白き来訪者
その日を境に、彼は頻繁に姿を見せるようになった。
正直疎ましくもあり、その反面恐ろしさもあった。人間にこの場所を知られて、果たして大丈夫なのだろうかと。
しかしそんな危惧も無駄と言うように、何事も起こらず日々は淡々と過ぎていった。少年はただ相手もしない私を眺めて、何が面白いのか微笑むだけ。少々居心地悪くて、私は読んでいた日記を閉じた。
「一体、何をしに来たのよ」
「君に会いに」
「他を当たって頂戴」
「そうすれば君は僕を見てくれるかい?」
グラ、と腹の底が熱くなる。私は思わず机を叩いた。バン、と思いの外大きな音が部屋に響く。それでも男は微笑んだまま、怯む素振りすら見せない。その様子にまた、腹の底が湯だった。
「……良い加減にして。迷惑なの」
「ではどうしたら良いんだい?」
「私の目の前から消えて、今すぐに。そして二度と現れないで」
首を刈る鎌のように、揃えた指をピッと横に薙ぐ。しかし少年が笑顔を消すことはなかった。そしてあろうことか、こう言い放ったのだ。
「嫌だ」
私がすぐ激昂し、彼を平手打ちしたのは、特に言うほどのことでもあるまい。



「……どういうことだ」
「どうもこうも」
ありはしないと吐き捨てて、ヒヨリはドカリとソファに腰を落とした。彼女の向いに座っていたシンタローは、渡された書類を見て盛大に顔を顰める。
大佐用の執務室であるこの部屋には、二人の他に部屋の主であるキドと中佐補佐であるエネがいる。キドも少々顔を顰め、エネは話の先を探るように、ソファに座る二人を見やった。
「……何だって軍のお偉いさんが」
「正確には、軍の上層部に居座る一族の一人」
シンタローの言葉を遮るように、ヒヨリは腕を組んだままゆっくりと訂正する。シンタローは嫌そうに顔を歪め、書類を机に投げた。
「『朝比奈』よりは劣るけれど」
パサリ、という音に重ねるように、ヒヨリは呟く。細められた視線が捕えるのは、書類にはっきりと刻まれた一つの名前だった。
『心晴』―――『朝比奈』よりは劣るものの、歴史ある家系だ。血筋や家名に囚われて小規模になりつつあるが、未だ軍への影響力は大きい。その一族の一人が、これからここに現れる。名目上は、『特別部隊見学』として。
「あの事件のせいか?」
腕を摩るように組みながら、キドが訊ねる。
少し前、軍幹部の一人が機密事項を隣国へ流し、戦争を企てる事件があった。幸いにも一○七大隊の活躍により未遂に終わったが、それをきっかけに少々の騒動が起きた。
その詳細は今ここでは省くが、まあ当時の軍上層部の混乱は中々の見ものであった。兎も角キドは、そのゴタゴタを受けて一○七大隊の手綱を握り直そうと、監視者を差し向けたのではないかと言っている。
「その可能性もあるな」
シンタローは息を吐き、ソファに身を沈めた。彼の向いでは、依然として不機嫌そうに腕を組むヒヨリがいる。彼女は肩を落とすように息を吐いて、頬に手をやった。
「お父さんの命令で、私が案内役なんです」
「軽い人質だな」
「でしょうね。心晴は昔から何かと、朝比奈に因縁をつけてくるので」
これだから、旧家と呼ばれるものは嫌いなのだ。姑のようにグチグチと。ヒヨリは嫌悪も露わに吐き捨てた。キドは小さく息を吐いて、シンタローの座るソファの背凭れに手をつく。
「……どうする」
「様子見しかないだろ、今の状況じゃあ」
向こうが具体的に何をしてくるか解らない以上、手の打ちようはない。取敢えず客人の動向を、ヒヨリに監視してもらうほかない。
「で、その客人が来るのは?」
「もうそろそろですよ」
ヒヨリの言葉とほぼ同時に、扉が軽くノックされる。それを見やって、ヒヨリは、ほらと言うように肩を竦めた。シンタローは入室の許可を出し、ソファから立ち上がる。キドも身体を起し、開く扉から現れる姿をじっと見守った。コツコツと軽い足音を立てて入室した客人は、ニコリと笑って軽く頭を下げた。
「初めまして、木戸つぼみ大佐、如月伸太郎中佐。そしてお久しぶりです、朝比奈日和少佐」
白い髪に合わせたような、灰色の軍服。背後には、フード付きマントで身を包んだ大小二つの人影。その不気味さと相まってか、客人の爽やかな笑みも胡散臭くなる。
「心晴中佐です―――以後宜しく」
シンタローは小さく笑い、差し出された手を握り返した。

「シンタローくんは中佐に、エネちゃんはその補佐、ヒヨリちゃんは少佐か……」
この大隊も、随分賑やかになったものだ。
ぼやきつつ、カノはヒュッとタガーを投げ飛ばした。空気を裂くようにして、それは木にぶら下げた的の中心に突き刺さる。それにさして喜びも抱かず、カノは淡々と次のナイフを投擲していく。
五本ほどそれを続けた後、カノは唐突に手をポケットへと突っ込み、横へと視線を向けた。
「で、何で?」
そこでは、同じようにナイフ投げの練習に勤しむモモとコノハの姿があったが、出来はイマイチのようである。的の後ろに立つ木の幹に、ナイフの殆どが突き刺さっている。手持ちのナイフは全て投げ終えたのか、モモはハア、と息を吐いて頬の汗を手で拭った。
「何がですか?」
「この状況」
カノは肩を竦めて近くにあった切株へと腰を下ろす。コノハは小首を傾ぎながら、外したナイフの回収へと向かった。
この二人の指導者、基、監督者はヒビヤの筈である。だというのに、何故カノがナイフ投げの指導をしなければならないのか。理由は簡潔、ヒビヤは現在―――カノにとっては不服で、しかし今は少々有り難いことに―――セトと共に雑用に勤しんでいるからだ。
「カノさんだってナイフ投げは得意分野じゃないですか」
どうやらヒビヤから一定のノルマを受けているらしく、それをこなせるようになるまで次の段階はお預けだと言われたそうだ。それがこの的当てで、だから得意で暇人なカノを引っ張りこんだ、と。要は自習である。カノとて別に暇していたわけではないのだが、それをここで反論する気力はなく、吐息を一つ溢して肩を竦めた。
「カノ……」
ぼんやりとした特有の声にカノが視線をやると、木に向かっていたコノハがクルリと振り返った。手に持っていたのは、刃がぱっきりと折れたナイフ。如何やら力任せに引き抜いたようだ。いや、引き抜くというよりは、毟り取ったが近いか。
「こういう時は、如何したら……」
カノは思わず唸り、頭を抱えた。成程、これはヒビヤが逃げ出したくなるのも道理である。

「【カゲロウプロジェクト】?」
くゆる湯気の向こう、シンタローの言葉に心晴中佐は、ええと頷いた。シンタローの隣に座るキドはつい彼を見やり、一対のソファに向かい合って座る彼らを見守るエネは口に手をやる。一人ヒヨリは、表情を変えぬままじっとシンタローの後頭部を見つめていた。中佐と共に入室してきた二つの影は、黙したまま、彼の背後に控えている。
一口啜った紅茶のカップを戻し、中佐は膝の上で手を組んだ。
「御伽噺や伝承に興味があるんです。調べる内、その名前を耳にして」
「……俺たちが、そのことについて知っているとでも?」
「これでも一応、古い家柄の出なので」
中佐は苦笑し、またカップを手に取る。シンタローは持ち上げたままのカップを戻し、彼を見つめ返した。
「……お望み通りの答えは申しかねます」
慎重に、言葉を選んで。膝の上で組んだ手の平に、じわりと嫌な汗が浮かんだ。対照的に汗とは無縁そうな顔をして、中佐はニコリと笑う。
「そうですか、それは残念だな」
白々しい、とはこのことか。カノ以上に嘘つきの匂いがする。
エネは顰めた顔を、手の平で隠した。話は済んだのか、中佐は立ち上がって脇に置いていたコートを手に取ると、シンタローに再び手を差し出した。立ち上がったシンタローと、キドもその手を握り返す。
「ではまた、何かありましたら」
「ごゆっくり見学なさって下さい」
キドの言葉に会釈を返して、中佐は壁際に控えていたマントたちに視線をくれた。それが合図だったのか、彼らは音もなく中佐の背後へ立ち、ヒヨリに先導される彼と共に退出して行く。
扉が静かにしまっても暫くは、部屋に緊張した沈黙が落ちていた。
「……胡散臭い」
ボスン。ソファに乱暴に身を沈ませながら、ポツリとシンタローは呟いた。キドもエネも、緊張で固まった身を解しながら壁やソファに凭れかかる。そうして、何事もなければ良いのだが、とキドは大きく息を吐くのだった。

「つっかれたー」
「ふふ、お疲れ様」
汗で肌に貼りつく服の襟を動かして、新鮮な空気を流し込む。ぐったりとした様子で歩くモモの隣に並び、マリーは小さく笑った。
コツ、と高い足音が廊下に響く。二人は思わず足を止め、前方へと視線を止めた。ざ、と風を切るように堂々と、白い集団が二人の横を通り過ぎていく。
「―――!」
白い髪に、少し吊り上がった口元。
僅かに見えたそれに、マリーは目を瞬かせた。
「何だろ、あの人たち」
勢いを変えず去っていく集団―――よくよく見れば、二人だけで、集団とは言い難かったが―――の背中を見つめ、モモはコテンと首を傾ぐ。
少しのことではっきりとは解らなかったが、唯一見えた顔は中々に端整なものであった。纏う白と合わせて、綺麗だと、彼女は素直に呟いた。マリーは、きゅっと首から下げた鍵を握りしめ、じっと小さくなっていく白を見つめた。
「マリーちゃん?」
彼女の様子に気づいたモモが、如何かしたのかと問う。マリーは小さく唸りながら、眉を顰めた。
「何かよく解らないけど……」
何処かで、見たような。そんな感覚が、マリーの胸に落ちてきた。

「おしゃヒヨ人形?」
セトは小首を傾げ、ヒビヤの持つ手の平サイズの人形を見つめた。
確かに、黒い二つに結んだ髪は、何処となくとある少女を彷彿とさせる。ヒビヤは一つ頷いて、首を縫い付けていた糸を結び、歯で噛みきった。
本部建物から少し外れた、森への入口。彼らの用事は、そこに隠れるようにして建つ倉庫にあった。
既に使われなくなって久しい武器庫に武器はなく、しかし真新しい煌めきを放つ錠だけが不釣合いにぶら下がっている。そこは一○七大隊のために専用化された倉庫で、銃器やらナイフやらが所狭しと並んでいた。
本日の彼らの任務は、その管理報告書の作成提出である。完全なる雑用に回されたと理解したヒビヤはさっさとメモし、早々と手近に転がっていた木箱へ腰を下ろしていた。
「僕が作った、ヒヨリの音声内臓人形『おしゃべりヒヨリ』―――通称おしゃヒヨ人形」
完璧に修復したことを隅々まで確認し、ヒビヤは満足げに微笑む。裁縫箱を片付けるまでの彼の手際よさに感心しながら、セトは餌を食べ終えたはなおを胸ポケットに戻した。セトの首には当たり前のようにクロハが巻き付いており、ヒビヤの執着心にこっそり顔を顰めている。
「モモが力の加減を考えずに握るもんだから、壊れちゃって」
そのことを思い出したのか、ヒビヤは溜息を吐いた。それに怒って、ヒビヤは今日の指導を放棄したのだ。カノは完全にとばっちりである。
ヒビヤは直したばかりのそれを丁重に内ポケットへとしまった。
「喋るんすか、それ?」
「勿論。中にテープレコーダーが入ってるんだ」
こういうのを、人は才能の無駄遣いという。
呆れて溜息を吐くクロハをそのままに、セトは倉庫を出ると施錠した。彼から鍵を受け取り、ヒビヤはそれをポケットへとしまう。
そのとき、ガサリ、と草葉を踏む音がした。
咄嗟に身構えてそちらへ視線をやったヒビヤとセトは、緑の隙間から見える白に顔を見合わせる。男が一人と、マントを着た同じ背丈ほどの人間が一人。マントの方は顔が見えないが、男は見覚えない顔である。
つい身を屈めて息を潜め、二人は並んで男たちの様子を見つめた。
「あれ、誰っすか?」
「さあ……もしかして、シンタローが言ってた本部の視察人じゃない?」
ヒビヤの言葉に、セトはチラと彼を一瞥する。そうしてにやけるセトを目敏く見つけて、ヒビヤは軽く睨みつけるように彼を見やった。
「何?」
「いや……」
最近、彼はセトたちのことを敬称付せずに呼ぶことが増えた。きっかけはモモだろう。何となく以前よりも打ち解けられたような感じがして、セトは気に入っている。
セトがふふふと笑ったままなので、ヒビヤは少々居心地悪そうに肩を揺らした。それよりも、と誤魔化すようにヒビヤはセトの視線を男たちへと促す。セトも慌てて笑みを引っ込め、彼らの会話へ耳を傾けた。
本部からの視察人が一○七大隊に有益を齎すとは、到底思えない。彼らが何を考えているのか、こちらとしては知りたいところだ。
本部の外れということもあり人気がないと安心してか、男たちの声はそれほど低められていなかった。
「……―――の?」
「ああ、間違いない」
何を話しているのだろうか。白い男が、ニヤリと口元に笑みを浮かべる。
「あの子で間違いないよ……可愛らしい、花の名前だ」
(!)
セトとヒビヤは顔を見合わせた。
花の名前を持つ少女は二人いたが、咄嗟にこれだと思い定まるのは一人しかいない。しかし、どうして。
「……そうだとして、あの大佐たちが素直に手を貸してくれるとは思えない」
「警戒されてたねー」
「お前が胡散臭いから……」
「酷いなー」
カラカラと笑いながら、男は手を振る。それからふと笑うのを止めた彼は、腕を組み、先ほどとは違う種類の笑みをマントへ見せた。
「まあ、手段は選んでいられないからね……丁寧に『お願い』するしかないだろうね」
「それは、俺に任せるということなのか」
「勿論」
「……残業代」
「そこは幼馴染の好で融通してくれないかな……」
能天気な会話を続ける二人だが、セトとヒビヤはそれどころではない。マリーを狙って、彼らは何かしてくるつもりだ。何にしてもまずは、このことをシンタローたちに伝えなければ。
セトはコクリと唾を飲んで、その場から離れようとした。―――一瞬、男の瞳がこちらを射抜き、セトの足が止まる。
「鼠だ」
男のその一言とほぼ同時に、ヒビヤの頭に葉が数枚落ちてきた。
「―――!」
見上げた彼の瞳に、木から飛び降りる小柄な人影が映る。咄嗟に身体を捻って人影の持つナイフを避け、ヒビヤは距離をとった。
「ヒビヤくん!」
「大丈夫……!」
息を吐く間もなく襲いくる凶刃を交わしながら、ヒビヤは腰を探って自分のナイフを取り出した。ガチ、と鉄同士がぶつかって音と小さな火花を散らす。ヒビヤはそこでその人影が自分と同じ年頃であること、フードの下の顔には狐面をつけていることに気づいた。
彼が気にかかったものの、セト自身も油断はできず、先ほどまで男と言葉を交わしていたマントの攻撃を紙一重で避けた。こちらはナイフではなく、刀を得物とするようだ。セトは、くっと短く息を吐いて腰の軍刀を引き抜いた。しかしそれすら遅いというように、マントが間合いを詰める。フードの下に隠れた狐面が目に入って、セトは小さく息を飲んだ。
「っ!」
咄嗟に目の前へ迫った刀を、軍刀で受け止める。軍刀より重い鉄の刀に、腕が痺れた。ひゅ、と風を切る音がして視界の端に黒い何かが映る。それに気づいたときには遅く、セトは蹴りを喰らって木の幹に身体を叩きつけた。
「!セト!」
「っち!」
ヒビヤが声を上げると共に、そんな舌打ちが聞こえた。ぐったりと座り込むセトの首から飛び出した黒蛇が蜷局を巻くと、人型が現れる。クロハは人型になって息つく間のなく、そのまま追撃するマントを殴りつけた。
「!」
「蛇さん……?」
異常な事態を目の当たりにしてか、二つのマントの動きが鈍る。その隙をついてクロハたちのもとへ向ったヒビヤは、声をかける間もなく彼に抱え上げられた。
「うわ!」
「逃げるぞ!」
「てぇえ!」
揺れる頭を支えていたセトも、小脇に抱えられた途端、意識がはっきりしたらしい。驚く二人を余所に、クロハは森の奥へと駆けだした。
「足早いなー」
さすがは人外と言うべきか、すぐ見えなくなる背中に感心しつつ、男は足を進めると腰を少し屈めて何かを拾い上げた。手の中にすっぽりと収まるそれを指で転がし、握りしめる。
「俺は追うから」
「よろしく」
落としたフードをかぶり直し、狐面の男は駆けだした。それを見送り、ヒビヤに飛びかかっていった小さいマントは男を見上げた。
「どうするの?」
「んー」
ニッコリと笑い、男は彼女の頭を撫でる。
「少し、利用させてもらおうかな」
男の言葉とウインクに、少女は益々首を傾ぐのだった。
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