのも、マリーの父親の手記か何かを読んでいたからじゃないのか?」
 に、と笑って中佐――心晴月彦は胸ポケットから手の平サイズの手帳を取り出した。
「正解。流石は、IQ168の天才将校だね」
 ヒラリ、と振って見せたのは青色の表紙で、マリーはそれを見て思わず口元に手を当てる。最近見つけた母の日記と、同じ装丁であったからだ。
「これはお察しの通り、僕の祖先が遺した日記だ。心晴の裏切り者として存在と名を歴史から奪われたある男の、ね」
 化物に拐かされたと、虚偽の伝承の中でのみ生き長らえていたその男の。
「事細かく書いてあったよ、家名のために森に住む化物を捕えようとしたが、美しいその容姿に一目で心を奪われてしまったこと。その化物の母親もまた、人間と恋に落ちたこと。家を追い出されるとしても、化物と生涯を共にしたいと思っていること――」
 特別に文章が上手なわけでも、美しい言葉が使われているわけでもない。陳腐な台詞と在り来りな形容詞で塗れたそれは、しかし書き手がどれほどまでにその化物を愛しているかを伝えるには充分なものだった。
 その中で最も月彦の興味をそそったのは、化物の母親であった。ただ『アザミ』という名前と、艶やかな黒髪の持ち主であるとしか、彼女に関しての記述はない――彼女が所持する能力の説明も幾つか記されていたが、それは今関係ないことである――。それでも確かに、月彦はアザミに恋をした。
「一目でも良いから会いたいと思っていたんだ」
 アザミに微笑かけ、月彦は自分の胸に手を当てた。
 二度、恋をした。一度目は文面上の彼女に。そして二度目は今、一目見たこの瞬間に。
「……つまり、アザミを捜していたというのは、彼女に会うためなのか?」
 そのために、少々騒動を起してしまったというのか。
 ヒクリと頬を引き攣らせるキドに、それもあるが目的は全てじゃない、と狐面がポツリと付け加えた。キドは咄嗟に視線をやるが彼が見返すことはなく、今ここでそれについて言及するつもりはないようだと察する。
「おいで」
 そんな二人のやり取りを横目に、月彦は狐面少女を手招いた。彼女は素直に歩み寄る。月彦が狐面少女の肩に手を置くと、彼女はフードを落とし、顔を覆っていた狐面を外した。
 現れた素顔に、息を飲む音が二つ。
「お母さん……?!」
「シオン……!」
 マリーと同じ緩やかにウェーブがかった白髪に、アザミよりうす暗い茜色の瞳。モモが彼女にマリーの面影を見たのも納得である。少女は、マリーの母シオンと瓜二つなのだから。
「元々は孤児だったところを、僕が拾ったんだ」
 この子と出会ったときも運命のようなものを感じたと、月彦は言った。そんな彼を見上げ、少女はアザミとマリーへ視線を向ける。
 彼女の微笑みに、二人は思わず胸元で手を握りしめた。す、とアザミの前に膝をつき、月彦は片手を胸に、まるで騎士宜しく彼女を見上げた。
「――近くで君を眺めることを、許可してほしいな」
「――!」
 サッと頬を染め、アザミは顔を隠すように手の甲を宛がう。じっと彼女を見上げて返事を待つツキヒコと、迷うように指を曲げるアザミの手を、少女が引いた。
「ずっと、一緒にいよう!」
 ね? と笑って小首を傾げ、少女は両手に持った二人の手を無理矢理重ね合わせる。
 じわりとした温もりにアザミは手を引っ込めかけるが、月彦の方からも握りしめてきたので、恐る恐るその手を握り返した。それを見て、少女は満足そうに、益々笑みを深くしたのだった。

 あれからまた、幾つの年が流れたのだろう。彼と繋いだ手の間には、幼い手が一対挟まっていた。幸せだった。お母さんもこんな気持ちだったのかな、と、時折思うようになった。
 そんなときだ。
「――お父さん!」
 茉莉の悲痛な声が聴こえる。私と茉莉を抱きしめた彼の腕が解けて、その身体がゴロリと地面に転がった。私は強く茉莉を抱きしめ、更に襲いくる銃弾から彼女を庇う。甲高い音がして、背中に熱い痛みが走った。
「――!!」
 茉莉の声が、遠い。
 突然になってしまったお別れ。だけどどうかお願い、世界を嫌いにならないで。生きていればきっと、あなたを愛してくれる誰かに出会えるから――いつかの、私のように。
泣き叫ぶ茉莉を抱きしめたまま、地面に広がる彼の腕の中へと倒れこむ。
 あなたに会えて良かった。世界を好きになれて良かった。最期まで、あなたと共にいられて良かった。
(お母さん……私……)
 幸せだったよ、とても――涙が、零れてしまうほどに。
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