誰がために
世界とは平等だ。平等に、残酷だ。
町はずれの教会、黒い服で身を包んだ人影が十字架の前に膝をついていた。聖母のステンドグラスが見守るそこには、棺桶が一つ。その中で白い花に埋もれるように眠る女性は、何処となくアヤノの面影を持っていた。
声を上げて泣きじゃくる三人の子どもたちをそのままにそっと立ち上がり、アヤノは雨が降りしきる屋外へと出る。傘は持っていないから、身体はあっという間に濡鼠になった。そのまま何とはなしに足を進めて、立ち止まる。
ぼんやりと地面を眺めていた彼女の耳に、雨音以外の音が届いた。何気なく首を回すとそこには親しい彼が立っていて、思わずアヤノの頬が緩む。
「シンタロー……」
「……」
アヤノは、にへら、と笑う。シンタローは無言のまま、彼女の肩を抱き寄せた。
雨の中、二人とも傘なんてさしていなかったからびしょ濡れで、けれどお互いさまだったから気にはならなかった。ただ、触れあった場所が熱くて。その温もりを離さぬよう、更に腕に力をこめた。
「……シンタロー……」
「……笑うな。泣きたきゃ泣けよ」
今なら全て、雨粒のせいに出来るのだから。
アヤノは目を見開き、それから小さく微笑んだ。ぎゅ、とシンタローの背に腕を回し、頬を彼の服に摺り寄せる。
「……ぅああああ……!」
腕の中から聞こえてくる声は、雨の音にかき消されていく。シンタローは雨粒に目を眇めながら空を仰ぎ、ぐっと唇を噛みしめた。
ぽつ、と眼鏡のレンズに雨粒が落ちて、視界がまたぼやける。それを拭うこともせず、ケンジロウは教会の裏で壁に背を預けて佇んでいた。口に咥えた煙草は、雨に濡れて既に消火されている。
「……アヤカ……」
ぱさ、と足元の草が煙草の落下によって揺れる。直後、水が滴ってきたが、それが雨粒かそうでないかは、誰にも分らなかった。
小さな歯車が壊れるのは容易く、しかしその歯車もまた、紛れもなく部品の一部である。部品を欠いた歯車同士は少しずつ噛みあわなくなり、やがて動きを狂わせていくのだ。



ぱさ、と吸殻で山になった灰皿へ、灰が落ちる。
ケンジロウが背凭れに完全に身体を預けているものだから、使い古された椅子はキィと軋んだ。そんな彼を横目にシンタローは今し方読んでいた書類を机に投げ置く。大きく息を吐いて頬杖をつく。
「『アザミ』……これがメデューサの名前か」
あれから四方八方手を尽くしてみたものの、大した成果は得られていない。二人という人数の少なさのせいか。しかもケンジロウの専門は電子工学で、人体実験を主としている【カゲロウプロジェクト】には断片的にしか関わっていけない。つまり彼らの知る【カゲロウプロジェクト】は外側のみ、中身は全くのグレー状態なのだ。
シンタローはちら、とケンジロウを一瞥した。妻の葬儀以来、彼は殆どあの状態だ。それもしょうがないとは思うのだが、シンタローとしてはそろそろシャキッとしてほしいところだ。
それに、アヤノとも顔を合わせていない―――いや、合わせ辛いが正解か。葬儀のとき、流れで抱きしめてしまったせいで、妙に気恥ずかしいのだ。
何度目になるか、大きな溜息を吐いてシンタローは一枚の紙を取り上げた。
「……何で『カゲロウ』なんて名前にしたんだか」
他愛もないことか。考えても仕方ない。
ぴ、と指で弾いてそれを投げ、シンタローは立ち上がる。椅子にかけた上着を肩にかけた彼は、遥たちの見舞いに行く旨を告げ、彼はケンジロウの研究室を後にした。
「……」
キ、と椅子が鳴る。
ケンジロウはキャスター付きの椅子を滑らせてシンタローの向かっていた机に寄ると、散乱する書類の一枚を手に取った。
「……『カゲロウ』……『プロジェクト』……」
彼の眼鏡が、鈍い光を湛えた。

ふう、とアヤノは息を吐く。長時間一定の方へ向けていた首を回すと、コキコキと骨が鳴った。強張る肩の筋を揉みながら、アヤノは手にしていた針を針山に刺した。
母の代わりに、アヤノが孤児院と自宅の家事を担当するようになって、暫く時は経つ。つぼみたちも手伝ってくれるとはいえ、それらはどうも骨が折れる仕事であった。つくづく母は偉大だったのだと、認めざるを得ない。
近頃は、つぼみたちにも漸く笑顔が戻って来た。父も活力を取り戻したらしく、自宅から少し離れた研究所に寝泊まりの毎日だ。良い兆候だと、そう思いたい。
「幸助ー」
ひょこ、と部屋に顔を突っ込んだアヤノは、しかし一人足りないその様子にあれ、と首を傾げた。
「幸助は?」
「出かけたよ」
「幸助、最近森に行っているみたいなんだ」
部屋で何やら熱心に書き物をしていたつぼみと修哉が、交互に顔を上げて言う。
そういえば、最近友達が出来たのだと言っていたか。少し恥ずかしそうに顔を俯かせた幸助の姿を思い出し、アヤノは納得した。
しかし、彼が今不在とすると、これはどうしようか。アヤノは米神に指をあてて、腕の中に目を落とした。
「それ、幸助に?」
まだ熱中するつぼみを置いて駆け寄って来た修哉が、アヤノの抱える緑色のパーカーを覗きこむ。アヤノはコクンと頷いた。
つぼみの紫色のパーカーと、修哉の黒いリバーシブルパーカーと合わせて、幸助には真っ白なパーカーを与えていた。彼らの厭う、赤い目を隠すためである。しかしどうしたことか、最近の幸助はその白いパーカーを着ていない。洗濯に出された形跡もないので、失くしたかしたのだろうと思って、新しい物を用意したのだ。
「幸助、緑が好きだから」
じゃーん、と先ほど完成したばかりの、緑一色のツナギ型のパーカーを広げて見せる。すると修哉だけでなくつぼみも手を止めて、微妙な表情をした。まさかそんな顔をされるとは思っていなくて、アヤノはあれ、と首を傾げた。
「……流石にツナギだと、軍服の下には着られないよ、お姉ちゃん」
「ああ、そっか」
「ていうかそれ着たら幸助、益々カエ―――ぶし!」
つぼみの投げた消しゴムが、修哉の後頭部にクリーンヒット。彼は奇声を発して前につんのめった。アヤノは目を瞬かせるが、つぼみはうんざりといった風に溜息を吐く。  
全く、彼はいつも一言多いのだ。
二人のやり取りはよく解らないが、取敢えず、このツナギは軍服の下でも着られるように縫い直しておこう。アヤノはそう思い、丁寧に畳み直した。

「くしゅん!」
「セト、風邪?」
「んー……そんなことない筈だけど」

肩を落として溜息を吐くシンタロー。彼を見て、遥はクスクスと笑った。
笑いごとじゃないと毒づいて、シンタローは膝についていた頬杖をとった。遥は土産物のバナナの皮を剥きながら、シンタローにも一つ勧める。
「どうかしたの?」
「いや……」
言葉を濁しつつ、シンタローはバナナの皮を剥く。ふと、遥が傍らに置くスケッチブックに目を留まった。
『コノハ』と『エネ』のデザインの横に、真っ黒な別のキャラクターが新しく描かれている。シンタローはそれを指さした。
「それ、何だ?」
「ん、ああ。この前、アヤノちゃんに頼まれて、彼女たちをモデルにした戦隊物の絵を描いてあげたんだ。その敵キャラとして、ちょっと試しに」
「ほー」
バナナを頬張りながら、シンタローはスケッチブックに手を伸ばす。
そこに描かれていたのは、目つきの悪い、全身黒の青年―――『コノハ』をそのまま黒くしたようなキャラクターだ。
「で、どう、先生は?」
「最近はまた何か研究を始めたみたいだけど……」
ずっと天井を見つめてぼんやりとしているよりは良い傾向だが、何をしているのかシンタローにも話してはくれない。それが何となくひっかかり、嫌な予感に変わるのだ。
シンタローは大口を開けて、バナナを半分ほど頬張った。遥は手を留め、ちょっと目を伏せる。
「奥さんが亡くなって、よっぽどショックだったみたいだね……アヤノちゃんも最近見ないし」
ああ、と生返事をしながら、シンタローはゴクリと口内のものを嚥下した。
アヤノとは、まだ会えていない。父であるケンジロウの様子を見て、彼女の今の姿を見ることが急に怖く感じたのだ。彼女もまたあのような状態だとして、自分は何と言葉をかけられるのだろうか、と考えてしまって。
「アヤノちゃんが心配?」
「へ、いや……」
咄嗟にシンタローは顔を伏せ、首を掻いた。ふふふ、と笑う遥は、流石は年の功というのか。いや、そもそもそれほど年齢は離れていない筈だった。
遥はもう一本のバナナに手を出しながら、言葉を続けた。
「シンタローくんは考え過ぎなんだよ。IQ168だから?」
「そんな……」
「だってアヤノちゃんて、結構単純でしょ?」
まあ確かに、天才と言われるシンタローとは真逆で、アヤノは勉学がさっぱりだった。遥は、そんな二人だから、バランスがとれて丁度良いと言う。
「何をそんなに悩んでいるのかは知らないけど、僕は二人ともお似合いだと思うよ」
ああ、彼も大概天然であった。にっこりと人好きのする笑顔で、からかいなんて考えも持たずにそんなことを言ってくれる。これは貴音が苛立つのも納得であった。
シンタローは頬に溜る血を感じながら、礼を言うべきなのかどうか迷って言葉を濁す。
この後、彼女に会いに行こうか。案外単純な彼女は、もう笑っているかもしれない。その裏に悲しい感情をおしこめているなら、またあの時のように泣かせてやっても良い。抱きしめるのは、少し勇気がいるが。
そんなシンタローの思考は、小さな呻き声によって彼方へと吹き飛ばされた。
ハッとして見ると、遥が目元を押さえるような形で身体を丸めている。食べかけのバナナが床に転がり落ちてひしゃげた。
「おい、遥!大丈夫か!」
慌てて肩に手を触れると、彼は痛みに顔を顰めながら少し頭を上げた。必死で笑顔を取り繕うが、それを痛みは上回るようで全く隠せていない。
「ぅ……だい、じょうぶ、だから……」
途切れ途切れにそう言う彼の額には脂汗が浮かんでいる。
シンタローは思わず息を飲んだ。
指の隙間から見えた遥の瞳は、赤かったのだ。

「貴音さん!」
「あ、アヤノちゃん!」
病室にぴょん、と飛び込んできた来訪者を笑顔で迎え、貴音は彼女用に椅子をベッドの傍まで引っ張った。それに頭を下げ、アヤノはちょこんと腰を下ろす。
「シンタローなら、遥のところにいると思うけど」
この少女が一人で見舞いに来るのは珍しい。てっきりはぐれたりでもしたのかと思ってそう言えば、アヤノは首を横に振り、今日は貴音と話をしにきたのだと言う。
「私と?」
「貴音さん、私……どうしたらいいか解らなくなってきちゃって」
えへ、と眉を八の字に曲げてアヤノは笑う。貴音は思わず眉間に皺を寄せた。ガシ、と貴音がアヤノの肩を掴むと、彼女は大きく目を開いた。
「シンタローに、何かされたの?」
「あ、いや、そういうわけでは……」
シンタローは関係ない。そう続けようとしたアヤノは、しかし葬儀で泣きついてしまったことを思い出し、ボッと頭を沸騰させた。その様子を何と勘違いしたか、貴音は益々目を鋭くする。
「あの童貞……とうとう手ぇだしたのね!」
「いや、だから違います!貴音さん〜!」
とっちめてやる!と病室を飛び出しかねない貴音を引き止めるために、アヤノは慌てて彼女の腰に抱き着いた。
誤解らしき誤解も解けるのに十数分。アヤノはすっかり草臥れて、力なく笑った。
「まあ、あのヘタレが簡単に手を出すわけもないか……」
貴音はぼやきつつ、見舞い品のチョコレートを口に投げ込んだ。アヤノにも一つ渡し、貴音は後ろ手をついて仰け反る。
「で、相談って?」
コロ、と甘い塊を口の中で転がし、アヤノはちょっと笑った。
「……私の家で預かっている子どもが三人、いたんです。けど……最近、訳あって三人とも出て行っちゃって」
その時のことを思い出し、アヤノの表情は無自覚に曇る。
精神状態も安定して能力も制御できるようになったから、と軍の人間が迎えに来たのは、またも突然だった。
幸助は怯え、つぼみは只管に兵士たちを睨み、修哉はそんな二人を庇うように立っていた。アヤノはどうして良いのか解らなくなって、ただ首に巻いたマフラーを握りしめて立ち尽くした。
「お姉ちゃん……」
幸助が助けを求めるように、アヤノの裾を握る。アヤノはハッと我に返り、兵士と三人の間に割って入った。必死に己を奮い立たせ、睨みを効かせる。
「いきなりなんですか、まさかこの子たちをまた変な実験に……!」
「あなたには関係のないことです。三人を保護して下さったことには感謝しております」
「ちょ、っと!きゃ!」
「お姉ちゃん!」
まだ言い募ろうとするアヤノを押しのけ、兵士たちは三人に手を伸ばした。よろけたアヤノは強かに尻もちをつく。それに激昂したつぼみが、兵士の服を掴んだ。
「お姉ちゃんに何するんだ!」
「五月蠅い!」
「っ!」
「キド!」
しかし大人と子どもの力の差は歴然で、つぼみは乱暴な平手を受けて倒れこんだ。慌てて駆け寄った幸助だが、背後から兵士によって腕を掴まれてしまう。
「つぼみ、幸助!」
アヤノは急いで起き上がろうと、腰を浮かせた。しかし、パン、という軽快な音によって動きを止める。
それに気を取られたのは彼女だけでなく、兵士たちも同じだった。その場にいた全員の視線が、手を合わせた状態で固まる修哉に向かう。
全員の視線を受けたことを確認して、修哉はニッコリとした笑顔を浮かべた。
「大人しく着いて行きますから、あまり騒がないで下さいよ。キドとセトも抵抗しないの、怪我しちゃうでしょ」
ほらほら、とまるで何でもない事のような態度で、修哉はつぼみと幸助の腕を引いて立たせる。兵士たちは訝しげに顔を見合わせたが、修哉の言葉を信じたらしく無言のまま身を引いた。
修哉はアヤノの傍らに膝をつき、ニッコリと笑ってその耳に囁く。
「僕らは行くよ……ありがとう、アヤノお姉ちゃん」
ハッとしてアヤノは彼の顔を見返した。若干眉根を下げて笑う修哉の瞳には、赤が滲んでいる。
アヤノはそれ以上何も言えず、その場に座り込んだまま去っていく彼らの背中を見つめていた。ぐ、と最後にキドから渡された、小さく折り畳まれた紙をただ握りしめて。
目に浮かんだその風景を振り払うように、アヤノは軽く頭を振った。
「……私、お姉ちゃんになれていたのかな……」
「お姉ちゃん失格だ、とでも言われたの?」
アヤノは首を横に振る。
そんなことは言われなかった。けれど、自分ではそう思ってしまうから。―――ありがとう、と。修哉の言葉と赤い瞳が、頭の中で何度もリフレインする。何がお姉ちゃんだ、何が茜色のヒーローだというのだ。ぐ、とアヤノは唇を噛みしめた。
むに、と貴音はアヤノの頬を摘まんだので、アヤノの口からは変な声が零れた。
「誰から何を言われたかは知らないけど、胸を張りなよ。私から見ればアヤノちゃんは立派なお姉ちゃんだし、あの教師もそう言ってた。失格かどうかは、当事者同士が決めるもんでしょ」
ね、と笑って貴音はアヤノの頬から手を離す。アヤノはポカンと小さく口を開けて、膝の上の手を見下ろした。
アヤノの両手を強く握ってきた、小さな三つの手。あの手は、アヤノを姉と慕い、縋ってきた手であった。
引っ張られて少し赤くなった頬を摩って、アヤノも微笑んだ。
「そう、ですね」

プルルルルル……連続して続いていた軽快なコール音が、唐突にプツリと切れる。
「ああ、俺だ……そう、前に頼んだ話だが……そう、ああ。是非とも頼みたい……ああ、うん……そうだ……―――ああ、よろしく頼む」
プツン。通話終了。
画面に表示される文字を確認して、彼は通信端末をポケットに突っ込んだ。

鼻歌を歌いながら、アヤノは軽い足取りで夕暮れの道を歩いていた。
手に下げた籠には、二人分の夜食が入っている。ケンジロウの研究所で、彼と共に食べようと思ったのだ。久しぶりの親子二人での夜食。サプライズとして、喜んでくれると良いのだけれど。
それに、とアヤノは籠に夜食と一緒に入れた折鶴を思い浮かべる。貴音と共に作った、赤、紫、灰、緑の四羽の折鶴。今はいない彼らの代わり、なんて。
(少しは、気が晴れると良いけど)
ケンジロウの研究所は、自宅から然程離れていない。大きなマンションの一室を借りて、ありったけの研究機材を詰め込んでいるから、それほど広いというわけでもない。あまり足の踏み場がないから、アヤノが訪れた回数はまだ両手の指で足りる程だ。
目当てのナンバープレートを見つけ、アヤノは軽く呼吸をすると元気よく扉を開いた。
「お父さん!今日は……おとう、さん……?」
部屋の中は暗い。
アヤノは恐る恐る奥の方を覗きこんだが、人影が動く様子は感じられない。少々迷った後、彼女はケンジロウがよく研究で籠る奥の部屋の扉を開いていた。
そして、息を飲む。
「何これ……」
確か、父の専門は電子工学だった筈。
部屋のあちこちには、アヤノには理解できない機械が転がって、壁や床を埋め尽くしている。部屋の角にはポコポコと泡立つ液体の入った大きな試験管のようなものが置かれていて、何やらブルーライトで下から照らされている。そこには何かが浮かんでいるように見えたが、どうも薄気味悪くて、アヤノはあまり近寄らなかった。
「ん?」
アヤノは辺りを見回しながら、ゆっくりと部屋へ足を踏み入れた。ふと、部屋の真ん中に置かれた机の上に散らばる紙へと目が留まる。アヤノは息を飲み、震える手でそれを取り上げた。
それは顔写真付きの、アヤノの良く知る二人のカルテらしかった。
「遥さんと……貴音先輩……?」
慌てて他の書類に目を滑らせる。
『カゲロウプロジェクト』……『アザミ』……『レコードチルドレン』……『赤い眼』と『不思議な力』―――そんな単語が見つかり、アヤノは唐突に何かを悟った。いつもは鈍いとシンタローにからかわれるというのに、こんな時ばかり聡い自分の頭には、感謝して良いやら解らない。
(まさか、つぼみたちが巻き込まれている実験って……)
「っ!」
アヤノは取り上げていた書類を机に叩きつけると、研究室を飛び出した。
中の夜食が崩れることも構わずに籠を振り回し、ただ只管に自宅を目指す。灯りのない家に飛び込んで扉を閉めると、急に足の力が抜けてアヤノはその場にズルズルと座り込んだ。カタカタと震える肩を抱きしめ、アヤノは身体を丸める。
「どうしよう……シンタロー……」
父の考えていることを、アヤノは全て悟ってしまった。これから何をしようとしているのか、そのために誰を巻き込もうとしているのかも。全て。
「もう……わけわかんないよぉ……」
ぐしゃ、と髪を掴み、アヤノは涙を堪えるために歪んだ酷い顔を上げる。
グラグラと視界の歪む目に留まったのは、玄関脇に放置していた母の形見の刀だった。
「つぼみ……」
―――恰好良いパーカー!
「幸助……」
―――皆にも、紹介したいんだ
「修哉……」
―――ありがとう、お姉ちゃん
「シンタロー……!」
―――泣きたきゃ、泣けよ
「……―――」
小さく呟いた言葉を、腹の底へ飲み込む。こんな言葉、ヒーローが言うべきものじゃない。
アヤノの首に巻かれた赤いマフラーは、ヒーローの証だ。皆の幸せを守る、ヒーローの色だから。
「私は……」
落ちた拍子に蓋の開いた籠から、形の崩れた夜食と、くしゃくしゃに歪んだ四羽の折鶴が零れていた。

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