きょうだい
それから、随分と時が過ぎた。
いや、高々五十年程度しか生きられないあの青年が、未だ元気よくこの家に訪れているから、私が思うほど経ってはいないのかもしれない。
怒鳴っても殴っても懲りない様子に呆れ、私はいつしか彼の存在を好きにさせることにした。無駄を悟ったのだ。
好きにすれば、とある日私が言うと、青年はいつものニヤニヤとした笑みから目を輝かせるような笑みへと変えた。その、夢が叶った子どもみたいな顔に、私は不覚にも胸を高鳴らせてしまったのだが、それはここだけの話だ。
そしてそんな彼はと言うと、
「紅茶のお代わりは要るかい?」
どこぞの給仕のように、甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくる。
確かにそこにいることは許可したが、誰も住み込みでそんなことをしろとは言っていない。けれどこれも、言っても仕方ないことないのだろう。
痛む頭をそっと抑え、私は首を横に振った。
ああ、何処かで聞いたような話。そうだ、これはお父さんの日記で読んだような。
「血筋かしら……」
「ん?何か言ったかい?」
何も。手の平を見せてそう伝え、私は半分残っていた紅茶を啜る。
青年はコテンと首を傾げて、自分用の紅茶を手に私の向いへと腰を下ろした。本当に、私を見ていて何が楽しいのだろう。
私は軽く息を吐いて、カップを戻した。
「あなた、何が目的なのよ」
「目的?」
「何かしたいことがあるから、いるんじゃないの?」
「したいことか……」
少し思案するように天井を仰いだ彼は、少々言い辛そうに、お願いを聞いてもらっても良いかい、と頬を掻いた。いつもずけずけと家の中を歩き回るくせに、私がひっぱたいても懲りないくせに、その態度は如何いうことなのだろう。
私は警戒を込めて目を細め、言うだけ言ってみろと返した。彼は唾を飲み込むように喉仏を上下させ、徐に私の手に自分のそれを重ねた。
「……僕の嫁になってくれないか」
驚いて彼の顔を見返すと、ほんのりと頬が赤くなっていて。私は沸騰したように、頭が熱くなるのを感じた。
咄嗟に顔を伏せて、真っ赤になっているだろう頬を両手で覆う。こんな顔、目の前でにやけるあの男に見せるわけにはいかなかった。
見つかってしまえばきっと、あの男は更ににやけた顔を浮かべるに、違いないのだから。



「いつでも来いとは言ったが……」
何も、こんな形で訪れずとも。
アザミは吐息を溢し、食器棚から三つカップを取り出した。それを並べた机には、不機嫌そうに顔を歪めるクロハと、すっかり疲れ切って項垂れるセトとヒビヤの姿がある。クロハは落ち着きなさげに机を指で叩き、ジロリとアザミを睨んだ。
「しょうがないだろ、他に行く宛がなかったんだから」
「お前友達いないのか?」
「何の話だ!」
声を荒げるクロハに冗談だと始終真顔で返して、アザミは机に置いたままにしていたティーポットの中を覗きこんだ。彼らが慌ただしく訪ねてくるまで、一人ティータイムを愉しんでいたのだ。ポットの中に三人分の紅茶は残っておらず、これは淹れ直さなければとアザミはひょいと持ち上げた。
「それで、何があった?」
あの日以来、ここを訪ねるのはマリーと、そのお供としてモモかセト辺りだけだった。三人も一度に、しかもあのクロハが人型をとって現れるのは初めてのことだ。彼らの様子から見ても、何かあったことは間違いないわけで。
アザミが新しく紅茶を淹れたポットを持って机に戻ると、セトとヒビヤは困ったように顔を見合わせ、クロハは更に不機嫌そうに顔を顰めていた。
「……兎に角、ここにいることを他の奴らに報せろ」
あの本部の人間が、何か法螺を吹かないという保証はない。真相の追及は置いておくとしても、現在の全員の状況は把握させておいた方が良いだろう。『ほうれんそう』は組織の基本だ。
「けど、どうやって」
セトは額に手をやった。狐面に投げ飛ばされた衝撃で、彼は超小型無線機を落としてしまった。ヒビヤは修理中で、クロハは勿論元より所持していない。つまり現状、通信手段がない。
「はなおの首に手紙でもつける?」
「それより手っ取り早い方法があるだろ」
クロハの言葉に、セトとヒビヤは揃って首を傾げた。クロハは呆れたような溜息を溢し、ヒビヤを指さす。
「人形に内蔵されたボイスレコーダー」
「……あ」

バタバタと、騒がしい足音が廊下に響く。その勢いのまま、モモは扉を開いた。バン、と大きな音がして、既に部屋にいた人々の視線が一気に集まる。いつもは気になるそれに構う余裕なく、モモは困り切って眉根を下げるキドの元へ、マリーと一緒に駆け寄った。
「何があったんですか」
「セトが、如何かしたの?」
「それが……」
言いにくそうに顔を顰め、キドはチラと視線を横へと向ける。マリーとモモは揃ってそちらを見やり、ぐっと口を噤んだ。
そこに立っていたのは廊下ですれ違った男と小さな狐面で、キドの囁くような声で彼が本部から派遣された監視官なのだと知った。
何故その監視員が、一○七大隊の召集された大佐室にいるのだ。モモがそれを問う前に、監視官が一歩前に出た。
「僕の力が及ばず、すみません」
眉尻を下げ、申し訳なさそうに監視官は言う。彼の話では、偶然黒い恰好の青年とセト、ヒビヤの三人が険悪な雰囲気で対峙している場面に遭遇し、声をかけたところ、青年が襲い掛かって来たらしい。咄嗟に護衛が応戦したため、不利と判断したのか、青年は二人を気絶させて連れ去ったと。今ここにいないもう一人の護衛は、その後を追跡中だと言う。
「クロハが……」
エネは小さく呟き、口に手をやる。傍らに立っていたコノハは彼女の肩に手を置きながら、僅かに目を細めた。シンタローは小さく舌打ちし、腕を組む。チラと彼の視線が、先ほどから黙したままのカノへと向かうが、彼の立ち位置からフードの下に隠れた表情は見えなかった。
「彼は『アザミ』と」
ハッとしたキドたちの視線が、監視官に集まる。彼は何かを思案する様に眉間に皺を寄せていた。彼の少し後ろに立つヒヨリは、無表情のまま事の成り行きを見守っている。
「誰かの名前でしょうか」
「……ああ」
「なら、その人物と関係が……」
そこでふと、如何にも『たった今気付きました』と言わんばかりの顔で、監視官はシンタローを見やった。
「御存じで?その『アザミ』という人物を」
「まあな」
「……【カゲロウプロジェクト】に関係が?」
「そう思いますか?」
「勘です」
その言葉には薄く笑むだけで何も答えず、シンタローは一先ず報告の例を述べた。後はこちらで処理をするからと言えば、しかし監視官は首を横に振る。
「手伝わせてください。今回のこれは僕の力不足が原因です」
「本部の方の手を煩わせることではないですよ」
「けど、」
「仲間のことは、」
更に言い募ろうとする監視官の言葉を遮るように、シンタローは語調を強めた。ピタ、と波が収まるように、沈黙が部屋へと落ちる。シンタローは少し顔を歪めるように、笑みを浮かべた。
「俺たち自身で何とかします」
その彼の顔にもう何を言っても無駄と悟ったのか、監視官は「そうですか」と小さく呟くと、スッと身を引いた。何かあれば教えてくれと念を押して、監視官は部屋を出て行く。その背中を、シンタローは最後まで睨みつけるように見つめていた。
パタン、と扉が閉まり、マリーとモモは大きく息を吐く。何だか、息の詰まる時間であった。二人の脇を通り、キドが名を呼びながらシンタローへ歩み寄る。
振り向いたシンタローが見たのは、泣きそうに顔を歪めたキドだった。
「シンタロー、セトは」
「ヒビヤもいるんだ、大丈夫だろ」
安心させるように言えば、キドは「そうだよな……」と呟いて摩るように腕を組む。それもだが、シンタローが気になることは他にもある。
「大丈夫?何を根拠にそんなこと言えるんだよ」
地を這う蛇を連想させる、重たい声。
全員の視線が、それを発したカノへと集まった。キッと上げたカノの顔に浮かぶのは紛れもなく怒りで、それは真っ直ぐシンタローへと向いていた。しかし返って来たのは凪いだ沖のような黒い瞳で、カノは視線を落としてぐしゃりと前髪を掻きあげる。
「もっと強く反対してれば良かったんだ。あんな奴を、セトの傍に置くなんて」
「あの男の話を鵜呑みにするのか」
「どっちも信じられないよ!」
誰も信じられる筈がない。監視官が何らかの思惑の元カノたちに偽の情報を流してきたとも、クロハが今まで大人しくしていたのは機会を伺っていたからとも。どちらとも考えられるから、身動きがとれない。何を信じたら良いのか、解らない。
カノの様子に困ったように笑いながら、モモはカノの肩に手を置いた。
「落ち着いてくださいよ、カノさん。どうしちゃったんですか、らしくないですよ……」
「うるさいな」
バチ、と軽い音が部屋へと響く。カノが、モモの手を振り払ったのだ。驚いてよろけるモモを、咄嗟に駆け寄ったマリーが支える。おい、とシンタローがカノを睨みつけたが、本人はそちらへ一瞥もくれない。
「僕らしさ?何も知らない君に、僕の何が解るって言うんだよ!」
常の彼には珍しく声を荒げる姿に、モモは怯えたように払われた手を握りしめた。きゅ、と彼女の服を掴み、マリーも肩を竦める。
「カノ、お前いい加減に、」
「もう嫌だ、こんなの……!」
宥めようと足を踏み出しかけたシンタローは、絞り出すようなその声にピタリと上げた手を止めた。
「どうして僕らばっかりこんな目に合うんだよ……!」
親とは、幼いときに死に別れた。孤児院に入っても他の子どもたちとは何故か馴染めなくて。そんな弾かれ者同士、何となく集まっていたらいつの間にかセットで扱われるようになった。そうしてアヤノと出会い、彼女の両親にも実子のように接せられ。
幸せになれる、筈だった。だが自分たちはとことん運命に嫌われているらしい。
人体実験の被検体、望まなかった能力―――そして、家族との別れ。それらが今になってやっと報われたと思っていたのに。また、厄介事に巻き込まれる。確実に、この力のせいで。
「カノ……」
「お前が……お前があのとき、気付いていれば、少なくとも姉ちゃんは……!」
思わず名前を呼んだシンタローを睨み上げ、カノはギリと歯を噛みしめた。ピクリ、とシンタローの指が震えるのを、エネは目の端で捕える。しかしカノは気付いていないようで、堰切った言葉は止まらない。
「……―――のせいだ……何も気づかなかった、」
パン。
言葉を遮るように、乾いた音が、部屋に響いた。
その中心にいるのは顔を横向けたカノと、彼に平手打ちをしたキドで。彼女は叩いた手をグッと握り、小さな雫の浮かぶ目で彼を睨みつけた。ほんのり赤くなった頬を抑え、心底驚いたようにカノは呆然とキドを見つめ返す。
「……キド……?」
「戻った?」
彼女の短い言葉の意味が解らなくて、カノは「は」と息を溢した。キドは少しも視線を逸らさず、カノを睨み続けている。
「痛みを感じると能力が解けるんでしょ、戻った?まだ足りない?」
「何言って……」
「あんな馬鹿なこと、本当の修哉なら言わない」
キドの口調が、あの頃に―――まだ互いに名前で呼び合っていた頃のものに戻っている。孤児院から出て、三人だけで生きていかねばならぬと悟った時、せめて男二人に置いていかれないようにと。そう思って、弱い自分を律するための一つとして、変えた口調。その筈なのに。
「修哉は私と幸助のお兄ちゃんなんでしょ。お姉ちゃんとお揃いのヒーローになるんだって、言ってたじゃん」
ヒーローはあんなこと、言わない。誰か一人を糾弾して、責任を押し付けるようなことは、絶対に。ヒーローは、皆の救いなのだから。
カノの猫のような目が大きく開かれ、気まずげに床を彷徨う。それから目を閉じた彼は、頬に触れる手を脇に垂らし、小さく呟いた。
「……ごめん、どうかしてた」
「次やったら腹パンもするから」
「それはご勘弁」
ヘラリと力なく笑うカノの様子は、いつものそれで。キドだけでなく、モモたちも安堵の息を吐いて肩の力を抜いた。
「ごめんね、キサラギちゃん。……仲間なのに」
「いえ……気にしないで下さい」
 モモは小さく笑って、首を振った。
 時間など関係ない。そうは言うものの、時間による絆の強さは確かにあるのだ。
「ごめん、シンタローくんも。ちょっと疲れて」
「俺は、」
カノの言葉を遮り、シンタローはズイと前に出る。脇に垂れた手は、固く握りしめられていた。
「あのとき、殴られる覚悟を持ってお前たちに話したんだ」
弟妹たちのことは、アヤノから何度か聞かされていた。血は繋がっていなくとも、とても大切な家族なのだと。弟妹たちにとってのアヤノも同じであろうとは、想像に難くなかったから。
「お前が望むなら、俺はいつだって相手になる」
真っ直ぐこちらを射抜く黒を見つめ、カノはそっと目を眇めた。
(ああ……敵うわけ、なかったのかな)
そう思うと、自然と口元が緩んで歪な笑みが浮かぶ。
「―――ありがと」
そう言って笑うカノの目が、赤に輝くことはなかった。
カリカリ。窓硝子を引っ掻く音。コノハがそれに気づいて視線をやると、緑が広がる窓枠に小さな影があった。丸々とした鼠―――確か、セトがはなおと読んでいた動物だ。
「コノハ?」
「……はなおだ」
その言葉でエネも気付いたらしく、あ、と声を漏らす。コノハが窓を開けて手を差し出すと、何か小さな荷物を背負ったはなおは、素直に飛び乗った。
小さく千切った白いハンカチ。それを解くと、何かの機械がコノハの手に転がり落ちた。しかしコノハにそれが何だかは解らず、彼はコテンと首を傾ぐ。
「それ、テープレコーダーじゃないですか?」
コノハの手元を覗きこみ、エネはひょいとそれを取り上げた。長い袖から指先だけ覗かせ、彼女はそれを日に透かすように掲げる。
「てーぷれこーだー……」
「音声録音機です」
これをはなおが持ってきたということは、つまり。
そのことに思い至ったシンタローたちは、慌ててエネの周りに集まる。エネもコクリと唾を飲み込んで、再生ボタンを押した。

柔らかい木漏れ日が、窓から降り注ぐ部屋。淡く橙に色づくこの部屋が、彼のお気に入りだった。
息苦しい家の中で、唯一、自由に息を吐ける場所。
 天井まで届く本棚だらけの部屋は、古書を詰めるだけに機能しており、そこに人が入り込む隙は小さい。
何処か懐かしい香りを肺一杯に吸い込み、彼は窓辺にあるぽっかりと空いた空間に腰を落ち着けた。
ともすれば、眠りに落ちてしまいそうなほど心地良い空間。
そこに身体を落ち着けて、本を手に取る。
真っ青な表紙のそれを開き、お気に入りの御伽噺が広がるそこへ目を落とした。
文字でしか姿を見せない、真っ黒な彼女。その本の中でも、彼女を示す文は一つだけであった。
それを指でなぞり、彼は、ほう、と息を吐く。
「……君に、会ってみたいな」
 きっと、予想に違わず美しい人なのだろう。
 弛む頬に手を当てて、彼は今日もページをめくる。
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