地下研究所
 コノハは夢を見た。遠い昔のことのような、酷く懐かしい夢だった。
 コノハは夢の中で『遥』と呼ばれていて、コノハをそう呼んだ目つきの鋭い少女と二人で笑い合っていた。四角いコンクリで閉ざされたそこは、しかし天井だけはなくて、真っ青な空がよく見えた。その下で、コノハと同じ真っ白な一枚の布で出来たような服を着ていた少女はその裾を翻して、コノハを呼んでいた。
「……ね」
 ふと口をついた単語を溢すと、少女は笑みを深くする。コノハは彼女に手を伸ばして――
「コノハ」
 それが触れる直前で目を覚ました。少しぼやけた視界に映るのは、隣で寝ていたヒビヤだ。彼はコノハを覗きこんで、起してしまったことを詫びた。何かを呟いていたので、魘されていると思い名前を呼んだのだと言う。コノハは彼に緩く首を振って、上半身を起した。ぽつ、と膝においた手の甲に何かが落ちる。
「……?」
 ぼんやりとしたままそれを見つめる。ヒビヤが、少し驚いた調子で身体を起した。
「泣いてるの?」
 何故。怖い夢でも見たのか。ヒビヤの問いに、コノハは暫し黙した後、また首を緩く振った。
「……解らないけど、でも、」
 ああ、きっと彼女が自分の――大切な人なのだ。



「そんな夢を?」
 問い返すマリーにこくりと頷いて、コノハはじっと彼女を見つめ返した。むむむ、と腕を組むマリーの隣で、セトも顎に手を当てて考え込んでいる。コノハの隣に立つヒビヤが、どうかな、と口を挟んだ。
「多分、失った記憶の一部だとは思うんだけど」
「そう考えるのが妥当っすよね」
「その女の子に会えれば良いんだけど……」
 それよりも、とセトは眉を顰める。彼が気になるのは、コノハが呼ばれていた『遥』という名だ。その夢が本当にコノハの記憶の断片としたら、遥が本名ということになる。それとも、渾名か何かなのだろうか。
 しかし、『遥』とは、何処かで聞いたことのある名前だ。セトの直接の知り合いではなく、もっと誰か、セトに近しい人の知り合いに。
「あとはその夢の場所に行くとか……」
「それって、あの元病院?」
「まあ、元々見つかった場所でもあるし、行ってみて損はないと思うよ」
 問題があるとすれば、保護という名目でここにいるコノハの外出が許可されるか否か、それだった。
 セトは眉根を下げて笑う。
「それは……無理、じゃないっすか……?」
 セトの想像通り、キドとシンタローは一つ頷き、
「無理だな」
 簡潔にそう言った。セトは乾いた笑い声を上げる。
「ですよねー」
「だが……」
「?」
 意味深に言葉を止めるキドに、セトとマリーは揃って首を左に曲げた。

 微睡んだ頭を刺激する香りが、湯気に混じって立ち上る。並べた小皿から、クッキーを一つ摘まんで齧る。珈琲に合うよう大分甘くしたから、舌が麻痺するようにじんわりと滲んだ。そんな優雅な休憩時間、のんびりと落ち着いた雰囲気を楽しみたいのに、隣から漏れる不満げな空気が邪魔してくる。
 キドは、珈琲を啜った。
「いつまでぶすくれているつもりだ――コノハ」
「……態とだよね、キド」
「いやいや。お前は今コノハだろ、『カノ』?」
 澄ましたキドの態度にまた少し頬を膨らめて、カノは頬杖をついた。
 現在『目を欺く蛇』の能力を発動している彼は、コノハの姿に欺いている。キドの案で、コノハの身代わりを務めているのだ。本人はコノハの外出の付き添いがセトであることに、不服であるらしい。キドはこっそり嘆息した。
「セトとコノハとヒビヤとキサラギ……何処に嫉妬する要素があるんだ」
 独占欲ばかり強くて、全く困った幼馴染だ。
「でも私も拗ねるよー!」
 ガバリ、と椅子に座っていたキドの背後からマリーが抱き着く。
「私も一緒に行きたかった!」
「我慢しろ。保護対象が同時に二人も外出したら、警護しきれないだろ」
「解ってるけどー!」
 どうどう、とまるで動物を宥めるように言って、キドは尖るマリーの唇にクッキーを押し付けた。途端に彼女は晴れ晴れとした笑顔を浮かべ、それを一口に頬張る。ほのぼのとした空気が立ちはじめる中、カノはそれを阻止するようにだん、と机を叩いた。
「嫉妬もしますさ! よりにもよって……」
「あ、お菓子!」
 私も貰っていいですか? と、目を輝かせながら現れたのは、モモだ。カノの背後に立つ彼女にキドは一つ頷いて、マリーにしたように摘まんだクッキーを差し出す。モモは少し身を乗り出して満足そうにそれを頬張っており、その際に圧されて机に額をぶつけたカノのことは知らん顔だ。
「キサラギって、『あっち』のキサラギかよ……!」
 しかし、後頭部に押し付けられた膨らみをちっとも役得と思えないあたり、色々と危ないカノである。

「……!」
「どうかしたんすか、シンタローさん?」
「い、いや……」
 隣で肩を震わせたシンタローを、セトは不思議そうに見やる。シンタローは首を振って返し、何故か走った悪寒の余韻を消すように腕を擦った。

「ていうか態とだよね! キド、シンタローくんのこと『キサラギ』なんて呼ばないじゃん!」
「だってお前、絶対ついて行こうとするだろ」
「そりゃあね!」

 硝煙とスモッグの立ち込めるこの街の空は、いつだって曇天だ。視界に広がる荒れた風景は、夢でみたそれよりも色褪せていた。
「どう、コノハ?」
 暫く呆然と突っ立っていたら、ヒビヤが横から顔を覗かせた。軽くトリップしていたコノハは、ハッと我に返る。
「うん……ちょっと違うけど、ここだと、思う」
「てことは、やっぱり、コノハはここにいたんだね」
 ふむと顎に手をやるヒビヤ。コノハは彼の背後にセトたちがいないことに気が付いて、億劫気味に首を傾いだ。それを目敏く見つけたヒビヤが、ああ、と頷く。
「あの二人なら、地下だよ」

「うえー、埃っぽいっすね……」
「ヒビヤの報告通り、か」
 ごほ、と咳を溢しながら、セトは恐る恐る部屋へ足を踏み入れる。片手は常に軍刀に触れており、異常があれば抜刀できる体勢だ。
 彼の前を歩くシンタローはライトを片手に、ずかずかと歩いていく。まるで無神経なその様子に、セトは思わず呆れた。
 シンタローは肩に細長いバックを下げている。キドの話によれば、中身は刀らしい。自分よりも抜刀に時間を要しそうな状態であることが気になるが、それよりも、とセトは部屋に意識を戻した。
 軍の中会議室と、同じくらいの広さか。狭いと感じるのは、部屋の大部分を占める機器の配線やらのせいだ。大がかりな実験をするには、聊か心もとない器具のような気がする。
「多分、この病院の閉鎖と共に何処かへ移動したんだろうさ」
 セトの疑問に答えるように、シンタローが言った。彼は頻りに辺りへライトを滑らせて、何かを捜しているようだ。やがてそれはパソコンだったらしく、シンタローは積もる埃を手で払った。
「旧式か……」
「データが残ってるんすか?」
「解らねえ」
 持ち帰って調べないことには、とシンタローは言うけれども。
「……これ、スーパーコンピュータってやつじゃないっすか?」
「……そうだな」
「……こんな大きなもの、持って帰れないっすよ」
「……そうだな」
 ここまで乗り付けた軽自動車には、どう頑張っても積み込めないだろう、大きさ。荷台付の軽トラでも引っ張ってくれば良かったか。いやしかしあれは貸出用書類を提出しなければならず、それでは色々とまずい。内密にしていることが上にバレてしまう。
 どうしたものかと二人は肩を落とした。暫く沈黙していたシンタローは、あーと唸るように声を上げると、ガシガシと頭を掻き毟った。
「……やるか、ここで」
「え、でも電気通ってないっすよ?」
「それくらいの細工なら、できる」
 言うが早いか、シンタローは袖を捲ると、そこらに転がる工具から使えそうな物を拾い上げ、作業に取り掛かった。埃で軍服が汚れるのも構わず膝をついて配線を弄る彼を、セトはどうしたものかと頬を掻いた。辺りをそれとなく見回しても、セトに出来ることはなさそうだったので、その場にしゃがんでシンタローの作業を見守ることにする。
「――っし、できた」
 数分後、シンタローは大きく息を吐いてそう言った。おお、とセトが呟く間もなく、彼は内ポケットから取り出した何かを、手際良くコンピュータと繋げる。はて、とセトは首を傾げながら、物凄い勢いでキーボードを操作するシンタローの邪魔にならないよう、そっと彼の肩越しに画面を覗きこんだ。そして目を丸くする。
「……どうだ、エネ」
「特に目ぼしいものは……」
「ゴミ箱とかも漁れよ」
「――何すか、これ」
セトは、思わず声を溢していた。ハッとシンタローの身体が硬直し、画面の中から「あちゃー」と何とも可愛らしい声がする。そう、画面の中の青い少女が、まるで生き物のようにシンタローと会話していたのだ。
「え、シンタローさん。これ、」
 この容姿は、確か昨日の会議で報告された、新種のウイルスデータではなかっただろうか。ウイルスというより、ハッカーの使用するアバターのようなものだと聞かされた気がする。これをシンタローが使用しているということはつまり。
「初めまして! ご主人がいつもお世話になっております、電脳空間アイドル、エネちゃんですよー!」
 アバターにしては、随分と好き勝手動く少女だ。まるで、データそのものが人間であるよう。
「あー、言っておくが、コイツはハッカーのアバターじゃねぇぞ」
 頭を掻いて唸っていたシンタローが、ようやっとまともな言葉を発する。そう言えば、あの会議には当然、中尉であるシンタローも出席している筈で。その時いくらでも弁明は出来ていた筈だ。
「……シンタローさん、スパイなんすか?」
 我ながら、ストレートすぎたと思う。事実、エネは噴き出し、シンタローは若干呆れた目を向けてきた。
「違う……けど、軍のデータベースをコイツが探っていたのは、俺の指示だ」
 理由は聞くな、ということらしい。シンタローの隣にしゃがみ、セトは小さく頷いた。
「で、私についてなんですけど、まあ、人工知能プログラムだと言っておきましょう」
 カラッと笑うエネにつられ、セトも笑う。
「エネちゃんっすね、よろしくっす。俺は……」
「瀬戸幸助少尉。知ってますよー」
 よろしくです、とエネはニコニコ笑って手を振る。画面の中にいては握手が出来ないから、その代りのようなものなのだろう。セトも小さく手を振ってそれに返した。
「エネ、それで解析は直ぐにできそうか?」
「大方のデータが抜かれて、空っぽですからねー。出来ても、それほど収穫ないかもですよ?」
「何だっていい。藁だって掴みたいんだよ」
「了解です」
 ぴ、と敬礼してエネは身を翻す。次の瞬間、彼女の姿は消えた。データを探しに行ったのだとシンタローが説明した。
「人工知能プログラムっすか……シンタローさんが作ったんすか?」
「まさか。アイツが自分から入ってきたんだ」
 この中にな、とシンタローは、コードによってコンピュータに接続されたままの携帯端末を振って見せる。
「俺にもアイツにも目的と事情があって、それを果たすための利害と行動が一致したから、力を借りているだけだ」
 そしてそれはきっと、軍の意向に反するものなのだろう。薄暗い室内で爛々と輝くブルーライト。それに照らされたシンタローの横顔を、セトは思わずじっと見つめた。
 あまりにもあからさまだったのか、少し居心地悪げに身を捩って、シンタローは何だと問うた。いや……、と呟き、セトは自分でもよく解らない蟠りに胸を押さえる。
「……シンタローさんて、あの事件のとき、軍にいたんすよね」
 ぴく、と彼の肩がほんの僅かに揺れた。しかしその動揺も一瞬のことで、セトに視線をくれぬまま、シンタローは低く肯定の声を呟く。
「じゃあ……――会ったこと、あるっすか?」
 え、とシンタローは思わず間抜けな声を漏らしてセトを見やった。膝を抱える腕に顎を乗せ、セトはじっとシンタローから瞳を逸らさない。
「……お、」
「ごっしゅじーん!」
 ぴん、と張った糸を、エネのテンション高い声が無情にも断ち切った。シンタローとセトは二人揃って大きく肩を揺らし、見つめ合っていたことに急に恥ずかしさを覚えて、赤くなった顔を同時に伏せた。
「ちょっともう、人が働いている横でいちゃつかないでくださいよー」
「いいいいいちゃ! てか、今の態とか!」
「死亡フラグを折って上げたんですよーぅ」
 猫目大尉さんに知られたら怖いですねー、と心底面白そうにエネが言うものだから、シンタローはさっと顔を青くした。成程、ここに来るときに感じた悪寒も、彼のせいか。
 赤から青に顔色を変えるシンタローの横では、セトが未だ赤い顔を隠すようにフードをかぶって丸くなっている。ぐるぐると、能力を使った時のように頭の中で渦が巻いて、もう訳が分からない。カノと見つめあうのは平気だったのに、慣れというやつだろうか。
 両者の反応を十分に堪能したエネは、それよりも、と可愛らしい咳払いを溢した。
「ご主人、こんなものが」
 エネが画面一杯に広げたファイルに、シンタローは目を細める。セトも少し首を伸ばしてそれを覗き、流れる文字列に眉を顰めた。
「――『XXXX年X月X日、被検体No.9の身体を破棄。脳を人造体に移植――XXXX年X月X日、被検体No.6生命活動低下。神経プログラム記録後、停止を確認』――これ、日記っすか?」
「正確には研究記録だな」
 それも、人体実験の。日付は、あの事件より後のものだ。
「まさか、これがコノハに関する記録っすか?」
「まだ解らない」
 どうも、実験の最終段階まで残った被検体は二つようだ。No.9とNo.6――このどちらかがコノハのことで、どちらかは、恐らく。
 かつ、と小石を踏む音がした。思考の海に沈んでいたシンタローはハッと我に返った。 部屋の入口に、ヒビヤとコノハが立っている。二人の用事は終わったのだな、とのんびり思っていたセトは、しかしコノハの様子に違和感を覚えた。
「コノハ?」
 ヒビヤも名を呼ぶが、コノハの視線はある一点に釘づけだ。その視線の先であるコンピュータの画面、そこに浮かぶエネも、先ほどまではコロコロと変わっていた表情を凍り付かせていた。
「……誰?」
 ヒビヤもエネの姿に気が付いたらしく、小さく眉を顰める。コノハはゆっくりと足を進め、何かに伸ばすように手を浮かせた。
「君は……」
「……――」
 セトはそれを、聞き逃さなかった。『遥』と、彼女は確かにそう呟いたのだ。自分を見つめたまま苦痛に顔を歪め、倒れるコノハから、ずっと目を逸らさぬまま。

「カノさんは、セトさんのことが好きなんですか?」
 クッキーを頬張りながらモモが発した言葉に、カノは紅茶を噴き出しそうになった。よくぞ耐えた自分、と心中呟きながら、カノはコホと咳を漏らす。
「直球だねー、キサラギちゃん」
「その話、私も聞きたいな!」
 両手の指を絡め、カノの向いから身を乗り出さんばかりの勢いで、マリーは目を輝かせた。ああそうだ、彼女はそういう趣味だった。カノは欺くことも忘れて頬を引きつらせた。キドに助けを求めて視線をやるも、幼馴染の大佐は我関せずといった風に珈琲の香りを楽しんでいる。カノは溜息を吐いて、紅茶に浸したティースプーンを回した。
「……好きだよ。向こうがどう思っているかは、知らないけど」
 恐らく毎度雨の日に行うことも、利害が一致しただけの、ビジネスライクの延長線だと思っているのだろう。
「セト、鈍感だもんねー」
「ていうか、告白はしたんですか?」
 マリーはふぅ、と紅茶の湯気を息で揺らす。モモは口端にカスをつけたまま、次のクッキーへ手を伸ばしていた。
「……してないよ」
 キドはちらりと視線を上げた。それに気づいたのか、カノはニコリと笑いを返してくる。それは幼馴染という腐れ縁のキドだからこそ気付けた、彼の取り繕った表情だった。
「駄目だよ、カノ!」
 ばん、と机を叩いて立ち上がり、マリーは熱っぽく拳を振り上げた。
「幼馴染だからしょうがなくセフレになってくれてるんじゃないか、実はもう勘弁してほしいと思っているんじゃないか、彼に迷惑だからいい加減カノ離れしないと……けどいざ本人を前には言い辛いし、この関係を終わらせたくない自分がいる、もう訳が分からないよ! ――って一人悶々と悩むセトには、優しく愛の言葉を囁くのが一番の薬なのに!」
「……どこからが妄想?」
「……全部だろう」
 あはは、と笑ってカノはこっそり嘆息する。マリーの妄想癖は、今に始まったことではない。仲間内の恋愛話になると、特に熱が入るのだ。しかも、それが最も親しいセトのこととなれば。
「私の勘では、シンタローともフラグ立ってるよ。早くしないと、取られちゃうよ!」
 流石、鋭い。先日の書庫での一件を思い出し、カノの笑顔はもう欺ききれないくらいに引き攣った。
「まさかぁ! あの童貞コミュ障の駄目兄に限って!」
 笑いながらモモは、実の兄に対して酷評を述べている。口端についたカスをぺろりと舐めて、彼女はそれに、と言葉を続ける。
「お兄ちゃん、好きな人いるよ?」
「セトのこと?」
「なんでやねん」
 あのモモが突っ込んだ。キドとカノはモモの衝撃発言よりも、そちらの方へ意識を奪われてしまった。
「ウチの近所に昔、孤児院があったんだけどね、そこの院長先生の娘さんとお兄ちゃん、年が同じだったこともあって、仲が良かったの」
 一度二人きりで話している姿を見たが、あれは完璧に惚れている様子だったと、モモは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「その人は今、どうしてるの?」
 ようやっとストンと椅子に腰を戻しながら、マリーが訊ねる。紅茶を啜って、モモはうーんと顔を顰めた。
「私もお兄ちゃんも結構早くから軍に入って、中々会えなくなっちゃったからなー……それにほら、謹慎処分のこともあったし」
 兄から彼女の名前を最後に聞いたのは、あの事件が起こった年の初めだったか。以来、何となく訊ねるのも話題に上げるのも憚られている。
 あのシンタローにも淡い恋の想い出があったのか、とのんびり紅茶と珈琲を啜っていたカノとキドはしかし、モモの、そう言えば、に続いた発言のせいで口に含んでいたそれを噴き出した。
「その娘さんとセトさん、何処となく似てるかも」
 黒髪とか、ピンつけてるとことか……と後に続く彼女の言葉を、二人は殆ど聞いていない。気管に入った液体を吐き出すのに夢中だったからだ。やっと収まってから顔を上げたカノの目の前には、キラキラと目を輝かせたマリーがいた。
「カノ、これはいよいよ急がないとね!」
 すっかり気疲れしたカノは欺く余裕もなく、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。ごほ、と噎せたキドが、弾みでティースプーンを床に落とすのを、目の端で捕えながら。

 かこん。倒れたコノハの傍らに膝をつくと同時に、ヒビヤの耳はそんな軽い音を捕えた。さっと視線を走らせた先に見えたのは、手榴弾。
「――伏せて!」
 咄嗟に声を上げ、ヒビヤはコノハの身体を引いて部屋の奥に飛び込んだ。それを見て、シンタローもセトの腕を引いてその場に伏せる。その瞬間、爆発音が轟いて建物が揺れた。パラパラと降りかかる欠片を、頭を振って払いながらセトは身体を起そうとして、しかし乗り上げる何かにそれを阻まれた。
「大丈夫か?」
 シンタローの声がやけに近くで聞こえる気がする。そう思いながら大丈夫だと返そうと首を回したセトは、
「……!」
 鼻先が触れあうほど間近にあった彼の顔に、さっと赤面した。どうやらシンタローが咄嗟にセトを抱きしめて衝撃から庇ってくれたらしい。セトの反応で自分たちの状態を思い出したのか、シンタローも赤面し慌てて身を退ける。
「悪い……」
「いえ、あ、ありがとうございます……」
「え、エネ! 大丈夫か!」
 誤魔化すように裏返った声を張り上げて、シンタローは瓦礫に埋まったコンピュータに呼びかけた。ご主人ー!と呼ぶ声は、瓦礫の隙間に挟まった携帯端末から聞こえる。シンタローはそれを慎重に引き抜き、大きな傷がないことを確認してホッと息を吐いた。
「ギリギリ戻れましたー」
 エネはふーと額の汗を拭う。あと数瞬遅ければ、コンピュータごと潰されていただろう。先ほどの研究記録も一緒に、何とか携帯端末に戻れたらしい。
「良かった……そしてよくやった」
「ご主人も」
「?」
「ラッキースケベ」
 にしし、と笑うエネに何のことか察したシンタローは、また顔を赤くした。ぱちん、と画面を指で弾くが、画面の中の彼女にどれだけのダメージが伝わるかは解らない。
「セトさん、シンタローさん! 大丈夫?」
 ライターを灯りに、ヒビヤが二人のもとへ駆け寄って来た。背中には気絶したままらしいコノハを抱えている。
 ヒビヤに頷き返し、セトは身体を起した。シンタローたちの近くに膝をつき、ヒビヤは背負っていたコノハを瓦礫に立てかける。
「今の爆発で、入口が塞がれた」
 ふむ、とシンタローは顎に手を当てた。つまり自分たちは、ここに閉じ込められたということか。あの時見えた閃光と音は手榴弾のものだった。誰かが意図的に投げ入れたのだ。
 シンタローたちを殺したかったのか、ここを爆破したかったのか――その両者か。
「兎も角、色々聞きたいことはあるけど……」
 ちらりとシンタローの手にある携帯端末を一瞥し、ヒビヤはここから脱出することが先決だと腰を上げた。
「あてがあるのか?」
「あるわけないでしょ」
 シンタローの問いに、ヒビヤの返答は素気ない。つくづく生意気な少年である。モモの日頃の愚痴を思い出し、シンタローは苦笑いを浮かべた。
「ヒビヤくんの爆弾で、爆破出来ないんすか?」
「一応威力の強い改造手榴弾は持って来ているけど……この状態で爆破したら、脱出よりも先に建物が崩れてペシャンコになるよ」
 ヒビヤの言葉に、セトはガクリと肩を落とす。ふと、シンタローは部屋の壁を這う道管に目を留めた。電子機器の配線に混じるそれは、どうやら壁を突き抜けた外へ繋がっているらしい。太さ、そして這っている場所から推測するにあの管は――
「水道管か……!」
 シンタローは立ち上がると、道管の出入口である一方の壁に駆け寄った。壁に耳を当て、僅かな水音を確認する。
「ヒビヤ、威力が弱めの手榴弾もあるか?」
「改造してないやつ?」
 あるけど、とそれを取り出すヒビヤに、壁を爆破するよう言う。少々眉を顰められたが、ヒビヤは素直に栓を抜いて手榴弾を投げた。ぼん、と音がして壁が粉砕する。立ち上る埃から顔を庇いながら開けた目に映った風景に、シンタローはニヤリと笑った。セトたちも驚いて彼の隣に駆け寄り、壁の向こう側に広がる空間を見つめた。
「地下水道……すぐ脇を通ってたんすか」
 ここを伝っていけば、地上へ繋がる出入口を見つけられる筈だ。問題は左右に足場がないため、必然的に水の中を泳ぐ形になるということ。ドロドロと濁った水が流れているが、今は贅沢を言っている場合ではない。
 携帯端末は防水機能が搭載されていない。もしこれが破損すれば、中にいるエネまで傷つく。シンタローは上着を脱ぐと、何重にもなるようにそれで携帯端末を包んだ。
「エネ、悪いが、そこで大人しくしてろよ」
「ご主人……」
 不安げなエネの声が聞こえる。それを頭に乗せようとしたシンタローに、ヒビヤからズイと何かが差し出された。それはビニル製の黒い袋だった。
「これ使って。防水加工がしてある。火薬が湿気ないように、いつもそれ使ってるんだ」
 彼の足元には、袋から出したらしい爆弾が転がっている。どうせ泳ぐなら身軽の方が良いから、必然的に最低限の持物以外はここに置いていくことになる。シンタローは礼を言ってそれを受け取り、上着ごと携帯端末を袋に突っ込むと、口を閉じる紐で固く腕に縛りつけた。
「コノハは僕に任せて」
「大丈夫か?」
「馬鹿にしないでよね」
 二人分の上着でコノハを背に括り付け、ヒビヤは先に水へ飛び込む。彼の身体は一度水へ沈んで、しかしすぐ水面に頭が浮かんだ。
「結構深いかも」
 口端に垂れる汚水を唾と一緒に吐き、ヒビヤは言う。それに解ったと返し、バッグと袋をしっかり身につけると、シンタローも水に足を浸けた。
「セト?」
 ふと後ろを振り向けば、未だこちらへ来ようとしないセトの姿がある。彼は怯えたように眉を下げ、胸元できゅっと拳を握った。
「お、俺、昔溺れたことがあって、その、水が苦手で……」
 最後は消え入りそうな声だった。シンタローは小さく息を吐いて、彼に手を差し伸べた。
「俺の手を、しっかり握っていろ」
 俺が連れて行ってやる――力強く感じるシンタローの声に少し目を見開き、セトは意を決したように彼の手を掴んだ。
「行くぞ。ヒビヤ、はぐれるなよ」
「解ってる」
 水底にはシンタローでも足が届かない。背に負ぶさり首に腕を回すセトの温もりを感じながら、シンタローは小さく息を吸った。
 不純物が混じっているからだろう、どろりと粘性のある水をかき分けるには、かなりの力を使う。浮力があるとはいえ背負う重みもあって、シンタローの体力はガリガリと削られていった。
 それはヒビヤも同じだろうに、彼はまだ弱音を一つも吐いていない。年下に負けていられないと唇を噛みしめ、シンタローは腕を動かした。
「……あった」
 前方にようやっと待ち望んだ地上へ続く梯子を見つけ、シンタローはほっと息を吐いた。それがいけなかったのか。
「! うわ」
 シンタローの丁度横の壁に空いていた穴から、汚水が流れ込んできたのだ。どうやら、定期的に水の移動が行われていたらしい。
「シンタローさん!」
 少し先を泳いでいたヒビヤは波に揺られるだけで、特に影響は受けなかったようだ。巻き込まれて頭まで水をかぶりながら、シンタローは先に上がれ、と声を飛ばす。それに彼が頷くのを確認すると同時に、シンタローは波に絡めとられた。
 どぼん、と頭まで沈むと、背中にあった温もりが離れるのを感じる。慌てて振り返ると、薄く開いた視界に、息ができないのか口元を押さえて丸くなるセトの姿が映った。
「……!」
 ごぼ、とセトの口から大きな泡が零れる。四肢に絡みつく水が、底へ底へとセトを引きずりこんでいく。息苦しくなって、視界も霞んで。セトは、ふ、と意識が遠のいていくのを感じた。
「……」
 ぱし、と投げ出した腕が誰かに捕まれる。次いで口に当たる温もり。すぅ、と酸素が口から肺に滑り込んで、息苦しさが緩和される。セトは、身体を抱えられ引き上げられる感覚を最後に、今度こそ意識を手放したのだった。
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