ヘビと科学者
「……」
セトはぼんやりと、中庭のベンチに座って虚空を眺めていた。
緑色の襟付きの服の上から真っ白なパーカーを羽織った今の彼の姿は、過去を知る者が見たら懐かしいと思うだろう。マリーと出会って彼女にパーカーをあげるまでは、よくこの恰好をしていたから。
カノに押し倒されたときに汚れた緑のパーカーは洗濯中で、残ったパーカーがこれしかなかったのだ。何となく目元の赤い顔を晒すことが躊躇われて、ずっとフードを深くかぶっている。
頭を占めるのは、行為の最中のカノの顔と言葉だ。始終瞳を赤く滲ませて、辛そうに言葉を噛みしめた彼の姿が、じくりじくりと胸を刺す。罪悪感か、それとも。
「……意味、解んないっすよ……」
この胸の痛みも、カノの言葉の意味も。
少し前から、何かにつけてシンタローくんシンタローくんと。彼の方が、一体何だと言うのだ。彼のことばかり言うのは、カノの方だというのに。
そうだ、これは不満だ。自分のことを棚に上げて、セトを責める彼に対しての。
―――好きだよ、セト。……小さい頃からずっと、君だけを見ていた
「……〜っ!」
言葉にもならない声を上げて、セトは頭を抱えると、身体を半分に折るように蹲る。
あの時のカノの声が、顔が、浮かぶ度に血が昇って頭をクラクラとさせる。これはカノの嫌がらせなのだろうか。ずっと、彼のことが頭の中を占めて離れないのだ。
不意にセトの目の前に誰かが立つ。思考の海から我に返り、セトはその誰かの顔を見ようと顔を上げた。そして目を丸くする。
「父さん?」
楯山研次郎―――セトたちが世話になった楯山文乃の父親、その人であったからだ。セト自身が彼と会うのは本当に久しぶりで、嬉しさよりも先に驚きの方が強く沸き上がった。
「どうしてここに?」
立ち上がってそう問うてから、セトはシンタローに会いに来たのだろうと思い至る。彼とは色々協力しあっている仲だと、聞いたばかりだったから。
「シンタローさんなら、部屋に……」
「幸助、アヤノやアヤカと、もう一度会いたくはないか?」
「……は?」
いきなり何を言い出すんだ、二人はもう死んだ筈で。
セトはケンジロウの顔をもう一度見やり、そして背筋を凍らせた。
光を映す眼鏡のレンズのせいで、ケンジロウの無表情が空恐ろしく感じたのだ。思わず後退るが、すぐベンチに足がぶつかってしまう。
「幸助」
ケンジロウはセトの腕を掴んで、強く彼の身体を引き寄せた。眼鏡越しに見つめる瞳があまりにも冷たくて、セトの肩が僅かに震える。
「―――お前の力を、戻してやろう」
「え……?」
その、こちらを映すケンジロウの瞳が真っ赤であることに気づき、セトは思わず息を飲んだ。

10

「僕の爆弾技術は、ヒヨリのものなんだ」
モモと並んで街を歩きながら、ヒビヤはポツリとそう言った。
道中で購入した菓子を口に放りながら、モモはフードの下に隠れた彼の顔を想像し、少し目を伏せる。ヒビヤは狭い視界に伸びる道だけを、じっと見つめて足を進めた。
ヒビヤは元々スラムの出身だ。ナイフ一本で生きていたところを、視察に訪れていたヒヨリにスカウトされたのだ。
「アンタ、中々使えそうじゃない。その力、私のために使いなさい」
片手を腰にあて、その美少女はそう高慢に言い放った。
もう片方に下げたサーベルは、つい先刻、万引きして追手から逃げていたヒビヤを地面に転がすために使用したものだ。
汚い地面に頬をつけたまま、ヒビヤは彼女を呆然と見上げた。
刃を受けた瞬間に息も止まるほどのダメージを与えた張本人が、それについて一言も言及せずに上から目線で部下になれと言う。普通ならふざけるなと激昂するところであるが、
「……はい」
日光を受けてキラキラと輝く彼女の姿に、一瞬ですっかり心を奪われたヒビヤは、一二もなく頷いたのだった。
朝比奈日和は、軍幹部に親を持つエリートだった。幼いながら、知識や戦闘力は少年兵たちの中で群を抜いていた。特に爆弾関係は本人の興味もあってか秀でており、ヒビヤは彼女自身からそれらの知識技術を受け継いだ。
屋根のあるところで眠れるし、三食食事もでる。何よりヒヨリと共に在れるということが、ヒビヤの幸福であった―――あの日までは。
「……っ」
ヒヨリが崖から落ちていく映像が浮かんで、ヒビヤは顔を俯かせた。歯を噛みしめると、口内に入れた菓子が潰れて、じんわりとした甘さが広がる。それが懐かしさを刺激するようなものだったからか、ヒビヤの視界が滲んだ。
「ヒヨリは生きているの?生きているならどうして、僕の前に姿を見せてくれないんだ!どうして、ずっと死んだふりをしているんだ!」
ヒヨリの近くにいると自惚れていた。彼女が死を偽装したとして、その理由もそのことも、自分には全て話してくれる程度には信頼されていると、思っていた。
けれど実際は、彼女の手足にすらなれていなくて。あの時に彼女を守れなかった己をずっと悔いてきたが、今は何故か、それよりももっと胸が締め付けられる。
「ヒビヤくん……」
モモは口内の菓子をコクリと飲み込み、少し居心地悪げに視線を彷徨わせた。
彼にかけるべき言葉が見つからなくて、二人の間に落ちる沈黙が苦しくて。大丈夫、なんて言葉をかけるのは簡単だ。けれど、それだけ。何が大丈夫なのか、モモには全く解らない。
「……ん?」
ぱき、と音を立てて噛みしめていた菓子が割れる。
モモは違和感に気づき、慌ててポケットを探った。隣で立ち止まり挙動不審になる彼女を、ヒビヤはスンと鼻を鳴らして見やった。
「……どうかしたの?」
「……携帯、落とした」
渋々モモが白状すると、彼女の予想通り、ヒビヤの冷え冷えとした視線が背中に突き刺さった。
「全く……おばさんは」
「またおばさんって!」
モモの非難をサラリと受け流し、ヒビヤは目を閉じる。じっと集中するようなその姿からするに、能力を使っているようだ。何だかんだ言って探してくれるあたり、優しい。
そんなことを考えてふと、モモはあることを思いついた。
「おばさん、」
「ん?」
「……携帯、お菓子の袋の中だよ」
「え、ええ!」
慌てて菓子の袋を探ると、奥の方から油まみれの携帯が発見された。ベタベタとするそれを摘み、モモはがっくりと肩を落とす。使えなくはないが、色々と凹む結果である。
ヒビヤはまた溜息を吐いて、ポケットからハンカチを取り出した。携帯を奪って丁寧に拭く彼に、膝を折って顔を近づけ、モモはそっと耳打つ。
「……ヒヨリちゃんだけどさ、ヒビヤくんの力で探せないの?」
「……」
ぴたり、とヒビヤの手が止まる。
「……考えたこと、なかった」
モモは思わずずっこけた。
案外、年相応に抜けているところのある少年なのだなあ。
乾いた笑みが、思わず零れた。

あれからどれだけ時間が経っただろうか。
諦めずプログラミングと格闘していたシンタローは、ふとその手を止めた。
「ん?」
何事かと、コノハも席を立って、彼の肩越しにノートパソコンの画面を覗きこむ。
必死にデータ配列を書きこんでいたメモ帳の傍らで、新着メールのアイコンが点滅している。眉を顰めつつ、シンタローはそれをクリックした。
「やあ、如月伸太郎。久しぶりだな」
途端、画面に広がるウインドウに映し出されたのは、あの黒い青年の姿だった。
シンタローとコノハは、同時に身構えた。
「お前は……!」
「そういや名乗ってなかったな。俺は『目が冴える蛇』……まあ、『蛇』でいいか」
「その『蛇』が何の用だ」
というか、何故このパソコンのメールアドレスを知っているのだ。そう言いかけて、シンタローは言葉ごと歯で噛み潰した。
相手は、電脳空間を自在に移動する人工知能プログラム。これくらい、朝飯前なのだろう。
悔しげなシンタローをニヤニヤと見やり、『蛇』はふとコノハに視線を移した。
「……やあ、コノハ―――それとも、九ノ瀬遥の方が良いか?―――こうして対面するのは初めましてだな」
「……僕の身体を使って、皆を傷つけたのは、君?」
普段以上に淡々と、無表情でコノハは訊ねる。それは、迸る怒りを抑えるためであろうか、脇に垂らされた手は、固く拳が握られていた。
そんな彼の心情を知った上でだろう、『蛇』はニヤニヤとした笑みを浮かべたまま、肩を竦める。
「まあ、そんな顔するな。お前は俺に感謝すべきだぜ」
「何を……」
言いかけて、コノハは言葉を留めた。す、と画面から身を引いた『蛇』の後ろから、見覚えのある青い姿が目に入ってきたからだ。
「……エネ!」
コノハは思わず机に手をついて、声を上げた。
青い硝子張りのような空間で、くたりと力なく膝をついて、エネは頭を垂れていた。彼女の腕は零と一の鎖によって、頭上に掲げるような形に縛られている。彼女の身体にも、輪になった零と一の鎖が雁字搦めになっていた。
「おいお前、エネに何をした!」
「さあなぁ」
だん、とキーボードを拳で殴るシンタローの睨みも意に介さず、『蛇』は薄ら笑いを浮かべるだけだ。腰に手をあててエネの隣に立つ『蛇』に、コノハは眉を顰める。
「感謝しろと言っただろう。コイツのデータが壊れないよう、保護してやったんだから」
「エネ、エネ!」
そもそもの原因がどの口を。シンタローはギリ、と歯噛みした。
コノハは身を乗り出して、必死にエネの名前を呼ぶ。
すると、その声に反応してか、エネはピクリと肩を揺らした。
「……はる……か……ごしゅ、じん……」
「エネ!」
「無事か!」
「はい……」
何とか顔を上げるが、しかし体調は万全ではないらしく、苦しげに顔を歪めてエネは言葉を紡いだ。
す、と彼女の顎に指を宛がい、『蛇』はコノハたちに見せつけるように顔を近づけた。カ、とコノハの身体から怒気が湧き上がり、その鋭い空気にシンタローは顔を顰める。
「……エネから離れろ」
「そうカッカするな」
パッと手を離し、『蛇』はまるで舞台役者のように手を掲げた。
「俺はコイツをデリートしろって命令されてんだ。今すぐに、実行しても良いんだぜ?」
「く……っ!」
「命令……?お前の背後に、誰がいるって言うんだ」
唇を噛みしめるコノハを押しのけ、シンタローは画面に顔を近づけた。頬に指を当て、『蛇』は、くく、と喉を鳴らす。
「お前もよく知っている人間だ、如月伸太郎」
「俺も……?」
さっぱり心当たりがなく、シンタローは眉を顰める。
その時、ヴン、と音がして、唐突に新しいウインドウが開いた。
「……お喋りが過ぎるぞ」
聞き覚えのある声。かちゃ、という、聞き覚えのある音。
まさか、とシンタローは目を見開いた。コノハも『蛇』の写るウインドウの隣に新しく現れたテレビ電話のウインドウを、驚いた様子で凝視している。
『蛇』は、やれやれと言った風に肩を竦めた。しかしそれがポーズだけということは、火を見るよりも明らかだ。
「アンタは……」
「……久しぶりだな、シンタロー、遥」
いや、コノハと呼んだ方が良かったか。
そのウインドウに写っていたのは、白衣を着た眼鏡の男―――楯山研次郎であった。

カノがキドの部屋を出ると、丁度目の前に彼を担当する監視役である憲兵が、引き攣った笑顔で立っていた。
カノは思わず、頭をちょっと下げた。
「……どうも」
「どうも。本当に自由気ままなお方で」
言葉の端や笑顔から、嫌味がこれでもかと滲み出ている。
それもそうかと思い、カノはちょっと頬を掻いた。
談話室からいきなり飛び出したセトを追ってから今まで、カノは憲兵を完全に無視して行動していた。監視役だから仕方ないとはいえ、振り回されまくって少々ご立腹になるのも無理はない。
キドとマリーの監視役として扉の両脇に立っている憲兵たちも、カノの憲兵の醸すオーラに、若干顔を青くしている。
「痴話喧嘩も結構ですが、監視されている理由をしっかり理解して……」
「はいはい、すみませんでした」
くどくど言い募る憲兵を軽く流して、カノは足を中庭へと向けた。慌てて彼の後を追いながらも、憲兵は愚痴のような説教のような小言を続けてくる。
「全く……雨宮准尉と如月一等兵も勝手に外出されるし、あなた方は待機命令の意味を解っているんですか?」
「へー、キサラギちゃんとヒビヤくん、出かけたんだー……」
「ええ、いつの間にかね。お蔭で二人を担当していた憲兵は大慌てですよ」
「それはご苦労さまだねー」
茶化すようなカノの言葉に、憲兵の米神が益々引き攣る。背後でザワリと立つ怒気を感じながらも、カノは口笛を吹きそうなほど呑気に足を進めた。
「ん?」
ふと、カノは足を止めた。憲兵も、彼の進行方向に転がる物体に眉を顰める。
「おい、何をしている」
カノを追い越して駆け寄ると、憲兵は傍らに膝をつき、その物体―――同僚の肩を思い切り叩いた。
壁に凭れかかるようにして座り込んでいたその憲兵は、頭でも打ったか、額を抑えながら呻くように声を上げた。
カノも彼らに歩み寄り、見覚えのあるその顔に眉を顰める。
「アンタ、セトの監視の……」
「おい、こんなところで何をしているんだ」
カノの憲兵がさっと辺りを見回し、セトの姿がないことに気づいてその理由を問う。するとセトの憲兵は頭を抑えたまま、忌々し気に舌打ちを溢した。
「くそ……白衣着た眼鏡の男が、いきなり……」
思い切り殴られたと、その憲兵は言った。
ざわり、と嫌な予感がカノの胸を撫でる。
その憲兵が倒れていたのは、中庭を通る渡り廊下の入口だ。カノは衝動的に中庭に飛び出した。
「セト、セト!」
枯れた噴水に、ペンキの剥げたベンチ、青々と茂る雑草混じりの芝生。中庭には、人の子一人いなかった。
早まる鼓動が息を荒げ、は、と口から零れる。カノはふと、ベンチの足元に光る何かが落ちていることに気づいた。
「鹿野大尉……」
勝手に行動する彼を追って来たカノの憲兵は、しかし思わず口を噤む。カノはじっと、拾い上げた何かを見つめたまま立ち尽くしていた。
「……これは、セトのピン……」
黄色の、光沢あるピンを握りしめ、カノは眉を顰めた。

「……よお、久しぶりだな、オッサン」
シンタローは机に肘をつき、苦々しく顔を歪めた。
ノートパソコン上に開いた二つのウインドウ。片方に写る青い空間には、『蛇』と、彼に囚われたエネ。それに少しかぶさるようになっているもう片方には、白い背景を背負った白衣の男が写る。
ケンジロウは眼鏡を指で押し上げた。
「シンタローか……メールでのやり取りはしていたが……いつぶりだ?」
「さあな?オッサンとの逢瀬を待ち望んで月日を数える趣味なんてなくてね」
「はは、相変わらずだな」
ケンジロウは笑うが、眼鏡が光を反射して瞳を覗かせないので、不気味さしか感じない。シンタローは眉を顰めた。ぐ、と奥歯を噛みしめ、叫び出しそうになる自分を抑えながら、シンタローは口を開いた。
「……アンタの仕業だったんだな、あの爆弾」
え、と言うようにコノハがシンタローを見る。シンタローはじっと、眼鏡の位置を正すケンジロウを見つめていた。
二度目に地下研究所を訪れた時に投げ入れられた手榴弾。あれはこの男の仕業だと、シンタローは確信していた。そして、恐らく、セトたちが取り逃した爆弾魔の正体も、また。
「……信じていたぞ、シンタロー、お前ならあの地下水道への道を見つけて脱出すると」
「態と俺たちに地下水道を通らせて、エネを壊す気だったのか」
シンタローは顔を顰める。
全て計算済みだったというわけだ。あの爆弾も、シンタローがあの地下水道を見つけることも。しかし最後の最後であては外れた。だから『蛇』に命じて、エネをデリートしようとしているのだろう。
じわりと滲む汗ごと手を握りこんで、シンタローは慎重に言葉を選んだ。
相手は、シンタローより何枚も上手だ。それは、彼自身が良く知っている。しかも、人質までとられている状況。シンタローの方が、圧倒的に劣勢だ。
「……まだ、マリーを狙っているのか。一体、何の目的で、」
「アザミの孫か……そいつは、もういいんだ」
「何……?」
「別の方法を採用することにしたんでな」
どういうことだ、シンタローがそう問おうとした瞬間、二人の向いに位置していた扉が勢いよく開いた。
飛び込んできたのは珍しく憔悴したカノで、彼の背後にはすっかり息を切らした二人の憲兵の姿もある。
「シンタローくん、セトが……!」
カノの言葉に、コノハとシンタローは息を飲んだ。ガバリとノートパソコンの画面を掴む勢いで身を乗り出し、シンタローはケンジロウを睨んだ。
「おい、オッサン!手前、」
「その声は、修哉か」
シンタローの言葉を遮り、のんびりとした様子でケンジロウは言った。パソコンから聞こえた声にハッとして、カノは急いでシンタローの傍らに駆け寄る。そしてケンジロウの姿を見るや、複雑な色を浮かべて顔を歪めた。
「父さん……!」
しかし直ぐに怒りの色を滲ませ、カノはぐっと拳を握る。シンタローを半ば押しのけるようにして、彼は画面に顔を近づけた。
「……セトは何処!連れて行ったのは、あなたでしょう!」
憲兵が見ているのだ、とカノは声を荒げて腕を広げた。
まだ息の整わない憲兵たちは、事情をよく察していないらしく、垂れる汗を拭いながら顔を見合わせている。
カノの怒声を浴びても、ケンジロウの態度は変わらず。『蛇』は嘲笑を益々深くした。
「さあな」
「さあなって!どうして!」
「セトの能力を使って、アザミを捜すつもりか」
冷静なシンタローの声はよく響き、カノもコノハも言葉を留めて彼を見つめた。シンタローは机に乗せた手を固く握りしめ、じっと光を反射するだけのケンジロウの眼鏡を見つめる。
「……『目を盗む蛇』の能力は『人の思考を見る』―――それを使って、アザミの思考を捜し、居場所を特定するつもりなんだろう」
「……流石はシンタローだな」
ケンジロウの言葉は、紛れもなく肯定。
ぎり、とシンタローは歯を噛みしめた。
「……可能、なのか。そんなこと」
「理論上はな」
「そんなの……例え可能だとしても、何処にいるかも解らない人物を探すなんて、かなりの広範囲だ!人もそれだけ多い!たくさんの情報を取り込ませて、セトの頭をパンクさせる気?!」
セトの能力の副作用は、ケンジロウも知っている筈だ。
人間の脳はコンピュータのような莫大な許容量はない。キャパシティオーバーなんて起せば、最悪人格の崩壊に繋がるのだ。
カノは、普段の飄々とした彼からはとても想像できないほど、激昂して声を荒げる。かち、と音を立てて、ケンジロウは眼鏡を指で押し上げた。
「……それは、仕方のないことだろう」
「―――アンタ……っ!」
カッとしてカノは拳を振り上げる。画面を叩き割ろうとするそれを、シンタローが掴んで止めた。咎めるようなカノの視線が飛ぶ。が、シンタローは顔を伏せたまま。
「……セトは今、能力が行使できないんだぞ」
それは彼への報告メールにも書いた筈だ。するとケンジロウは、そんなことかと言い捨てて、小さく肩を竦めた。き、とカノの睨みが飛ぶ。
「そんなことって……!」
「幸助は、トラウマで能力を失ったんだったな」
カノを遮るケンジロウの言葉は、淡々としていて冷たい。思わずカノは続く言葉を飲み込んだ。ケンジロウの言葉で何かを察したらしいシンタローの顔が、嫌悪に歪む。
「アンタ、まさか……」
「……俺はな、『目を盗む蛇』の能力さえ使えりゃ、壊れても構わないんだよ」
「―――!」
カノの頭に血が昇り、シンタローの腕を振り払うほどの力で拳を掲げる。しかしそれは、ずっと隣で黙していたコノハが羽交い締めしたことによって阻まれた。彼は存外力が強く、カノは舌打ちを溢して仕方なく力を抜いた。
カノから手を離し、ふと、ずっと顔を伏せていたシンタローは唐突に、にやり、と口元に不敵な笑みを浮かべた。
「……悪いな、おっさん。アンタに送ったヒビヤの報告書、アレ、少し偽造していたんだわ」
「……突然なんだ」
「ヒビヤの『目を凝らす蛇』の能力は、『透視』じゃねえ」
「……何?」
初めて、ケンジロウの眼鏡の奥から、探るような瞳が覗いた。つ、とつりあがったシンタローの口端を、汗が滑っていく。
「『持ち主の居場所を見る』―――それがアイツの能力だ」
小さな汗を浮かべながら笑ってシンタローが見せたのは、以前彼が一○七大隊のメンバーに配って回った超小型無線機。そこからは、ヒビヤの声が聞こえていた。
「―――シンタローさん、見つけたよ。セトさんの居場所」
「―――!」
ケンジロウの瞳が、驚愕によって僅かに見開かれる。
シンタローは超小型無線機に労いの言葉をかけた。カノが怒鳴り散らしている間に、シンタローは無線機の通信ボタンを押し、ヒビヤたちに状況を伝えていたのだ。この部屋での会話は、キドたちにも筒抜けであったということだ。そしてヒビヤが使用したのは恐らく、返しそびれていた彼のゴーグル。
「場所を教えろ。……カノ」
「!僕も行くよ、ヒビヤくん」
シンタローの視線から察し、慌ててポケットから取り出した無線機を耳に嵌め、カノは歩き出しながら声をかけた。
「で、どうするんだ、オッサン?」
心底面白いと言いたげに笑って、『蛇』が問う。ケンジロウは黙したまま煙草を咥え、それに火をつけた。
「……流石だ、シンタロー」
カノを見送ったシンタローは、視線だけ彼にやる。ケンジロウは長く紫煙を吐き、もう一度煙草を咥えた。
「だが、本気で俺に勝てると思っているのか?」
ケ ンジロウはシンタローの元上司であり、師である。云うなれば、シンタローの電子工学や頭脳戦の技術は彼の物だ。
「……ああ、勝ってみせるさ」
それでも、負けるわけにはいかない。ぎらりと光る彼の瞳を一瞥して、ケンジロウは目を伏せた。
「……残念だよ、シンタロー。お前なら、アヤカとアヤノのために手を貸してくれると思っていたのに」
「……何?」
それはどういう意味だと、重ねて問おうとしたシンタローの言葉を全て聞かぬ間に、ケンジロウとの通信が閉ざされる。
悔しさに歯噛みして、シンタローは机を殴った。
「おいおい、そう怒りなさんな」
人を嘲るような口調と、喉を鳴らす笑い声。それは、紛れもなくシンタローの傍らから聞こえてきた。
つぅ、と冷や汗が、シンタローの顎を伝って机を叩く。
「こっちはこっちで楽しもうぜ」
黒い靄を白い身体に纏わりつかせながら、その金色の目は爛々と輝いていた。

ぷつん、と音を立てて、携帯端末の通信が切れる。
それを自身の手で行ったケンジロウは、紫煙を怪しげに眼鏡のレンズに映しながら、その端末を無造作にポケットに突っ込んだ。
「さて、あっちはアイツに任せて……」
彼の背後には、呻き声を上げながら憲兵たちが地に伏せている。
部屋に広がるのは紅茶と珈琲の混ざり合った香りだが、その香りの発生源は今、全て床にぶちまけられてしまっていた。それほど広くないその部屋の奥で、キドはマリーを庇うように腕を掲げ背中に仕込んだマシンガンに手を伸ばしていた。
ケンジロウは刀についた微量の血を振り払い、それを持たない反対の手を差し伸べる。
「つぼみ、おいで」
ゴクリ、とキドは唾を飲み込んだ。ぐ、とマシンガンのグリップを掴むが、ケンジロウの隙のなさがそれを引き出すことを良しとしない。
「お前が必要なんだ。アヤカのいた記憶を持ち、尚且つ女であるお前が」
「……父さん、何を言っているんだ?」
気丈に振る舞うつもりでも、声は震えてしまう。彼女の前に、マリーが飛び出して大きく腕を広げた。
「キドに、何をする気?」
「アザミの孫か……写真の彼女とは似ても似つかないな」
「お婆ちゃんを知っているの……?」
「ある程度はな」
そんなことはどうでもいいと言い捨てて、ケンジロウは冷たく据わった目でキドを射抜く。ドクリ、と心拍が高鳴って、キドは思わず自身の胸倉を掴んだ。とん、と刀の背で肩を叩き、ケンジロウは一歩踏み出す。
「シンタローは『目が冴える蛇』に任せてある……修哉と如月、雨宮とかいう坊主は幸助の救出……ここにいるのは、お前と、非戦闘員のメデューサだけだ」
さあ、良い子だからおいで―――そう言って差し出される無骨な手。
それから目が離せないキドの頬を、冷や汗が零れ落ちていく。キドは思わず、マリーの服を掴んだ。それに気づき、マリーは彼女を守ろうとケンジロウを睨む瞳に力をこめた。
その時、派手な音がして窓が割れた。
咄嗟にケンジロウは後ろへ後退り、キドはマリーの腕を引いてその場にしゃがみ込んだ。
「もう、お兄ちゃんたら、人使いが荒いんだから」
聞き慣れた声。
パラパラと舞い落ちる破片から顔を庇うために掲げた腕の隙間に見えた、部屋に飛び込んできた人物に、ケンジロウは目を見開く。
待っていましたとばかり、キドは口角をつり上げた。
「キサラギ―――!」
「如月桃一等兵、貴方の視線を」
握った拳を身体の前に掲げ、戦闘態勢をとったモモが可愛らしく片目を瞑った。
「―――奪っちゃうよ?」
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