黒蛇
思い切り蛇口を開いて流れる水をそのままに、顔を洗う。バシャ。手探りで壁にかけたタオルを取り、顔を拭う。洗いすぎて固くなったタオルに顔を埋め、ふとシンタローは壁に設置された鏡に目を止めた。
「……」
きゅ。蛇口を捻る音が、真四角の部屋に響いた。
黒い軍服を羽織る。拳銃に弾をこめてスライドさせる。ジャキと無機質な音を立てて黒光りするそれを見つめ、シンタローは顔を顰めた。手に馴染んだグリップを握りしめ、腰のホルダーに突っ込んだ。
手放すに手放せない鞄を背負ったシンタローが部屋を出ると、扉の前に立っていた憲兵が模範的な敬礼をした。それに適当に会釈して、シンタローはこっそり息を吐く。
一○七大隊に監視付での待機命令がでたのは、つい昨日のことだ。



談話室からセトとシンタローが連れていかれた大佐室には、既に他のメンバーが揃っていた。キドに限らず、皆一様に憮然とした顔で、扉を守るように立つ憲兵を睨みつけている。
「……どうかしたんすか?」
「コノハの件が上にバレた」
監視付で待機命令だ、と憎々しげに言い捨てて、令状であろう紙を、キドは机に叩きつけた。
コノハは一○七大隊で要保護。それが上層部から与えられていた命令であった。しかしキドたちはそれを破り、コノハを屋外に連れ出したどころか、謎の敵襲を受けその命を危険に晒してしまった。これは、その処罰だ。
「コノハ、連れていかれちゃったりしないよね……?」
未だ医務室で眠る彼を思い浮かべながら、マリーはおずおずと言う。彼女の桃色の瞳は不安げに揺れていて、それを安心させるように、セトは彼女の肩に手を置いた。
シンタローは小さく舌を打つ。これは下手を打った。ここで足止めを食うのは、色んな意味で痛手だ。もう少し慎重に行動すべきだったか。そんな反省も、今更なのだが。
「よし」
パン、とカノが手を叩き、一同の視線が彼に集まった。胸の前で手を合わせた状態のまま、カノはニコ、と笑う。薄く開いた目は、赤かった。
「明日、談話室に集合ね」
ちら、と意味ありげな視線を滑らす彼に、キドはため息交じりに、シンタローは内心感心しつつ、セトとマリーは顔を見合わせ、モモは意気込むように拳を握り、ヒビヤはそっぽを向きつつ。
「了解」
そう、声を揃えたのだった。

甘い香りで充満する食堂の調理場。珍しく軍服の上着を脱ぎ、長髪を高く結い上げたキドは、そこでお菓子作りに勤しんでいた。
一○七大隊の茶会に用いられる菓子は、全て彼女の手製だ。着用するエプロンは炊事係も使用するシンプルなタイプだが、普段と違う彼女の様子を少しでも目に焼きつけんと、毎回野次馬は多い。
そんな人ごみをかき分け、シンタローは調理場に足を踏み入れた。
「よ、キド」
「シンタロー」
因みに彼らの監視役の憲兵は、野次馬によって揉みくちゃにされている最中だ。良い気味だと思っているので、敢えて放置している。
キドが抱えるトレイを覗きこみ、シンタローは頬を緩めた。
「マカロンか、うまそうだな」
「ああ。……そうだ、俺はこの後、一度部屋に戻るから、先に持って行ってくれないか」
「解った」
少し冷めたのを確認し、キドは蓋で閉じるタイプの籠にカラフルなマカロンを詰めていく。シンタローも、彼女が別で用意していた紙袋にマカロンを入れていった。これでどうだ、とキドが籠を見せてくるので、シンタローは手を伸ばし、中を掻き回すように突っ込んだ。
「……大分作ったな」
「俺の菓子は人気なんでな」
いつもと同じように鋭い瞳が、心なしか自慢げに光を湛えている。何だかんだと少女らしい彼女の一面に、シンタローは笑みを溢した。
エプロンを外すキドに一声かけて調理場を出た途端、シンタローの後ろに憲兵が現れる。唐突でいて隙の無いその動作に、シンタローはストーカーかと心の中で毒づいた。
「……医務室に寄っていいか?」
「御自由に。自分は単なる監視ですので」
行動を制限する権限はないが、己の起す行動は全て上へ筒抜けだ。言外にそんな釘が見える。
シンタローは嘆息を隠さずに溢して、医務室へと足を向けた。その後をキッチリ半歩あけて、憲兵はついてくる。
茶会の菓子担当がキドならば、飲み物担当はマリーだ。これは全て、一○七大隊の鉄則だと、モモから教えられていた。マリーの淹れる紅茶は特に絶品で、シンタローも書類仕事の合間に癒されたものだ。因みに珈琲はキドの好みに合わせることが多いらしく、苦い。
シンタローが医務室に入ると、丁度花の水やりの最中だったらしいセトが、如雨露片手に駆け寄って来た。若干、固い動作と合わない視線が、シンタローは気になったが。
「紅茶、丁度マリーが、淹れてるっす」
「そう、か」
まあそれも無理ないか。そう内心苦笑して、シンタローは頭を掻く。
それからシンタローは籠の蓋を開けると、セトにそれを突き付けた。少し驚いたセトは、しかし籠の中を覗きこむと、顔を輝かせる。
「今日の菓子だ。一つ、どうだ」
「ありがとうございます、貰うっす!」
マカロンが好きなのだとはしゃぎながら、セトは手を突っ込む。彼らしいと言うか、掴んだのは若草色のマカロンだった。固かった空気も、幾らか緩和されていた。
「キドのお菓子、美味しいんすよねー」
例えるなら、『はにゃーん』と効果音がつきそうなほど、セトは頬を緩めて手をあてる。頬が落ちそうな感覚を、思い出しているようだ。
「何騒いでるの?」
「あ、ヒビヤくん」
ひょっこりと入口から顔を見せたのは、コノハの見舞いに来たと言うヒビヤだ。彼にも同じようにしてシンタローがマカロンを渡すと、彼は水色のマカロンをとった。
「ヒビヤくんもマカロン、好きっすもんねー」
「……子ども扱いしないで」
セトの笑顔からぷいと顔を背け、ヒビヤはしかし照れ臭そうに首を掻く。その反応が子どもなのだ、とは流石に口にはしない。
その時、水筒を両手で持ったマリーが、とてとてと駆けてきた。
「あ、シンタロー。紅茶どうぞ」
「ありがとう」
マリーから大きな水筒を受け取り、シンタローは別にマカロンを詰めていた紙袋を、代わりに渡した。
「マリー、差し入れだ。コノハにも分けてやってくれ」
「……うん、そうする」
紙袋の中身を見たマリーは口元を綻ばせ、力強く頷いた。彼女は袋から桃色のマカロンを取り出して口に咥えると、邪魔な髪を耳にかけながら、コノハの眠るベッドに駆けて行った。コノハに話しかけながら彼の身嗜みを整えるマリーを横目に捉えつつ、シンタローは籠の蓋を閉じる。
「今日、俺たちは医務室にいるっすね」
「ああ、だと思ってお裾分けに来たんだ」
医務室の扉の前にある二人分の憲兵の影を一瞥し、シンタローは苦笑する。
「ま、気が向いたら来いよ」
そうひらりと手を振って、彼は医務室を後にした。そのまま彼が足を向けたのは、集合場所になっていた談話室だ。元々利用者の少ないそこに、はっきりと目立つ人影はない。
「シンタローくん」
談話室の入口で辺りを見回していたシンタローに、こっちこっち、とカノが手を振ってくる。見れば彼の座る円卓には、既にモモとキドも揃っており、シンタローを待っていたのだと察せられた。
「遅かったな」
「医務室行って、お裾分けしてきたんだよ」
ほら、と籠をキドに渡す。中を除いたキドは少し目を細めて、成程、と頷いた。
この場にいる彼らの監視役である憲兵は、四人。円卓の近くで一列になる彼らに目を留め、カノは小さく手招いた。彼らがカノの元に集まる間にも、キドは紫、モモはオレンジ、シンタローは赤いマカロンを手に取って、早速頬張っている。
「少し離れていてくれない?」
「しかし、我々は……」
「今から、猥談するから」
さらりと溢されたカノの言葉に、さしもの憲兵も反応が遅れた。
「……は?」
「だから猥談。あ、それとも混ざってく?」
大人の事情が聞けるのも面白いね、と笑うカノの目は本気だった―――そういう意味で―――と、後にその憲兵たちは語る。

キドが、目にかかる髪を耳にかける。モモは菓子の味に酔い痴れ、頬に手を当てた。シンタローはがしがしと頭を掻き、黒いマカロンを咥えたカノは頬杖をついている。
談話室の入口に立った憲兵たちは、そんな彼らの一挙一動を見逃さぬよう、目を凝らしていた。距離があるため、会話は聞こえないが、代わりに盗聴器を仕掛けておいたので、問題はない。しかし耳につけたイヤホンから流れてくる彼らの会話に、憲兵たちは頬を引きつらざるを得なかった。
「シンタローくんは、処女厨なの?やっぱり」
「やっぱりってなんだよ」
「え、だってお兄ちゃん童貞でしょ?」
「想い人がいたのに童貞……ヘタレか」
「……モモか」
「ごめーん……」
「……ていうか、お前はどうなんだよ」
「え、それ聞いちゃう?……んー、男って、カウント入る?」
「お前も俺と境遇変わらねえな、それ」
「いやいや、僕はセト限定だから。シンタローくんみたいに見境なくないし」
「俺だって、誰でも彼でも取って食うわけないだろ!」
「と、いうか、男同士ってどうやるんですか?」
「キサラギ……マリーと同類か」
「モモ……」
「え、だって気になりません?大佐さんも」
「……少し」
「おい」
「えっとねー、まずはねー……―――して―――してー」
「お前……まさかセトに―――、―――で――――してないだろうな」
「いや、そこまで生生しいのは……あ、でも―――したときは可愛かったなあ。セトったら―――で―――で―――なんだもん」
「そういえば―――は―――で―――だって聞きましたけど、本当なんですか?」
「え、それ都市伝説じゃないの?」
「ああ、本当だ。―――で―――は―――だしな」
「え、大佐さん詳しい……」
「―――で―――は―――、だったっけ」
「ああ。―――と―――は―――に入る」
「あ、じゃあじゃあさ!―――は……」
憲兵はイヤホンを床に叩きつけんと湧きあがった衝動を、何とか抑え込んだ。
「マジで猥談してやがるぜ、あのマセ餓鬼ども……」
「あのモモちゃんまで……」
吐き気を緩和させるように舌をだす者もいれば、純情だと信じていたがために裏切られたショックで落ち込む者もいる。
「おい、しっかりしろ!」
彼らに叱咤し、カノの監視を務める憲兵は、己を奮い立たせるように胸を張った。

ぴぴ、と耳に隠して入れた超小型無線機から、エネの声が聞こえてくる。
「ご主人ー、ばっちりですよー。みなさんの音声データを編集して、ジャックした盗聴器の無線に流してきました」
「それ、猥談にする必要はあったのか?」
その超小型無線機は、シンタローがマカロンの籠に入れて配ったため、キドたちも同じようにつけており、会話も勿論聞いていた。因みに言っておくと、猥談に託けて集まろうと言ったのはカノで、無線機を使用するよう進言したのはシンタローだ。あしからず。
「え、ないよ?」
カラリとそんなことをのたまったカノは、数瞬後、謎の奇声を発して机に沈んだ。恐らく、キドの蹴りを受けたのだろう。キドはコホン、と咳払いを一つ、本題だ、と腕を組んだ。カノたちの目が、眇められる。
「あのテロ鎮圧命令―――恐らく上は、あの研究室を発見されたくなかった。だから短時間・最小限の被害で事を済まそうと、俺たちを派遣したんだ」
「けど僕らは、それを見事裏切ったわけだ」
ヒビヤとモモの手によって隠し部屋は発見され、そこに放置されていたコノハも見つかった。爆破の件は研究室と、あわよくばコノハの処分ではないのか、という意見もあった。
「それにしてはその後の対応が、な」
「コノハを絶対的安全圏に置きたがっているようだった。殺されては困るみたいに」
ならば、あの爆破は軍上層部ではなく、別の輩。コノハの存在を望まぬ者の。
「で、私たちがそういった組織と繋がっていると思ったんですよね、上は」
「だろうねぇ……四六時中監視……しかも盗聴器付って、僕らのプライベートは何処いったんだか」
憲兵の一人が椅子に取り付けていった盗聴器を一瞥し、カノは自嘲気味に笑う。
「元からそれほどないだろう。どう足掻いても、俺たちは人間兵器だ」
しかもこれ以上量産できる見込みがない、という条件つきの。一つ壊すだけでも惜しいと思っているのだろう。
それよりも、とキドは紅茶に口をつける。
「心配なのは、別室で軟禁されているセトたちだ」
「コノハさん、まだ目が覚めないんですか?」
モモはマカロンを齧りながら、眉根を下げた。セトはマリーの診察が必要だから、ヒビヤはコノハの世話役だからという理由で、なんとか医務室に常在できるように丸め込んだのだ。だからと言って安心というわけでもないが。
キドは当初、この処分に乗じてコノハとマリーの保護権を奪う算段だったのではないかと踏んでいた。しかしそのような動きはまだなく、メデューサの血縁であるマリーと正体不明のコノハについては、上層部も持て余しているのではないかいう、ヒビヤの推測が最も適当だろうと考えている。餅は餅屋、化物のことは化物に任そう、と。
「一応、アイツらにも同じものは渡した」
何か異変があれば、渡した超小型無線機に連絡が入ってすぐ駆けつけられる筈だ。そうは言うものの一抹の不安は拭いきれなくて、カノはそれを流すように紅茶を煽った。

エネは、青い電脳空間で目を開いた。
ここはシンタローがいつも持っている携帯端末のOS内だ。彼女がシンタローに頼んだのだ、コノハの元に連れて行ってほしい、と。エネがコノハに良い感情を抱いていないことを何となく察していたシンタローは渋い顔をしたが、結局了承してくれる辺り、彼も甘い男だ。
シンタローがマリーに手渡した紙袋の中に、携帯端末は忍ばせてあった。彼女のお蔭でコノハの眠るベッドにはカーテンが引かれており、覗くような人目はない。
エネはブラウザの電源を入れる。コノハの寝顔は思いのほか近くにあった。マリーがそうなるよう、携帯端末を置いてくれたのだろう。
エネは、彼と自分とを隔てる画面に手を当てた。
「……遥」
コノハのことを、過去を、エネは良く知っている。それは軍のデータベースを飛び回って情報を得ているからだけではなく、彼女自身がコノハと接点を持つからだ。正確にはコノハのベースとなった人間―――『九ノ瀬遥』と、であるが。
恐らくシンタローは、全てを察している。それでも無理に問うてくれないから、彼は優しい。優しすぎて、甘えたくなってしまうほどに。
「……でももう、ご主人に迷惑ばかりかけられない」
これは自分のエゴだ。大切な人のために歩き続けることを選択した彼を、こんな醜いエゴに巻き込むわけにはいかない。カーテンで仕切られただけとはいえ、この空間にいるのはエネとコノハの二人だけ。やるなら、今だ。
「……人造人間であるコノハは、回復力も高い。破壊するには……」
―――その『眼』を、刳りぬく。
人造人間であるコノハの内部は、エネの行動範囲である電子機器と同じだ。そこへ飛び込んで神経回路プログラムを弄り、目を抉るように腕を操作する。それだけだ。
エネはこくりと唾を飲み込んだ。
「―――それは困るな」
「!」
背後から声がした。有り得ない事実にエネは驚いて振り返る。
この電脳空間にはエネしかいない、筈だった、のに。
「あなたは……!」
息を飲む彼女の様子を嘲笑うように喉を鳴らして、その『黒い蛇』は金色の瞳を見開いた。
「感謝するぜ、エネ。お前があのデータを持ち出してくれたお蔭で、出て来られた」
爛々と光る金に魅入られて、身体が動かない。
エネは自分に向かって伸ばされる腕を、呆然と見つめるしかできなかった。
「……―――ご主人……」
どうか、あなたは―――思わず今わの際のような願いが、口から零れた。

「……エネ?」
微かなノイズが、聴こえたような。シンタローの指から滑り落ちた青いマカロンが、床とぶつかって粉々に砕けた。

「……」
ベッドから起き上がり、手を握ったり開いたりする。命じるままに神経の伝達が行われることを確認すると、自然笑みが零れた。
シャ、とカーテンを開いて外へ出ると、室内にいた人間たちが驚いたようにこちらを見る。
「あ、起きたんすか」
「良かったー、心配したんだよ」
「もう平気なの?」
緑のパーカーを着た青年、白い少女、水色のパーカーを着た少年が、順に声をかけてきた。それらを無視して、白い少女の前に膝をつき頭を垂れる。
驚く彼らの様子は、空気で察せられた。少女の、白く小さい手をとってそこに口づけを落とすと、青年から警戒する殺気が飛んだ。
思わず嘲るような笑みが零れてしまい、少女から手を振り払われてしまう。
「まさか目覚めてすぐ、女王にお目通り願えるとは―――至極光栄」
「あなた……誰」
白い少女の髪がふわりと浮かび上がり、桃色の瞳が赤くなる。ああ、愉しい。喉を鳴らして笑い、立ち上がる。
少女の左右に立つ青年と少年も、様子の可笑しさに気づいてさっと身構えた。
「会いたかったよ、女王」
コノハの『白』が一瞬のうちに『黒』に代わり、普段の淡泊な彼からは想像もできないほどの嘲笑が溢れる。
その禍々しさに、セトたちの背筋は震えた。蛇に睨まれた蛙―――あの金色の瞳には、それを体感させるだけの何かがあった。
「俺は『蛇』―――アンタに最も近しい存在だ」
マリーの髪を一房手に取って『蛇』はニヤリと笑った。

「で、俺としてはお前の話も聞きたい―――シンタロー」
キドの真っ直ぐな視線を受け止め、シンタローは紅茶を啜った。キドは構わず組んだ手を机に置いて身を乗り出し、話を続ける。
「どうしてお前はこの一○七大隊にきた?『眼』を持っているわけでもなし、監視役にしても、お前が軍に忠誠を誓っているようには思えない」
一○七大隊は数少ない人間兵器『レコードチルドレン』を集めて作った特殊部隊だ。軍上層部は彼らを有効活用せんと後生大事にしている。
そんな大隊に、蜥蜴の尻尾として責任取りに使った男を配属させるなど、考え難い。そのことを恨んだ彼が軍に復讐しようとすれば、最大限のダメージを与えかねられん地位だからだ。
キドの言葉に鼻で笑って、シンタローは少々乱暴にカップを置いた。くくく、と断続的な笑いを溢す口を手で覆って顔を伏せる彼に、モモとカノは頬を引き攣らせる。
「蜥蜴の尻尾……か。そんな可愛いものじゃない」
シンタローの黒い瞳が前髪の間から覗き、キドを射抜く。何処となく赤が混じったように、見えた。
「俺は―――ウロボロスだ」
『尾を呑みこむ蛇(ウロボロス)』―――死と再生、不老不死の象徴とされる蛇が、自らの尾を食べることで、始まりも終わりもない完全なものとしての象徴的意味も得た古代シンボルだ。他にも、循環性や始原性といった意味合いも持つが。
「俺に繋がった頭……それを食い破る化物なんだよ、俺は」
シンタローは切り離されたままの尾でいるつもりはなく、尾を切って逃げ切ったと安堵する四肢を喰らうという意味で、それを用いたようだった。
成程、『レコードチルドレン』をメデューサの蛇とするなら、彼もまた蛇の化物―――同類であるということか。カノは手の下に隠した口元を、盛大に歪めた。
そんな幼馴染の興奮を肌で感じつつ、キドは冷静に凪いだ瞳のままシンタローを見据える。
「……つまり、お前は軍を壊したいのか」
ぴり、と肌を引っ掻くような感覚に、モモは思わず唾を飲み込んだ。
ああ、この感覚。互いの命を賭けた心理戦の空気だ。元来そういったことが苦手なモモでは、中々味わえない雰囲気。それは戦場を駆け回るのによく似ている。が、モモは自身が成し得ないからこそ、この張りつめた空気を好んでいた。滅多に味わうことのない、腹の底から湧き上がるゾクゾクとした快感を。
何てことない、普段は殺戮を厭う彼らも、結局はそこに快楽を見出す化物に代わりないのである―――いや、化物にならざるを得なかった、と言っておこう、彼らのためにも。
シンタローの口は弧を描く。彼は顔を覆っていた手を机に置き、その人差し指を持ち上げた。
「―――ああ。そのために、俺はここにいる」
人差し指が降りて、机を鳴らす。

パシ、とセトはほぼ反射的に『蛇』の手を払いのけていた。一瞬驚いたようにセトを見た金が、固い彼の表情を面白がるように歪む。ゾクリ、とセトは背筋が凍るように感じた。
「っマリー!」
「え、わ!」
「っ!」
セトはマリーを抱えると、強く床を蹴り飛ばす。それを見て、ヒビヤも彼の後を追った。転がるようにベッドの方へ向かい、床に落ちていた携帯端末を拾い上げてから。
扉を蹴破るように飛び出してきたセトたちを見て、憲兵たちは驚いていた。しかし扉がなくなったことで見えた医務室に佇む見知らぬ人影に気づき、兵士としての反射か、腰の拳銃をそれに向けた。
「駄目だ!」
ヒビヤは咄嗟に叫ぶ、が遅い。
弱者の我武者羅な防御姿勢は、強者の前では逆効果になる。事実、『蛇』の背後から湧き上がった―――少なくとも、ヒビヤにはそう見えた―――黒い触手が、憲兵たちの拳銃を身体ごと弾き飛ばした。
窓を破って庭へと倒れていく彼らの姿に怯え、マリーはセトの首に回した腕に力を入れた。彼女の身体をしっかりと抱きかかえ、セトはヒビヤと顔を合わせると一目散に駆けだした。
「キド、カノ……!聞こえるっすか!」
「おばさん、シンタローさん!」
無線に声をかけるが、何故か返って来るのは砂嵐のようなノイズだけ。ヒビヤやマリーの無線も同じ調子のようで、セトは思わず舌打ちを溢した。これでは彼らと連絡が取れない。マリーは非戦闘員だから、こちらの戦力はセトとヒビヤの二人だけだ。それでもそこらの敵に負かされるほど弱くないと自負してはいるが、あの『蛇』はマリーを守りながらでは倒せないと勘が告げている。
「ヒビヤくん、マリーと一緒に先へ!」
「え、わ!セトさん!」
「俺が引き止めるっす!」
廊下の角を曲がったところでマリーをおろし、セトはベルトに仕込んだ小刀を抜いた。待機命令中だったのでそれ一本しか武器は所持していない。だがまあ、時間稼ぎくらいはできるだろう。
「早く!」
「……っ!」
「セト!」
留まろうとするマリーの手を引いて、ヒビヤは駆けだす。それを確認してから、セトは壁の影から飛び出した。
『蛇』は歩いていたらしく、廊下の突当りに立つセトとの間に大分距離を持っていた。セトはゆっくり息を吐き、小刀を逆手に持った右手と左手を交差するように身構える。未だ嘲笑に顔を歪める『蛇』を一睨み、床を蹴った。

医務室の方角で騒ぎがあったという報告が憲兵に届いたと同時に、何かを破壊するようなその轟音は響いた。
カノとキドは立ち上がり、一目散に駆けだす。モモとシンタローも顔を見合わせてから彼らの後を追った。
報告とその後の轟音に気を取られていた憲兵たちが四人を留められる筈もなく、更に奇襲で混乱する廊下は駆け抜ける彼らを妨害しなかった。
「あそこか……!」
廊下の突当りの壁が粉砕され、穴を開けている。
カノはスピードを上げて先頭になると、ダガーを抜いた。だん、と強く床を踏んで、敵がいるであろう場所に身を晒す。しかし彼も、その後ろから飛び込んだキドたちも、その光景に思わず息を飲んだ。
「これは……!」
泣いているのか、頭を抱えて蹲るマリー。得物を手放したまま床に倒れ伏すヒビヤ。そして、床から足を離し、黒い何かに首を掴まれているセトが、そこにはいた。
セトの首に絡まるのは黒い蛇たちの塊のようで、そこから伸びるのは黒い、コノハに似た容姿の青年の左腕だった。彼の足は、得物を取ろうと動くヒビヤの右手を踏みつけている。
青年の金色の瞳がカノたちを捕え、嘲るように歪んだ。
「―――!」
モモとカノは、床を蹴って飛び上がる。モモの足とカノのダガーが青年に向かっていく間に、キドは袖に仕込んでいたライフルを構え、シンタローは腰のホルスターに収めた拳銃に手をかけていた。
青年がニヤリと笑い、彼の背後からぐわりと湧きあがった黒い触手が、自身に向かうそれらを弾き飛ばした。
「うわ!」
「きゃ!」
カノとモモが、キドたちの足元に尻もちをつく。ライフルを弾かれたことで痛めた手首を押さえながら、キドは青年を睨んだ。一人難を逃れたシンタローは、慌てて拳銃を構え、照準を青年に合わせた。
「コノハ、なのか……?色々違っているが」
キドの言葉に、青年は心底不快そうに顔を歪める。
彼の腕から這い出していた蛇はいつの間にか消え失せ、セトは襟元を引っ張り上げられるような形で床に膝をついていた。先ほどまで酸欠になっていたせいか、その目は閉ざされ、顔は苦しげに歪んでいる。
「あんな紛い物と一緒にしないでくれ……と、言いたいところだが、まあ器はアイツだから中らずと雖も遠からずか」
「器……?」
眉を顰めながら、シンタローは震える指で拳銃のハンマーを上げた。僅かにぶれるその銃口を正面から見据え、青年は口端を持ち上げる。
「如月伸太郎、お前たちがあの地下研究所から持ち出したデータ……アレには俺の『身体』の一部が紛れていてなぁ。これをコノハの近くに置いてくれたのも助かったぜ、お蔭で奴の身体を乗っ取るのに、苦労しなかった」
青年は携帯端末を振って見せ、ヒビが入った黒いその画面に唇を落とした。シンタローは目を見開き、銃を持つ手に力をこめる。
あれは、エネが入っている筈の携帯端末だ。それがあの状態ということは、彼女は。
それに青年の言い分をまとめると、つまり青年の本体はデータで、人造人間であるコノハの身体を器―――コンピュータでいう本体―――として乗っ取った、と。そういうことだ。それはまるで、ウイルスデータのようではないか。
「お前……エネと同じ、人工知能プログラムか……!」
「ちょっとシンタローくん、自分だけ納得してないでさ。僕ら、ちんぷんかんぷんなんだけど」
戦慄するシンタローだが、カノが笑いながら軽い裏拳をぶつけてきたので、彼らの間に流れていた重い空気は霧散した。
雰囲気に引っ張られていたキドは、思わず前につんのめる。シンタローもガクンと肩を揺らし、後で説明してやると言いながら頭を押さえた。頼むよ〜、とヒラヒラ手を振りながら、カノは二枚重ねたダガーを右手の中でカードのようにずらす。
「まずは、」
口元を手の甲で拭って、モモも立ち上がった。彼女はグローブをはめて身構え、キドも腰からライフルを取り出して構える。
よく磨かれた銀の刃に唇を落とし、カノは赤い、けれど据わった瞳で青年を見つめた。
「―――あれをどうにかしないと、ね」

―――ねぇ、起きて
唐突に、ノイズのような、甲高いような音が、鼓膜を叩いた。
どうして、と声に出さずに問い返す。ここはとても幸せな世界なのに。彼女がいて、自分がいて。それ以外、何も要らないよ。
―――それは駄目、起きて下さい
しかしノイズは譲らない。問いかけの答に食い気味に、言葉を重ねてくる。五月蠅いな。君は一体誰なんだい。
―――……私のことは良いんです。けどあなたには、まだきちんとした『身体』がある
何処か苦しそうに、哀しそうに、その声は続く。
(君は、一体……)
―――目を醒ませ、『―――』
その瞬間、どく、と身体の奥で何かが疼いた。

「……なあ女王、俺にはさっぱり理解できねぇよ」
ずっと踏みつけていたヒビヤを軽く蹴飛ばして、青年は肩を竦める。数回転がった彼が止まった先には、気絶して倒れるモモの姿があった。
彼女たちから離れた壁にはキドが凭れかかって座り込んでおり、傍らにはカノが転がっている。更にシンタローの倒れる姿もあって、それら全てを青年一人で行ったのは火を見るよりも明らかだった。
「こんな脆い人間に執着するなんて……」
小さな呻き声が聞こえて、青年はまだセトの襟元を掴んだままだったことを思い出した。それを強く引いて苦しげに歪む彼の顔を覗きこむ。思わず緩む口元に、己はつくづく嗜虐思考なのだと実感した。
ざわ、と背筋が泡立つような空気が肌を撫でる。その発生源を見やって、青年は壮絶な笑みを浮かべた。
膝をついて座り込んだマリーが、泣き腫らした目のまま、じろりと青年を睨みつけていたのだ。その目は、涙のせいだけではない理由で、赤くなっている。
「それ以上、セトに触れるな……!」
「……好い顔だぜ、女王。ゾクゾクするよ……!」
パッと手を離すと、セトの身体は糸の切れた人形のように脆く床に倒れ伏した。
「そういえば、コイツが一番のお気に入りだっけか……」
ならば、彼を痛めつけることが最も効果的か。
ペロリと舌舐めずりすると、マリーのきつい睨みが飛んできた。彼女の、普段なら傷一つない手は擦り切れてボロボロで、血が滲むのも構わずスカートの裾を握りしめている。
「どうして……どうしてこんなことするの?」
「俺たちの目的のためには、アンタの力が必要なんだ」
「目的……?」
ぐぐ、と痛みが走るのも構わず無理矢理に動かして、カノは身体を起した。肩を押さえたキドも顔をあげ、痛みと疑問で眉を顰める。
カノの呟きに反応してそちらに視線をやった青年は、ニヤリとほくそ笑んだ。
「―――『アザミ』を誘き出すために、な」
「……あざ、み……」
何処かで、聞いたような―――セトの意識はふわりと、唐突に浮かび上がる。途端、薄く開いた瞳に映った惨状に、セトは息を飲んで括目した。
「これは……!」
「!セト、危ない!」
ガバリと起き上がると同時に、マリーの鋭い声が飛んだ。ハッとしたセトの横目に、飛んでくる小刀が映る。セトの得物を拾った青年が、それを振り上げたのだ。
思わずセトは目を瞑る。しかし痛みも衝撃もなく、代わりに金属同士のぶつかる高い音が、すぐ耳元で響いた。
「……悪い、アヤノ」
その声に恐る恐る目を開くと、セトの視界一杯に広がるのは、赤だ。青年の振るう小太刀から庇うように黒鞄を翳したシンタローは、片方の腕をセトに回して、彼の身体を抱き寄せた。
「あの日お前に誓ったこと、」
ジジ……とチャックを引くと、パサリと落ちる黒い鞄。その中から現れた刀には、真っ赤なマフラーが巻き付けられていた―――まるで、抜くことが出来ぬよう戒めているかのように。
キドやカノがそのマフラーに息を飲む中、シンタローは剥ぎ取ったマフラーを首に巻く。そしてゆっくりと、刀を抜いた。
「―――今、破るわ」
赤いマフラー―――嘗て三人を、温かい笑顔で優しく包んでくれた少女とダブるその姿に、キドとカノ、そしてセトは息をすることすら忘れた。
シンタローはセトを背中に庇うと、息もつかせぬよう連続で斬りこんだ。青年は小刀で応戦していたが、使い慣れていないのであろう、すぐに弾き飛ばされる。舌打ち一つ、青年は憲兵から奪った拳銃を乱射した。シンタローは刃が顔の前にくるように構え、少し上体を倒す。そうして銃弾を弾いてから、大きく飛びかかった。
「この……っ!」
青年は悪態を吐くように、顔を引き攣らせる。そんな彼の背後から、またも黒蛇の塊が湧き上がった。これはシンタローも対応できなかったようで、刀で防ぎながらセトの肩を支えるカノの傍らまで飛び退いた。
ぴり、と銃口と刀が向き合い、空気が張りつめる。シンタローは目を眇め、逸らさぬようじっとにらみつける。青年はふっと笑い、徐に銃口を別の方向へ向けた。
その先にいたのは、気絶したままのヒビヤとモモだ。
「まずい……!」
「モモちゃん!」
ハッとしたマリーとキドが腰を浮かせるが、引き金にかかる指が曲がりきる方が早い。しかし、青年は途中で拳銃を持つ手を引っ込め、後方へ小さく飛び退いた。射撃されたからだ。
ピチュン―――聞き慣れた、甲高い音。これは、銃声だ。彼女の得意だった、射撃の銃声。
ヒビヤは薄く開いた視線を動かし、窓から覗く向いの屋上を見やる。雲間から零れる陽光を受けて、そこで何かが反射した。それと一緒に見えた、黒い二つに結った髪。
「ヒヨ……リ……?」
ああ、君は相も変わらず美しい―――そんなことをぼんやりと思い浮かべながら、ヒビヤはふっと口元を緩める。
そんな彼を冷たく一瞥し、ヒヨリは身を翻して屋上から姿を消した。
射撃を避けた青年の足が、唐突にグラリとふらつく。頭を押さえ、青年は小さく舌打ちした。
「ったく、往生際の悪い……―――ん?はあ?今かよ……ち、解ったよ」
何かあったのだろうか、青年は誰かと会話しているようだった。シンタローたちのように無線を仕込んでいたのだろうか。青年は不満そうに顔を歪める。
「遥!」
何処からか聞こえた、高い少女の声―――ハ、と一息に雰囲気が変わるのが、肌で感じ取れた。ぐらりと陽炎のように色がぶれ、青年の黒が白に変わる。元のコノハの姿だ。しかしそれも定まらぬまま、黒と白の間を行き来する。それと一緒に、苦しむような呻き声も聞こえてきた。
「僕は……ぼく、は……」
コノハは震える手で拳銃を握りしめると、己の米神に銃口を当てた。カチ、と音がして、震える指が引き金にかかる。
どく、と心臓の鼓動が高鳴って、シンタローは思わず己の胸を掴んだ。記憶に残る、泣きそうな笑顔を浮かべた彼女の姿が、陽炎のように揺らいで見えた、気がした。
―――シンタロー、と目尻を赤くして彼女は笑って、刀を己の―――
「……やめろ……やめろ、コノハ!」
バッ、と駆け寄ったシンタローの腕が、コノハのそれを払う。けれど引き金は引かれ、銃口から飛び出した弾は赤い何かを散らした。
「あ……!」
その場にいた者は例外なく息を飲んだ。マリーはあまりのことに口を手で覆っている。
はく、とセトの口は乾いて上手く動かない。
「シンタローさん―――!」
赤い花を散らしながら、シンタローの身体は無造作に床に転がった。

―――シンタロー、ごめんね。私―――
「……ろ……アヤノ……やめろ!」
陽炎のように揺らいで消えていく少女に向けて、腕を伸ばす―――シンタローの意識は、そこで唐突に覚醒した。
息を飲むように視界に飛び込んできたのは、打ちっ放しの白い天井。医務室のそれだった。そこへ向けて伸ばした腕は、巻かれた包帯のせいで白い。次いで体のあちこちで刺すような痛みが湧き上がり、思わず呻き声が口端から零れた。
「シンタローさん」
優しい声がして、シンタローは首をコテンと横へ倒す。シンタローの寝ていたベッドの傍らに椅子を置き、セトはずっとシンタローの目覚めを待っていたらしかった。
セトの頬や首には、ガーゼや包帯が巻かれている。それでも、シンタローのように寝たきりになるほどの重症は、負っていないようだった。
セトは徐に包帯を巻いた腕を伸ばし、シンタローの額に指を滑らせた。ザワザワとした感触に、そこにも包帯が巻かれているのだと、シンタローは察する。
「……銃弾は、額を掠っただけだったみたいっす」
「そうか……」
シンタローも腕を持ち上げ、先ほどセトがなぞったところに手を置いた。銃弾が掠った衝撃と火傷の痛みで、気絶してしまったのか。あの時は確かに、死を覚悟していたというのに。
「俺はまた、死に損なったらしいな……」
自嘲気味に笑って、シンタローは目元を手で覆った。目の端に滲む何かを、隠すように。
セトは膝の上に置いた手を握りしめ、そっと目を伏せた。それからポツリポツリと、シンタローが倒れた後のことを話し始めた。
シンタローが倒れるとほぼ同時に、コノハも糸が切れたように倒れこんだらしい。今はカーテンによって遮られた隣のベッドで眠っている、と。
青年の起した騒ぎは、敵軍の奇襲ということでキドとカノが丸め込んだ。青年の姿が、コノハと似ているが色が違うというところを強調し、ついでに上層部が隠したがっている『カゲロウプロジェクト』と地下研究所のことを匂わせたのだ。
成程脅したのか、と淡々と感想を述べるシンタローに、セトは少し困ったように笑うだけだった。
「待機命令も監視も、まだ一応は続いてるっす」
しかしあの襲撃ですっかり肝が冷えたらしく、憲兵たちは必要以上にべったりと付きまとおうとはしなくなった。今も、医務室の入口に立つだけで入室はしていない。これで少しは肩の力が抜ける。セトは笑ってそう言った。
シャ、とセトの背後のカーテンが開き、キドたちが顔を覗かせた。セトは少し椅子を移動させて、コノハを除く一○七大隊の全員がシンタローのベッドを覗けるようにする。
セトの隣に椅子を持って来て座り、キドはシンタローに赤いマフラーを差し出した。身体を起そうとして、しかし激痛が走ったので、シンタローは寝た状態のまま、無言でそれを受け取る。
「……話してくれ、お前のこと」
キドの言葉に、乾いた口を動かして頷く。
カノとも約束したし、全てを話そうと、シンタローは目覚めたときから決めていた。
モモも色々と複雑な心境なのだろう、包帯まみれの拳を胸元で握りしめ、コクリと唾を飲み込んでいる。その傍らに立つマリーも、シンタローの足元に腰掛けるヒビヤも、皆例外なく包帯やガーゼをつけていて、あの襲撃の影響を如実に語っている。
カノは眉を顰めて、マフラーに視線を落とした。
「その、マフラーは……」
「楯山文乃のものだ」
覚悟していたであろうに、改めてその名前を聞いたキドたちはきゅっと唇を噛みしめた。
以前、キドから彼ら三人の過去を聞いたときから、シンタロー自身はその理由を察している。楯山文乃―――楯山孤児院の院長の娘で、キド・カノ・セトの姉的存在であった少女。そして、シンタローの大切な人。
「話すよ、俺の過去を」
マフラーを握りしめ、シンタローは目を閉じた。
目蓋の裏に、あの夏の景色がまざまざと浮かび上がる、そんな感覚を味わった。
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