彼と彼女のお話
それは、長い永い昔語りであった。
語り終えたシンタローは大きく息を吐いて、座っていた椅子の背凭れに身体を預けた。まだ完治していない傷が、じくりと痛んだ。
彼の話を聞くため円卓を取り囲んでいたキドたちは、皆黙したまま、飲みかけの紅茶や珈琲の水面を見つめている。彼らをさっと見回して、シンタローは大分温くなった紅茶に口をつけた。
「……相討ち、するつもりだったんだ。どうしようもないなら、アイツを殺して俺も死ぬ、ってな……けど結局、俺は軍の医務室で目を覚ました」
ぐしゃりと前髪を掴み、シンタローは自嘲的な笑みを溢す。
また死に損なったらしい―――あの言葉の意味は、そういうことか。
大きく息を吐いて、カノは呆れたような笑みを浮かべた。
「しっかし、まさかシンタローくんが、父さんやお姉ちゃんとそんな関係だったなんてね」
カノがひらりと手を振ると、シンタローも僅かに眉を顰めた。
「俺からしたら、お前らがアヤノの言っていた弟たちだった、ってことに吃驚だよ」
話は聞いていたが、シンタローが実際彼らと会ったことはなかった。
「じゃあ、お兄ちゃんが一○七大隊にきたのは……」
「楯山先生が手を回したんだ」
シンタローのプログラミング技術はケンジロウから教わったもので、軍の配属先データを書き換えることくらい、彼には朝飯前だったから。
「謹慎中にも俺と先生は連絡を取り合って、このまま『カゲロウプロジェクト』を潰す行動を続けることに決めたんだ」
エネとは、新しく携帯端末を手に入れたときに出会った。彼女が何を目論んでいるかは解らなかったが、それはお互い様だと思い、有り難く手を借りたのだ。
ケンジロウとは、偶にくる彼からの指令メールと、シンタローからの報告メールで連絡を続けている。
「エネは……」
コノハは、割れた画面を指でなぞる。
シンタローがずっと持っていた、エネのいる筈の携帯端末。『蛇』の襲撃のせいで画面は割れ、壊れてしまっている。中にいた彼女の安否は、まだ解らない。
「榎本貴音―――睡眠障害で長期入院をしていた少女の神経データをプログラム化した、人工知能プログラムだ」
デザインのモデルは、恐らく彼女自身がデザインしたあのキャラクター。
「そしてコノハ、お前は同じく長期入院していた九ノ瀬遥の脳を移植された、人造人間」
「『カゲロウプロジェクト』とはどんな関係が?」
「恐らく、人造の人間兵器のプロトタイプってとこか。前にキド、お前には少し話しただろ」
コクリ、とキドは頷く。メデューサであるアザミの眼を人間に埋め込んで、【レコードチルドレン】という人間兵器を作る。それだけで【カゲロウプロジェクト】は終わらないだろうと、シンタローは言っていた。
【レコードチルドレン】の材料となる人間を集めるのは手間がかかるし、非人道的行いとなるから表だっては集めにくい。人造人間を造ってそれに眼を埋め込む方が、外部に察せられにくくもなる。恐らくコノハは、その試作品として造られた。移植する脳は、殉職した兵士のものを使用すれば良い。
「じゃあ軍がコノハを慎重に扱っていたのは……」
「大切な試作品だからさ。コノハを造った研究所はあの事件の後に閉鎖、研究員も行方不明だとか聞いたからな。コノハが壊れれば、後がない」
つまり今の軍には、コノハのメカニズムを分析、複製できるほどの技術を持った人間がいない、と。
成程、ヒビヤの予想が当たっていたわけだ。
「あの『蛇』とかいう奴は……」
「……これは俺の想像になるが……」
あの『蛇』は、恐らくエネと同じ人工知能プログラム。同じと言っても、本質はウイルスデータに近く、超小型無線機の電波も、彼によってジャックされたと思われる。
研究所のコンピュータから持ってきた研究記録に彼のデータ―――本人は一部と言っていたから、本体は別にあるのだろう―――が混じっており、それがシンタローの携帯端末を通して、コノハに寄生した。
あの後、コノハの目覚めを待ってシンタローが彼のデータを解析したが、『蛇』の物と思われるデータは見つからなかったから、ジャックした電波を通って逃走したのだろう。しかも彼の言葉によると、別に指示をする人間がいるようだった。
はい、とマリーは恐る恐る手を挙げる。何処か怯えているような様子だが、ぎゅっと手を握って震えを抑えていた。
「あの人、私を知っているみたいだったよ……アザミって人を誘き出すために、私の力が必要だ、って」
「アザミ―――軍が昔捕えていたメデューサは、……これも俺の想像だが、御伽噺や伝承から察するに、お前の祖母なんじゃないのか、マリー?」
ハッとマリー、それにセトたちは息を飲んだ。
人間の男と結ばれ、孫まで手に入れたメデューサの御伽噺―――あれは、空想なんかではなく、真実だったのだ。
「アザミは、まだ軍にも見つかっていない。孫のお前が能力を暴走させれば、それに誘われて姿を現すんじゃないかと、踏んだんだろうさ」
セトやキド、マリーの仲間を痛めつければ、その悲しみと怒りでマリーは能力を暴走させる。同族の力を感知して、アザミが姿を現しても不思議はない。
目的は同じでも、恐らくあの『蛇』は軍関係者ではない。やり方が派手すぎるからだ。
「敵は多い、か……」
顎に手を当て、キドはポツリと呟く。その目的は、アザミという存在。そして彼女を手に入れるためにマリー、引いてはキドたち自身を狙っている。敵は解らないが、その標的さえ解っていれば守りは固めやすいか。
そんなキドの思考を遮るように、シンタローは長く息を吐いた。
「何にせよ、お前たちの大切な『お姉ちゃん』を殺したのは俺だ。殴るなり、好きにすれば良い」
その権利が、お前たちにはある。
そう言って、シンタローは力なく笑った。恐らくケンジロウにも同じようなことを言ったのだろう。
キドとカノは思わず顔を見合わせた。ヒビヤたちは彼ら三人の動向を探るように、ちらちらと視線を動かしている。キドとカノは何かを決めたように頷いて、シンタローに視線を戻す。それから、ゆっくりと口を開いた。
「可笑しいっす」
それまでずっと沈黙していたセトが、唐突にそう言って立ち上がった。何事かと全員の視線が彼に向かうが、セトはぎゅっと唇を噛みしめて俯いていて、表情を見せようとしない。
「可笑しいっすよ……だって……だって、お姉ちゃんを殺したのは……!」
「セト……!」
彼の言葉の先を察して、キドとカノが立ち上がる。それより早く、セトは固く目を瞑って声を荒げた。
「―――お姉ちゃんを殺したのは、俺なんすもん!」
しん、とその場が静まり返る。
セトはきっと踵を返して部屋を飛び出した。ベルトが摩耗していたのか、椅子の足元にゴーグルを落としたことに気づかぬまま。
咄嗟に後を追おうとするマリーを引き止めて、カノはシンタローに歩み寄ると、ポコンと彼の頭を叩いた。
「あ、今のは、お姉ちゃんを泣かせたことについてね」
それからカノは、ヒラリと手を振った。
「これでいいや、シンタローくんも、いっぱい苦しんだんだから」
ね、と眉根を下げて笑い、カノは部屋を出ていく。恐らく、セトを追ったのだろう。
少々呆然とするシンタローに歩み寄り、キドは拳を彼の腹へと叩き込んだ。
「俺からも、お姉ちゃんを泣かせた分」
カノよりも良い音を立てたそれに、シンタローは嫌な奇声を発して蹲る。ゾ、とモモたちの背筋が凍えた。
痛みに呻くシンタローの襟首を掴み上げ、キドは顔を近づける。
「お前の力が、俺たちには必要だ。償いたいと言うのなら、全力で手伝ってくれ」
ぱちくりと目を瞬かせるシンタローの様子に、満足そうに笑い、キドはパッと手を離した。
「セトとカノ、大丈夫かな……」
「大丈夫だろう」
不安そうにキョロキョロとするマリーを安心させるように彼女の頭を撫で、キドはまた椅子に腰を下ろす。
彼らには、そろそろ何某かのきっかけが必要だったのだ、丁度良いタイミングと思えば良い。
「セトさんがそのお姉ちゃん……アヤノさんって人を殺したって、どういうことなの?」
拾い上げたセトのゴーグルを撫でながら、ヒビヤが訊ねる。
キドは少し顔を曇らせて、もう湯気の消えた珈琲のカップを揺らした。
「……あの事件が起きて、数日後のことだ」
軍を抜け出して友達へ会いに行ったセトは、足を滑らせて川へ落ちた。そしてその彼を助けたのが、他でもない、楯山文乃だったのだ。

「セト!」
カノがやっとセトに追いついて彼の手を掴んだのは、人気のない廊下だった。
セトは足を止め、カノの手を振り払う。パーカーを深くかぶりこちらへ顔を見せようとしないセトに、カノはちょっと頬を掻いた。
「セト、あれは君のせいじゃ……」
「俺が抜け出してあんなところにいなきゃ、川に落ちることもなくて、お姉ちゃんが俺を助けようとして川に飛び込むこともなかった!全部全部、俺のせいなんすよ!」
振り返ったセトは、涙の滲んだ瞳でカノを睨む。
何で、忘れてしまっていたのだろう。先ほどシンタローの話を聞いていて、無意識の内にかけていた記憶の鍵が外れた。
水面に向かっていく泡のように、それはセトの中に沸き上がって、頭の中を埋め尽くした。そうして、全て思い出した。
「キドもカノも、そう思っているんでしょう!」
「っ!」
カッとカノの頭に血が昇る。カノはセトの両頬をパン、と叩くように包んだ。
ぱち、とセトは瞳を瞬かせる。浮かんでいた涙が、僅かに跳ねた。
「お姉ちゃんが死んだのは君のせいで、あの時、お姉ちゃんの代わりにセトが死ねば良かっただなんて、そんなこと、僕もキドも思ったことは一度もないよ!」
「―――!」
カノの真っ直ぐな瞳に、きゅ、とセトは唇を噛みしめた。

「お姉ちゃんは溺れたセトを助けて、そのまま……」
絡めた指に強く力をこめて、キドは目を伏せる。彼女を労わるように、モモが肩に手を置いた。マリーが新しく淹れ直した紅茶と珈琲の湯気が混ざり合って、茶葉と豆の香りが充満する。
シンタローは口元に手を当て、呆然といった風に瞳を揺らした。
「……アヤノは、あの事件の後も、生きていたのか……」
「そう、なるな」
キドは歯切れ悪く言って、湯気たつ珈琲の水面に視線を落とす。
あの事件の前も後も、キドたちはアヤノと対面したり言葉を交わしたりはしていない。それでも、あの時、セトを追って川に飛び込むアヤノの姿を、キドとカノははっきり見ていた。彼女が気絶したセトを抱き上げて川辺に上がり、それとほぼ同時に倒れるところも、二人は確かにその目で見ていたのだ。
「けど、俺たちはアイツを責められない……責める権利すらない」
「……どういう意味?」
ヒビヤは眉を顰めた。聊か、妙な言い回しである。
キドは目を瞑り、何かを堪えるようにぎゅっと手を握りしめた。
「……セトが川に落ちた原因が、抜け出したアイツを心配して探しに行った、俺たちなんだ」
その時キドたちが持っていたライトを、兵士たちの物だと勘違いしたセトは、逃げようとして足を滑らせたのだ。
「だから、アイツがお姉ちゃんを殺したと言うなら、俺たちだって同罪なんだ」

「そうでしょう?」
カノの言葉に、セトの瞳が揺れる。
カノの瞳は紅茶色のまま、そこに欺きはない。先ほどとは別の理由で、セトの目に涙が滲んだ。
しかしセトはぐっと言葉を飲み込んで、頬を包むカノの手に自分のそれを重ねて、ゆっくりと剥がした。
「でも、でも……俺のせいで、シンタローさんまで……」
「―――!」
引きかけていた血が、また昇る。カノは衝動に駆られるままセトの襟首を掴み、自分の顔に彼のそれを近づけた。
「どうして、セト……!やっぱり、シンタローくんのこと……!」
「カノ……?どうしたんすか……何か、変っすよ……?」
カノの気迫に何か感じたのか、セトは怯えるように眉を下げる。彼の手を振り払おうとするが、逆に手首を掴まれて動きを留められてしまった。びくり、とセトは肩を震わせる。
怯えた様子の彼を気にせず顔を伏せたまま、カノはその腕を引いて歩き出した。
「カノ……カノ……?」
何度も名を呼ぶが、返事はない。押し込めていた別の記憶が、また抉じ開けられそうな、そんな予感がする。
やがてカノは自分の部屋の扉を開け、セトと共に入ると、乱暴に閉め施錠した。
ガチャリ、という無機質な音に、セトは肩を飛び上がらせる。
思い出した、カノのあの雰囲気。あれは、あの時の。
カノは無言のままセトの腕を強く引き、彼の身体をベッドに転がした。受け身をとる暇もなく、固いそこにセトは肩を強く打ち付けた。
痛みで顔を顰める内に、カノはベッドに乗り上げて彼の身体を仰向けるように肩を掴んでベッドに押し付ける。
「カ、ノ……?」
「そんなに、シンタローくんが良いの?」
地を這うような、低いカノの声。セトは身体を硬直させる。
思い出したもう一つの記憶が、指の一本も動くことを許さない。
見下ろしてくるカノは無表情で、背中が泡立つような悪寒が走った。す、と伸ばされたカノの指が、セトの頬を撫でる。ピクリ、とセトが身体を強張らせて目を瞑ると、カノはすぐに手を離した。
「……?」
恐る恐る目を開いて、セトはカノを見上げる。眉を八の字に曲げて笑うカノに、セトは小さく息を飲んだ。しかしすぐにカノは満面の笑みを浮かべる。
「好きだよ、セト。……小さい頃からずっと、君だけを見ていた」
「え……」
呆気にとられるセトにまた小さく微笑んで、カノは彼の唇に自分のそれを重ねた。
軽い音を立ててそれが離れても、セトは指一本も動かせないまま。身体を撫でるカノの手を、素直に受け入れる。
彼の瞳が哀しげに赤く滲んでいたことが、気になったけれど。

「……」
ヒビヤは前髪を風の好きにさせながら、建物の屋上に足を踏み入れた。
ヒビヤの太腿までしかない高さの塀から、少し下を見下ろす。ヒビヤたちが『蛇』の襲撃によって倒れた廊下が、そこからはよく見えた。
彼の背後について来ていたモモは、突風によって崩れる髪を抑えながら、立ち尽くす背中をじっと見つめた。
「……ここに、ヒヨリが立っているのが見えたんだ」
何を言われるでもなく、ポツリとヒビヤは呟いた。ハッとして、モモは彼を見やる。顔は、見えないままだった。
「あの狙撃は、きっと僕を……」
ぐ、と拳を握り、歯を噛みしめる。
きっとあれは、ヒビヤたちを助けるための威嚇射撃。
じわ、と滲みそうになる涙を堪え、ヒビヤは彼女がいたであろう場所を見つめた。下唇を、切れるのも構わず噛みしめて。
「ヒヨリ……君は、生きているの……?」
彼の鳶色に、赤が滲む。
「……っヒビヤくん!」
「……!」
モモがヒビヤの腕を思い切り引いたので、彼は少しよろけて二の足を踏んだ。驚いて瞬いた瞳から雫が零れて風に舞ったが、二人は気付かない。
モモの鼻息はフンッと荒く、その双眸は何かを決意したようにキリッとしている。
「今から出かけよう!」
「はあ?」
彼女の真剣な表情に息を飲んだのも束の間、ヒビヤは呆れて間抜けな声を漏らした。
しかしモモは真面目なようで、ヒビヤの手を両手で包んだままキラキラとした視線を向けてくる。
「ヒヨリちゃんとの想い出の場所を回ってみよう!手がかりとか、あるかも!」
「そんな……わ!」
「そうと決まれば、レッツゴー!」
決まっていないし、少しは話を聞いてほしい。
そんなヒビヤの文句が彼女に届くことはなく、手を引かれるまま、彼はモモによって連れ出されたのだった。

「いいの?本当に……この携帯端末、僕が持っていても……」
手の中の、画面の割れた携帯端末を弄りながら、コノハはポツリと言う。シンタローはタイピングの手を止めて、コンピュータの画面から顔を上げた。
「ああ。その方が、アイツも……エネも喜ぶさ」
慈しむように目を細め、シンタローは小さく笑む。彼の向いに座っていたコノハはそれを見て同じように笑み、また手元の携帯端末に目を落とした。
「……まだ、信じられないよ……僕が、シンタローやエネと、ずっと前から知り合いだったなんて……」
「脳を移植した時、何かのショックで記憶が飛んだんだろうな」
エネは、覚えていただろうけど。そう言いかけて、シンタローは口を噤む。
出会った当初は解らなかったが、彼女の名と姿には何処か既視感があって、後に思い出したのだ。榎本貴音のハンドルネームと、彼女をモデルにして九ノ瀬遥がデザインしていたアバターを。コノハも彼の絵とそっくりであるから、恐らく遥のスケッチブックを手に入れた何者かの仕業では、あるのだろうけど。
コノハは小さく首を振って、ノートパソコンとケーブルで繋がる携帯端末をそっと机に置いた。ぎゅ、と胸に当てた手を握る。
「……僕のココに、まだ残っている気がするんだ……エネを、貴音を、想う気持ちが……」
人造人間だけれど、心はあるらしい。名前を聞いただけで、胸が締め付けられるような感覚。ヒビヤが教えてくれた、大切な人を想う時の感覚だ。九ノ瀬遥の大切な人とは、榎本貴音だった。そして今、コノハもエネに惹かれている。
微かに、口元に湛えた笑み。嘗ての遥の笑顔の面影を持つそれに、シンタローは少し視線を外して頭を掻いた。
全く、記憶を失くしても姿を変えても、彼は変わらない。真っ直ぐに、一人の少女を想っている。
「それで……復元、だっけ……出来そう?」
「んー」
少し身を乗り出すコノハに、間延びした声を返してシンタローはパチンとキーを叩いた。そして嘆息する。
ダメ元で、壊れてしまった携帯端末のデータを復元しようと奮闘してはいるのだが。
「さっぱりだな……」
データが完璧に破壊されている。あの『蛇』の影響だろうか。それでも何とか、手を探している最中である。この復元は成功させなければならない。エネと、そしてコノハのためだ。
「畜生……」
ギリ、と歯を噛みしめる。無力な自分が悔しくて、シンタローは只管キーボードを叩き続けた。

重たいノック音。まるで、相手は扉に凭れかかっているようだ。
気だるげなそれに眉を顰めつつ、キドは扉を開いた。
「キド……」
そこに立っていたのは、上着もパーカーも着ていない、黒いティーシャツ姿のカノだった。
何処となく草臥れた暗い顔の彼に大体の事情を察し、キドは部屋に入るよう呟いた。無言のまま頷いたカノはフラフラとした足取りで、キドのベッドに倒れこむ。
先客のマリーを視界にも入れないその様子に、薬が効きすぎてしまったらしいことを、キドだけでなくマリーも察したのだった。
「……酷い顔だぞ、お前」
水を一杯、ベッドの枕元のランプ台に置く。うつ伏せになっていたカノは首だけ回して、それをぼんやりと見つめた。
まだ彼が心配なようで、マリーはチラチラと視線をやっていたが、キドは溜息を吐くだけで、特に言葉をかけることはしない。
「……キド、」
ポツリとカノは呟く。キドは一口珈琲を含んで、視線だけ彼に向けた。腕を投げ出すように力なくうつ伏せたまま、カノはポツリポツリと言葉を紡ぐ。
「僕は、本当馬鹿な奴だよね……」
「そうだな」
「き、キド!」
即肯定するキドにマリーは慌てたが、カノは力なく笑うだけだった。彼はゴロリと仰向けになって、片腕を額に乗せた。
「……セトを、泣かせちゃった……」
コト、とコップと机のぶつかる音が、やけに高く響いた。
「セトがあまりにも、シンタローさんシンタローさんって言うもんだから」
つい、ね。消え入るような声でそう呟き、カノは乗せた腕を擦り付けるように動かす。キドは黙したまま、じっと珈琲の水面を見つめていた。
マリーの刺すような視線と、キドの沈黙を感じながら、カノは話した。
自分でも不思議なほど頭に血が昇って、衝動的に彼を押し倒していたこと。消したい記憶を思い出して、涙目で制止を請う彼の姿にどうしようもなく欲情して、止められなかったこと。気絶するように眠る彼を見てやっと我に返り、後始末だけして逃げるようにここへきたこと、全てを。
全てを言い終えてから、マリーもいることを思い出し、これは殴られるかもしれない、とカノはこっそり自嘲的な笑みを溢した。
案の定、ツカツカと歩み寄ったマリーから、全力の平手打ちを貰った。
「私、セトとカノのことは応援するけど、」
まさかの威力に言葉を失い、叩かれた頬を抑えたまま、ぼんやりと彼女を見上げる。
「セトを泣かせたら、カノでも許さない」
じんじんと熱を持つ頬が、マリーの怒りを代弁しているよう。ぷい、とそっぽを向いて、マリーは椅子に戻っていった。
彼女と入れ替わりにベッドに腰を下ろしたキドは、ピン、と軽いデコピンで済ましてくれた。
「全く、どうしてそうお前は口下手なんだ」
能力に頼りすぎているんじゃないか?―――キドはそう言って、カノを見下ろす。
彼女の顔に浮かぶのは、微笑。呆れたような、慈しむような。例えるなら、そう、アヤノやアヤカがよくしていた、手のかかる子どもに向けるような。
「全然頼りに出来ないよ、『お兄ちゃん』」
カノは僅かに目を見開いた。
それは、以前、あまりにも二人のカノに対する風当たりが強いがため―――原因は二人とマリーをおちょくるカノ自身なのだが―――戯れに言ったことだった。
―――ちょっと、僕がお兄ちゃんなんだから。もっと敬って!さあ!
―――えー、カノが一番、背低いのにすか?
―――成長期はこれからなの!誕生日は、僕が一番早いんだから!
―――例え成長期が来ていようが、俺はお前を兄としては見れん
―――同意っす
―――酷い!
はは、と乾いた笑い声がカノの口から零れる。首を横に倒して、カノはぼんやりと部屋の虚空を見つめた。
「……やっぱ僕に、お兄ちゃんは無理だね」
「そんなこと、始めから解り切っていた」
「あはは……」
アヤノは確かに立派だった、立派に『お姉ちゃん』でいてくれた。
カノは、セトに頼られたくて、彼が頼って縋るのは自分だけが良くて。初めはそれだけだったのに、恋愛感情なんてものが生まれたから、ややこしくなってしまったのだ。
だから、彼がシンタローを気遣う度に、シンタローを頼る度に嫉妬していた。年上で頼り甲斐があって―――まあ、モモの兄であるのだから当然だが―――カノより何倍もお兄ちゃんらしい彼の姿もまた、羨んでいた。
カノがなりたかったのは、違う存在であるというのに。
「……本当、馬鹿……っ」
両腕を乗せて隠した目元は解らないが、口元は歪に歪んでいた。それを見て、慈しむように笑むと、キドは彼の頭をそっと撫でる。
本当は口下手な、頼りない『兄』の。





「え、カノがお兄ちゃんでセトが弟?それって近親―――」
「マリー、自重」
「台無しだよ」
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