女王の棲む家
「『そして、二人は可愛らしい女の子を育てながら、メデューサの帰りを待ち続けました』」
おしまい。シンタローはそう、淡々とその御伽噺を締めくくった。シンタローが語ったのは、彼が嘗て軍の書庫で見つけた一つの御伽噺だ。
シンタローとキドを先頭に、二列になって進む森の中。シンタローの語り話以外は、彼らの足音しか聞こえない。
二列目を歩くマリーは、隣のモモの裾を掴んだまま、そっと胸元で拳を握った。彼女たちの後ろを歩くのはコノハとヒビヤだ。
「恐らく、この物語の語り部は、マリーの爺さんと父親だろう」
そうでなければ、アザミの暮らしやマリーの出生についてまで御伽噺として語り継がれる筈がない。
アザミの伴侶が遺した手記でもあったのだろう、それに続くようにしてマリーの父親が綴った物語。いつか世界に置き去りにしてしまうだろう、愛する者たちを、自分の次に出会った人間も同じように彼女たちを愛してくれるよう、願いをこめて。化物でも、愛を知っているのだということを忘れないでと、想いをこめて。
「お父さんとお爺ちゃんが、そんなことを……」
「定石通りにいくと、次は私たちの番ですね」
コノハの右胸から、そんな呑気なエネの声がする。違いない、とキドは呟いた。
彼女の声色が大分落ち着いていて、シンタローはそのことに内心安堵する。気持ちが明るくなるのは、例えこれから戦いの場に向かうとは言え―――いや、だからこそ―――良いことだ。
「冒頭は……『その後、成長した可愛らしい女の子は』……かな?」
モモの場合は、少々度が過ぎるが。シンタローはヒクリと頬を引き攣らせた。
「……お前ら、呑気だなぁ」
「緊張でガチガチになっているよりはマシだろ」
「それはそうかもしれないが……―――っと」
シンタローは言葉を止め、僅かに表情を引き締めた。
「―――あそこか」
ガサリ、と叢を踏む。少し開けた場所にたつ、一軒の小さな家。成程、御伽噺にぴったりの可愛らしい家だ。
「……あそこに、蛇の女王(メデューサ)が」
緊張に乾く口内を潤すように、シンタローは唾を飲み込んだ。



突如として闇の中に引き込まれたセトは、衝撃が襲いくるのを覚悟していた。しかし幾ら待っても何も起こらないので、恐る恐る目を開く。
「ここは……」
そこは、果ての見えない闇であった。
すぐ近くに『蛇』の立つ姿が見える。彼は前方を睨むように見つめていた。セトもそちらを見やって、そして息を飲んだ。
幾千、幾万といった数の『眼』が、蛇の眼が、二人を照らしている。
異様な光景に怯え、セトは思わず後退った。
「『冴える』だ、『冴える』が帰ってきたよ」
「何だ、お前ら……!」
『冴える』だ『冴える』だ―――そんなことを繰り返しながら、蛇たちは闇の中からその姿をぞろぞろと現す。見えていた闇全てが黒蛇たちの集合体であったかのようなその光景に、セトはゾクリと背筋が泡立った。
きゅ、と思わず服の袖を掴んでくるセトに、『蛇』は小さく舌を打って彼を庇うように腕を伸ばした。
しかしそんな彼らを気にせず、蛇たちは二人の足元に寄ると、じゃれつくように絡みつく。氷のように冷たいその感触に、二人は揃って鳥肌立てた。
「な、何なんすかこれ!気持ち悪い!」
「やめろ、何だお前ら!」
蛇たちを振り払おうにも、数が多すぎる。一匹振り払う毎に、更に数匹蛇たちが纏わりついてきて、徐々に動きが鈍くなる。
蛇たちの囁きは幾重にも重なって、空間を飽和させるように響いた。
「ぅ……!」
「くそ!」
蛇の数匹が、首や腕に巻き付いて動きを封じる。呼吸すら止めかねんその力に、セトは顔を顰めた。『蛇』も振り上げた腕を絡めとられ、がくりと膝を折ってしまう。それでも地面に座り込まなかったのは、既に下半身が蛇たちで埋め尽くされていたからだ。
「……っか」
首にかかる圧迫に、セトは喘いだ。蛇を引き千切ろうとしても、手はとっくに動かない。酸素不足で、セトの視界は霞んだ。
思考もぼんやりとしてきて、セトは殆ど無意識のうちに頭に浮かぶ単語を口に出していた。
「……か、の……」
「はいはい」
シュ、と。闇すら引き裂く銀の残像が、セトの視界を切り開いた。
一瞬の内に消えた圧迫に対応できず崩れかける身体を、受け止める手が一つ。
『蛇』すら驚愕に目を見開き、何処からか飛んできた銃弾によって解放された自身の身体を、呆然と見下ろした。
ジャキ、と音を立てて弾倉を入れ替えるのは、ローズピンクのリボンが印象的な少女。そしてその傍らに立ってセトを支えるのは、
「―――やっぱさ、僕は欺いてなんぼだよね」
ニヤリと笑って、ダガーを煌めかせたカノだった。
「―――カノ!」
「はあい、セト」
ニッコリといつもの満面の笑みを返して、カノはセトの身体を立たせる。
セトは慌てて足に力を入れ、彼にべったりと寄りかかっていた身体を離した。それからもう一度、カノを見やる。セトの色々な感情が綯交ぜになった視線を笑顔で受け止め、カノはまた笑った。
セトはペタペタとカノの頬や髪を摘む。その手つきに、カノは擽ったいと笑った。そんな彼に構わず、掌にしっかりとその感触があることを確認し、セトは心から安堵の吐息を漏らした。
「どうして……」
「僕の専売特許だからね、欺くのは」
頬に触れるセトの手を優しく撫で、カノはニッコリと笑った。
つまり『蛇』に撃たれた瞬間、『目を欺く蛇』の能力で死を偽装したのか。
それでも掠り傷は折ってしまい、包帯は巻くはめになったようだが。カノは人差し指の関節で額の白を叩いた。
頭は血管が皮膚の薄いところを通っている。だから少しの傷でも、派手に出血してしまうのだ。
兎も角傷が浅いことを知り、セトはホッと息を吐いた。それからふと、『蛇』へ銃口を向けて牽制する少女へ、視線をやった。
「そっちの子は……」
少女は構えていた手を下ろし、ピッと模範的な敬礼をする。低いところで二つに結った髪と一緒に、それを束ねているローズピンクのリボンが揺れた。
「お初にお目にかかります、瀬戸幸助少尉。朝比奈日和元中佐であります」
「セトを追う時、手伝ってくれたんだ」
ぺこりと頭を下げる目つきの鋭い少女を見つめ、セトは、あ、と声を溢した。
「朝比奈……って、まさかあの朝比奈大将の……!」
「娘です。付け加えるなら、楯山彩花の妹でもあります」
「ええ!」
「あ、それは僕も初耳ー」
驚きでぱくぱくと口を開閉するセトの隣で、カノは呑気に笑っている。ヒヨリはそんな反応に慣れているのか、それとも元からあまり感情の起伏に乏しいのか、真面目に固めた表情を崩さない。
「シンタローくんの指示で、あの事件で死んだフリして、内情調査をしていたんだって」
「本来、あの日は私が死亡する事故が起きる予定だったんです。それが、あの暴動で、少々予定変更せざるを得なくて……」
ヒビヤには、少し申し訳ないことをしてしまった。囁くようにそう呟いたヒヨリは、微かに眉を下げた。
その様子に、セトはまた「へぇ」と言葉を溢し、カノはニヤニヤとした笑顔を浮かべる。
成程、ヒビヤの大切な人はヒヨリのことで、彼女のまた少なからず彼を大切に思っている、と。これは再会した時が楽しみだと、カノはクスクス笑った。
「おい」
そんな彼らの弛んだ空気に、その低い声はメスを入れる。膝をついた状態のまま、『蛇』はじろりとした目をカノたちに向けた。
「何を呑気にくっちゃべってんだ。状況解ってんのか?」
「こんな状況に引き込んだ君に、そんなことを言われてもね」
肩を竦めつつ、カノはセトを背中に庇うように前に出る。ヒヨリも、下げていた銃口を上げた。
『蛇』は舌打ちし、大人しく手を挙げて立ち上がる。
「で、何なのここ。それとさっきの」
「ここはアザミが創った、時間の流れない空間だ」
―――人間の男と恋をしたメデューサは、一人老いていく彼を世界に奪われたくなくて、時間の流れがない、永遠に別れのこない世界を造り上げました。―――
「けれど世界は完成しないまま放棄された。アザミが軍に捕まったからだ」
未完成のままその世界はこの家に残り、そしてあの八・一五事件後、家に戻って来たアザミによってその入口を開いた。察するに、この家の内部は世界と一体化しているのだろう。
つまり、この家自体がアザミの創った別世界なのだ。
「あの蛇の集団は、俺も知るか」
そう言い捨てて『蛇』はそっぽを向く。
カノは片目を瞑って息を吐いた。
彼自身も襲われていたようだし、その点に関しては信用しても良さそうだ。
さて、と独り言ちてカノは空間を見上げた。
「これから、どうしようかねぇ」
仰ぐ天井は果ても見えぬほど、黒々とした闇を湛えている。ここへ入って来た時に使用した扉は、見る影も無し。
閉じ込められた。いや、初めからこの世界に入口はあっても出口はなかったのかもしれない。だってアザミは、この世界に入ることは望んでも、出ることは望んでいないのだから。
「どうする気だ、鹿野修哉?」
小馬鹿にしたような声に反応してカノが視線だけやると、『蛇』はニヤリと笑って見せた。ジャキ、と音を立て、ヒヨリの銃口が存在感を主張する。それは脅しだが、『蛇』は意に介していないようだ。
カノはヘラリと笑顔を返す。
「絶賛モラトリアム謳歌中の君に、とやかく言われてたくはないね」
『蛇』は盛大に顔を顰めた。
「……聞いていたのか」
「あははー、さて僕は一体何処から、後をつけていたでしょうかー、なんてね」
カラカラと笑ってカノは手を振った。
『欺く』彼の能力をカメレオンと称したのは、シンタローだっただろうか。風景に擬態してセトたちの後を追っていたとしたら、全く気付かない。
というか、だったらさっさと助けてくれたのも良かったではないか。セトが隙をつかれて『蛇』に投げ飛ばされた時も、彼は傍にいたのではないのか。
そう考えると感動の気持ちも消え失せて、セトは無言でカノの膝裏を蹴飛ばした。所謂膝カックンの要領で体勢を崩したカノは、何事だとセトを振り返ったが、当の本人はツーンとそっぽを向いている。釈然としないまま、カノはポリポリと頭を掻いた。
「ま、とは言え打つ手なしなのは間違いないかー」
んー、と顎に手を当て、カノは辺りに視線を滑らせた。
それからふと、ある一点に目をとめ、ニヤリと口角をつり上げる。
「まー、そろそろ……」
彼の笑顔に気付いたセトは、何事かと小首を傾げながら同じ方へ首を回した。
ぱき、と硝子を割るような乾いた音が、耳をつく。
ハッとして顔を上げると、黒ばかりの空間に一筋、白い亀裂が走る。そこを起点に、黒い硝子が砕けた。
「あ……!」
「来ると思ってたよー」
驚いて言葉を失うセトの肩を叩き、カノはヒラリと手を振る。
「何を呑気に笑っている」
「ごめんごめ―――ぶへ!」
空間の裂け目から飛んできた何かが、カノの顎をクリーンヒット。彼は後ろにつんのめってたたらを踏んだ。
しかしそんな彼を気にせず、セトは目を潤ませて裂け目から現れた姿を見つめた。
「―――キド!」
「待たせたな、セト」
ニッ、と腰に手を当てて笑う姿は、何とも男前だ。
彼女の左右には、シンタローやマリーたち、一○七大隊のメンバーが勢ぞろいしている。彼らの後ろから射す後光のせいか、セトは思わず目を細めた。
ヒリヒリと痛む顎を摩りながら、カノは足元に転がった拳銃を拾い上げた。
「セト!」
セトの姿を見るや否や、涙目のマリーが彼に駆け寄る。僅かによろけながらもそれを受け止め、セトは胸に埋まる白い頭を撫でた。
「……心配かけてごめんっす」
「……っ本当だよ、もー!」
大きく叫び、マリーは顔を上げると、ぐしぐしと袖で乱暴に涙や鼻水を拭った。それからふと傍らの『蛇』に目を止め、ギロリと睨みを効かせる。ふわり、と彼女の髪が浮き上がった。
「よくもセトを……」
「マリー」
赤くなりかける彼女の瞳を手で覆い、セトは良いのだと囁く。困惑する桃色にニッコリと笑いかけ、セトは『蛇』に視線をやった。
「いいんすよ、今は」
約束したのだ、全てが終わったら、他でもないセトが、彼の頭を撃ち抜いてやると。
「今は向こうにも事情があるみたいっすから、保留で」
「事情?」
「この空間の異変についてです」
眉を顰めたキドに答えたのは、ヒヨリだった。
カノの影から現れた彼女に、ヒビヤは息を飲んだ。パクパクと口の開閉だけを繰り返す彼に一瞥もくれず、ヒヨリはキドたちに敬礼する。
「朝比奈日和元中佐、如月伸太郎少将の指示により、八・一五事件以後、内部調査の任についていました」
バ、とキドたちの視線がシンタローへ向かう。彼は小さく肩を竦め、ヒヨリに労いの言葉をかけた。ヒヨリは、それにぺこりと会釈を返す。
「知り合いだったのか」
「だって、コイツ、アヤノの叔母だし」
「おばぁ?」
「そうそう、お母さんの妹さんなんすって!」
「母さんの?」
つまりそれは、キドたちの義理の叔母ということになる。
こんな年下なのに、とキドがもう一度彼女を見やると、流石は名門朝比奈家の出か、ヒヨリは丁寧に頭を下げた。
それにつられて頭を下げたキドの脇から、飛び出す影が一つ。ヒビヤである。彼は駆け寄ると、ヒヨリの肩を強く掴んだ。
「ヒヨリ……!」
「ヒビヤ……」
彼に何というべきか。ヒヨリは僅かに眉間に皺を寄せた。
本来、あの日は暴動さえ起きなければ、ヒビヤにも計画のことは話しておく手筈だったのだ。彼を通じて、情報を収集するためである。それがあの暴動のせいで予定を狂わされた。
流石のヒビヤも怒っているだろうな、とヒヨリはある程度の覚悟をしていた。しかし、それは彼が強く抱きしめてきたことで裏切られる。
「良かった……!生きていて、良かった……!」
「ヒビヤ……」
肩口にじんわりとした感覚が生まれる。
ヒヨリは小さく息を吐いて、口元を緩めた。そして次の瞬間、ヒビヤの腹に思い切り拳を喰らわせたのだ。
「ぐほ!」
「私の服を濡らすんじゃないわよ。……そもそも下僕の分際で、軽々しく触れるな」
(ええ―――!)
声にならない総員の叫びが、空間に虚しくこだまする。
これでは腹を抑え蹲るヒビヤが、あまりにも不憫すぎる。しかしそんな気遣いも知らぬヒビヤは、震える身体で顔を上げ、
「はい……!」
恍惚とした表情を浮かべたのだ。これには流石のモモたちもドン引きである。
「え、何ですか。准尉さんてそっち系何ですか?」
「ていうか、私の時と態度がまるで違う!」
「……モモ、そこは別に悔しがらなくて良いと思うぞ」
ヒソヒソと話すシンタローたちの横を通り、コノハがヒビヤに手を差し伸べた。
ヒビヤは少し驚きながらもそれを取り、立ち上がった。ヒビヤを見下ろし、コノハは小さく笑みを浮かべた。
「ヒビヤ、良かったね……見つかったんだ」
「コノハ……」
彼の言わんとするところを察し、ヒビヤは笑顔で頷いた。
やっと、大切な人と再会できた。コノハも、ヒビヤも。
それが堪らなく嬉しくて、喜ばしくて。二人はどちらからともなく、パチンと掌を叩き合わせた。

「……これ、感動話?」
「……辛うじて」

「で、また入口は閉じてしまったわけだが」
ここで、漸く本題に戻る。
ちらりと外界からの光を遮断した背後の黒を見やり、シンタローは溜息一つ。
「そしてまたこうなるわけね」
やれやれと、まるで言葉と表情が伴わない様子でカノは肩を竦める。セトは腕を伸ばしてマリーを庇い、じり、と後退った。
彼らを取り囲むようにして、また黒蛇の集団が現れたのだ。
「『冴える』だ『冴える』だ。『冴える』が帰って来た」
しかも溢す言葉まで同じと見える。
カノも溜息を吐いて、セトの隣に立つ『蛇』へ視線をやった。
「御指名だよ?『冴える』くん」
「ヘルプで」
しれっと言って『蛇』は両手を降参のそれのように上げる。ジャキ、と彼の顎にヒヨリの銃口が突き付けられた。
金と黒の冷たい視線が交わり、音もなく火花が散る。
「良く言えたわね、敵の分際で」
「敵の敵は味方っつうだろ、俺にとってもあの黒蛇たちは敵だ」
「ま、あの黒蛇たちは、俺たちの敵と決まったわけじゃないがな」
カノの隣で、シンタローは抜刀した。彼の構えを横目で一瞥し、モモも取敢えず戦闘態勢をとる。
シンタローはそう言うが、こちらに向かってくる辺り、黒蛇たちを味方だとは言えないだろう。殺気は感じないが、それはアザミのように、黒蛇たちが超常現象の一部であるからかもしれない。
キドやヒビヤたちも構えたことで、ブワリと殺気が湯気のように立ち上る。
それに反応してか、黒蛇たちの動きが止まった。
「どうしたの、『冴える』?折角帰って来たのに。僕たち、待っていたのに」
蛇の一匹が頭を擡げ、不思議そうに首を傾ぐ。それに合わせるように、他の蛇たちも身体を右に傾けた。
『蛇』は舌打ち一つ、機嫌悪そうに顔を歪める。
「別に俺は、帰って来たつもりはない」
「何で?この世界は、君のものなのに」
「……何?」
『蛇』は眉を顰め、淡々と黄色い光を向けるだけの蛇たちを見やった。ゆらゆらと左右に揺れるように、蛇たちは声を揃えて答える。
この世界の創造主メデューサは千年も前、ここを離れるからと、世界の主導権を放棄した。そしてそれを、一番力の強かった『蛇』が引き継いだ。
最近姿を見なかったから心配していたと、蛇たちは続けた。
アザミは帰ってきたが、既にこの世界の主導権を持たない只の住人だ。彼女に世界をどうこうする権利はなく、そのため、世界に入ると同時に深い眠りについてしまった。
「特別なんだよ、『冴える』は」
幼い声が、冷水をかけるようにその場に響いた。
シンタローたちの背筋にゾクリと悪寒が走る。
黒々とした闇に、蛇たちの身体が溶け込んでいた。爛々とした黄色だけがシンタローたちを照らしている。
一匹の黒蛇が身体を伸ばし、高く頭を掲げた。
「だって君こそ、この世界の支配者なんだから」
ズア、と闇が湧き上がる。それは他でもない『蛇』とセトの足元から、彼らを飲み込まんと大口を広げた。
「!」
「今度はいなくならないでね」
闇が蛇のように伸び、セトと『蛇』の四肢に絡みつく。
カノとマリーがセトの、コノハが『蛇』の腕を掴み、引きずり込まれようとする身体を引き止めた。
その光景に目を細めたシンタローの額から、汗が一滴零れる。
「空間が『蛇』を取り込もうとしているのか……?」
一度は席を空けた支配者を、二度とそうさせないよう、取り込んで閉じ込める。それは、世界自体が安定性を図ろうとしているが故の行動。まるで、生物のホメオスタシスのように。
シンタローの言葉に、セトを引き上げようと力を入れるあまり顰めた顔のカノは、理解はできるが、とぼやいた。
「何で、セトまで!」
「俺のせい、だろうな」
コノハに腕を掴まれた『蛇』が、何処か皮肉るような笑みを溢した。
「瀬戸幸助には、能力の暴走を抑えるために、俺の力の一部をやってるんだ」
「じゃあそれに反応して、セトまで取り込もうとしちゃってるの?」
うーん、と非力ながらも必死にセトのフードを引くマリーに、モモも手を貸す。カノはセトの少しめくれた袖から覗いた黒い痣に、これか、と眉を顰めた。
「お前ら、少し離れてろ」
え、と思う間もなく、カノたちのすぐ脇を白い斬撃が通り過ぎる。
据わった目をしたシンタローは、チン、と静かな音を立てて納刀した。ばらら、とセトたちに絡みつく闇が輪切りになって辺りに散らばる。
引力が減ったその瞬間をついて、カノとコノハは自分が掴んでいた腕を思い切り引き上げた。
「はぁっ!」
「っ!」
大きく息を吐いて、セトは地面に手をつく。『蛇』は乱暴にコノハに投げ飛ばされ、強かに尻もちをついた。
しかし闇の勢いは止まらず、投げ出された四肢に絡みつく。それを一つ一つダガーで切り裂いていたカノは、ふとセトの胸元が何か、ゴソゴソと動いているのに気付いて目を止めた。
「……セト、何か入れてるの?」
「へ?……ああ、忘れてた!」
はなお!と慌ててセトが胸ポケットから取り出したのは、小さな齧歯類、ハムスターである。
孤児院跡地で見つけ、置いていくのも忍びないから連れていたのだと答える彼に、カノは乾いた笑い声しか返せない。
はなお、とはこれまた何というネーミングセンス。そう言えば以前、犬にもはなことか名付けていた、オスだったが。
「わ、はなお!」
セトの手から跳躍し、はなおは難なく地面に着地すると、フンフンと鼻を鳴らしながら周囲を歩き回った。踏まないように注意しながらそれを視線で追うセトの耳に、『蛇』の舌打ちが聞こえた。
「瀬戸幸助、手前……とんでもないもん持ち出してくれたな」
「へ?」
「何、あのハムスターが何だって言うの?」
『蛇』は何処か居心地悪げに顔を顰め、言葉を濁す。しかしヒヨリの銃口が額に突き付けられると、彼は渋々口を開いた。
「あれは楯山研次郎が軍への手土産の一つとして造った生物兵器だ」
間。
カノは思わず笑顔を固めた。
「……え?」
「生物兵器。楯山研次郎作の」
あの齧歯類が?あの齧歯類が―――そんな問答が、カノと『蛇』の間で交わされる。
セトは目を輝かせてはなおを見つめているため、それには不参加だ。
「……因みに搭載機能は」
「あー、何だったかな」
ヒヨリの質問に、のんびりと首を傾げながら『蛇』は思案する。その間も歩き回っていたはなおは、とある場所で立ち止まり、カパリと口を開いた。
そこから飛び出してきたのは、
「9mm口径回転式ガトリング砲」
『蛇』の言葉にヒクリとカノたちが頬を引き攣らせる。それと同時に、連続した発射音が響き渡った。
シンタローとキドはバッと音のした方を振り向き、想像に違わぬ光景―――目いっぱい広がったハムスターの口から飛び出した銃身と、そこから連続して発射される弾丸と火花―――に柄にもなく頭を抱えた。
「なんじゃそりゃ―――!」
「おお!はなお、すごいっす!」
「頑張れー、はなおー!」
「おおぉ!」
「おばさんたちはいい加減危機感持とう!天然なのも限度があるよ!」
「……生物兵器だから、自動操縦なの?」
「詳しくは知らないが、見た限りそうなんじゃないか?」
はしゃぐセト・マリー・モモに、叫ぶヒビヤ。ヒヨリは既に現実から目を背け、事態を理解しているのかよく解らないコノハは、無表情で訊ねる。『蛇』は心底面倒臭そうに言葉を返した。
カノとキドは思い出す、あの父親は常日頃から、破天荒であったことを。そんなこと、こんな状況下で思い出したくはなかったが。
空の彼方でぐっと親指を立てて高らかに笑う彼の姿が、見えた気がした。
やがて弾が尽きたのか、銃撃は止み、銃身を身に収めたはなおは大きく欠伸を溢すと、いそいそとセトの足元へと擦り寄った。彼が差し出した手を昇り、はなおは先ほどまで自分が潜っていた胸ポケットへ自ら引っ込んでいく。
それを黙したまま視線で追っていたカノは、ふっと笑みを溢してはなおが銃弾を撃ち込んだ方へ顔を向けた。
「……しかも威力、強すぎるでしょ」
あれだけいた黒蛇の集団が、全て消え失せていた。
何という破壊力。つくづくあの男は恐ろしい。
シンタローは先刻までの彼とのやりとりを思い出し、ヒクリと頬を引き攣らせた。
「……それでも、まだ安心はできないみたいですよ」
ヒヨリは冷静に言うと、片膝をついてライフルを構えた。彼女の言う通り、闇の奥から更に数多くの黄色い光が見えている。
シンタローたちは表情を引き締め、各々の武器を構えた。先ほどは一度の壊滅で治まったのに、今度は簡単に引いてはくれないようだ。
「セト……!」
桃色の瞳を潤ませながら、マリーがセトのパーカーを握りしめた。彼女を安心させるようにセトは微笑んで、その柔らかい髪を撫でる。
その様子を横目で捉え、『蛇』は僅かに目を伏せた。
蛇たちはこの空間そのものだ、このまま攻防戦を続けても埒があかない。『蛇』はふと自嘲的な笑みを溢した。
「……しっかり引き止めろよ、鹿野修哉」
「え?」
セトたちの声も全て聞かぬ間に、『蛇』は指を動かして空を掴む。すると、セトの手首を這っていた痣が、すぅと溶けるように消えていった。
それと同時にセトの鼓動が高鳴り、彼は頭を抱えるように蹲る。マリーとカノが彼の肩に触れると、セトは苦しげにハッ、と息を吐いた。
ぶるぶると痙攣するかのようなセトの様子に、シンタローは閃く。
「まさか……!」
「え、え!何々?!」
「セトの能力制御を解いてんだよ、アイツは!」
混乱してキョロキョロと辺りを見回すモモに口早に説明して、シンタローは舌打ちした。
つまりこれでセトの内にあった『蛇』の力はなくなるわけで、それに反応していた世界の触手は『蛇』へ一直線。
シンタローは駆け寄ろうと地面を蹴るが、既に遅い。『蛇』の身体を一息に飲み込まんと、闇が大口を開ける。
そんな彼へ向けて、白い腕が伸びた。
『蛇』の瞳が大きく開く。白い腕は『蛇』の襟首を掴み、しかし引き上げることは出来ぬまま、共に落ちようとしていた。
「そうは、させない……!」
「!」
「コノハ?!」
「ち!」
「お兄ちゃん!」
エネの声がして、もう一度舌打ちしたシンタローがコノハに手を伸ばす。
モモの声が虚しく響いて、盛り上がった闇は三人諸共飲み込んだ。いや、コノハの手には携帯端末もあったから、エネも含めて四人か。
モモは思わず口を覆った。
『蛇』の力が解かれる。
それは同時に、セトの能力暴走が再発することも意味する。
真っ赤な目を大きく開いて頭を抱え、セトは喚きだす。
今この場にいるのは少人数だが、この様子から察するに、外の世界にいる人間たちの思考も受信してしまっているようだ。
とうとう涙を溢して、マリーはセトを強く揺する。
カノは苦々しく顔を歪めた。
―――しっかり引き止めろよ
「そういうこと……!」
セトの暴走のトリガーをカノと定めたり、先ほどの言といったり。あの『蛇』の言葉には喜んで良いのやら。腹立たしいのは、間違いないか。
「どうしよう、キド……!」
「兎に角、落ち着けマリー!お前の混乱が、セトに届く!」
キドの鋭い声にビクリと肩を飛び上がらせ、マリーはパッとセトから手を離した。
セトの苦しみは感情の波によって起こる。混乱という状態は、それが大きいものだ。
しかしキド自身も焦りで心を乱しており、そんな自分はセトを更に苦しめるだけだと解っているため、迂闊に足を踏み出せないでいる。本当なら、すぐに駆け寄って抱きしめてやりたいのに。
「セト……!」
カノはセトの肩を掴んで蹲る彼を起すと、涙で濡れる顔を自分の胸に押し付けた。後頭部に手を当てて、強く。セトは、殆ど寝転がるような体勢になった。
「カノ……?」
「セト、僕の心だけ聴いて」
訝し気なマリーの手を引き、キドはモモたちと並んで二人を見守る。マリーはぐすぐすと鼻を鳴らしながら、キドの手を握った。キドも握る手に力をこめる。
あの時と同じように、セトを抱きしめるカノの背中を見つめて。
「……セト、セト。聴こえる?僕の声」
耳元で囁くように、ゆっくりと繰り返す。
頭を抱え痙攣するように震えるセトの目は、何も捉えていない。耳から入って頭を五月蠅く反響するのは、蝉のような人々の声だ。
ザワザワとしたそれは虫のように頭の中を這い回る。
取りとめのない、赤子が戯れに描いたごちゃごちゃとした線に囲まれるような感覚。そんな空間で一人、セトは思わず頭を抱え、小さく蹲っていた。
五月蠅い、煩わしい。
耳を手で塞いでも隙間から入り込むそれに、セトの視界は涙で歪む。
もう嫌だ、もう嫌だ。
様々な声が反響する中、セト自身が思い浮かべるのはそれ一つだけだった。
「―――」
不意に、頭を抱え耳を塞ぐ手が、誰かに掴まれた。
顔を上げると涙が零れて、視界が少し開ける。
こちらを見る猫目が、二ッと笑った。
彼の口が何事か言葉を刻んだが、周りの騒音が酷くて聞こえない。口から零れた吹き出しが、周囲を覆う黒い線で瞬く間に塗り潰されてしまうのだ。
「何……聞こえない……解らないよ……」
また涙を滲ませて、セトはフルフルと首を振る。
彼は少し考えるように顎に手を当て、それから何か閃いたのか顔を輝かせた。
彼はセトの頭を抱き寄せると、その耳元で囁く。
「セト」
零れた吹き出しが、黒に塗り潰されないうちにセトの耳に入り込む。
涙が弾けて落ちた。
何度も繰り返される彼の言葉が、吹き出しが、黒い線を隠すように辺りを覆い尽くす。いつの間にか騒音は消えていた。
聴こえるのは彼の声だけ―――『愛してる』と、囁く。
「か……の……」
「セト」
ふっと遠くに飛んでいた意識が戻る感覚。
涙を垂れ流しながらぼんやりと見やる前方で、紅茶色の猫目を細めたカノが笑っている。
セトもふにゃりとした小さな笑みを返した。
「……俺も、カノが好きっすよ……」
「え」
起き抜けのような頭に浮かんだことをそのまま口にだせば、何故だかカノは硬直してセトの肩から手を離す。「ちょっとそれもっと詳しく―――」等と口走っていた彼は、しかし背後から突撃してきたマリーによって勢いよく地面に倒れこんだ。
「セトー!良かったー!」
「マリー……すまなかったっす」
わんわんと泣きながら抱き着くマリーに圧されてセトは尻もちをついたが、すぐに頬を緩めて胸元に埋まる白い頭を撫でた。
まだ寝転がったままのカノの腰を踏んで―――その時彼は小さく猫のように呻いた―――無言で歩み寄ったキドも、傍らに膝をついてセトを強く抱きしめる。耳元にグスリという音を捉え、セトは苦笑して彼女の背を叩いた。
「ドンマイ、カノさん」
「……うっさい」
傍らに立つヒビヤからの言葉に、カノは不貞腐れて地面に拳をぶつけた。落ち込む彼を、泣きじゃくるマリーが発端となった更なる止めの刃が襲う。
「セトー、私もセトが好きだよー!」
「俺だって、マリーもキドも、みんなのことが好きっすよ」
「ドンマイです、カノさん」
「うるさぁい!」
珍しく同情的なヒヨリの言葉に声を荒げ、カノは熱くなる目頭を悟られないよう、顔を腕で覆ったのだった。

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