昔々、ある処に
 母は物心ついたとき、既に姿を消していた。
 男手一つで育ててくれた父は、暫く前に亡くなった。病気だった。
『ひとり』になった私は、ただ母の帰りを待ち続けていた。
お墓参りと、父が遺した日記を読む日々。意味のないまま、時間だけが過ぎていく。
そんなときだ、『彼』が現れたのは。
「……っ!」
「いてて……あ、ごめん、驚かせた?」
突然転がり落ちるようにして庭先に倒れこんだその少年は、頭につけた葉をそのままにガバリと身体を起した。あはは、と笑う彼に、しかし私は警戒心を緩めることができない。
身構える私を気にした様子も見せず、少年はニッコリと口で弧を描く。それから、ねぇ、と少し身を乗り出した。
「君の名は?」



雲の切れ間から、眩い日光が線を描くように零れている。天から伸びる柱のようなそれは、真っ直ぐにとある兵舎の屋根へと落ちていた。
物語は何時かと同じように、この建物の一室から始まる。

ぱち。目を開くと、見慣れた生成色の天井が広がっていた。それをマジマジと見つめるように二三度瞬きを繰り返してから、瀬戸幸助はゆっくりと身体を起した。
腹に乗っていた黒蛇が、ぽたりとシーツの上に落ちる。それを気にせず、背を丸めて固いベッドから降り、部屋に常置されている洗面台へと向かった。
思い切り蛇口を開いて流れる水をそのままに、顔を洗う。手探りで壁にかけたタオルを取り、顔を拭う。
洗いすぎて固くなったタオルに顔を埋め、ふとセトは壁に取り付けられた鏡に目を止めた。
「……」
黒髪。十代半ばに適当な幼い顔立ち。
両の目は、琥珀。
「……」
きゅ。蛇口を捻る音が、無機質な部屋に響いた。
しゅ、と衣擦れの音が立つ。袖を通した軍服の襟から、緑のパーカーのフードを出し、その胸元で輝く紋章を軽く握った。袖を折り、ゴーグルを首から下げる。これは幼い頃からの癖で、一種のお呪い。
拳銃に弾をこめてスライドさせる。ジャキ、と無機質な音を立てて黒光りするそれを見つめ、セトは一度目を閉じた。手に馴染んだグリップを握りしめ、太腿のホルダーに突っ込む。
ふと視線を止めたベッドの上で、目覚めたらしい黒蛇がシュルルと身体を動かしていた。腕を伸ばせば、それは器用に身体を動かして巻き付いてくる。そのまま肩から首へと上がって来るそれを好きにさせながら、扉を開いた。

「セト」
食堂へ向かう道すがら、背中にそんな声がかけられる。振り返ると、鹿野修哉がヒラリと手を振って見せた。セトはふっと頬を和らげる。対してカノはセトの首に巻き付いてウトウトする黒蛇に目を止め、僅かに顔を引き攣らせた。
「今からご飯?」
「うん」
「僕も」
一緒に行こうか、と隣に並ぶカノに頷き返して、セトは止めていた足を進める。
こうして揃って歩くのは、幼い時から変わらない。いつも通りの光景だ。目の端で踊る猫毛に、セトはこっそり笑みを溢した。
「そう言えばさ、」
ふと、と言った風にカノが口を開く。朝食の乗るトレイを持ったまま、ん、と視線を動かせば、その先にいたカノは少々居心地悪そうに肩を揺らしていた。その不審な挙動に、セトは小首を傾ぐ。
あー、と間延びした声を漏らし、カノは持っていたトレイを空いた席に置く。
「最近、雨の日に来なくなったね……」
その向いに腰を下ろしながら、パチリ、とセトは瞬きを一つした。
セトは、雨が苦手だ。『初めて』が雨の日であったからか、雨音が昔溺れた流水に似ているせいか、落ち着かなくなるのだ。夢遊病になりかけた彼を引き止めたのはカノで、それ以来雨の日は『そういう日』ということでカノの部屋にセトが訪れることが多くなっていた。
それが最近、さっぱりで。つまりはご無沙汰なのである。
カノとしてはさり気無い誘いの意もあったのだが、察しの悪いことで有名なセトがそれに気づくわけもなく。
彼は、ああ、と頷いてとんでもない爆弾を落とした。
「シンタローさんの部屋に行ってるんすよ」

「どう、ですか!」
ビシ、と効果音を伴って腰を捻り、俗にグラビアポーズ等と呼ばれそうな恰好をとったのは、青い髪をツインテールにした可愛らしい少女。彼女の前に構えられた机についていた三白眼の青年は、頬杖をついたまま興味なさそうに頷いた。
「良いんじゃないか?―――何処が変わったのか知らんが」
「ご主人、デリカシーないですねー!」
余程機嫌が良いのだろう、ケラケラと笑って少女・エネは机に手をついて身を乗り出した。広げていた書類を横に除けて、青年はこっそり吐息を溢す。
彼女はとある実験の被検体として、精神データを電子化され、生身を失った。今の身体は、科学者・ケンジロウの手によって造られた人造体だ。その話が持ち上がった際はグチグチぼやいていたが、何だかんだ言いつつ、自分の身体が完成するのを楽しみにしていたのだろう。女とはゲンキンなものだ。
小さく肩を竦める青年の視線の先で、エネは鼻歌交じりにクルクルと回り、真新しい軍服の裾を摘まんでいる。他の少女兵士たちと同じように太腿までのミニスカートとぴっちりとしたニーハイソックス。電子体のときは爪先までない姿であったから、コツコツと床を叩くローファーが新鮮だ。
本人の希望で指先まで伸ばされ袖が、ふわりと宙を舞った。
「エネも大隊に加えるのか?」
隣の机に座っていたキドが、珈琲を啜りながら訊ねる。
「ああ。ただし、肩書は」
ぴ、と持ち上げた青年の手から書類を取り上げて中身を覗きこんだエネは、不服そうな声を上げた。
「中佐補佐ぁ?」
「何だ、不満か?二等兵監督に任命してやっても良いんだぞ?」
今この場にはいない青年二等兵の顔を想像したか、エネはう、と言葉を詰まらせる。そういうことだと青年は呟き、とん、と机を示指で叩く。
ニヤリと笑う如月伸太郎中佐の顔に、頬を膨らませながら、エネは渋々書類を投げ返した。
ばき、と板が割れたのではないかと錯覚するような音が、入口から聴こえた。
エネたち三人は揃って首をそちらへ向ける。そこに立っていたのは荒く息吐くカノの姿で、シンタローたちは驚きもせず如何したのかと問うた。
黙したまま、しかし目つきだけは鋭く、カノはツカツカと部屋へ入って来る。彼の後を追って来たのだろう、セトが少々不安そうな顔を扉から覗かせた。
ダン、と激しい音を立てて、カノはシンタローの机に手を叩きつける。
セトを連れての、カノのこの様子。シンタローは大方の事情を察し、こっそり吐息を漏らした。そしてカノもまた、頭の回転が速いこの男が予想済みであろうと知っている。
「……どういうこと?」
「どうもこうも。俺はただ、セトの話し相手になってただけだぞ」
雨の日は一人でいるのが寂しいと言うから、それを紛らわせるためだ。シンタローにとって誠に遺憾ながら、未だこれと言って進展らしいことはない。ただ本を読んだり、言葉を交わしたりしているだけ。
「それに宣戦布告は済んでいると思うが?」
「宣戦布告されたから危険視してるんだよ」
「……」
「……」
剣呑な三白眼と、弧を描く赤い目。バチリ、と静電気なんて生易しいものではない稲妻が、二対の目の間で生じた。
穏やかとは言い難いその雰囲気に、セトは眉尻を下げた。
「二人とも、どうかしたんすか?」
「ほっとけほっとけ」
「少尉さん、お菓子食べます?」
あれは長くなりますよー、とぼやきながら、エネはクッキーの詰まった可愛らしい籠を両手で持ちあげる。途端に目を輝かせ、いただくっす!、と飛びつく彼の傍らに立ちながら、拗れそうな予感を胸に抱きつつ、キドは溢す吐息と共に珈琲を飲み込んだのだった。

「あのヘタレ童貞がなー」
珍しいこともあるもんだと棒読み気味にぼやきながら、ケンジロウは摘まんだ螺子を母指で弾く。彼の背後で、申し訳程度に片付けた机に顎を乗せていたモモが、それに不服の声を漏らした。
「呑気なこと言ってないで下さいよー、こっちは大変なんですから」
何かある度、ともすれば顔を合わせる度に、シンタローはカノと牽制しあうようになった。共に居合わせる身としては、気が気でないのだ。
彼女の向いに座っていたヒビヤも同意して、首を縦に振る。
「男の嫉妬は醜いよね」
「ヒビヤくんはさ、本当に自分が勝ち組だと思ってるの?」
勿論何言っているのだ、と言わんばかりの視線を返され、モモは頬を引き攣らせつつ視線を逸らした。
傍から見ている者としては、あれはどう見ても恋人のそれではなく、女王さまと下僕だ。
そんなヒビヤの隣では、ココアを啜りつつほっこりとするコノハの姿がある。彼こそ、一○七大隊男性陣の中で唯一の勝ち組であろう。
「でも面白くなってきたよね」
ほんわりと微笑むのは、モモの隣に座っているマリーだ。ここ最近、妙に肌艶の良い彼女は、今現在の状況が楽しくてしょうがないらしい。脇に置いてある青い表紙のノートには、一体何が記されていることやら。
ヒビヤはこっそり嘆息した。
「で、あなたは何とも思わないの?」
半分ほどになったココアの水面に目を落としながら、ヒビヤは身体を曲げてケンジロウを見やる。ケンジロウは少し視線だけやって、あ?と声を漏らした。
「シンタローのことだよ」
彼は嘗て、ケンジロウの愛娘アヤノに淡い恋慕を抱いていたと思われる。そして此度はまたもケンジロウの―――義理ではあるが―――愛息子だ。
「やっぱりカノの方を応援するの?」
「それもそれで複雑だがな……」
それもそうか。
ふぅと息を吐いて、ケンジロウは背凭れに腕をかけた。そのままクルリと椅子を回転させた彼は、ヒラリと手を振る。
「まあどちらでも良いが、泣かせたら容赦はしないな。……特にシンタロー」
ニヤリ、と笑うケンジロウの眼鏡が光りを反射し、奥に潜む瞳を隠した。思わずブルリと背筋を震わせ、モモは心の中で兄に向けて合掌した。
どうやら二度目はないようであるぞ、兄よ。

「何怒ってるんすか……」
「別に」
そんなことはないだろうに、カノはツンとそっぽを向いたまま。セトはどうしたら良いか解らず、頭を掻いた。
今朝方シンタローの話題をだしてから、カノの様子が可笑しい。いきなり食堂を飛び出したかと思えば、シンタローの元へと殴り込み。それからずっと、セトに対して余所余所しい。
ベッドに座ったままこちらを見もしないカノにとうとう腹に据えかねて、セトはバンと机を叩いた。
「本当、何なんすか一体」
いつかの時もそうだった。一人でシンタローくんシンタローくんと騒いでは、セトが意味を理解する間もないまま不機嫌になって。不満があるなら、セトに当たらず本人に直接言えば良いものを。
「意味わかんないっすよ……」
くしゃりと前髪を掴んで溜息を溢せば、途端カノは表情を失くす。その様子が少し怖くなってセトは、じり、と後退った。
「それ、本気で言ってる?」
だとしたらとんだ鈍感だ。吐き捨てるような呟きに、セトは思わず苛立った。
まるでセトが原因なのだとでも言いたげな物言い。そんな言葉を受ける理由が、思い当たらない。
「言って良いことと悪いことがあるっすよ……!」
「そう?」
何処か自嘲気味に笑って、カノはベッドから飛び降りた。じり、とセトはまた後退る。カノは同じ笑みを貼りつけたまま、空いた距離を一歩で埋めた。
「鈍感なのもここまでくると悪意感じちゃうよね」
「……何が言いたいんすか」
「……僕は何度も言ったよ。それなのに無視して切り捨てる君が悪いんだ」
「だから何を―――っ」
とん。セトの背が、壁にぶつかる。左右の退路も塞ぐように、カノの腕が伸びてきた。
カノと壁の作る空間に閉じ込められ、セトはただ見上げてくるベージュの猫目を見下ろすしかない。
それが赤に変わるのは、一瞬だった。
ぐ、とカノはセトの首に巻き付いたままのクロハを掴み、ネクタイでも解くように取り払って、背後へと放る。それに文句を言うように、蛇はシューと空気を吐き出した。けれど、カノは振り向かない。
「あの時の言葉も忘れちゃったならさ―――」
―――もう一度同じことをすれば、思い出す?
ぐいと襟首を引かれ、耳元で囁かれる。するりと入り込んできた言葉に、ゾクリと背筋が震えた。
瞬間脳裏をフラッシュバックしたのは、幼いときの嫌な想い出。
セトは思わず、手を振り上げていた。ばち、と乱暴に振り回した手が、カノの頬を叩く。
それに「あ」と言葉を漏らしたのは一瞬で。セトは下唇を噛みしめ、そのまま部屋を飛び出した。
バタン。激しい音を立てて閉まる扉に一瞥もくれぬまま、カノはその場にズルズルと座り込む。後ろに手をついて上を仰げば、無機質な生成色と目が合った。
「……まーた泣かせちゃったかなー……」
今度は平手では済まないだろうマリーの制裁を想像して、カノは力なく笑んだ。
パタリ、と埃が薄く積もった床に寝転ぶ。
赤い目は、いつの間にか元のベージュへと戻っていた。

シンタローは頭を掻きつつ、廊下を歩いていた。
ここ最近のデスクワークは深夜にまで及び、睡眠時間はガリガリと削られている。そのおかげで目の下に貼りつく隈を擦り、シンタローは欠伸を溢した。
心なしか、視界がぼやけているような―――どん。
そのとき、前方から向かって来た何かが、シンタローの身体にぶつかった。たたらを踏んだが何とか持ち堪え、シンタローは視界に入った緑を掴んだ。
「……セト?」
「あ、シンタローさん……」
シンタローの肩に凭れかかるように前のめりになっていたセトは、慌てて身体を起す。フードをかぶり、胸元をぎゅっと握りしめる彼の様子に、シンタローは小さく顔を顰めた。
「すいません、前をよく見てなくて……え」
眉尻を下げて笑うセトの手が、シンタローに掴まれる。じっと見つめる黒々とした瞳にハッと息を飲み、セトは言葉を飲み込んだ。
「……来い」
静かにそれだけ言って、シンタローは腕を引く。セトは頷きも了承の声も返せぬまま、彼の後に従った。
連れてこられたのは、彼の私室だ。
静かに扉が閉められ、セトはシンタローに促されるままベッドに腰を落とす。その隣に自分も腰を下ろし、シンタローは何があったのかと問うた。思わず、セトはマジマジと彼の顔を見つめる。
「……何でそうだと?」
「……勘」
小さく呟いて、シンタローは肩を竦めた。
まさか、いつも見つめていたから少しの変化にも気づいたのだなど、言えるはずがない。
セトはそれをシンタローの経験によるものだと思い、素直に感嘆の声を漏らした。
「さすがっす」
「そんなことねぇって。……で、何があった?」
ヒラリと手を振って視線を逸らし、シンタローは小さく笑って見せる。セトはそこで身体に力が入っていたのだと気付き、呼吸と共に強張りを解いた。同時に胸を掴む手もおろし、ベッドへ置く。
「……カノが、良く解らなくて」
手元へ目を落とし、セトはポツリポツリと先ほどのことを話した。話が続くうち、シンタローの目が僅かに開かれたが、俯くセトは気付かない。
彼の琥珀は今、在りし日の風景へと向けられている。
何処で道を違ったか。キドもカノも、ずっと幼い頃から離れずセトの傍に居てくれた。
けれど昔に比べて、カノが遠い。物理的ではなく、精神的に。そんな気がして、しょうがない。
「……どうして、昔みたいにいかないんだろう」
セトは思わず苦笑した。
彼を『盗ん』でしまえば容易いこと。けれどそれは、何よりセト自身が嫌悪することで。なのにカノは、気持ちを察することが出来ない馬鹿だと、セトを罵る。
昔はこうじゃなかった。頭に流れ込む情報量に耐え切れず、一人隠れて泣いていたセトを、カノはいつも見つけてくれた。そして全てを聞かず、黙って涙を拭いてその手を引いてくれたのだ。あの頃の手が、今は酷く遠くて―――酷く懐かしい。
「……」
そ、とセトの手に、シンタローのそれが重なる。セトは彼の顔を見返した。シンタローは薄く笑みを浮かべ、セトを見つめていた。こちらを映す黒から目が離せなくて、口の中が乾く。
「シンタロー、さん……?」
「……なあ、さっき俺、何で何かあるって解ったと思う?」
「え……」
それは……と溢しかけた言葉を止めるように、シンタローの手がセトの頬を撫でる。する、と滑った手の親指が、セトの下唇を押し潰すように触れた。
「好きだからだよ。俺も……カノも……ずっと、お前だけを見てる」
「……俺も、二人のことが好きっすよ……」
セトが呟くと、シンタローはくしゃりと苦笑して首を横に振った。そうじゃない、と。それからずい、と一息に身を乗り出し、距離を縮める。セトが息を飲むと同時に、シンタロー彼の顎を引いて唇を重ねていた。
「!」
セトは目を見開く。後ろへ下がろうとする腰に腕を回して、シンタローはセトの後頭部に手を添えた。そうして更に、自分の方へと引き寄せる。
んぅ、と苦しげな声が漏れて、セトの眉間に皺が寄る。それを薄く開いた視界で確認し、シンタローは舌を伸ばした。突然のことで身動きできないセトの唇は容易にこじ開けられ、息も唾液も丸ごとシンタローに飲み込まれる。後頭部を押されるから自然セトは俯く形になって、気道が狭まり呼吸し辛くなった。
ぴちゃぴちゃ、と粘液の混じり合う音が、暫くの間、狭い部屋に響いていた。つ、と口端から唾液が漏れる頃、シンタローはやっと舌を引き抜く。
喉で止まっていた空気が、狭い部屋に零れ落ちた。
「ふ、ぁ……シンタロ……さ……」
「俺たちの言う『好き』は、こういうこと」
酸欠で頭がくらくらする。カノとも何度かしたことはあるが、ここまでしつこいものではなかった。
そんなことをセトが考えている間に、シンタローは彼の肩を軽く押して、ベッドに転がす。ぎし、とベッドを軋ませて、シンタローは覆いかぶさるように彼を見下ろした。
「カノとこういうことして、慣れてるんだっけか?」
それだったらまだ足りない。きっとセトは、まだ理解しない。
現に彼は、パチクリと瞬きをするだけだ。その様子に思わず苦笑がこみ上げる。シンタローはシーツに散らばる黒髪の短い一房を手に取った。キラリと、その右目が赤く光る。
「―――俺とも、してくれないか?」
何を、とも、シンタローさん、とも。
何も言葉を紡げぬまま、セトの口は塞がれる。シンタローがまた、キスを落としたからだった。

床に転がるカノを一瞥して、クロハは音もなく部屋から滑り出た。フ、と無意識に零れた吐息の意味は、彼のみぞ知る。
(阿保臭)
元よりクロハが彼らの尻拭いも肩入れも、する義務はないのだ。仮にも監視役が、監視対象を放っておくとはどういうことか。だからと言って逃げる気は、クロハにはないのだけれど。
そんな己が毒されているようにふと感じ、クロハはチッと舌打ちした。
「蛇さんだ」
不意に頭上から落とされた声に、クロハはビクリと身体を止めた。顔を上向けると、いつの間にやら、そこには小さな人影が立っている。
目深にかぶったフードと踝まで覆うマントのせいで、その容姿ははっきりしないが、先ほどの声と背の高さからするに幼い少女のようだ。チラリと覗いた白い肌に、クロハはない眉を微かに顰めた。
少女はクロハの前に膝を折って座り込むと、手を伸ばしてそっと鱗に覆われた頭を撫でた。少々身構えていたクロハは、割れ物を触るようなその手つきに、小さく息を飲む。
(……?)
「―――おい」
ふと浮かんだ何かをクロハが掴む前に、今度は固い声が廊下へ響いた。少女はクロハを撫でていた手を引っ込めると、声の聴こえた背後を振り返る。クロハも同じように視線をやり、その先に立つ少女とほぼ同じ恰好の人影を認めた。
背丈はセトほどか、中々に長身だ。声の低さからいって変声期を終えた年頃か。フードの下から覗くのは、白い狐の顔だった。
「……何をしてるんだ、行くぞ」
「はーい」
青年に声を返して、少女はクロハに小さく手を振ると、パタパタと軽い足音を立てて駆けだした。
青年と並び廊下の奥へと消えていく少女を見つめ、クロハは先ほど抱いた『懐かしい既視感』に首を傾げるのだった。

「見つかった?」
「ああ。道草を食っていたんだ」
中庭のベンチに座る男の元へ、揃いのマントを着込んだ青年と少女が歩み寄る。男は苦笑して、少女の頭を軽く撫でた。
「さて、と」
男は立ち上がると、黒い団服に包んだ身体をゆっくりと伸ばす。それから腰に両手を当て、大きく空を仰いだ。その様子を見ていた青年は、フードに隠した顔を僅かに歪めたようだった。
「……本当に良いのか?」
彼の言葉に、男はニッコリと口元で弧を描いて見せる。
「良いんだよ」
青年は何を言っても無駄と感じたのか、青年は肩を竦めた。男は気にした風もなく、さて、と呟く。
「行きますか」
―――真っ白な髪が、風に遊ばれ揺れていた。

プチ。携帯端末の通信を切り、ヒヨリは常の彼女にしては珍しく頬を僅かに引き攣らせた。
今し方もたらされた連絡は、ヒヨリにとってとても有り難くないもの。正確には、至極面倒な『頼まれ事』であったのだ。
「……冗談じゃないわよ」
グッと握りしめた手の中で、携帯端末がピキリと音を立てた。
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