我がために
暗い世界で一人、誰もいない場所に向かって叫んでいた。
迷子のように震える肩が、本当は誰よりも寂しがり屋なくせに笑顔を浮かべる彼と重なって。
助けたいと、どうしようもなく、そう思ってしまったのだ。



四対の視線を背中に受けながら、ケンジロウは悠々と部屋を後に、
「―――て、逃がすわきゃねぇだろ!ひっ捕らえろ、憲兵ども!」
しっかり仕事しろぉ!―――シンタローの理不尽な剣幕に反論する暇もなく。憲兵たちは大慌てで腕を伸ばしてケンジロウの服の裾やら足やらを掴んだものだから、五人は縺れ合うような形で床に転がった。
あれは鬼教官の指示を受けたときのような、生命危機を感じたが故の本能による行動だったと、後に彼らは青い顔をして語ったという。元少将の威圧感は、伊達じゃない。
何とか煙草を落とさずに済んだケンジロウは、肘をついて上体を少し起し、ポリポリと頭を掻いた。
「おいおい、ここは大人しく見送るシーンだろ」
「馬鹿言ってんじゃねぇぞ、オッサン。敵をみすみす見逃すか」
米神を引き攣らせながら、シンタローはケンジロウを見下ろす。シンタローの予想外に大胆な行動に、キドたちは思わず言葉を失い、顔を見合わせたのだった。

一方的に切られた携帯端末を見て、『蛇』はニヤリと笑う。
向こうの状況を見ることは出来ないが、スパイスは効いたらしい。面白くなりそうだ。
「あああああ―――!!」
大きく目を見開いて、セトは『蛇』の服を強く掴む。
老若男女、多くの人間の『声』が頭の中を反響する。人間の許容量を超えるそれに、セトは悲鳴を上げた。
ピピ、とセトの首に取り付けられた首輪についた豆電球が点滅する。『蛇』はそれを見てニヤリと笑い、携帯端末をタップした。
セトについた首輪は、彼の脳波を受信して携帯端末に転送するためのもの。それと地図を照らし合わせて、アザミの居場所を割り出すのだ。
「――――!」
―――黄色い鉄骨が無造作に転がる黒い空間。その中で最も深い闇を纏った少女がゆっくりとこちらを振り返る。全てを悟ったような、赤い瞳で。
―――『彼』のいないセカイなど興味がない、と。熱くなった頭に落ちる、一滴の冷水。この声は、夢で聞いた少女のものだ。
―――それと同時に響いた、もう一つの声は。
「―――ぁ!」
セトの悲鳴が唐突に止む。涙の溜った目が限界まで開かれ、そこから零れ落ちた雫が一つ、『蛇』の服を濡らした。きゅ、と黒い服を掴む手に力がこもる。横目でそれを捉え、『蛇』は僅かに眉を顰めた。
はくはく、と乾いたセトの口が声にならない言葉を紡ぐ。それが示すものを察し、『蛇』は、我知らず目を見開いた。
「……!」
ふ、と『蛇』の頭上に影ができる。『蛇』は、こちらへ向かって拳を振り上げるコノハを、冷えた目で見返した。嘲笑を潜めた彼を見るのは初めてである気がして、コノハの額にじわりと冷や汗が浮かぶ。そのせいか、『蛇』に易々と腕を取られてしまった。
「く……!」
「……ち」
何処か忌々しげに舌を打ち、『蛇』はコノハの足を払って彼の体勢が崩れた隙をつき、金網まで大きく飛び退った。持ち運びやすいようにか、セトの身体を肩に担ぐように移動させてから。
「待て!」
二歩ほどで金網の上に乗った『蛇』はヒビヤの鋭い声に動きを止めることもなく、身を翻してその姿を消した。
「くそ……!」
ヒビヤは歯を噛みしめて『蛇』の消えた方向を睨みつける。
みすみすセトを連れていかれてしまった悔しさに、ヒビヤは膝をつき、固く握りしめた拳を、それよりも固いプールサイドに叩きつけた。力の加減がされず、血が滲む。それが再度振りかぶられたので、コノハは彼の腕を掴んで制した。
しかし掴みどころのない男であった。
コノハはもう見えぬ背中を見つめ、眉を顰めた。
先ほどの言動から察するに、ケンジロウへ絶対服従、または全面協力しているというわけでもなし。まるで、己の野望のために利用しているだけだとでもいうような。
「見、つ、け、た!」
力強く発音された言葉に、ヒビヤはビクリと肩を飛び上がらせる。
ガシャガシャと喧しい音を立てる金網を見やれば、ゼーゼーと肩で息をしながらそこをよじ登る憲兵たちの姿がある。ヒビヤは思わず頬を引き攣らせた。
彼らは、ヒビヤとモモを担当していた憲兵だ。街を自由気ままに歩くモモによって逸れていたのだが、こんなところで合流しなくても。
肝が小さいのか、片方はプールに広がる惨状に顔を青くした。
「あれ、如月一等兵は?」
「コノハと入れ替わりに本部へ戻ったよ」
腰を抜かす同僚の襟首を掴んで引きずり、モモの憲兵は辺りを見回してそう言った。ヒビヤの返答によってどっと疲れがきたらしく、彼は大きく肩を落とす。
「それよりも、よくここだって解ったね」
既に表向きには廃屋と化した孤児院だ。普通、こんなところにいるとは思いつかないだろうに。そう訊ねると、憲兵は、ああ、と頷いた。
「案内してくれたんです」
「案内?」
「ええ」
彼女が、と憲兵は首を回してそちらを指し示す。ヒビヤも憲兵が示す方へ視線をやるが、そこには誰もいなかった。
可笑しいな、と頭を掻く憲兵に、ヒビヤは呆れの溜息一つ。そんな彼に、コノハが声をかけた。
「……カノも、いない」
え、と溢し、ヒビヤはプールを見やる。
プールに浮かぶのは夥しい数の少女たちだけで、カノの姿は何処にも見つからなかった。

その少女の身体は、呼吸器とその他幾つかのコードを巻き付けながら、ブルーライトに照らされた水に浮かんでいた。
それは例えるなら、大きな試験管。周囲にはそれより二回りほど小さいものが幾つも並んでいたが、何れも割れて液体を溢している。恐らく、それらの中に楯山彩花のクローンたちは収められていたのだろう。
コノハは、一際大きなその試験管の前で、携帯端末の画面を翳したまま立ち尽くしていた。
「……これが、貴音」
その目は固く閉ざされ、頬も痩せこけてしまってはいるけれど、彼女が榎本貴音だと解る。
コノハの胸はツキリと痛んで、知らぬ間に溢れた雫が頬を滑っていた。
彼の背中を見つけたシンタローが、エネ、と。コノハと同じように榎本貴音を見つめているであろう、画面の中の少女を呼ぶ。
「無理ですよ、ご主人」
シンタローを一目も見ないまま、エネはきっぱりと言った。
「あの身体はもう、とっくに壊れている」
幾ら管理されていたと言っても、一度は生命活動を停止し、実験のためにあちこち弄り回された身体だ。エネが榎本貴音に戻ることは、もう二度とできない。
「私はもう、この身体に慣れてしまいましたから」
だから、お気になさらず―――いつも通りの明るい声音で、エネは言う。
コノハに頼みでもしたのか、シンタローが画面の彼女をはっきり見ることは、できなかったけれど。泣いて、いるのかもしれないと、そう思ってしまって。
シンタローは僅かに目を伏せる。
「ほらほら、アヤノちゃんはこの奥みたいですよ」
早く行ってあげて下さい、というエネの言葉に背を押され、シンタローは一つ頷いて足を進めた。
彼の背中が機械の密集する部屋の奥に消える頃、コノハの手の中から小さな嗚咽が聞こえてくる。
「……」
コノハは目を閉じて、携帯端末をそっと抱きしめた。
画面の中に手は届かなくて、涙を拭うことはできないけれど、少しでもこの温もりが伝われば良いと、そう願いながら。
キドたちも行方を知らなかったアヤノの遺体は、やはりケンジロウが持ち帰っていたらしい。
彼女はまるで、今も生きているような姿で、柔らかいクッションの詰め込まれたカプセルベッドに横たわっていた。
「……アヤノ……」
す、と手を伸ばし、白い頬を撫でる。
肌は少しかさついて、血色も悪い。けれど、髪は昔と変わらず黒く美しいままで。前髪を分けるように留められたピンも、昔のまま。
ぽつ、と乾いた頬に雫が落ちた。それは染み込むことのないまま、曲線に沿って滑っていく。
「アヤノ……ごめん……アヤノ……!」
シンタローは、そっと軽い彼女の身体に腕を回し、強く抱きしめた。
冷たい身体が、自分の体温によって温もりを取り戻せば良いのにと、叶わぬことを想いながら。

「アンタは、いつから狂っていた」
それより数時間ほど前のこと。
シンタローとケンジロウ、二人きりの狭い空間。軍にある尋問部屋だ。二人きりと言っても、シンタローの背後には壁一面のマジックミラーが設置されており、その向こうの部屋ではキドたちが成り行きを見守っている。
スチル製の机を挟んで向かい合って、シンタローはじっとケンジロウを見つめた。
ケンジロウは手錠で拘束された手を無造作に投げ出し、不敵に口角をつり上げている。
「……俺が気づいていれば、止められたのか」
「それは傲慢だ、シンタロー」
高々十数年しか生きていない若造に、人一人の考えを変えられるほどの力なんぞ、あるわけがない。
シンタローだってそれは理解しているから、先ほどのはただの戯れだった。いや、戯れではなく、半分は心からの後悔か。せめて、気付いてやれれば良かったという、取りとめもないことの。
シンタローが知らぬ間に、楯山研次郎は妻の死後【カゲロウプロジェクト】を参考にして、楯山彩花のクローン製作を計画していた。そして独学とは言え、彼は人造人間のレシピを見事完成させたのだ。
「ここで、両者の利益が一致する」
楯山研次郎は楯山彩花を甦らせるために、軍は量産できる兵器を手に入れるために。
ケンジロウは人造人間を造るための莫大な費用を、軍は人造人間を造れるだけの知識と技術を、お互いが水面下で利用せんと手を組んだ。
「……先生は、それを知っていたのかな」
「多分ね。それを承知の上で、あの人は研究を続けていた。軍に研究成果を利用されようが、目的のものが自分の手に入れば、文句はなかったんだと思うよ」
マジックミラー越しに見える二人の様子から目を逸らし、モモは胸元で手を握った。彼女の隣でヒビヤは淡々と、提出された情報を基にした推測を述べる。
「……その全ては自分の、そして……」
ヒビヤは言葉を濁し、ちらりと背後に視線をやった。
壁に背を預けて腕を組んだキドは、じっと黙したまま据わった目をマジックミラーへと向けている。
「俺たちのため……だったんだな」
家族と共に暮らす―――普通であるなら簡単に叶ったであろうその夢を、実現させるために。それはいつしか、歪んでしまっていたようだが。
キドは僅かに目を細めた。痛みを顰めるようなその表情に、コノハはちょっと目を伏せる。
彼の傍らで立ち上げられたパソコンの画面に顔を出したエネが、躊躇いがちに口を開いた。
「……先生の所持していた携帯端末の解析、終了しました」
エネの傍らにウインドウが二つほど開く。片方は専門家にしか解らないデータ配列で埋まり、片方にはこの辺り一帯の地図が広がっていた。
携帯端末内のOSを視覚化したのがデータ配列のそれであり、それを図解したのが地図だとエネは言う。
「コノハたちが見た少尉さんの首輪は、脳波の変化をデータ化して電子機器に転送するものでしょう。恐らく、それと地図を照合して、アザミさんの居場所を探す手筈だったのだと思います」
セトの能力を強制的に最大解放し、この辺り一帯に存在する全ての生物の思考を読ませる。それに反応する脳波を収集、データ化し、地図と照らし合わせてポイントで示す―――エネの説明は、要約するとそのようなものであった。専門家でも詳しくもないキドたちには、半分ほどちんぷんかんぷんであったが。
「つまり、『蛇』の持っていた携帯端末にも、そのデータが転送されていたんだね」
携帯端末の画面を覗いて笑う『蛇』の姿を思い出し、ヒビヤは眉を顰めた。
恐らく彼は、そのままアザミのもとへ向ったのだろう。
彼の拠点はあの孤児院で、今はモモとヒビヤを監視していた憲兵たちによって封鎖されている―――因みにそれはシンタローの指示で、憲兵たちはかなり不満たらたらであった―――。
「場所は特定できたのか」
キドは壁から背を離し、パソコンの置かれている机に手を置いた。
本心としては、キャパシティオーバーを起して苦しんでいるであろう幼馴染の行方が気になる筈である。『蛇』の銃弾に倒れたカノの姿も、まだ発見されていない。
それでも気丈に振る舞うのは、彼女が大佐であるからだ。
頭が崩れれば組織は瓦解する、それは自然の摂理と等しい理だ。そしてそれを知っているから、ヒビヤたちは何も言わない。彼女の指示に頷き、それに従って行動するだけだ。
「―――はい」
エネが頷くと、地図のある一点に赤が浮かび、そこがズームアップされた。
「アザミの居場所は、そこだと思われます」
そしてそれは、セトを連れているであろう『蛇』も目的地でもある。
赤い点が浮かび上がる場所を見て、キドとマリーは小さく息を飲んだ。
「ここって……」
それは、二人がよく知っている場所、いや、知りすぎている場所だった。
マリーは無意識に、ぎゅっと首から下げた鍵を握りしめる。
「私のお家……?」
既に廃墟と化した、森の中の小さなお家―――赤い点が示すのは正に、小桜茉莉が軍に入るまで身を寄せていた家であった。
「マリーちゃん、その家って、いつからあるの?」
「私が生まれた時は既に……お母さんもそこで育ったって言っていたから……」
「アザミがそこに、人間の男と住んでいた可能性は十分にあるね」
モモ、マリー、ヒビヤの順に視線と言葉が繋がり、キドは強く頷く。
人外と言えど、人を愛し、子を産んだのだ。長年住んでいた家に愛着を持つのは、何てことない、当たり前のことであった。
人間臭い、あまりにも。メデューサとて、人間と同じだ。
「誰が化物なんて呼んだんだかな……」
そう呟いたキドの顔は、何故か深い自嘲を湛えていたと。コノハは後に、そう溢す。しかしそれも一時のことで、キドはすぐに顔を引き締めると、モモたちに指示の声を飛ばした。
「総員、出動準備だ」

部屋の前を駆け抜ける騒がしい足音を聞きながらも、しかしシンタローとケンジロウは沈黙したまま、互いを睨むように見つめた視線を動かそうとはしなかった。
そんな中、先に沈黙を破ったのは、シンタローだった。
「……アヤノは、アンタの計画を知ったんだな」
恐らく彼女は、ケンジロウによって利用されるプロジェクトの行く末を察してしまった。そして絶望した。そしてあの日【カゲロウプロジェクト】に関わる全てを破壊し、せめて家族は連れ帰ろうと軍に乗り込んできたのだろう。
全てが回り出し、誰も止められずにいたあの現状を、彼女はそれでも変えようとした。結果は、失敗してしまったが。
「何が『アヤノのため』だ」
ふ、とシンタローの口元に嘲るような笑みが浮かぶ。それは、半分はやるせなさから零れたものでもあった。
アヤノのためだと、ケンジロウは言った。けれど彼女自身はそれを望んでいない。つまりそれは全て、彼のエゴだ。キドたちのため、というのもまた同義。
ぐ、と机に置いた拳に力が籠った。
「アンタが、アイツの幸せを壊したんだ―――!」
歯を噛みしめるように、シンタローは吐き捨てる。ピクリ、とケンジロウが僅かに反応を示し、剣呑とした瞳が彼を捉えた。
「言わせておけば……」
だん。大きな音がして、二人の間を裂いていた机が揺れる。ケンジロウが立ち上がって身を乗り出し、シンタローに自身の顔を近づけたのだ。
手錠で拘束された両手が机を揺らし、シンタローはそれに圧されて身を反らす。鼻先が触れあうほど近づいたケンジロウに、シンタローは僅かに顔を歪ませた。
「アヤノの幸せは、お前じゃない!俺だから作り出せるんだ!」
声高らかに叫んで、ケンジロウはニヤリと口角をつり上げる。シンタローは頭の中で、ブチ、という何かが切れる音を聴いた。
「ああそうだ!アイツの幸せは、俺には作れなかった!アンタがいなければ、アイツは幸せじゃなかったんだ!」
がし、とケンジロウの襟首を掴み、シンタローは彼を思い切り睨みつける。椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がって襟首を引き上げれば、ケンジロウはバランスを崩して机に腹を乗り上げた。
彼はそれによって顔を僅かに顰めたが、シンタローは構わず更に身体を揺する。
「例え母親がいなくてもなぁ!孤児院の奴らがいて、アンタがいれば、それだけで幸せだったんだと!アイツは泣きそうな笑顔で、そう言ったんだ!」
―――つぼみがいて、幸助がいて、修哉がいて……お父さんがいれば、それで良かったのに……
彼女はそう言って、泣きそうな顔で笑っていた。その笑顔が、今もシンタローの脳裏から焼き付いて離れない。
「俺は……アイツの幸せには、なれなかった……!」
声が、掠れた。堪えろと己に言い聞かせても目頭は勝手に熱くなり、睨みつけるために細めた目尻から、雫が零れ落ちる。
歯を噛みしめると、それに比例するように手からは力が抜け、シンタローは崩れるように机に拳を叩きつけた。
机に手をつき、大きく息を吐いて、込み上げる何かをやり過ごす。スン、と鼻を鳴らしながらもシンタローが顔を上げると、ケンジロウはぼんやりとしたまま椅子に腰を下ろしていた。
「……俺もキドたちと合流して『蛇』の行方を捜す」
「……」
ケンジロウから返答はない。
シンタローは彼から視線を逸らし、扉へ向かって足を進める。
「……アンタは、」
「……―――研究室の奥」
「は?」
ボソリ、とケンジロウが呟いた。
部屋の入口に足をかけていたシンタローは咄嗟に止まり、慌てて彼を振り返る。ケンジロウは先ほどと変わらない体勢で、大きく息を吐いた。
「……研究室の一番奥。アヤノは、そこにいる」
―――会いに、行ってやってくれ。
それは、蚊の鳴くようにか細い声であった。
ケンジロウの目元は、眼鏡が乱反射しているせいでよく見えない。それでもシンタローは、解った、と強く了承の声を返した。
ぱたん、と扉が静かにしまる。
扉の向こうから漏れる、噛みしめるような嗚咽を耳で捉え、シンタローは目を伏せる。
小さく息を吐いて顔を上げた彼は、その目に鋭さを湛えていた―――その時、右目が僅かに赤に滲んだが、それに気づく者はいない―――。
それからシンタローはキドたちと合流すべく、足を動かした。

「……おい……おい、瀬戸幸助」
「んぅ……」
乱暴に揺すられ、セトは鼻にかかる声を漏らしながら薄らと瞼を持ち上げた。
ぼんやりとした視界に映るのは、黒。輪郭がはっきりしていくにつれ、それは見下すような『蛇』の顔だと解り、セトの頭は一気に覚醒した。
ガバリと勢いよく起き上がると、頭がぶつかりそうになったのか、『蛇』はひょいと身を引く。
「な、な……!」
「あー説明くらいしてやるから……取敢えず放せ」
「へ?」
これ、と『蛇』の指が示す先へセトはゆっくりと首を回す。セトの左手が『蛇』の服を強く掴んでいた。それに気づき、セトは慌てて手を放す。『蛇』は大仰に溜息を吐いて頭を掻いた。
セトはそこでやっと辺りを見回し、自分たちの現在地は森であると気付く。しかも、何処となく見覚えがある森なのだ。
「ここは……」
「小桜茉莉が住んでいた家、その近くだ」
呟いたセトの言葉に続けるように、『蛇』は言った。それから立ち上がり、『蛇』は膝についた砂埃を適当に払う。
「アザミは、その家にいる」
意味が解らない。
セトの顔は、素直にそれを表していたのだろう。『蛇』は至極面倒臭いと言いたげに顔を歪めて、舌打ちを溢した。
それに米神を引き攣らせながらも、セトは大人しく待つ。『蛇』が説明のために腕を伸ばし、セトに背を向けた、その時を。
「―――」
「!」
ピタ、と空気も二人も、何もかもが張りつめる。
背を向けたその瞬間をついて立ち上がったセトは、『蛇』の腰に無造作に引っかけられたリボルバーを掴み、近づく気配に気づいて振り向きかけた『蛇』の首に、その銃口を突き付けたのだ。
「……」
「そのまま、説明してもらうっす」
カチ。ハンマーに親指を、トリガーに人差し指をかける。
セトは高鳴る鼓動と脈拍を五月蠅く思いながら、小さく呼吸を繰り返した。赤く染まった袖から覗くセトの手が僅かに揺れるのを目端で捉え、『蛇』はニヤリと笑う。
「……腐っても軍人か、良い動きじゃねぇか」
「お褒めの言葉を、どーもっす」
「けど甘い―――敵から奪った銃は、残り弾数が解らねぇよな?」
「!」
慌ててリボルバーに目を落としたセトは、次の瞬間その視界が反転し、背中に呼吸が止まるほどの衝撃を味わった。『蛇』によって、背負い投げの要領で地面に叩きつけられたのだ。それでもリボルバーを手放さなかった根性だけは、自分でも褒めてやりたい。
「……つぅ」
「お前、銃苦手だろ」
『蛇』の的を射た言葉に、セトはうっと口を噤む。
一応、軍支給の拳銃は所持しているし、射撃訓練も手を抜いてはいない。それでも命中率はいまいちで、セト自身、射撃の感覚を好まないから、実戦経験は皆無に等しい。それがこんなところで仇となるとは。
セトは己の迂闊さに顔を歪めた。『蛇』は馬鹿にするような笑みを浮かべたまま、簡単にセトを解放する。
支えを失ってパタリと腕を地面に落とし、セトはポカンと逆さに映る『蛇』を見上げた。
「何、面白い顔してんだ、説明してやるって言ってんだろ」
「……」
肩を竦めつつニヤリと笑い、『蛇』は手を無造作にポケットへ突っ込んだ。疑惑の目を消さないまま、セトは無言でムクリと身体を起す。警戒する彼の瞳を一瞥して『蛇』は軽く息を吐いた。
彼がセトに語り聞かせたのは、大凡シンタローとケンジロウの話したことと同じであった。
ケンジロウの本当の目的、そのために必要なもの、アザミという存在―――そして、そのためにケンジロウがセトに対して行った『実験』も、全て。
「―――というわけだ。理解出来てるか?」
話の途中から口を薄く開けて何処か虚空を見つめるセトの様子に、『蛇』は持ち上げた口角を僅かに引き攣らせた。
まさか、この程度のことを理解できないほど頭が弱いわけではあるまい。
そんな『蛇』の懸念を知らず、セトはそうだ、と呟いていた。今、思い出したのだ。
「俺、暴走したんじゃ……」
「そこか」
『蛇』はハッと鼻で笑った。それから腰を折って顔を近づけると、『蛇』はちょいちょいとセトの、ぺたりと地面についた手を指でさす。
へ?とセトは首を曲げてそちらを見やり、思い切り顔を歪めた。
「な、何すか、これ?」
セトの白いパーカーの袖から覗く手首をぐるりと一周するように、黒い輪のような痣が浮かんでいる。蛇を思わせるようなそれに、セトはぶわりと肌が泡立つのを感じた。
「俺の力で、ある程度抑えてある」
その痣は、ストッパーが正しく作用している証だと、『蛇』は言った。それは有り難いことだけれども、セトは素直に喜べないし、礼を言う気にもなれない。
「……なんでそこまでしてくれるんすか」
手首の痣を指で撫で、セトはこちらを見下ろしてくる『蛇』を、ちらと見上げる。そんな彼を馬鹿にするように、『蛇』はフン、と鼻を鳴らした。それらが上から目線の行動に見えてしまうのは、セトのせいではないと思いたい。
「お前が俺の服を掴んだまま、いつまでも喚いているからだ」
「う……」
セトは居心地悪くて、ちょっと視線を逸らした。
確かに『蛇』の服の裾を掴んで離さなかったのは、間違いない。何となくしか覚えていないが、夢の中でセトは、誰かを必死に引き止めようとしていた気がするから、きっとそのせいだ。
それにしても、こんな奴の服を掴まなくても良いのにと、セトは自己嫌悪に呻きながら地面に額を擦り付けた。
「……それにこれ以上、俺の中を覗かれたら敵わないしな」
「え?」
『蛇』のボソリとした呟きを聞き返そうと、セトは土のついた額を上げる。しかし『蛇』は何でもないと言う風に手を振った。
ぱちくりと目を瞬かせて座り込んだままのセトを捨て置いて、『蛇』はさっさと歩き出す。セトは慌てて立ち上がり、彼の後を追った。
「……何でついてくる」
「連れてきたのはそっちじゃないっすか」
それなのに、こんな右も左も解らないところで放置されるのはとても困る。
そう言い返すと、『蛇』は苛立って舌打ちをしたようだった。しかし肩越しに振り向いた彼の顔には、物事を愉しむような笑みが浮かんでいた。
「俺は、鹿野修哉を撃ち殺したんだぞ」
じろり、と金色の蛇目が試すようにセトを映す。キリリとした琥珀が、それを真っ向から見返した。
「だからって、今アンタを殺したら俺が困るっす。解らないことだらけなんすから」
その代り、とセトは未だ己の手中に収まったままのリボルバーを握りしめる。
先ほど確認したら、まだ五発残っていた。取り上げられなかった理由は知らないが、それだけあれば十分だ。目の前の頭を、吹き飛ばすには。
「全てが終わったらお望み通りそのドタマ、ブチ抜いてやるっすよ」
何処までも真っ直ぐな、琥珀色。先ほどまで赤ん坊のように泣き喚いていた赤とは、似ても似つかない。
『蛇』は小さく舌打ちして、好きにしろと吐き捨てる。その言葉を素直に受け取って、セトは彼の後ろを歩いていった。
「……」
当たり前だが、二人の間に会話はない。
自分の目線よりも高い位置にある後頭部を見つめ、セトは、ぐ、とパーカーの襟を手繰り寄せた。
「……『誰か教えて』」
セトの呟きにピクリと反応を見せ、『蛇』は足を止める。
それから振り返り、苛立ちをありありと見せながらセトを睨みつけた。内心ヒヤヒヤしながらもそれを押し込み、セトはじっと彼の視線を見つめ返す。
「……やっぱり見られていたのか」
「暴走したとき、一番近くにいたんす。見えない方が可笑しいっすよ」
暗闇で独り立ち尽くす迷子の泣き声―――あれは、他でもない、目の前のこの男の『声』だ。
『蛇』は大きく舌を打った。セトは目を逸らさぬまま、ゆっくりと空いた距離を埋めていく。
「アンタの目的は、一体何なんすか」
「……」
『蛇』は何故だか解らないが堪らなくなって、目を伏せた。
目を開いたとき、自分は既に自我と身体を手に入れていた。身体と言っても人間のそれではなく、爛々と輝く黄色の眼を持つ黒い蛇のそれだったが。
初めに見たのは漆黒を纏った少女と、その腕に抱かれる赤ん坊だった。その少女こそ己が生まれ出でたきっかけであると、漠然とした知識も持ち合わせていた。
少女とその実娘、そして伴侶である人間の男たちの生活を見つめるうちに、己は異質な存在だと気付いた。仲間と呼べるかは解らないが、似た様に少女から切り離された他の『存在』は、自分のように自我を持たない。内包する力を以て人間に寄生し、ただ細胞のように己の役目に沿って能力を垂れ流すだけ。
そう、彼らは少女の細胞だ。しかし己は違う。云うなれば、癌。
人類誕生以前から世界を観測する超常的存在、その一端から零れ落ちただけの、小さな欠片。元々彼らはそれの筈で、しかし己だけはそうとしてだけで片づけることはできぬほど、力があった。
そこに目を付けたのかは知らないが、軍の研究員には散々弄繰り回された。
アザミが捕えられるのとほぼ同時期に、己は生物データをそっくりそのままパソコン内にコピーされたのだ。それも一つの実験だったのだろう。お蔭でいつしか、己は電子内も掌握するだけの力を手に入れていた。
「……手前らの『お父さん』と会ったのは、アザミが軍から雲隠れしてすぐのことだ」
折角人造人間のレシピを手に軍と取引をしたというのに、それが半分ほど無駄になってケンジロウは非常に苛立っていた。狂い始めたその男の行く末を見物しようという面白半分で『蛇』は彼の前に姿を現した。
楯山文乃に榎本貴音の眼を埋め込むよう提案したのは、『蛇』だ。
「どうしてそんなこと……」
「面白そうだったから……それ以外に理由はない」
今も昔も、己の中の価値に基づいて行動してきた。そしてそれは、これからも変わらない、筈だった。
ケンジロウの持つスケッチブックで見た絵をモデルにした人間の姿をとったのは、その方が何かと都合が良かったからだ。
メデューサの蛇、知能プログラム、人造人間―――己には幾つもの姿がある。それではさて、本当は『何』か。
「……俺は一体、何なんだ」
答えは簡単だ。メデューサの蛇、それも一等有能で強力―――主であるメデューサすら凌駕してしまえるほどに。
ならばするべきことは、一つだ。
目を伏せたまま言葉を止める『蛇』を見つめ、セトは目を眇めた。
「……アンタ、アイツと似てるっす」
いつも笑って道化を演じて。そのくせ、本当は誰よりも寂しがり屋で怖がり。けれど笑顔でそんな自分を塗り固めるから、本当の己を見失い、苦しむ。泣き虫の自分はそんな彼が消えないよう、服を掴むことしかできなくて。
でも、本当は、
(本当は、どうしたいんだろう……)
赤い目を細めて笑う彼を、自分は。
そんなことをぼんやりと思いながら、セトは徐に手を伸ばし、『蛇』の、見た目より固い黒髪を頬と一緒に撫で上げた。
「……」
「……何だよ」
「あ」
パシ、とその手は素気無く『蛇』に払われる。セトは少々ムッとしながらもスゴスゴと手を引っ込めた。それはほんの一瞬であったが、『蛇』は手を甘受けしているようだったのに。
『蛇』は盛大に顔を歪めて舌打ちし、ふい、と踵を返した。足早に進む彼を見失わないよう、セトも慌てて足を動かす。
「……それで、」
「まだ何かあるのか」
「まだ答えを聞いてないっす」
『蛇』の言葉に食い気味に、セトは強い口調で言った。大きく一歩を開き、『蛇』の隣に並ぶ。少し下から見上げてくる琥珀を『蛇』は無表情で一瞥した。
「アザミに会えば、アンタの目的は達成できるんすか」
「……それに答えて、お前は何を得る?」
「それが解らなきゃ、アンタの頭をいつぶち抜いたら良いのか解らないっす」
『蛇』は視線を前方に戻し、小さく息を吐いただけだった。セトはそれで納得したのか解らぬが、小さく肩を竦めて、それ以上言葉を重ねてはこなかった。
目の前にかかる枝葉を、暖簾のように押し上げて開けた場所へ出る。
そこは、目的地である小桜茉莉の家だった。
セトにとっては懐かしい、『蛇』にとっては若干緊張の走る場所である。
呑気に、見目に変化のない家を眺めるセトを置いて、『蛇』はドアノブに手をかけた。
「……」
ぐ、と唾を飲み込んで一息に開いた先は、暖かみ溢れる室内―――ではなく、
「な……!」
「これは……!」
『蛇』とセトが同時に息を飲んだ瞬間、扉の先に広がっていた漆黒が二人を一息に飲み込んだ。

アヤノの身体を元のように横たえ、シンタローはそっと枕元に手をついた。部屋を出る際に一瞥したケンジロウの姿を思い出し、自然と目が細まる。
す、と頬にかかった髪を掬い上げ、指の背でそこを撫でる。
「アヤノ……もう少し、これ借りるな」
首に巻いたマフラーに触れ、シンタローは小さく口端を上げた。そのまま身を乗り出し、冷たい額へ、唇を落とす。
「お前の家族を、迎えに行ってくるよ」
小さなリップ音が、部屋にこだました。
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