蛇の目
セトが溺れたのは、あの事件が起こって数日経った日の夜だった。
川辺でこっそり飼っていた犬に会おうと軍を抜け出したセトは、しかし事件のせいで厳しくなった監視にすぐに見つかった。その頃はまだ兵士としてではなく、実験の被検体として軍にいたから、追手も必死だったのだろう。何とか、はなこと名付けた友達の元に辿りついた頃には、セトはすっかり息を切らして疲れ切っていた。
けれど軍の人間を撒けたことに少し得意げになりながら、はなこに餌を渡す。軍の食堂ででたパンの余りだったが、野良犬の彼には何よりの御馳走だったろう。カスのつくセトの手まで舐め、はなこはワンと一鳴きした。セトははなこをぎゅっと抱きしめ、その温もりを存分に堪能した。今度はキドやカノ、マリーを連れてこよう。孤児院でお世話になったお姉ちゃんにも紹介したいな。そんなことを彼の耳元で囁いた。
かつ、と河原の小石が転がる音がして、セトはハッと身構えた。はなこと一緒にいたのは古い橋の下で、そこから少し首を伸ばすと、こちらへ向かって伸びるライトが見えた。軍の人間が探しに来たのだろう。セトははなこを抱えると、ライトから逃れるようにゆっくりと後退った。
このまま何とか、彼らが去るのを待とうと思った。しかし、ただでさえ暗い夜、月の光を遮る橋の下は暗闇に閉ざされていた。だからセトは川までの距離が解らず、足を滑らせたのだ。
「わ!」
思わずはなこから手を離し、セトは息つく間もなく水中へと放り出される。
水に落ちた音で気が付いたのか、誰かの足音を遠くに感じながら、セトの意識は闇に沈んだ。



「―――ト、―――セト!」
ああ、またあの夢か。あの時も、こんな風にカノに呼ばれていたっけ。そうして目を開くと、泣きそうなキドとカノの顔が見えたのだ。
ぼんやりとする頭でそんな回想から帰り、セトは重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。歪んでいた景色は徐々に明瞭になり、こちらを覗きこむカノの輪郭を形作る。
「……カ、ノ……?」
「……っセト!」
カノはセトの声を聞くや否や、ぎゅ、と抱きしめるように彼へ覆いかぶさった。如何やら自分はベッドに寝かされていたらしく、カノはその脇に椅子に座っていたようだ。胸元を擽る猫毛を撫でながら、セトは首を横に傾ける。
横向きになった世界にはマリーやキドもいて、彼女たちの表情から、何かをしでかしてしまったらしいことを悟った。
「セト、良かった……」
手で拭う端から零れる涙と格闘するマリーを、キドが優しくあやす。そんな彼女の言葉も心からの安堵に満ちていて、セトは更に申し訳なく思うのだ。
「ここは……」
「医務室だ。覚えてるか?お前は脱出中、地下水道で溺れたんだ」
キドの言葉で、セトはやっと思い出した。
先のテロ鎮圧任務の際に発見された地下研究所を、探索しに出掛けていたのだ。その途中、突然入口を爆破で塞がれて、仕方なく地下水道から脱出した。けれど、波に浚われてシンタローから離れてしまって―――それからの記憶が、抜け落ちている。
見える範囲にシンタローがいないことも気にかかって訊ねると、キドは少し顔を歪めた。
「お前だけじゃなくコノハも意識不明だったからな。流石に上にバレて、始末書だ」
コノハは隣で寝ている、とキドが指さす方へ首を反転させると、確かにベッドで黙々と眠り続けるコノハの姿がある。彼に付き添うように座っていたヒビヤがぺこりと頭を下げて、無事で良かったと、呟くように言った。
「身体は大丈夫?違和感とか、ない?」
まだ顔を伏せたままのカノを少し移動させて、セトは身体を起した。腕を回し、肩を回し、手を握る。
「大丈夫っす。いつも通り」
「だが、暫くは入院だ」
「えー!」
「えーじゃない」
大佐命令、とキドはセトの額を指で弾く。額を押さえ唇を尖らせるセトに、柔らかい笑みを溢しキドはまた来ると言い残して医務室を出ていった。ゆっくり休むよう念を押して、マリーはセトのいるベッドを囲うカーテンを閉じた。
「……」
「……カノ」
完全な密室ではないが、今ここには二人だけだ。セトは先ほどから微動だにしないカノの猫毛を、そっと掬い上げた。がし、と唐突にその手が掴まれ、顔を上げたカノに口づけを落とされる。
「カノ……!」
「……心配した」
思わず声を荒げるも、セトはカノの真っ直ぐな瞳に続けようとした言葉を飲み込んだ。カノは視線を動かさないまま、もう片方の手でセトの頬を包む。
「……今回のことは、仕方ないって解ってるけど」
コノハの不在を誤魔化すにはカノが必要で、閉じ込められたのは完全に予想の範囲外で。誰も悪くなんてないのだ。そうぼやきながら、カノは額をセトのそれと重ねる。
「……無事で、良かった」
それは、心からの言葉だ。セトはフワフワとする感覚に耐え切れず、目を閉じた。
「……心配性っす」
昔からキドとカノはセトに対して過保護だ。それはセトが三人の中で一番小柄で、引っ込み思案な性格だったからだ。成長して、セトは背が一番高くなったし、人付き合いも良くなった。それでもそんな過去を知る幼馴染たちは、セトの心配をやめない。
「心配するのは当たり前でしょ―――大切なんだから」
大切な、家族だから。カノの言葉をそう解釈したセトの胸が、ツキリと痛んだ。それを誤魔化すように、セトは咄嗟にカノの胸を押して、彼の身体を引き離した。
「セト……?」
「あ……」
驚いたカノの声に、セトは思わず肩を竦める。顔を伏せているので表情は解らないが、どうしてだか、傷つけてしまったような気がして。
「……やっぱり、シンタローくんが……」
「え?」
何故そこで、シンタローの名前が出てくるのだ。意味が解らなくて、セトは慌てて顔を上げた。それと同時に腕を強く引かれ、気が付いたときにはすぐ目の前に、目を閉じたカノの顔が合った。
「……!」
キスをされているのだと、セトが理解すると、カノはさっさと身体を離す。呆然とするセトにニッコリと笑いかけて、カノはお大事にと言い残してから、カーテンの向こう側へと姿を消した。
一人残されたセトは呆然と、重なっただけの唇に触れる。もう何がなんだか、解らない。
「……何で、欺いてたんすか……」
こんな行為、ビジネスライクでしかないのに。もう何度もした、慣れた行為なのに。どうして今更、触れた場所が熱いと感じるのだろう。どうして、触れた後に彼が見せた赤い目が、酷く哀しく感じるのだろう。
「カノ……」
―――そう言えば、あの時は誰が助けてくれたのだっけ
ほんの一部、冷静だった頭の片隅で、そんなことを呟いて。セトは重力に従うまま、布団に顔を埋めた。



翌日には、セトはもう普段のように歩き回っていた。ただ、過保護な二人からの待機命令は解けず、軍服の上着は羽織らぬまま、医務室でマリーの手伝いをするだけだが。
お昼近くになって、そう言えばまだシンタローに昨日の礼をしていないことに気づき、セトはキドから聞いた彼の居場所に向かった。談話室である。
「シンタローさん?」
談話室に人影は見えない。セトはキョロキョロと視線を動かしながら彼の姿を探す。探し人は、ソファの上で無防備な姿を晒していた。
雑務の途中だったのか、ソファ近くのローテーブルの上には、書きかけ書類とペンが転がっている。右腕を枕にして横になるシンタローの姿に、セトは思わず笑みを溢した。何となく、彼の意外な一面を見た気がする。
礼を言うつもりで来たが、後にしておいた方が良いか。そう思い、セトは踵を返した。その時、う、と小さな呻き声が聞こえた。
そっとソファを覗きこむと、シンタローは魘されているのか表情を歪め、ぎゅっと自分の胸元を握りしめている。起すべきだろうか。セトは躊躇いつつ、彼の肩を揺すろうと手を伸ばした。汗をかくシンタローはフルリと息を吐いて、唇を戦慄かせた。
「アヤ……ノ……」
「え……」
まさかその名前が彼の口から出るとは思わなくて、セトは思わず硬直した。その瞬間、カッとシンタローが括目する。
「!」
息を飲む間もなくセトは腕を引かれ、ソファに押し倒された。セトの腰を跨いだシンタローは彼の首に手を当て、大きく息を吐く。引かれた腕は手首を強く握り、ソファに押し付けられている。シンタローの額から零れた汗が、セトの頬を叩いた。
「シンタロー、さん」
目が、可笑しい。
まだ夢見心地なのだろうか。ぐるぐると渦を巻きそうなどんよりとした黒目を見つめ、セトは徐に掴まれていない方の腕を伸ばした。汗をかいているのに、触れた彼の頬はやけに冷たかった。
「……セト」
その温もりで我に返ったのか、シンタローの瞳に光が戻る。次いで自分の体勢を理解し、慌てて身を引いた。なんだか最近こんなことばかりだなぁ、と呑気に思いながらセトは解放された身体を起した。
「シンタローさん、お疲れさまっす」
「……ああ」
「それと、昨日はありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、シンタローは何故か類を見ないほどに赤面し、さっと顔を背けた。
「あ、あああ!き、気にするな!」
妙に裏返った声だ。はて、とセトは首を傾いだ。確かに先ほどの体勢は近かったが、そこまで赤面するほどであろうか。
「……もう、身体は大丈夫なのか」
「え、はい」
お蔭さまで、とは言うものの、シンタローは依然としてセトの方を見ようとしない。まだ耳が赤いから、顔の色は戻っていないのであろう。
「ごしゅじーん!言わないなら言っちゃいますよー!」
ぽん、とポップコーンのようにシンタローのポケットから飛び出した携帯端末が、セトの手に収まる。何とか包んでキャッチしたセトが画面を覗きこむと、エネは悪戯っ子のようにニシニシと笑っていた。シンタローは何かを叫んでいたが、焦りのせいか呂律が回っていない。エネはシンタローの弱みを、何か握っているのだろうか。少し楽しくなって、セトはエネのように悪戯っぽく笑った。
「何すか、教えてくださいっす」
「わあああ!やめろ、馬鹿!」
セトから携帯端末を取り返そうと、シンタローは腕を伸ばす。だが彼もいい加減学んだのか、セトが後ろへ少し下がった時点でその手を止めた。押し倒す体勢になることを避けたのだろう。それが可笑しくてエネと一緒にセトが笑うと、シンタローは真っ赤な顔を悔しそうに歪めた。
「少尉さん、耳を」
「ん、こうっすか?」
「やめろ、セト!」
お前も後悔するぞ!―――そんなシンタローの制止も虚しく、画面に近づけたセトの耳にエネが囁く。さっ、とシンタローの顔から赤みが引いた。血の気が引いた、とも言う。
「―――です!」
ピタリと笑顔のままセトは硬直し、エネは益々愉しそうな笑い声を立てた。手遅れを悟り、シンタローはがっくりと肩を落とす。
ぎぎぎ、と錆びたブリキ人形のようにぎこちない動作で、セトはシンタローを見やった。彼の顔を見て、シンタローはまた頬に血が集まるのを自覚した。そして同時に、救えないと己に向けて悪態を吐き捨てる。
―――人工呼吸ですけど、ご主人と少尉さん、ちゅーしたんです!
恐らくエネが伝えたのは、このような内容だろう。だが、それでどうしてそんな顔をするのだと、シンタローはセトを怒鳴り散らしたくなる。
人工呼吸だ、仕方ない。それにお前は初めてじゃないんだろう、と言ってやりたい。
何故、そんなにも恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてくれるのだ、セトは。勘違いしそうになる己を奮い立たせるため―――後から考えれば十分混乱していたのだろう―――シンタローは全力で自分の頬を殴り飛ばした。
「シンタローさん!?」
「ぷ、あーはははは!」
ふらつく意識の隅でシンタローは、慌てるセトの声と、堪え切れず爆笑しだすエネの声を聞いていた。
結局彼が意識を完全に飛ばすことはなく、今度はデスクワークと謹慎処分で鈍った己の筋力について落ち込むことになるのだった。

マリーがセトと出会ったのは、彼が軍に所属して間もない頃だった。とある事情から、セトはキドやカノと共に、孤児院へと一時帰宅していたのだが、そんな折、たまたま外出していたマリーと出会ったのだ。
絶対に人間に会ってはいけない―――そう母親から固く言いつけられていたマリーは、いつも人目を避けて外出していた。しかし、何故かセトには見つかってしまったのだ。
後から考えれば、当時の彼は埋め込まれた『目を盗む蛇』の能力を制御できないでいたから、自然とマリーの声を聞いてしまったのだろう。
「……君、なの?泣いていたのは」
開口一番、セトはそう言った。
そんなことを言って、何よりも自分の方が泣きそうに顔を歪めているくせに。けれど彼の、薄ら張った水の膜によってとろりと溶ける赤を、マリーは美しいと、そう感じた。そして、同時に思ったのだ。
「『この子は受けだ』―――って!」
「台無しだよ」
途中まで感動話を期待していた自分が阿保らしい。ヒビヤは大きく息を吐き、頭に手をやった。
カーテンの向こう側で眠るコノハを一瞥して、マリーが淹れてくれたココアを啜る。
何となく沈黙が痛くて振った話だったが、話題を間違えたらしい。そんなヒビヤの頭痛を知らないマリーは、晴れ晴れとした笑顔で紅茶を飲んでいる。
「まあそんなことは置いといて―――私はセトに、すっごく感謝してるの」
人間は怖い生き物、自分は独りぼっちで生きる運命―――そう思い込んでいたマリーに、それが間違っていたことを教えてくれたのだ。
まず、セトはキドとカノに会わせてくれた。それから、軍に保護の名目で連れ帰ってくれた。
メデューサの血を引くマリーは『カゲロウプロジェクト』を躍起になって進めようとする軍にとって、手に入れておきたい研究材料であった。当然、そんなところへ連れ帰るのは危険が伴い、キドたちも難色を示していたらしい。けれど、こんな森でずっと一人でいるよりは、とセトも譲らなかったのだ。
マリーはメデューサの一族と言えど、人間と混ざりあった混血だ。既に軍が保有していたメデューサより格段に力は劣るということと、セトが守ると言ってくれたこともあり、何とか首を縦に振ってくれた。
「それで一○七大隊の医療班ってことで認められたの」
聞けば、そこに至るまでも何度かキドやカノの裏工作があったらしい。能力の有効活用と言えばそうだが、と少々複雑な気分に陥るヒビヤである。
「セトに会って、キドとカノに会って、モモちゃんとお友達になって、ヒビヤくんと仲間になれて、シンタローやコノハと知り合えた!私が今幸せなのは、セトのお蔭なの」
胸の前で指を絡め、マリーはしみじみといった風に呟く。心から幸せなのだと、そう感じさせる姿に、ヒビヤは思わず口元を綻ばせた。
「でね、私思ったんだけど」
紅茶のお代わりを注ぎながら、マリーはふと、と言った風に溢す。ミルクと砂糖の混じり合った湯気が立ち上り、ユラユラと曲線を描いては消えていった。話の流れのせいか、ヒビヤにはそれが蛇のように見えた。
「コノハも、メデューサの関係者なんじゃないのかな」
は、とヒビヤは思わず間抜けな声を漏らしたが、成程、その可能性も無きにしも非ず、か。そう独り言ちで、ヒビヤは顎に手を当てた。
軍上層部は一○七大隊を失うことは拒むが、ヒビヤたちが怪我を負っても一々口喧しくはならない。兵士が傷を負うのは、職務上避けられぬことだからだ。国の為に命を使うことは誉である、とは、軍人が使い慣れた文句だ。しかしコノハに関しては、その傷すら厭う。まるで、傷つけられたら中身も破損する―――そう、電子機器でも扱っているかのように。
その理由が、彼もメデューサの関係者というなら、頷ける。逃走したメデューサの代わりに、マリー共々利用するつもりなのかもしれない。
「でもそれなら、色々難癖つけて二人一緒に隔離しそうなものだけど」
現在保護という名目に収まっているのは、どういうことだろう。上層部としてもコノハには未知数な部分が多くて、迂闊に手が出せない。だから、同じ『カゲロウプロジェクト』の成果である一○七大隊に預け、その様子を見ているのではないか。ヒビヤは何となく、そう思っていた。
「案外、今回のことをそのきっかけにするつもりなのかもしれない」
カラリと扉を開いて、入室してきたキドが口を挟む。彼女は不機嫌そうに顔を顰め、何かの書類をヒラヒラと揺らしていた。
キドの背後に立つ憲兵の姿に違和感を覚え、ヒビヤはさり気無くマリーの前に立つ。
「キド、どうかしたの?」
「しくじった」
憲兵を入口に置いたまま歩み寄ったキドは、小さく舌打ちしながら持っていた書類をヒビヤに渡した。そこに連なる文字を目で追ったヒビヤは、成程と彼女の不機嫌の理由を悟り、苦々しく顔を歪める。覗きこんでいたマリーも察したようで、「そんな……」と呟く声が耳を擽った。

「失礼します」
キリッとした声が、談話室に響く。ざ、と音まで揃った整列。二人の間に流れていた空気が一気に冷える。シンタローとセトの睨みつけるような視線を受けながら、堅苦しい軍服をしっかり着込んだ兵士の一人が、一歩前に出て敬礼した。
「如月伸太郎中尉、瀬戸幸助少尉、御同行願えますか」
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