楯山孤児院
黒い空間のあちこちに、黄色い鉄骨が無造作に転がっている。
背景よりも深い闇色を纏った少女がそこで、一人蹲るように座り込んでいた。髪を束ねているのであろう、真っ赤なリボンが、やけに目につく。
「……今でもまだ、愛してる」
脳内に反響するようなその声は、恐らくその少女のものだろう。淡々と、しかし切なる嘆きのこめられたその言葉が、一滴の冷水を雑音の中へと落とすように、脳内で広がった。



頬を擽る、細い何か。セトが目覚めたとき、彼の目の前にいたのは、一心不乱に餌を頬張るハムスターだった。
「……え?」
思わず零れたそんな声に反応して、ハムスターはピクリと顔を上げる。しかしすぐに興味は手の中の餌へと戻り、セトのことは放置だ。仕方なく、セトは身体を起した。
まだ若干痺れの残る腕は、けれど上体を支えるだけの力は残っていた。いつもより視界を遮る前髪に、ピンを落としてしまったことを悟る。
額にかかる前髪を撫でながら、セトは座る形に身体を起して、辺りの様子を探った。
「ここ、は……」
セトが寝かされていたのは、固いベッドだった。部屋にはもう一つのベッドと、背の低い勉強机が二つ。元は淡い水色のストライプだったであろう黄ばんだカーテンも、家具の配置も、セトには見覚えがある。
楯山孤児院の、子供部屋だ。
「どうして……」
ケンジロウに腕を掴まれて、何かで気絶させられたところまでは覚えている。恐らく、ここに運んだのは彼だろう。けれど、何の目的で。そう言えば、彼はアヤノとアヤカと、もう一度会いたくはないかと言っていた。それと、何か関係あるのだろうか。
「でも……何で俺?」
能力の使えない自分が、何故。
かくん、とセトは首を傾げた。
ベッドについた彼の手の傍で、満腹になったハムスターが小さなゲップを溢す。呑気なものだと視線を下げたセトは、自分の首に巻かれる違和感に気づいた。
指で触った感覚によると、プラスチック製の首輪のような。この部屋には鏡がないから、目で確認できないが。
それに、セトはここに囚われているのだ。ケンジロウが何を目的としているかは解らないが、人質という可能性だってある。それならば、ずっとここで大人しくしているわけにはいかない。
「武器は……取り上げられているっすよね、やっぱり」
非番のときでも腰に仕込んでいる筈の小刀がない。
セトはがっくりと肩を落とした。まあ、拘束されていないだけ良いか。
セトは立ち上がると身体を伸縮して、異常がないことを確認する。フードをかぶり、さて、と気を引き締めてドアノブに手をかけると、施錠はされていなかったようで、簡単に回った。
「鍵もなし、拘束もなし……一体、何を考えているんすかね……」
薄く開いたドアの隙間から、廊下に視線を走らせる。人の気配もなければ、足音も聞こえない。今なら脱出できる。
そう思ったセトは、しかしふと、ベッドに視線を戻した。枕元で、満腹にでもなったのか、ハムスターは丸くなって眠りこけている。
「……置いてくのも、ね?」
誰に言うでもなく呟いて、セトはハムスターを両手で包んで持ち上げると、そっと胸ポケットにしまった。
「よろしくっす、はなお」
若干膨らんだそこをぽん、と優しく撫でて、セトはニカリと笑った。キドやカノが聞けば、何を呑気なことを、と呆れられていただろう。
薄く開いた扉の隙間から身を滑らせ、廊下に出る。息を詰めて気配を消し、セトは足音を立てぬよう人気のないそこを駆け抜けた。
「!」
途中、孤児院の子どもたちが共同で使っていた洗面所を見つけた。
何年も使われていないからタイルは乾ききっていたし、鏡は若干曇っている。
これは丁度良いと思い、セトは辺りを見回して誰もいないことを確認してから、鏡に向かって拳を振り上げた。

かちゃん。床に散らばった破片を踏む音が鳴る。
ケンジロウは小さく舌を打って、肩にかけていた刀を脇へと垂らした。
「またシンタローの策か……」
「正解です!」
先ほどヒビヤに能力行使の指示が飛ぶと同時に、モモには非戦闘員を抱えるキドのバックアップが指示された。そこで二人は別れ、モモは本部への帰還を急いだというわけだ。
「まさか、大佐さんが目的だとは思いませんでしたけど」
じり、と足を肩幅に開き、モモは腰を落とす。
身軽で柔軟な彼女の得意分野は、武器を使用しない格闘技だ。今はヒビヤから短刀を併用する戦闘方法も習っていると聞くが、実力のある相手との実践には対応できるほどではないのだろう。
小さく息を吐き、モモは床を蹴った。風を切るように繰り出される拳と蹴りを丁寧に交わし、ケンジロウはその一つを刀の背で受け止めた。ギリ、と拮抗する刀と足に、モモは崩れそうになるバランスを保とうと残ったもう一本に力をこめる。
「どうして大佐さんまで……!」
「……如月、お前に話しても、理解してもらえるとは思わない」
モモの頭の弱さを、ケンジロウはよく知っている。それに、彼の家族の事情を知らないモモには、例え彼女が聡かったとしても無理なことだろう。
「なら、俺には話してくれるよな」
キドの声に、モモはバッと身を引いた。
一瞬の間の後、銃弾の雨がケンジロウを襲う。しかしケンジロウは大きく後ろに飛び跳ねることでそれを避けた。
大きく息を吐いて、マシンガンを片手にキドはキッと顔を上げる。
「父さん!」
「……つぼみ」
「俺にも是非、聞かせてもらいたいね」
ピクリ、とケンジロウの肩が僅かに揺れた。
赤いマフラーを巻いたシンタローは、壊れた扉に背を預け、恰好をつけるように腕を組んで立っていた。してやったりと笑って見せる彼の足元では、負傷した憲兵たちを運ぼうとシンタローとコノハの憲兵が彼らの肩に腕を回している。
「シンタロー……お前のことは、『目が冴える蛇』に任せていた筈だが」
「そう何回もウイルスの侵入を許すわけがないだろ、この俺が」
最後を強調し、シンタローはUSBメモリを指で摘まんで振って見せた。
モモは見慣れた、彼愛用のUSBメモリだ。あれの中に手製のワクチンプログラムでも入れていたのだろう。コノハが人造人間であるからこそ、できた芸当だ。
ピン、と指で弾いたUSBメモリを片手でキャッチし、シンタローは部屋へと足を踏み入れる。USBメモリをポケットにしまう手と別の方には、鞘に入れたままの刀を下げていた。
「それにあの『蛇』なら、エネを返して何処かへ行っちまったぜ?」
気紛れな野郎だ、と悪態を吐いて、シンタローは先ほど右頬に掠り傷を負った時の記憶を思い出し、顔を顰めた。
ワクチンが作用するまで僅かにタイムラグがあり、その時に『蛇』によってつけられたのだ。
―――返してやるよ、お前らの『オヒメサマ』
嘲るような『蛇』の言葉に、シンタローの腹の底がぐつぐつと煮え滾る。誰がお姫さまだ、あれはただのビジネスライク仲間だ。
コノハにとっては確かに姫だろうが、少なくともシンタローにとっては違う。あの格下を見るような『蛇』の目も、シンタローの神経を逆なでする。次会った時は、この頬の傷の借りを返してやる―――しかしまあ、それは置いといて。
「全く……アイツは本当に」
呑気に溜息を吐いて、ケンジロウは額に手を当てる。
コノハはエネと一緒にヒビヤたちを追わせたので、この場にはいない。それでもキドとモモ、シンタローの三人がいれば、十分ケンジロウの相手はできる。彼は剣道を嗜んでいようと元々は研究者で、生粋の兵士ではないのだから。
「で、話してもらおうか、俺やコノハ、セトとキド―――更には『カゲロウプロジェクト』まで利用して企んでいるだろうアンタの計画」
「!」
「『カゲロウプロジェクト』まで?」
モモは思わず声を漏らした。
ケンジロウは眼鏡越しに、挑むような視線でシンタローを射抜く。僅かに切れる息を吐き、シンタローはそれを真っ向から受け止めた。
暫し二人の間には稲妻でも落ちそうな、ピリリと張りつめた空気が流れていた。しかしそれは、ケンジロウの吐息によって壊される。
「お前に隠し事はできんな」
「……伊達にアンタと仕事してきてないからな」
皮肉るようにシンタローは言うが、彼の額には薄ら冷や汗が浮かんでいた。余裕そうに見えて、彼も神経をすり減らしているようだ。
パチン、と音を立てて、ケンジロウは納刀する。意外なことに目を瞬かせるモモとマリー、一挙一動を見逃さんとするキドとシンタローの視線を受けながら、ケンジロウは長く紫煙を吐き出した。
「参った、俺の負けだ。……全て話してやろう」

階段の手摺を飛び越え、一つ下の階に着地する。フードが取れないよう抑えながら床に膝をついたセトの頬が、ヒクリと引き攣った。
「……何なんすか、」
ペタ、と上から聞こえてくる足音に、セトの肩が飛び上がる。恐る恐るそれを見上げると、そこにいたのは予想通り、少女―――のような物。
年はセトより少し上か。皆、セミロングの黒髪で、真っ白なワンピース姿。靴は履いていなくて、裸足で埃やガラクタの転がる廊下をペタペタと歩いている。何れも、何処かしらの関節が外れているように歪な体勢だ。
大広間の前を通った時、その扉が開き、そこから少女たちの集団が現れたのだ。
先頭にたつ少女が、ぐりん、と座っていない首を回し、その赤黒い目にセトを映した。ゾクリと背筋を凍らせ、セトは慌てて駆けだした。
「何なんすか、アレ!」
喉から絞り出すように叫ぶが、それに答える声はない。代わりとでも言うように、彼の後を追う派手な足音が廊下に響く。それは一つではなく、複数。
やがてセトの前方は壁に阻まれ、彼は仕方なしに足を止めて少女の集団と向き合った。そして、手にしていた鏡の破片を構える。先ほど砕いた、洗面所の鏡の破片だ。これを短刀代わりにする。カノやヒビヤと違い、セトは短刀の扱いには慣れていないが、今はこれしかない。
破片を作った時の傷が手の甲に、破片を握る度に手の平に小さな切り傷ができて、赤い血が滴る。火傷のような痛みが襲う。
ふ、と短く息を吐いて、セトは床を蹴った。
短い得物で確実に仕留めるには、一息に相手の懐へ飛び込んで喉を掻き切るのが一番だ。くるくると舞うように、四方から襲ってくる少女の喉を一匹ずつ掻き切る。頸動脈を掻き切った割には少量の血が、セトに降りかかってきた。真っ白なパーカーに、赤い斑模様ができる。
ぎゃ、と潰れた蛙のような呻きをあげ、一人また一人と少女は倒れていく。
彼女たちの容姿が何となく記憶の中の少女のそれと重なり、セトは喉に酸味が溢れかえるのを感じた。
「―――っくそ!」
埒が明かない。
腕が痺れ始めた頃、セトは舌を打って集団の隙間を見つけると、そこをかいくぐって突破した。追って来る足音と気配を感じながら、セトは走る。
今彼がいるフロアは一階だ。このまま真っ直ぐ行けば玄関に―――
「素直に行かせてくれるわけないっすよねー!」
進行方向から迫る別の集団に半泣きになりながら、セトは左右に視線を滑らせた。咄嗟に目に入った外へ続く扉を蹴破り、セトは飛び出した。
そこはプール場で、使われなくなって久しい筈なのに、透明とは言い難いが確かに水が入っていた。
日光を乱反射する水面に足が止まりかけるが、背後に迫る手から逃れるため、セトは歯を食いしばって固いプールサイドを駆けだした。
プールサイドの四方は金網で囲われている。セトはぶつかるように金網を掴み、足をかけてよじ登った。
「!うわ」
不意に足を掴まれる。もう追いつかれてしまったのか。そう思うとほぼ同時に、セトの身体は強く引かれて宙に放りだされた。
「え」
手を伸ばすが、掴まる物は何もなく。指はただ空を掻き、視界は薄雲のかかる空だけを映す。
セトの身体はそのまま、プールの水面に叩きつけられた。
ニタリと笑う、少女の顔を、目の端に捉えながら。
「―――!」
ざぶん、と冷たい濁流に身を投げ込まれる。思わず口が開いて、大量の気泡が水面へと逃げていった。コポコポと耳元で音がする。僅かに揺らめく光に手を伸ばすけど、到底届きそうにはない。それどころか身体はどんどん沈んでいき、目蓋も徐々に重くなった。
(……俺、は……―――ぼく、は……)
―――唐突に、視界に赤が混じる。
セトはハッとして目を見開いた。それは身体にかかった返り血と、傷だらけになったセトの手から零れた血であったが、彼がそれに気づくことはなく。
ただ、嘗て川で溺れた時の光景が、まざまざとセトの目に浮かび上がっていた。
(あ……あ、ああああ―――)
ざぶざぶと音を立てて、少女たちも飛び込んでくる。彼女たちは皆一様に手を伸ばし、セトの身体のあちこちを掴んだ。
首を、腕を、足を、強い力で絞めてくる冷たい手。
その重みもあってか、どんどん沈んでいく。目の前にきた少女の口が、にやりと弧を描いて。
―――こ……す、け……
「――――!」
がぼ。大きく泡を吐き、セトは声にならない叫び声を上げた。どくん、と鼓動が鳴り、身体が反り上がる。
大きく見開かれたセトの瞳が、真っ赤に滲んだ。

―――彼の声が、聞こえた気がした。まあ、自分に彼のような能力はないので、完全な空耳なのだけれど。
(それか、愛の力ってやつ?)
心の中で呟いた癖に、カノは何を馬鹿げたことを、と苦笑する。良くて腐れ縁故の虫の報せだろうに。
隣に立つヒビヤが、ニヤニヤしているカノを呆れたように見上げ、気持ち悪い、と一言。それにいつもの営業スマイルを返して、カノは目の前の建物を見上げた。
「それにしても、まさか、またここに戻って来るなんて……」
楯山孤児院。カノたち三人が幼少期を過ごした場所だ。アヤカが亡くなり、アヤノも亡くなると自然と閉鎖してしまった。それ以来、カノたちはケンジロウとも会っていない。
「……でさ、何でコノハくんがここにいるの?」
カノはそう言って、ヒビヤと共に孤児院の間取りを携帯端末で覗いていたコノハへ、視線をやる。コノハはそれに気づき、はてと言う風に首を傾げた。
「シンタローに言われて……だけど……」
「いや、そうじゃなくて、あの短時間で、って意味で……」
カノが飛び出してからも暫く、コノハはシンタローと共にケンジロウと話していた筈だ。しかしカノがヒビヤから場所を聞いて駆けつけてみれば、彼は既に先に到着していた。何処で追い越されたのか、全く解らなかったのが恐ろしい。
「コノハの脚力と体力は、人間のそれを超えているから」
人造人間だからかな、とヒビヤはポツリと呟く。いつものシビアさは何処へやら、今日のヒビヤは聊か呑気ではないか。カノは乾いた笑い声を立てた。
「で、エネさんは?」
「携帯の中で、休憩中……」
ヒビヤに微笑を見せて、コノハはポンと胸元を叩く。そこにエネの入った携帯端末がしまってあるのだろう。
ふーんと頷いて、ヒビヤは携帯端末を尻ポケットに突っ込んだ。
間取りは頭に叩き込んだらしい。カノはまだ記憶に残る孤児院のそれを思い浮かべて、曖昧な部分がないことを確認済みだった。
さて、と腰に手を当て、ヒビヤは孤児院を見上げる。
「どうする?」
「決まっているでしょ」
突入、それ以外を選ぶ気はない。そうカノが言い切ったと同時に、―――ざわ、と吹き付ける風が、変わった。
「……何?」
ヒビヤは眉を顰め、視界を隠す前髪を押さえつける。コノハは飛んでくる塵に目を細め、カノは湧きあがる予感に目を見開いた。
「―――セト?」
答える声は、ない。

「榎本貴音と九ノ瀬遥は、病院の長期入院患者で、身寄りもなかった。だから、『カゲロウプロジェクト』の停滞に業を煮やした軍の研究者たちは、被検体に選んだんだ」
二人に『眼』を埋め込んだまでは良いものの、元々が病人だ。すぐに生命活動は低下してしまった。このままでは死なせてしまう、しかしまだ能力の発現を確認していない大事なサンプルだ。考えた末、狂った研究者は、二人の脳と神経データを使って兵器を造った。それが人造人間『コノハ』と、人工知能プログラム『エネ』である。
「コノハだけでなく、エネも『眼』を持っていたのか……!」
「そういうことだ」
エネに埋め込まれたのは『目を覚ます蛇の眼』―――これは、どうやら不老不死を齎すらしいということまで解った。
飲まず食わず、不眠不休でも死なない身体。それを、榎本貴音は手に入れている。しかしそれでも病死は別だったようで、彼女の生命活動は『眼』を手に入れる以前から患っていた病気によって停止したが。
「それを使って、―――アヤカとアヤノを、甦らせる」
その場にいた者たちが、息を飲む音がよく響いた。
「……正気か、オッサン」
「ああ」
ようやっと絞り出せたシンタローに対するケンジロウの答えは、簡潔明瞭且、即答であった。
「榎本貴音の身体に埋め込まれた『眼』を刳りぬき、アヤノの身体に埋め込む」
人工知能プログラムは二次元の存在だ。メデューサの眼は三次元物。つまり、エネの持つ『眼』は、彼女の基である榎本貴音が所持しているのだ。
ケンジロウはその『眼』を移植することで、『目を覚ます蛇』をアヤノに宿らせようとしている。本当に可能か解らない、不確定要素の多いまま。
「……榎本貴音の身体は、破棄された筈だろう」
「記録の改竄は、俺の十八番でな」
ははは、と軽く笑って、ケンジロウは吐息と共に紫煙を吐き出した。
その様子では、アヤノの身体も未だ彼が所持しているのだろう。そう言えばキドたちから、その後のアヤノの遺体の行方は聞いていなかった。
「……成程、解ったぜ、何故キドが必要か」
「ああ、流石だな、シンタロー」
「全ッ然嬉しくねえよ、このマッドサイエンティストが」
言葉と共に唾を吐き捨て、シンタローは嫌悪を露わに、ケンジロウを睨みつける。
「セトの能力でアザミを捜し、キドをベースにして作ったアヤカさんの人造人間―――いや、クローンに、『眼』を埋め込もうってんだな」
キドとモモ、マリーは言葉を失った。
キドが所持する楯山彩花の記憶、女性という身体的データを基にただクローンを作るだけでなく、超常的存在であるメデューサの力の一部を与えることで、それをより確実な存在にしよう―――人間に近づけよう―――ということだ。そんなことが可能なのか、そもそも、どうしてそんな非人道的なことを考え付くのか。
彼女たちの戦慄を無視するように、ケンジロウゆっくりと拍手をした。正解だと、言わんばかりに。
薄ら笑いを浮かべるケンジロウに、シンタローはギリと歯を噛みしめた。
「流石だな、シンタロー」
「黙れ!」
シンタローは声を荒げた。ぐっと拳を握り、精一杯の睨みを効かせる。
ケンジロウの仮説は、根拠のない空論だ。全てが憶測で、成功するとも彼の期待通りに事が運ぶとも、何一つ定かでない。そんなことのために、キドやセトを利用させるわけにはいかないのだ。
それをマリーとモモの理解したようで、キドを守るよう彼女の前に立つ。
「そんな変態に、大佐さんは渡せません!」
「お婆ちゃんの力も、そんなことには使わせない!」
「……目を……覚ましてくれ、父さん!」
キドの悲痛な叫び。
しかしケンジロウの表情は一ミリの動きを見せず、無機質なレンズを通した目がキドを捕えた。
「俺の目は『冴えて』いるぞ、つぼみ」
「父さん……!」
キドはぐっと、泣き出すのを堪えるように眉を顰めた。
プルルルル……無機質なコール音。左右から突き刺さる視線を物ともせず、ケンジロウはポケットから取り出した携帯端末を見て、ニヤリと笑う。
「……残念だったな、シンタロー」
俺の勝ちだ―――誇らしげにそう言って、ケンジロウは受信ボタンを指で弾いた。

「おー、やっと出やがったな。俺だけど」
孤児院の裏には、プール場がある。
そちらへ回ったカノたちは、金網で囲われたそこに広がる惨状を見て息を飲んだ。
既に使われていない筈のプールに満たされた水に、幾人もの少女たちが、折り重なるようにして沈んでいた。彼女たちの身体が山になったことで浅瀬になったプールの真ん中に立つのは、『蛇』だ。
片手で持った携帯端末を耳に当て、もう片方に抱えるのは。
「―――セト!」
がしゃん、と音を立てて、カノは金網を掴む。
その音に気づいて、『蛇』はちらと視線だけカノたちにむけた。ニヤリ、と深い嘲笑を浮かべて。
カッと、カノの頭に血が昇る。それを見てから、『蛇』は通話に戻った。
「……いや、別に。……ああ、安心しろよ、アンタの期待通りだ。失敗作を嗾けた甲斐があったってもんだな」
言いながら、『蛇』は片足で少女の身体をすり潰すように動かす。
山と積み上げられたこの少女たちこそ、ケンジロウが造ろうとしていた楯山彩花のクローン、その失敗作だ。もう彼女たちに活動するだけの力はなく、こうして、ただの肉塊と化してしまってはいるが。
彼女たちは、電子機器と似た部分を持つコノハとは違い、そういった部位を持たない。言うなれば、試験管ベビーに近い存在だ。成功率はこちらの方が確実に低いのだけれど。
それでも諦めずこれだけのクローンを試作品とはいえ造ったのだ、あの男は狂っている。大切な存在を失ったが故に。
『蛇』にとってそれは反面有り難いことでもあり、歪む口元は抑えきれなかった。
「ねぇ、セトさんの瞳」
カノの裾を引き、顰めた声でヒビヤは囁いた。言われて目を凝らしたカノはハッと息を飲む。
セトの目が、赤に揺らいでいる。
「セトさん、能力を使えない筈じゃあ……」
カノにはその理由が解る。
より強い衝撃を与えて、人間が普段からかけているリミッターを外す―――恐らく、川に溺れた時のトラウマを利用して。
ギリ、と歯を噛みしめ、カノは俊敏な動きで金網を乗り越えた。
「あ、カノさん!」
慌ててヒビヤとコノハも金網によじ登る。二人がプール場に降り立つ前に、カノは駆けだしていた。
足裏に嫌な感触が伝わり、顔を一瞬顰める。しかし何とか堪え、カノは少女たちの身体を踏台にして蛇の元へ向かった。その途中で、カノは抜いたダガーを投げつけるが、『蛇』はそれを軽く飛び跳ねて交わし、プールサイドへと飛び乗った。
まだ通話中なのだろう、携帯端末を耳から少し離れたところで持ちながら、カノを見下ろす。
「おいおい、危ねぇなぁ」
「セトを、返せ」
光るダガーを手の内で広げ、カノはギラリとした視線を向ける。それを鼻で笑って、『蛇』は携帯端末に耳を当て直した。
「あ?ああ、アンタの息子が来たんだよ……はいはい、解っていますよって」
ビ、と『蛇』の頬を掠め、彼の背後の金網にダガーが突き刺さる。ダガーが裂いた傷口から、タラリと血が零れたが、『蛇』は顔を笑みのまま動かさない。
「セト!」
声を枯らさんばかりにカノが叫ぶ。それと同時に『蛇』の頭上に影が出来た。コノハとヒビヤである。ヒビヤはナイフを、コノハは拳を振りかぶり、『蛇』へ向けて下ろした。が、『蛇』はにやけた面のまま、軽くそれをかわす。
ピチャ、と音を立てて、『蛇』はまたプールに浮かぶ少女の身体を踏みつけた。コノハの拳はプールサイドを抉る。しゅぅ、と煙の立つ赤くなった拳に構わず、コノハはじろりと『蛇』を睨んだ。
「……どうして、実体があるの?」
シンタローの話では、彼はウイルス性の人工知能プログラムである筈だ。
『蛇』はまた鼻で笑って、肩を小さく竦めた。
「お前の身体を乗っ取ったことを忘れたのか?器さえあれば、俺も実体を持てるんだよ」
ここはケンジロウの研究所。元々、ここに彼の身体は隠されていたのだろう。
コノハは小さく舌を打った。ケンジロウはシンタローたちが足止めしているからと、少々高を括り過ぎたらしい。
「セト、しっかりして!セト!」
未だ『蛇』の腕に座るような体勢で抱えられ、セトは呆然とした様子だ。カノは必死に声を荒げ、彼の名を呼んだ。
肩口に埋めるようになっていたセトの頭が、ピクリと震える。水面に映る花火のように赤が滲む、しかし焦点の合わない瞳が揺れた。
「……カ、ノ……?」
それは本当に微かな呟きで、耳元で囁かれる形になった『蛇』にしか聞こえなかった。『蛇』はニヤリと笑い、携帯端末を反対の耳と肩で挟んだ。
「……このまま撤退?おいおいオッサン、アンタの研究に必要不可欠な材料が、目の前に転がっているのにか?」
カノたちにも聞こえるほど、『蛇』は声を大きくする。彼の意図を測りかね、カノたちは身構えて様子を窺った。
『蛇』はニヤニヤと笑いながら自身の腰を探る。
「楯山彩花の器として木戸つぼみを。アザミを捜しだすために瀬戸幸助を―――そして、」
現れたのは、黒光りするリボルバー。それのシリンダーを回して、止める。
カチ。その銃口が向く先は―――カノだ。
流れるようなその動作に思わずヒビヤたちは目を見開き、カノは舌打ち一つ慌てて身を引いた。しかし、僅かに遅い。
「瀬戸幸助の力を引き出すために、鹿野修哉を」
高らかに鳴り響く銃声とともに、止めろ、と誰かの声が聞こえた気がした。
「……―――!」
頭から血を噴き出してゆっくりと倒れていくカノの姿が、セトの、赤混じりの琥珀にはっきりと映る。
やがて琥珀が大きく見開かれ、
「―――カノ―――!」
一瞬で、赤へと塗り替わった。

「カノさん―――!」
超小型無線機から、軽い銃声とヒビヤの悲痛な叫び声が聞こえる。
バッとシンタローたちは耳に仕込んだ無線に手を当てた。
「おい、どうした!ヒビヤ、コノハ、カノ!」
「……『蛇』が修哉を撃ったらしい」
淡々と、ケンジロウがシンタローに答える。
血は繋がっていないとはいえ息子だ、何をそんなにのんびりとしている。
そんなことを怒鳴り散らそうとケンジロウを睨んだキドは、しかし彼の手の中で画面に罅を走らせる携帯端末を見て言葉を留めた。
ははは、と軽い笑い声が、そこから聞こえた。
「どうした、楯山研次郎。アンタが言ったんだぜ?瀬戸幸助の能力を解放するには、過去経験した以上のショックを与える必要があると」
この声は、『蛇』か。
キドやシンタローたちにも聞かせるように、彼は声を大きく、大袈裟に話している。ケンジロウは恐ろしいほどに無表情のまま、淡々とそれを聞いていた。
過去経験した以上のショック―――それは、川で溺れたことに対してか、能力を暴走させたことに対してか、それとも―――
「……だから、修哉を撃ったと?」
何れにしても、生半可な衝撃ではない。セトにとってカノの死とは、それほどのものだと言うのか。
感情の全く見えないケンジロウの返事に、『蛇』は何が面白かったのか喉を鳴らした。
「何を怒っている……ああそうか、楯山研次郎。アンタの幸せもまた、ちっぽけなもんだったな―――楯山彩花、楯山文乃、木戸つぼみ、鹿野修哉、瀬戸幸助、奴らと共にもう一度あの家で暮らす……それがアンタの願いだった」
シンタローたちは目を見開いた。嘗ての、幸せだった時をもう一度―――それが、彼の本当の望みだというのか。あれだけの行為をしておきながら、そんな『当たり前だった』日常を、彼は望んでいたのか。
「父さん……?」
それは、本当のことなのか。キドが呟くように訊ねたが、ケンジロウは無言のまま通話を切ってしまう。
無機質な機械音が響き、ケンジロウは携帯端末を白衣のポケットに無造作に突っ込んだ。
「……兎も角、幸助の能力は最大解放された。アザミを見つけるのも時間の問題。つぼみは今日のところは諦めて、さっさと退散するとするよ」
シンタローたちに背を向け、ケンジロウはヒラリと手を振りながら歩いていく。入口に溜っていた憲兵たちは、慌てて身を引いた。
「おい、待ちやがれ、オッサン!」
「シンタロー」
ケンジロウはふと足を止め、肩越しに少し視線をやった。表情が見えないせいか、シンタローは威圧感を受けて上げかけた手を留めた。
「次は容赦しない―――俺の目的のためにもな」
見送るしか、できなかった。


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