名もなき化物の噺
―――あるところに、独りぼっちで暮らすメデューサがおりました。
メデューサはある日、真っ白な青年と出会いました。
青年は行くところがなかったので、身の回りの世話をする代わりに、共に住まわせてほしいと、メデューサに頼みました。
化物と恐れられていたメデューサは、怯えない人間に初めて出会い、少しの興味から、青年と一緒に暮らすことを決めました。
月日が経ち、二人の間には可愛らしい女の子が生まれました。
メデューサは、この子が大きくなった時、この家では小さすぎる。もっと大きくて綺麗で、家族で住むにとても素晴らしい家を作ろうと思いました。
メデューサは、父親となった青年と娘に留守を任せ、家を作るために出掛けて行きました。
しかしメデューサが帰ってくる前に、父親となった青年は病気で死んでしまいました。
残された娘は毎日泣き暮らしていましたが、ある日、森で迷ったと言う人間の男の子と出会いました。
初めは警戒していた娘ですが、少しずつ男の子に心を許し、二人はやがて愛し合うようになりました。
父親は亡くなってしまったけれど、娘はまだ母親をこの家で待ちたいと思っておりました。
青年となった男の子はそれを聞いて、美しい大人の女性となった娘と共にこの家で暮らすと申し出ました。
美しく成長した娘は、とても喜びました。
やがて二人の間には、これまた可愛らしい女の子が生まれました。
母親であるメデューサが帰ってきたら、彼女が作った素敵な家で、四人で一緒に暮らそうと、母になった娘は父になった男の子に言いました。それはとても素晴らしいことだと、父になった男の子も喜びました。
そして、二人は可愛らしい女の子を育てながら、メデューサの帰りを待ち続けました―――



メデューサが辿りついたのは、森の中に佇む小さな家であった。
「こんなところに……住む者はいないようだが」
遠い昔に破棄されたものなのか、煉瓦で出来た壁の隙間からは雑草が芽吹いている。
人の気配がないことを確認してから、メデューサは玄関をくぐって室内へと足を踏み入れた。
外見から大方予想はついていたが、内部も荒れていた。埃が雪のように積もり、蜘蛛の巣がカーテンを作っている。
それらを掃除すれば、まあメデューサ一人くらい暮らせそうな家ではあった。
「まあ、良いか」
少女の姿を手に入れてから、あちこちを歩き回って、世界に関する知識を手に入れた。それと同時に『蛇の力』とやらも数を増やしていた。しかしいい加減放浪することにも疲れ、こうして腰を落ち着けることにしたのである。
街から大分離れているこの森の中、そうそう訪れる人間もおるまい。
そういったことは計算していた筈なのだが、一年ほど経ってそれは崩された。

メデューサがその家に慣れ、快適に過ごせるよう家具の配置等調整できるようになった頃、扉は唐突に叩かれた。
「……」
警戒しつつ扉を開いた彼女は、しかし開けた先に人影が見当たらず、一瞬首を傾いだ。
すると足元から地を這うような声が聞こえ、肩を飛び上がらせる。慌てて視線を落とせば、そこには泥だらけで倒れる人間の青年の姿があったのだ。
「はー、助かったー」
汚れを落とし真っ白な姿になった青年は、ツキヒコだと名乗った。訳あって街を出て森を歩くうちに迷い、餓死寸前だったのだと言う。
ガツガツと行儀作法などまるでお構いなしに目の前の果物の山に齧り付くツキヒコを見て、メデューサは大きく息を吐いた。中々に、呑気な人間もいたものである。
「君の名前は?」
満腹になったのか、口元についた果汁を拭いながら、ようやっと落ち着いた様子でツキヒコは訊ねた。そこで初めて、メデューサは自身の名を持たぬことに気づいた。
「名はない」
「え、何で?」
「名前とは、他者との区別をつけるためのものだろう。私はこの世界に独りきりの化物だ。区別など、つける必要はない」
「化物?」
ツキヒコは目を瞬かせ、小首を傾げた。
メデューサはまた嘆息した。
こんな人里離れた森の奥で、見た目十代半ばの少女が一人で暮らしている。今の一文には、怪しむべき要素が満載であると思うのだが、この呑気な青年はそれに気づいていないらしい。
仕方なく、メデューサは、己は蛇の化物だということを懇切丁寧に説明してやった。しかしツキヒコは、フーン、と一度頷いただけで、恐怖などの感情を見せない。
「お前は、どこまでも呑気だな」
「だって助けてくれたんだ、化物であろうと恩人であることに変わりはないよ」
そうでしょう?と言って、ツキヒコはニコリと笑う。
その時、メデューサは心臓を鷲掴みされたような感覚を抱き、咄嗟に身構えた。しかし身体に異常はなく、はて何だったのであろうかと首を傾げる。
そんな彼女の様子に気づかないツキヒコは、そうだ、と手を叩いた。
「このお礼に、名前を上げよう」
「はあ?必要ない」
「そうだなー、花の名前とか良いよね、女の子なんだし」
「オイ、話を聞け」
メデューサをまるっと無視し、ツキヒコは何が楽しいのか満面の笑みで幾つか花の名前を呟いている。
ふと彼は、窓から見える風景の中に、小さな紫を見つけた。
「―――薊」
「は?」
「薊。君の名前、薊でどうだい?」
「だから私に名は必要ないと……」
「アザミ、これからよろしく」
「だから……はあ」
暖簾に腕押し、糠に釘。
メデューサはすっかり疲れ果て、溜息を吐いた。
名無しの化物は、こうした経緯で、名を手に入れたのである。

「これからよろしく、ってこういうことか」
うん!とツキヒコは笑顔で頷く。通算何度目であるか、メデューサ―――アザミは大きく息を吐いた。
生まれ育った街を出たツキヒコは、行く宛がないのでここに住まわせてほしいと申し出たのだ。勿論、身の回りのことは全て引き受けるという条件付きで。
もうアザミは諦めて彼の好きにさせることにした。何だかんだ言いつつ、憎めない人間なのである、ツキヒコは。
「これでも結構、料理は得意なんだ」
「何でも良いが、私は食事を摂らなくても平気だ」
だから、食事は自分の分だけ用意すれば良い。アザミがそう言うと、ツキヒコは信じられないとでも言いたげに目を丸くした。
「そんな、勿体ない!」
「そうか?」
「そうだよ!」
勢いよく膝を折ると、ツキヒコはその勢いに圧倒されるアザミの手を取って強く握りしめた。
「誰かと一緒に食べるとね、とても幸せな気持ちになれるんだ」
「幸せ……?」
鼻先が触れあうほどに近づいた笑顔に、アザミは心拍数が上がって苦しくなるのを感じた。
ツキヒコがニッコリと笑う度、脈拍が乱れる。これは、何かの不調なのだろうか。
「そう。アザミには、幸せになってほしいから」
自分とは正反対に、真っ白で綺麗な青年。
アザミは紅潮する頬を隠すようにさっと視線を逸らし、大きく頷いた。
「解った!別に食べられないわけではないから、」
「そう、良かった!」
ツキヒコがあまりにも嬉しそうに笑うものだから、アザミはつられてこちらまで嬉しいような錯覚を抱く。
彼の笑顔を見る度、胸がポカポカと暖かくなる。
人間の世界を歩いて多くの知識を飲み込んだと思っていたが、その中にこの症状に関してのものはなかった。だから、アザミは答えを見つけられぬまま。
そうして、月日は優しく巡る。

「じゃあ、食材探してくるね」
「ああ」
「今日は大物を取って来るよ」
「いいからさっさと行け」
まだペラペラと喋って玄関から動こうとしないツキヒコを蹴りだし、アザミは大きく息を吐いた。
何だかんだと月日は流れ、二人での生活もすっかり慣れてしまった。絆されている、と言うのだろうか、この場合。
僅かに熱を持つ頬にペタリと手を当て、アザミはもう一度嘆息する。
この日々が楽しいだなんて。ずっと続けば良いのにだなんて。
「すっかり毒されたな……」
さて、疲れ果てて帰って来るであろう彼がゆっくりと休めるよう、今日は布団でも干しておこうか。幸いにして、天気は快晴である。
穏やかな風が、ツキヒコの贈った赤いリボンを揺らしていった。
「……?」
それは、人が虫の報せと呼ぶものであった。
何となく森が騒がしい。加えて、胸がざわつく。
アザミはそわそわと落ち着かなくなって、窓から身を乗り出し、ツキヒコが出かけたであろう方角へ目を向けた。
「まさか、な……」
でも一応、念のため。誰に言い訳するでもなく呟いて、アザミは『目を凝らし』た。
そう離れていない森の途中、数人の人影が見える。珍しいな、そう思ったのも束の間、アザミは目を大きく見開き、今し方見えた場所へ向かって駆け出した。

森の緑に場違いな赤が混じる。
頭や腹から血を流し、ツキヒコは覚束ない足で辛うじて立っていた。
彼の目の前には屈強な男が三人。何れも剣や棍棒などの得物を手にしており、それにも血がついていることから、ツキヒコの傷の原因は彼らにあるのだろう。
まさかこんなところで彼らに遭遇するとは思わなかった。まだ一つも食材を手に入れていないのに、アザミを落胆させてしまう。
呑気にそんなことを考えていたツキヒコは、草をかき分ける音にハッと我に返った。
ツキヒコを男たちから遮るようにそこから飛び出してきたのは、アザミだった。
「何をしている……!」
ツキヒコの状態と、男たちの持つ得物につく赤。それで大体を察したアザミは、カッと頭に血が昇る感覚を、冷静に自覚していた。しかし、止められない。
『目を隠し』て男たちの背後に回り、手の平大の石を投げつける。アザミはすぐさま『目を奪』ってよろける男たちの視線を石に集め、その隙をついてツキヒコの腕を引いて駆けだした。
「あ、待ちやがれ!」
我に返った男たちの怒声と足音が聞こえる。それがとても煩わしく感じ、アザミは舌打ちを溢した。
足を止め、追いかけてくる男たちと向かい合う。そして目を大きく開き、怯んで足を止める彼らを赤いそこに映しこんだ。
「……!」
背後でツキヒコが、息を飲む音が聞こえる。
一息のうちに、男たちの身体が石と化したのだ。それも当然か。
アザミは完璧に石化したのを見届けてから、それを一つずつ蹴り倒した。それから呆けたままのツキヒコの手を取り直し、家まで全力疾走したのだ。

玄関をくぐった途端倒れこむツキヒコを何とかベッドに押し込み、アザミは救急箱と簡単なお粥の準備に奔走した。
ようやっと全てが揃ってからベッドを覗くと、気が付いたらしいツキヒコがヘラリとした笑みを見せる。何を呑気なことを、と呆れて、アザミは少々乱暴に彼の傷口へ包帯を巻きつけた。痛みに顔を顰め、それでもツキヒコは乾いた笑い声を漏らす。
「脱走兵、なんだ……」
ポツリと溢して、ツキヒコは眉を八の字に下げて笑った。彼のそんな笑顔を見るのは、初めてだった。
兵といっても彼の場合は奴隷に近く、朝から晩まで重労働を強いられていたという。そんな辛い日々に耐えかねて脱走、途中でこの家に辿りついたのだった。
先ほどの男たちは、そんなツキヒコの元主人に雇われていた人間で、脱走していた彼を連れ戻そうとしていたのだ、と。
「ありがとう、助かったよアザミ」
「……恐ろしくなかったのか」
アザミの問いに、ツキヒコは綺麗な笑みを返すだけだ。
彼の前で『化物らしいこと』をしたのは初めてだった。
彼が息を飲む音を聞いたとき、直感的にやってしまったと思った。化物と罵られ、嫌われる。彼が離れて行ってしまうことを恐怖している自分がいるのだと、アザミは自覚せざるを得なかった。
人間は、自分たちとは違う存在を畏怖し迫害する生き物だと、アザミは放浪する中で知識として知っていた。
俯きかけるアザミの頬に手を伸ばし、ツキヒコは彼女の黒髪を撫で上げた。
「アザミ、君が好きだ」
それは、唐突な言葉であった。
一瞬の間を置いて言葉の意味を理解したアザミは、湯気を出して沸騰した。
「と、突然何を!」
「突然じゃないよ」
一目惚れだったんだ。
掠れるような声にハッとして彼の顔を見やると、少し下がった眉根とほんのり赤く染まった頬がある。常の彼にしては珍しく、照れている。
未だ頬に添えられたままの大きな手に自分のそれを重ね、アザミは僅かに目を細めた。
「……私は、化物だぞ」
「関係ないよ。アザミだからいいんだ」
即答か。何処までも真っ直ぐで、恥ずかしい男である。
ぶわりと広がる頬の赤を自覚しながら、アザミは小さく頷いて目を伏せた。ツキヒコは小さく笑い、彼女の赤い顔に同じように赤い自分の顔を近づける。
「……私もだ」
小さく言葉を紡ぐ赤が、塞がれる。

おぎゃあおぎゃあ、と可愛らしく泣く赤ん坊。ふわふわとして頼りない、小さな身体を抱きかかえ、アザミは緩みかける頬を必死に抑え込んでいた。
そんな彼女を隣で見守りながら、こんな時くらい思い切り笑えば良いのに、とツキヒコは苦笑する。
「紫苑、お前は紫苑だ」
歌うように囁くように、アザミはそう繰り返して愚図る赤ん坊の身体を揺らす。ツキヒコは咄嗟に口元を手で押さえた。
ああ、彼女の気持ちが解った。幸せすぎて気持ち悪いくらいにやける顔は、恥ずかしい。
「綺麗な名前だね」
「薊と同じ、花の名前だ」
女の子だからな、と笑うアザミは何処か誇らしげで。ツキヒコは思わず小さく噴き出した。
あれからまた少し月日は過ぎ、ツキヒコは更に男として成長した。対してアザミは二人が出会った頃から少しも変わらず、少女の姿のままである。その違いに、アザミはそっと目を伏せた。
化物である自分の血を半分引くこの子もまた、常人とは違い長命であるのだろう。けれどツキヒコは純血の人間である。アザミたちとは、生きる世界が違う。
いつか彼はアザミたちを置いていく。そしてそれは、少しずつ近づいてきている未来だ。
(それは、嫌だな……)
ツキヒコと出会って愛を知ったアザミは、別れの辛さも知った。
愛と悲しみは、表裏一体だ。それでも、愛を知ったことを、ツキヒコと出会ったことを後悔はしていない。人間の感情とは不思議な物である。
アザミ、とツキヒコが呼ぶ。
目を伏せて考え込む彼女を心配してか、眉の下がった顔がこちらを見やっていた。
アザミには、とある一つの計画がある。少し前から考えていた、大きくて、小さな計画だ。
「……もし、ずっと一緒にいられる世界があったら、お前は共に来てくれるか?」
もうすっかり使わなくなった『蛇の力』。それを集めて、世界を創る。小さな世界で構わない。永遠に時が流れることはなく、不老不死のアザミと人間のツキヒコが幸せで在り続けられる世界。そこに家族だけで行きたいと、思っていた。
ツキヒコはアザミの話を初めは少し驚いたように聞いていたが、すぐにふっと表情を和らげて彼女の手に自分のそれを重ねた。
「……良いよ。大切な人は、アザミとシオンしかいないからね」
愛する者と永遠に―――それは、誰しも願う小さな望み。彼らはそれを叶えようとした―――それだけだったのだ。

『蛇の力』を一つずつ切り離して、丸める。すると空間にぽっかりと穴を開く。それを幾つも付け加えて、世界を広くしていくのだ。
一つを切り離して丸めるだけでも大変で、アザミは育児の傍ら、少しずつそうして世界を創るしかなかった。時間は、正直あまりない。それでも他に方法は思いつかなかったから、アザミはそれを続けたのだ。
「ん、シオン?」
ふと傍らの娘に目を落とすと、毛布に包まった彼女は、キャッキャと笑いながら黒い蛇に手を伸ばしていた。確かその黒蛇は、先日『蛇の力』を一つ切り離した時、どんな理由か知らないが共に零れ落ちた力の一部だ。
シオンはそれをいたく気に入ったらしく、暇さえあれば構っているのだ。少々、度が行き過ぎた可愛がり方ではあるが。
「……シオン、程ほどにな……」
「う!」
黒蛇の尾を掴み振り回す手を止め、シオンはニッコリと笑った。天使か!と心中叫んだアザミは、立派な親馬鹿である。
黒蛇には悪いが、実に穏やかな日々ではあった。
―――そして、物語は大きく展開する。

ガッ、と嫌な音がして、赤い飛沫が緑の叢に飛び散る。
大きく揺れてツキヒコの身体は地面に転がり、アザミはそれを只見ているしかできなかった。
「ツキヒコぉ!」
「アザ……ミ……」
頭から流れる血は、目にかかってツキヒコの視界を遮る。それでなくとも衝撃で霞む視界では、愛しい彼女の姿を捉えることすら出来なかった。
す、と首筋に冷たい何かが当たる。嘗て、奴隷時代に何度も味わった刃の味が唐突に蘇って、ツキヒコはヒクリと身体を強張らせた。
「大人しくしろ、化物」
コイツが愛しいなら、とその兵士は淡々と言う。
アザミはぐっと歯を噛みしめ、身構えていた身体から力を抜いた。
それを見計らって、他の兵士たちが彼女の手首を縛りあげる。御丁寧に目を塞ぐ布まで用意している彼らの周到さに、アザミはギリリと歯ぎしりした。
突然襲撃してきた彼らは、森を出た街に本部を置く軍の兵士たちだ。何でもアザミの能力を兵器利用するのだとか。初めは交渉という、実に『紳士的』なやり方で頼んでいたのに、アザミが手酷く断った途端に実力行使にでた。いや、元から交渉などする気はなかったのかもしれない。
遠くで、赤ん坊の泣き喚く声がする。
ああ、シオンが昼寝から目覚めてしまったのか。
アザミに目隠しをしていた兵士が、まさか子どもがいるのか、と驚いたように呟くのが聞こえた。
「森に捨てられていた孤児だ」
気紛れで育てていたのだと、アザミは出来るだけ素気なく答える。
「……本当だろうな」
「化物から子どもが出来るとでも思っているのか?」
飛んだお笑い草だ。それは、本当はどちらのことだったのか、アザミ自身にもよく解らない。
兵士は少し考えこむように、アザミを見つめていたようだった。しかしやがて、アザミの言葉を信じることにしたようで、仲間たちに撤退の声を飛ばす。
「待って!アザミ!」
「あの男を助けたのも気紛れか?」
兵士の一人に抱え上げられたのか、地面から足が離れる。
少しずつ遠くなるツキヒコの叫びに重ねるように、アザミを運ぶ兵士が訊ねた。アザミは小さく鼻で笑った。
当たり前だろう、と。
「化物が愛など、知るものか」

それから長い間、アザミは軍部の研究所で、実験材料の一つとして捕えられていた。
時折、目の前に連れてこられる子どもたちに『蛇の眼』を埋め込む、それだけ。
一度だけ何匹かの蛇を切り取っていった科学者がいた。子どもたちに埋め込むのではなく、別の用途があると言っていたが、アザミにはとんと興味のないことであった。
怯えたような子どもの姿を見るたび、ああシオンはもうあれくらいに成長しただろうかと、何処か呑気に考える。
時計も天気も解らぬ、白い空間では時の流れとは切り離されてしまう。人間であればとっくに狂ってしまうような状況でも、化物だからであろうか、アザミは理性を保ったままであった。しかし、だからこそ、その転機を、彼女は逃さなかったのだ。

何となく騒がしい。アザミはその日、空気の変化を敏感に感じ取っていた。
『目を盗む蛇』はとっくに切り離していたから、人間の思考を読み取って状況を把握することは出来ない。代わりに『目を凝らし』て、アザミは人間同士による暴動が起きているのだと知った。
それと同時に、いつもなら頑丈な警備が手薄になっていることも知り、アザミはこれ幸いと研究所を飛び出した。
アザミの脱走に気づき、捕まえろと叫ぶ声が聞こえる。
それらを全て背中に流して、アザミは只管走った。
あちらこちらで、血塗れの人間が瓦礫と共に転がっている。
同族で殺し合うなど、本当に馬鹿な生き物だ。自然界の生き物は種の保存に全力を尽くすというのに、彼らは自ら種の数を減らしているのだから。
熱くなる頭の隅で、そんなことを淡々と呟く自分がいる。アザミはそれらの惨状を、映画のフィルムのように流し見ながら足を動かした。
―――彼女が足を止めたのは一度だけで、彼女自身の意志で『蛇の力』を人間に分け与えたのもその一度きりだったが、それはまた別の話だ。―――
兎に角、アザミは走った。我武者羅に走った。追ってくる人間たちは、一人残らず石にして、適当に蹴り飛ばした。
気分が昂っていたからか、何匹かの蛇が勝手に動き始める。それが煩わしくて、二・三匹ほど切り離した。それだけで随分と肩が軽くなり、アザミは更に足を急がせた。
目指すは、家族が待つあの家だ。
ガサ、と草を踏みアザミは大きく息を吐いた。
やっと見つけた懐かしの我が家に、緩む頬は抑えられない。しかしアザミは家が、嘗て―――アザミが本当に初めてこの家を訪れた時と同じ状態であることに気が付いた。
何も、そこで生活する者の存在が全くないのだ。
そんな、そんな筈はない。
誰に言うでもなく呟いて、アザミはフラフラとした足取りで家に近づくと、そのドアを開いた。
きい、と軋んだ音が、虚しく辺りに響く。
「ツキヒコ……シオン……」
声は聞こえない。誰もいない、森の中の小さな一軒家。
愛を知った化物は、静かに涙を流す。
ふと、その目が留まったのは、部屋の隅にぽっかりと浮かぶ闇だった。
あの時、創りかけてそのままになっていた世界の欠片。自分の中に残る『蛇の力』は昔ほど多くはないけれど、一人で入り込めるよう広くするだけなら、十分だ。
「お前たちがいない世界なら、もう興味はない―――」
そうしてまた独りぼっちになった化物は、静かに闇へと溶けていった。

―――それと入れ替わるように、丸く円を描いて消えていくブラックホールから、黒い雫が垂れた。
墨のようにどろりとしたそれは、地面につくと同時に蛇の形をとり、黄色の双眸が輝く頭を持ち上げた。
アザミが世界に侵入したために世界から追い出されたその黒蛇は、ずるりずるりと這うようにしてその姿を、光へ溶かしていった。

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