心晴
 彼の言葉に返事をすることがないまま、一か月。碌に目も合わせられず言葉も交わせないまま、気まずい空気ばかりが漂う家となってしまった。それもこれも、変なことを言いだすあの青年が悪いのだ。頬を染めた彼の言葉を思い出して、私はまた熱くなる頬をそっと手で抑えた。
 嫌な記憶を思い出すのは、運動不足だから。こんなときは思い切り身体を動かすに限る。私は大きく息を吐くと、止めていた手を再開した。
 今日は天気も良いし、花壇の植え替えを終えてしまおう。薊の花は、そろそろ咲き始める。紫苑は、まだ先か。これからの季節咲く花は、他に何かあっただろうか。
 うーん、と唸っていた私の耳に、ガサリと草を踏む音が届いた。私はハッと顔を上げ、身構える。今日、彼は外出していたが、今聴こえてきた足音は明らかに複数あった。
 彼じゃない。私がそっと手近の石を握りこんで立ち上がる頃、木の影から三人ほどの男たちが現れた。彼らは私の姿を見つけると、下品な笑みを浮かべて歩み寄る。私は、精一杯睨みを効かせた。
「本当にいるじゃないか」
「全く、アイツは何をしているんだかな」
 三人はお互いに言葉を交わす。その声は私にもよく届いていたけれど、内容はさっぱり見当がつかなかった。
「何か用ですか」
 私が固い声で問うと、男たちは顔を見合わせて気味の悪い笑い声を上げた。それから一人が、小馬鹿にしたように手を翻す。
「化物に答えることなんてねぇよ」
 瞬間、私は隠し持っていた石を投げつけた。男たちの驚く声を背に、家を目指す。あと少しでドアノブを握る、というところで、私は後ろ髪を強く掴まれてしまった。
「っ!」
 どざ、と強かに尻もちを打ち、酷い鈍痛が全身に響く。
 ああ、お父さんの言いつけ通り伸ばしていた髪が仇になってしまった。
 頭皮ごと持っていかれるのではないかと思うほど、男は私の髪を引いた。
「ったく、アイツはホント何もしてなかったみたいだな」
「アイ、ツ……?」
 痛みで顔を顰めながら、男の言葉を復唱する。別の男が私の傍に屈んで、ヘラリと笑った。
「人間の男が来てただろ。ずっと前から」
 彼のことか。ぐい、と更に強く髪を引かれ、私は小さく呻いた。
「アイツはお前を騙してたんだよ」
――呼吸が、止まるかと思った。髪を引かれる痛みのせいではなく、これはきっと心の痛みのせいだ。
「……え」
「アイツはお前を捕まえるために、この家にあしげく通ってたってこと」
 嘘。その単語すら、口から零れ落ちはしなかった。呆然とする私に気を良くしたのか、男はペラペラといろんなことを教えてくれた。
 彼は良家の生まれで、家が更なる発展をするため伝承になっていたメデューサを手に入れるという目的を果たさんとこの森を訪れたのだと。幼いときから毎日通い、警戒心を完全に解いたそのとき、捕えんと。
(なら、あの言葉は……)
 頬に、熱い何かが触れた気がした。
 何処かにいるお母さん。やっぱり私は、この世界が好きになれない。お父さんみたいな人間は、いないんだよ。私、幸せにはなれないみたい。
 男たちの笑い声を何処か遠くに聞きながら、ヒクリと込み上げる嗚咽をただ噛みしめた。



「心晴は朝比奈と並んで、古くから軍の上層部を取り仕切る旧家だ」
 将官、佐官クラスの人間を多く輩出する名門。元は地主であったとかで、財産もかなりのもの。しかし反面、血筋と家名に対するプライドが高く、他家を排しがち。お蔭で子どもの数は減少し、今では朝比奈に劣る家となってしまっている――化物に拐かされた少年がおり、少子化がその化物の呪いだと言う者もいるが――。歴史としては朝比奈より古く、そのため彼らに劣っているという現状に不満を抱き、隙あらば朝比奈を蹴落とさんとしていると、専らの噂だ。
「あの中佐自体は分家の末裔だな。本家の人間も何人かいるから、出世は厳しいんじゃないか?」
 ある程度は上り詰めることができるだろう。それでも、一族内では底辺と言わざるを得ない。
「今回はそのための手柄狙いか?」
 ケンジロウの話に耳を傾けていたシンタローが、ふと腕を組んで言った。煙を吐いて、ケンジロウは「さあな」と軽く返す。朝比奈を蹴落とすための材料を手土産に帰れば、今より上へ行ける可能性は確かにある。しかしその材料を、どうやって調達するのか。
「それが、この誘拐ですか?」
 必死に二人の話を整理したためショート寸前の頭を抱えながら、モモが訊ねた。誘拐の責任を、朝比奈に擦り付ける。確かに、それも一理ある。
「それもだが……俺としてはセトたちが聞いたという会話も気になるな」
 顎に手を当て、キドが言った。彼らが捜していたという『花の名前の女の子』――あれは十中八九マリーのことだ。【カゲロウプロジェクト】のことを知りたがっていた様子も含めて、間違いない。問題は、それがどこで漏れたか。
「御伽噺に、花の名前をつけたとは記述されていないんだろ?」
「ああ、その筈だ」
 キドたちだって、その話はアザミ本人から聞かされたものだ。ならば完全なる部外者のあの中佐が、何処でそれを知ったのか。
「ヒヨリがアイツらを見失ったのは何処だ?」
「東の廊下です」
 落ち着きない小さな狐面が初めに逸れ、手分けして探してほしいと言われたのだ。ヒヨリがそれを承諾しかねると言うのも聞かぬうちに、中佐は駆けだしてしまった。あまりにも間抜けなその姿に、まさかそんな企みを持つような人間とは思わなかったのだ。
「……私の責任です」
 そのせいで、ヒビヤたちは。きゅ、と左手首を握りしめ、ヒヨリは目を伏せた。そんな彼女の手を掴み、マリーはニッコリと笑いかける。
「大丈夫だよ、ヒビヤもセトも無事。お婆ちゃんが、しっかり匿ってくれるって言ってたでしょ」
 だから、大丈夫。マリーの言葉に小さな笑みを浮かべて、ヒヨリは頷きを返した。二人から視線を外し、シンタローは、ところで、とケンジロウを見やる。
「先生、アレはまだここにあるんだな?」
「ああ。あの日から変わらずな」
 途端、それはマズイと顔を顰める二人に、キドたちは顔を見合わせた。何を言っているのか、見当がつかなかったのだ。そんな彼女たちに気にするなと言うように手を振って、シンタローは兎に角と言い置いた。
「一先ずセトたちを迎えに行くか」
「連れ帰って、大丈夫なのか?」
「セトたち本人の口から誘拐の事実を否定させるっていうのが、一番簡単な方法なんだがな」
 しかし、あの中佐は中々に食えない男だ。それだけで丸く収まる筈がない。シンタローは苦く笑って、その代り、と手近の机から何かを持ち上げた。
「これを届ける」
 彼の見せた物に、キドたちは揃って目を瞬かせる。苦笑を溢すのはケンジロウとエネ。コノハはいつも通りの無表情だ。
 訝し気な表情のカノに、シンタローは無理矢理それを押し付ける。思わず受け取ったものの、カノはその意味が解らずシンタローを只見返した。
「頼んだぞ」
「僕?」
「ああ。それとマリーとモモも」
 私も? と二人は自分を指さして、小首を傾げる。シンタローは強く頷いた。
 中佐の狙いが何にせよ、その過程でマリーを捜していると解った以上、同じ屋根の下に置いておくのはマズイ。ブツを届けたら、マリーは暫くアザミの家に留まって様子見が良いだろう。シンタローの言葉に、成程、とモモは頷いた。
「僕は……良いよ。シンタローくんが行きなって」
 ポツリ、とカノは溢し、持っていた物をシンタローの胸に押し付ける。しかし彼がそれを受け取ろうと腕を持ち上げる素振りはなく、カノも手を離せない。
 少々苛立って、カノは軽くシンタローを睨み上げた。シンタローは表情を変えぬまま、カノの手をやんわりと解く。そのまま、彼が胸へとその手を押し付けた。
「お前が行け」
 短く、しかしハッキリとした言葉に、カノはくしゃりと顔を歪める。それから俯き、消え入るように「無理だよ……」と呟いた。
 最後に彼と顔を合わせたのは、あの日以来。謝罪の言葉すら告げられていないのに、どの顔して迎えに行けば良いのだ。それにきっと、自分よりシンタローの方が、彼のためになる。
 すっかり項垂れるカノを見つめ、シンタローは上げかけた手を握って脇に垂らした。
「……それでも、お前が行け」
 これは、上司命令だ。その声に威圧感は見られず、あるのはカノの背を押す風のような強さだった。
 男前だな、シンタローくんは――そんなことを小さく呟き、カノはくしゃりと顔を歪めて笑った。

「何を隠したいの?」
 す、と本棚に並んだ本の背表紙に指を走らせていたクロハは、そんな声に手を止めた。そこに立っていたのはヒビヤで、彼はおしゃヒヨ人形の縫い目を指で弄っている。
 ボイスレコーダーを抜いた分の重量を別の何かで補おうと先ほどまで何やら詰めていたが、それを終えたらしい。
 丁寧に胸ポケットへ人形をしまい、ヒビヤは視線を目の前の本棚へと向ける。セトとアザミは別室でティーポット等の後片付けをしているのか、水音と食器のぶつかる音が聞こえていた。クロハは本へ視線を戻し、何のことだ、と返した。
「あの中佐のこと?」
 しかしヒビヤはまるでその言葉を無視して、話を続ける。
「アザミに知られたくないの?あの中佐について」
「……どうしてそう思う」
「中佐を見たとき、アンタはとても驚いた顔をしてた」
 それはそう、まるで、在り得ないものを見たときのような。
「アザミに事情を話しているときも、表情が固かった」
 彼女の方を見て説明していたセトは気付いていないだろうが、ヒビヤは見逃さなかった。隠し事がバレないようにと、密かに願うように固まった顔。それほどまでに、彼女には知られたくないことなのか。
 敏い少年にこっそり舌打ちして、クロハは彼を一瞥した。
「……そっくりだったんだよ、あの男」
「そっくり?」
 誰に、とヒビヤが問い返す前に、セトとアザミの足音が背後から聴こえた。二人は咄嗟に口を噤み、今のは他言無用と目で念を押し合う。セトとアザミは本棚の前に並ぶ二人に小首を傾げたが、彼らが揃って何でもないと言うので、少し顔を見合わせるに留めた。
「そろそろはなお、本部に着いたかな」
 話を逸らしつつそう言って、ヒビヤは椅子に腰を下ろす。それに相槌を返しながら、セトも彼の向いに座った。
「向こうからも、何か連絡が来れば良いんすけど」
「あの男がいるんだ。何かしらの策は練ってくれるだろ」
 クロハも本棚を向いたまま、素気なく言う。シンタローのことか、と思いやったセトは、『あのとき』のことを思い出してさっと頬を赤らめた。そんな彼を不思議そうに見やって、アザミは水を入れ替えた花瓶を机に置く。
 茉莉花の蕾が、クルリと一回転した。
 コンコン。ノック音に、部屋の空気が軽く緊張する。
 セトはヒビヤと顔を見合わせた。クロハも、警戒するように扉を見やる。アザミは手を奥へ向けて払うように動かし、扉へと向かった。
 彼女の手振りに従い、三人は部屋の奥へと下がる。アザミはチラとそちらを一瞥してからノブに手をかけた。クロハは何気なく、扉のすぐ脇にある窓へ視線をやる。そこから覗いた小さな白に、目を見開いた。
「――! アザミ!」
 咄嗟に、クロハは飛び出した。その声から一拍置いて、アザミが開きかけた扉が蹴り飛ばされる。扉とアザミの間に腕を差し込み、間一髪、クロハは彼女の腰を抱いて後方へと飛び退った。
 派手な音を立てて、扉が床に倒れる。ヒビヤとセトは身構え、クロハもギロリと入口に立つ人影を睨みつけた。
 真っ白なマントと、頭を覆うフード。その下の顔も、狐面によって隠されている。
 間違いない、中佐と共にいた護衛の一人だ。如何やら後をつけられていたらしい。
 クロハは舌打ちし、小脇に抱えられたことで文句をぼやくアザミを無視したまま、ジリジリと後退した。狐面が僅かに傾き、クロハとアザミをその視界に捕えたようだった。それを隠すように、それぞれ軍刀とナイフを構えたセトとヒビヤが立ち塞がる。しかし狐面は臆した様子も見せぬまま、数歩進んで立ち止まった。
「扉蹴破るなんて、礼儀がなってないんじゃないの?」
「まずは自己紹介でもしたらどうっすか」
 彼の得体のしれない雰囲気に、浮かぶ冷や汗を感じながらヒビヤとセトは視線を逸らさぬよう得物を握りしめる。その言葉に、狐面は「ああ」と頷くような声を返した。
「俺は――C」
 ばさ、とマントを開き、腰に挿していた刀をスラリと引き抜く。鈍い光を反射させて、銀の抜き身が露わになった。
「――ただの、村人Cだ」

「目隠演者?」
 何それ、とモモはあからさまに顔を顰める。
(名前ダサ)
 カノは心中こっそり呟き、ポケットに手を突っ込んだ。
 ホワイトボード上で少々右斜めに曲がったその文字を一瞥して、ケンジロウは水性ペンをクルリと一回転させた。
「心晴家の専属護衛だよ。生まれたときから名も持たず、顔を仮面で覆って生きてきたからそう呼ばれる」
 誰がつけたかは知らないが、と付け足してケンジロウはほう、と息を吐いた。
 名も与えられず、顔を隠し、徹底的に個を消して生きてきた。ただ、主たちを守ることだけを存在意義として。
「ずっと後ろについて回っていたあの二人か」
 真っ白なマントと狐面で身を固めた二つの影を思い出し、キドは顔を顰めた。一人はキドたちと同じ年頃として、もう一人はヒビヤと同じくらいか。彼の境遇を知っているだけに、キドの胸には苦みだけが広がった。恐らくあの二人も、元は孤児だったのだろう。
「境遇は何であれ、今は立派な殺し屋だ」
 そんなキドの心情を察してか、シンタローは感情を乗せない言葉を渡す。
 必要有らば、戦わなければいけない相手だ。
 そうだな、と少し視線を逸らして呟くキドの肩を叩き、カノは薄く笑った。
「まあ、人殺しなら僕らも一緒でしょ」
 気にすることないって。ポン、と叩いた手は、すぐにキドから離れる。キドは頷いたまま、深く首を曲げた。カノはそれからニッコリとした笑みをシンタローへと向けた。
「つまり、彼らに注意すれば良いってことでしょ」
 準備があるからと、カノはヒラリと手を振って部屋を出て行く。自動ロックの施された扉が閉まるのを待ってから、ケンジロウは大きく息を吐いて天井を仰いだ。顔を見合わせるモモとマリーの横を通り過ぎ、シンタローはキドの名を呼んだ。
「アンタも同行しろ」
「俺もか?」
 思わずキドは聞き返し、目を瞬かせる。
 彼女は大佐で、この一○七大隊の責任者だ。頭が直接動くとなれば、相手に疑惑を生む要因となる。そんなこと、シンタローだって解り切っているだろうに。
 しかし彼は、そんなことかとでも言うように軽く吐息を溢した。
「こっちは何とでも誤魔化せる……アンタはあの二人についてろよ」
「え……」
「心配なんだろ、アイツラのこと」
 キドは口を噤んで、チラとカノの消えた扉を一瞥した。
 幼いときから、ずっと一緒だった。カノがセトを好いていると知って、セトも少なからず彼に好意を抱いているのだと知っても、キドはそれを口に出すことなく気づかないフリを続けた。幼さ故の、臆病心から。きっと二人の想いが通じ合ったら、自分はまた独りになってしまうと、幼い自分は頑なにそう信じていたのだろう。
 けれど今は、違うと言える。二人は自分を置いていかないという、絶対的自信がある。 それでも。置いていかれない自信と、放って置いても良いという怠慢は違うもので。
「……カノは、俺たちのお兄ちゃんなんだ」
 ポツリとキドは呟いた。一人でキドとセトの『お姉ちゃん』の代わりを務めようとしていた。不安を与えないよういつも笑顔で、ふざけた態度ばかり。それでも、彼がキドたちを頼ってきたことは一度もない。
「セトは、『俺たち』の弟なんだ」
 知ってる、それも知ってる。そう、シンタローは小さく呟き返した。キドは少し顔を上げて、シンタローと、彼の後ろに立つモモを視界に収める。
「兄弟は、一緒に歩いていくものなんだろ?」
 それは、モモにも投げかけられた問いで。モモとシンタローは少し顔を見合わせて、小さく笑った。
「そうだな」
 その言葉にニコリと笑って、キドは踵を返すと颯爽と部屋を出て行った。
 ヴーン、と僅かな機械音を立てて閉まる扉を眼鏡に映し、ケンジロウはこっそり吐息を溢す。それを目敏く見つけたコノハとエネが、こそっと彼の背後に立った。
「……」
「……寂しいの?」
「子離れしないとですねー」
「……うるせぇ」
 毒づいて、ケンジロウ加えた煙草に火をつけた。

「カノ」
 名を呼ばれ、顔を上げる。珍しくフードを落としたキドが、躊躇うように視線を動かしていた。カノは小さく笑い、隣に空いた空間を叩く。キドは安堵の息を溢したようで、何も言わぬままカノの隣に腰を下ろした。
 寂れた中庭の中、二人は暫く言葉を交わすことなくベンチに並んで座っていた。
「……修哉だけじゃないからね」
 風が吹く音に紛れるように、キドがポツリと口を開いた。カノはチラと視線をやるが、キドはずっと前方を見つめている。
「幸助のことが心配なのは」
「――うん」
 解ってる、それは良く知っている。
 それは言葉として直接伝えることはしないまま、カノはそっとベンチに置かれた彼女の手に自分の手を重ねた。きゅ、とカノの手の下でキドの指が丸くなる。
 柔らかい風が一陣、二人の髪を揺らしていった。それに乗って聴こえた少女の声は、多分気のせい。

 耳の中に入れた小さな機械から聴こえてくる声に、中佐は口元が緩むのを禁じ得ない。それを不審そうに見上げる少女の頭を撫でて、中佐は耳に当てていた手を下ろした。
「……」
 その目が見つめる先は、森。
「漸く、君に会える」
×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -