真白の青年
 白い青年は、何も覚えていないと言った。唯一頭に残るのは自分の名前らしき『コノハ』という単語だけ。何故あの部屋に居たのか、その他諸々の質問には目を伏せて、解らないと答えるばかりだ。ただ、
「……誰かを、探して、いるような」
 そんな気がするのだとも、言っていた。



 当たり前だが後日、独断行動に出た二人には反省文の提出が義務つけられた。シンタローはモモではなくヒビヤが率先して動いていたことに頭を痛めたらしいが、彼自身も思うところがあったらしく、程々にしておくよう注意をするに留まった。それにヒビヤには、それを取り返すだけの働きがある。
 それよりもシンタローの胃を痛めるのは、セトたちが逃がしてしまったというテロリストだ。見張りの二人を排除した後、徹底的に建物内を洗ったが、見つからなかったのだと言う。
 爆弾は合流したヒビヤによって解除されたが、何れもかなり高性能なものであったらしい。物質の化学変化で爆発を起こすから火薬を使わず、そのため臭いによる捜索が難しい。
「これ作った人、狂ってるよ」
 全てを解除し終え、額の汗を拭ったヒビヤは、開口一番にそう言った。
 設置された数が尋常ではない。正常に起動すれば、建物が粉と化すほどの大爆発が起こった筈だ。主犯の話では、これを作ったのは研究者気質の男であるらしい。これは近い内にド派手な爆弾テロが起きるのでは、と容易に予測できる。
「……」
 机に肘をついた手で口元を覆い、シンタローはトンと指で机を叩いた。
 研究者気質の爆弾魔、しかもかなりその方面の知識に精通している――この二つがシンタローの脳内で合致し、とある解答を導き出す。
「……まさか、な」
「何か思い当たることでも?」
 手元に影が射すのとそんな声がかけられるのは同時で、シンタローは思わずビクリと肩を揺らした。決まりの悪さに顔を顰めながら首を回すと、スチル製のコップが差し出される。珈琲の渋い香りが湯気と共にシンタローの鼻孔を擽った。
「……何でもねぇよ」
 キドからそれを受け取り、シンタローは素気なく返す。キドもそうか、と呟いて自分用のコップに口をつけた。
 申し訳程度に砂糖とミルクの混じった珈琲は、シンタローの舌には少々合わない。一口二口飲んで、彼はそれを机に置いた。
 窓の外では、とろりとした雨粒が地面や硝子を叩いて、ちょっとした曲を奏でている。酷くないそれは、しかし明日の朝までは続きそうだ。二人の間に会話はなく、雨垂れのメロディーだけが部屋を満たしていく。
 ふと、先に口を開いたのはキドだった。
「……コノハの身柄は、ウチで預かることになった」
 シンタローは視線だけ彼女にやる。机に半分腰を下ろしていたキドの顔は、シンタローの位置からでは見えない。しかし目で彼が問うたことは、キドは初めから予想していたようだった。
「赤くなったんだよ、アイツの目」
 シンタローの瞳孔が、僅かに広がった。

 コノハは医務室の回転椅子に座り、目の前にある窓を叩く雨粒を、呆然と見つめていた。
 彼がここのベッドで目覚めたのはつい昨日のことで、モモたちが発見してから丸一日が経っていた。
 目覚めたとき傍にいたのは、この医務室の主であるという白い少女と、丁度訪問していたという黒髪の青年、それとコノハを発見したという茶髪の少年だった。『コノハ』という頭の中に唯一残る単語を名乗ったは良いものの、それ以外彼の中には何もなかった。誰か大切な人がいたような、そんな気はするのだけれど。
「これ、飲めば」
 ずい、と突き付けられるスチル製のコップから立ち上った湯気が、コノハの鼻を掠める。きっと真一文字に結ばれた口と、若干皺の入った眉間。警戒しているのか、少年の表情は固い。
「……ありがとう」
 けれどそれは自分も同じなのだろうなと思いながら、コノハは彼の差し出すコップを受け取った。傾いたことで、入っていた茶色の液体がトロリと揺れる。熱さに気を付けながら少し含むと、甘ったるさが口に広がった。
「世話役になった雨宮響也准尉……ヒビヤって呼んでよ」
「よろしく……ヒビヤ」
 きっと彼のコップの中身も同じなのだろう。視線を逸らしてコップに口をつけるヒビヤを、コノハはじっと見つめた。

「……お前は、俺たちについてどれだけ知ってる」
 ふと、キドが呟くように言った。珈琲の処分方法に頭を回していたシンタローはコップを揺らす手止め、横目だけで彼女を見やる。キドはじっと珈琲の水面を見つめたままのようで、相変わらず表情は見えない。シンタローは頬杖をついて視線を前に戻した。
「……千年生きたメデューサの『眼』を埋め込まれた子どもたち【レコードチルドレン】――それがお前らだろ」
 能力は幾つか確認されているが、何れも行使されると目が赤くなるのが共通点だ。いつ、どんな状況下で『眼』が埋め込まれるのかは知らない――今は。昔はそのメデューサ自身を軍部が捕えており、無理矢理子どもに『眼』を埋め込んでいたらしい。
メデューサの力を軍事利用する――そのプロジェクトは【陽炎計画(カゲロウプロジェクト)】と呼ばれていた。
【レコードチルドレン】はその副産物であり、目標の一つだ。だがそのプロジェクトも、八・一五事件後はピタリと形を潜めている。襲撃の際、何かあったのだろう。
「八・一五事件のとき、軍部は捕えていたメデューサを逃がしてしまったんだ」
「は?」
 驚くシンタローの様子が面白かったのか、小さく笑んでキドはコップを両手で包んだ。
 埋め込む『眼』を失い、プロジェクトは破綻。当然、逃がしたメデューサの行方を追ったらしいが、元々相手は人外、うまく逃げ遂せられてしまったと聞く。
「だから上層部は、俺たちを後生大事にする」
 彼ら以外の一○七大隊の兵士たちは、八・一五事件の時に一人残らず死亡していた。逃げ出したメデューサを捕える際、返り討ちにあったのだ。
「ヒビヤとモモは元々一般兵として軍にいたが、『眼』を埋め込まれていると判明して、この隊に配属されたんだ」
 彼女が逃げ出してから発見された【レコードチルドレン】はヒビヤとモモの二人だけだが、二人とも八・一五事件の際に『眼』を手に入れているので、逃亡中のメデューサと何かしらの接触があったと思われる。
 軍は今でも、逃げ出したメデューサを秘密裏に探している――【カゲロウプロジェクト】は、終わっていないのだ。
「マリーは?」
「アイツは……色々事情があってな。『眼』を持つが、兵士ではなく、保護しているものと思ってくれ」
 コツ。キドの持つコップが、机と当たって音を鳴らす。机から降り、代わりに手をついて、キドはシンタローを見下ろした。
「……今回の現場、あそこには恐らく過去に【カゲロウプロジェクト】が行われていた地下研究所があった」
「ヒビヤが見つけたあの部屋か」
「ああ。そしてそこで発見されたコノハ――アイツは、【カゲロウプロジェクト】の最後の犠牲者かもしれない」
 無理矢理子どもに『眼』を埋め込んでいた実験――それが行われていたであろう場所に、一人いた青年。成程、筋は通っている。
「記憶がないのはその副作用ってか?だがな、長時間あの状態で生きてる時点で、俺はアイツが人間か否か疑っている」
 人間、飲まず食わずで生きていけるのは三日が限界。だというのに、彼は衰弱した様子すらみせていなかった。乏しい表情も、人間味を感じさせない要因になっている。
 キドはシンタローの言いたいことが解らないと言うように、眉間に皺を寄せた。
「じゃあ、何だって言うんだ」
「……【カゲロウプロジェクト】は、今お前が言ってたこと以外もしていたんじゃねぇか――俺はそう思ってる」
 そも、人間兵器を造るだけで『メデューサの力を兵器利用』するという目的が満たされるとは思えない。
 科学者とは可笑しな生き物で、それが万人の命を奪うと知っても尚、己の知識と技術を高め、その証作りは止められないものだ。自己顕示欲が強いとでも言おうか。驚異的な頭脳値を有する狂人が、この世で何よりも恐ろしい。
 キドは小さく息を飲んで、こちらを見上げるシンタローの瞳をただ見つめた。だとしたら彼は、コノハは――

 ぱき、と嫌な音が隣から聞こえてきた。何事だとヒビヤが見やれば、コノハの手の内で無残に変形しているコップが目に入る。溢れたココアが彼の手や膝を汚しているが、コノハ自身は何が起こったのかよく解っていないようだ。
「ちょ、何をどうしたらそうなるの」
 慌てて洗面台に走り、タオルを取って来る。それと引き換えにコップを受け取ったヒビヤは、少し試しにコップの取手を引っ張ってみたが、幾らスチル製と言えど、紙パックのように凹ませることは出来ない。どれだけ馬鹿力なんだと、ヒビヤは呆れて嘆息した。
「ごめん……」
「いや、別にいいよ」
 安物の備品だから、懐が痛くなることでもない。何だか、ドジを踏んで物を壊しまくる少女と重なり、ヒビヤは思わず唸った。
 何なのだろう、この職場は。年上のくせに、手のかかる者ばかりではないか。正直、疲れで心が折れそうだ。
「ヒヨリ……」
「ひより?」
 思わず零れた単語を拾われ、ヒビヤはカッと顔を赤らめた。記憶喪失とはそういった感情の機微も解らなくなるものなのか、それとも元々の彼の気質か、コノハはコテンと首を傾ぐだけだ。自分の方が馬鹿みたいに思えて、ヒビヤはぐっと顔を歪めた。
「気にしないで。……知り合いの名前」
「大切な人、なの?」
「……うん」
 『あの事件』以来消息は解らないが、ヒビヤの唯一の人。
「とても、大切な人の名前だよ」
 口にするだけで、こんなにも心が締め付けられるほどに。
 己の胸元を掴み、ヒビヤは噛みしめるよう、自身に言い聞かせるように、呟いた。
「僕も……」
 そんな彼の真似か、コノハも己の胸に手を当て、ぼんやりと言葉を紡ぐ。
「そんな誰かが、いる気がするんだ……」
 そう呟く彼を見つめ、ヒビヤは思わず口元を綻ばせた。
 記憶喪失とは言いつつも、そんな顔は出来るのだ。何処までも、ただ唯一を愛しむような、優しい表情は。
「……なら、早く記憶を取り戻さなきゃね」
「うん……」
 まるで嘗ての残滓を掴むように、胸元で握った拳にもう一つの手を重ね、コノハは目を閉じた。

「カノ?」
「んー?」
 カノは、しー、と人差し指を立てて口に当て、セトの手を引いた。彼がひらりと滑り込んだのは書庫で、電子機器が導入される以前に作成された書類が、薄ら埃をかぶったまま保管されている。
 ここを訪れたのはもう幾度目か。セトはカノに引かれるまま部屋の奥へ行き、流れるように壁へと背を預けた。目の前には、カノ。左右を彼の腕で囲われてしまえば、逃げ道はない。逃げる気は初めからないのだけれど。
 頬を撫でる心地良さに目を閉じ、セトはそっとカノの首に腕を回した。雨音が、耳鳴りのように煩わしい。まるで、あのときの水音のよう。
「カノ……」
「セト……」
 思わず名前を呼ぶと、思いの外近くから返される。薄く目を開くと、やはりカノの顔が間近に迫っていた。セトの方が背は高いので、自然少し俯き加減になる。カノが片腕をセトの後頭部に回して引き寄せたので、セトも彼の首の後ろで手を組んだ。
「ん……」
 重なったのは、互いの唇だ。まずは、重ねるだけ。は、と息を吐いて離れると、愉快そうに歪む猫目と視線がかち合った。
「……ここでやるんすか?」
「誰も来ないって。それに、」
――セトも乗り気でしょ?
 耳元にそう吹き込まれると同時に、ぷち、とボタンが外される。頬に血が溜って熱くなり、セトは目を閉じてカノを引き寄せた。
「ん……ぁ」
 がたん、と大きな音がして、二人きりの世界に浸っていたセトの意識は、唐突に現実へと引き戻された。
 辺りを見回せば、何か用事で訪れたのだろう、小さな四角い物を片手に石化しているシンタローがいた。呆然としていたセトはハッと我に返り、慌ててカノに回していた腕を解いた。それを見て、シンタローも我に返ったようだった。
「し、シンタローさん……」
「もうシンタローくんてば、間が悪いねー」
「悪い……! って、俺が悪いのか!」
 そういうことは部屋で! と真っ赤な顔で叫び散らすシンタローは、一昨日の姿からは程遠い。成程、こんな一面もあるのかと、彼に目撃されて恥ずかしがっていた筈のセトは、思わず笑い声を溢した。それが聞こえていたらしく、カノとシンタローの視線が彼に向かう。
「シンタローさん……面白いっすね」
「――!」
 手の甲で口元を抑えるように笑っていたセトが、シンタローを見つめた途端、彼の頭から変な音がした。それはそう、戦場で聞き慣れた、爆発音のような。セトがきょとんとする内に、シンタローは唇を噛みしめ、一目散に駆けて行った。
「……どうかしたんすかね?」
「さあねぇ」
 首を傾げ本気で不思議がるセトの横で、色々と察したらしいカノは、苦く笑っていた。

「ご主人ー、ヘタレすぎですよぉー」
「五月蠅い!」
 廊下を全力疾走で駆け抜けるシンタローの手に収まった携帯端末から、エネがそんな呆れの声を漏らす。自室に駆け込み、シンタローは閉じた扉に背をつけると、大きく肩を揺らして息を吐いた。そのままズリズリと座り込む彼に、エネはやれやれと肩を竦める。
「そんなんだから童貞なんですよー」
「関係ないだろ!」
 エネに怒鳴り返し、シンタローは腕で口元を覆った。鼓動と熱が収まらない。彼女と同じ黒髪だったからか、それとも同じ側につけられたピンのせいか。セトの笑顔と彼女のそれが重なって見えたのだ。
「……畜生」
 ぐしゃりと前髪を掴み、シンタローは絞り出すようにただそれだけ呟いた。手の中に隠された表情がどんなものか、エネには見えない。
「ご主人……」
「いや、何でもない」
 労わるようなエネの声にすぐ返事して、シンタローは立ち上がった。固く引き結んだ口と相も変わらず睨むような目つきに、エネは少しも安心できはしないのだけれど。
「……それよりもエネ、アイツは、」
「……はい。恐らく、間違いないかと」
 ベッドに腰掛け画面を覗きこんでくるシンタローに頷きを返して、エネはさっとファイルを開く。それは二人分の顔写真で、一方には詳細なプロフィールも添付されていた。
「ご主人の見立て通り、『コノハ』は人造人間と思われます」
「……そしてそのベースとなったのが……」
 親指を動かして、シンタローは詳細がつけられている方の写真を拡大する。
「『九ノ瀬遥』――」
 何処となくコノハに似た、爽やかな雰囲気の好青年。
 シンタローはそっと目を細めた。それから唐突にあーと呻いて、頭を掻き毟る。
「面倒臭せぇ……」
「ご主人、ファイトです」
「幾らIQ値高くてもな、使えば疲れるのは同じなんだよ」
 目頭を押さえ、シンタローはそのままベッドへ倒れこんだ。自然と手は頭の横に来て、その中にあった携帯端末から聴こえるエネの声は、耳のすぐ傍で響いた。
「あの人に言われて色々調べてみたは良いものの……」
「訳の解らんことばかりだ」
「ごーしゅーじーんー」
「解ってる」
 弱音のようなシンタローの言葉に、エネは語尾を伸ばして釘を刺す。シンタローは素気なく返して、目を閉じた。
「もう、迷わないさ」
 あの時のように躊躇っている間に全てを失うのは、もうごめんだ。今すぐ近くにいる彼女を、そしてできれば『彼ら』も、救えるように。
「――立ち止まるのは、やめたんだ」
 そのとき、控えめなノックが聞こえた。起き上がったシンタローが携帯端末を内ポケットにしまいつつ入って良いと答えると、ゆっくりと扉が開く。
 そこから顔を出したのは、セトだった。正直今は会いたくなかった人物の登場に、シンタローの表情は固まる。セトは少し困ったように笑いながら入室した。
「さっきは、すみません」
「いや、別に……」
 シンタローも、エネと会話するために人気のない場所を探していたのだ。ついでに書庫で何かしらの情報も得られれば、と考えていただけで。確かに逢瀬の場所としてあそこは最適なわけで、それを邪魔した出歯亀はシンタローである。
 そんなこともあり、シンタローはセトから微妙に視線を逸らした。
「知らなかったよ、カノと好きあっているなんて……」
「えっと……」
 セトは少し言いにくそうに視線を揺らして、頬を掻く。
「……きっと、シンタローさんが思っているような、関係じゃないっすよ、俺たち」
「は?」
 思わず顔を上げて見返したセトは眉尻を下げた笑顔で、シンタローは思わず言葉を飲み込んだ。
「キドが何故、男物の制服を着ているか、知ってるっすか?」
 唐突に、何だろう。
 いつだったか、女物は好まないからとか、彼女の得意武器である銃器を大量に隠し持つには男物の方が最適だったからとか、そんな噂を聞いた気がする。
 シンタローがそれをそのまま伝えると、セトは可笑しそうにクスクスと笑った。
「あーそれもキドっぽいっすね……けど、ハズレっす」
「じゃあ、」
「牽制っすよ」
 セトの言葉が、静かに響く。シンタローは僅かに目を見開いた。それを見てか、セトは小さく笑む。
 自然と男所帯になりがちな軍部に置いて、女性兵士とは『そういった』対象で見られがちなものだ。妻や婚約者がいる者でも、軍とは兵士を長く拘束する職場であるため、どうしてもその欲は溜る。
 そんな中で、キドは少数派の女性兵士だ。だからこそ、男の恰好で隙を見せないようにしているのだと、セトは言った。
「キサラギちゃんは元々ヒビヤくんといることが多かったから、あの昇進と任命は駄目押しってとこっすかね。ヒビヤくんの頭のキレと戦闘力は、流石に知れ渡っているっすから」
 スラム街育ちのヒビヤは、小回りの利くナイフを用いた戦闘を得意としていたが、軍に所属して知識を深めるにつれ、爆弾等重火器の扱いに関しても頭角を顕してきた。モモは元来、その能力から一番そういった危険を孕んでいる存在であったが、ヒビヤのそんな存在によってそれが相殺されているのだ。
「で、マリーの牽制は俺……の筈だったんすけど」
 あはは……と力なく笑ってセトは頭を掻く。
 モモの次に危険なのは、戦闘力がないあの白い少女だ。シンタローも言葉を交わしたが、モモ以上に世間知らずなきらいがあり、簡単に騙せてしまいそうだと思ったものである。彼女と一番親しいのは、セトだった。
「昔の俺、結構大人しかったんすよ。人見知り激しくて」
 今の彼しか知らないシンタローとしては、信じがたいことだ。それが顔に出ていたのか、セトは、本当っすよ、と少し拗ねたように付け加えた。
「で、そんな子どもが頑張って強がってる様に興奮する変態もいたみたいで」
 マリーを守りたいなら――そう強要されたのだと、セトは事も無げに言った。
「……」
「それ以来っすかね、こんな雨の日は一人で眠れなくて」
 黙り込むシンタローから視線を外し、セトは雨粒が叩く窓を見やった。初めての日に、雨が降っていたからだろう。それから雨の降る日は何となく落ち着かなくなって、フラフラと夜の軍部を歩き回っていた。一種の夢遊病だったのだと、今では思う。
「で、カノはそんな俺を安眠させるために付き合ってくれてるんす」
 まあ彼も一人の男であるから、溜る物は溜る。二人の目的が合致したから、関係を持っているに過ぎないのだ。
 目を眇めて何かを思い出すように窓を見つめるセトの横顔を見つめながら、シンタローはキドとの会話を思い出していた。
 そのきっかけを作ったのは、シンタローの方だった。
「……一つ、聞いてもいいか?」
 コップを揺らして半分以上残る珈琲で円を描きながら、シンタローは少し仰け反るように背凭れを押した。キドは一瞥だけ送って、何だと問い返す。シンタローは温くなった珈琲を啜った。
「セトについてだ」
 予想通り込み上げる苦みに顔を顰め、シンタローはこちらを見下ろすキドを見上げた。
「アイツは『眼』を持っているんだろ?あの書類はどういう意味だ?」
 瀬戸幸助。彼の能力の欄だけ、文字の上に赤い二重線が引かれていた。一度埋め込まれた『眼』が消える筈はない。
「……セトは、自発的に能力を使えないんだ」
 考えてみれば、今日は驚いてばかりだと、シンタローはこっそり自嘲した。
 シンタローはその時、言葉の意味を測りかねて動きを止めた。キドは立っているのが疲れたのか、手近の椅子を引っ張って、そこにドカリと腰を下ろした。
「アイツにも、色々あったんだ」
 彼女の口から語られたのは、セトとカノを含めた三人の、過去だった。長いようで、実際それほど語るのに時を費やしてはいないようで、キドが口を閉ざしてからなんとはなしに口をつけた珈琲は、まだ生温かった。
「――俺たちは、この『眼』を疎んでいる……同時に、少なからず依存もしているんだ」
 こんな力、なければ良かった、と。皆、一度はそう思った。他とは違う赤い目を、こんな殺戮の世界に落とし込んだ力を、化け物のような自分を、誰もが嫌っていた。だが、それでも力を使わない者はいない。それは、彼らが兵士であるからというだけでなく、その力が、『眼』が、手足と等しく己の一部に染まっているからだ。
「その良い例がカノだろうな。アイツはその『眼』で、自分も他人も欺いている」
日常のふとしたことでも発動する、『目を欺く蛇』の『眼』―――彼はそれを、癖と呼んだ。
「だがセトだけは、自分の力を使うことを酷く嫌った」
 『目を盗む蛇』は『人の思考を見る』――『眼』を手に入れた当時、まだ幼かったセトにとって、頭に響いてくる人々の声は、受け入れがたいものだった。極度の人見知りは、それが原因だったのだろう。それ故、彼は自身の『眼』を嫌悪した。それがあまりにも大きかったのか、ある日唐突に、彼は能力を使えなくなっていた。
「偶に……雨の日なんかには、制御できなくて勝手に発動することはあるらしいが。自分で使おうと念じても使えない、そう言っているよ」
 それはある種、爆弾を抱えていると同義だ。人の思考は言葉のように一通りではない。
例えるなら、真夏の蝉の合唱祭に投げ込まれるようなもの。騒音が酷過ぎれば、処理しきれずにセトの頭はパンクする。彼は、いつそうなっても可笑しくない状態なのだ。
 しかし『目を盗む蛇』は利用価値が高い。嘗てはその力でスパイや敵兵から、拷問等の苦労をせずに情報を得ていた軍部は、手放し難く思っているのだろう。
 一応、セトは毎朝数分間、マリーと面談するという治療のようなことを行っているが、トラウマが克服されるのは容易でない。
「……話は逸れたが、まあそんなわけで、セトは能力を使えないと思ってくれ」
 だが、戦闘力は他の兵士に引けを取らない。だからこその少尉なわけだ。
 回想から返り、シンタローは嘆息した。それを自身に対する呆れと捉えたらしい。セトはしゅん、と俯いた。
「……責めるつもりはない。今後は、できればお互いの自室でやってくれ」
「はいっす……」
「それと……」
 セトはきょとんと目を瞬かせる。シンタロー自身、何故そんなことをあのタイミングで訊ねたのか、後から思い返しても理解できなかった。言うなればそう、ほんの気紛れ。
「何で、ピンつけてるんだ?」
 きょとんとしていたセトは、思わずといった風に噴き出した。その後に見せた笑顔は、やはり記憶の彼女と何処か重なる。
 シンタローの僅かに眇められた目に気づかないセトは、左髪を留める黄色のピンを指さした。
「キドたちと分け目、お揃いにしたかったんす」
 それは子どもらしい、実に細やかな望みだった。
 それは、大切な存在を持つ者なら誰しも想う願い――
「……待っていろ。もうすぐだ」
 画面の青白い光だけが照らす部屋、その男は一人黙々と手を動かしていた。
 彼の周囲に散らかるのは、殴り書きされた書類に、少年と少女の写真、それと、電子機器に用いる幾つかの部品だ。
 唯一しっかりとした写真立に入れられた一枚を取り上げ、そこに映るものを指でなぞる。無骨な指にしては随分と繊細で、愛しいものに対する優しさの感じられる手つきだった。
「……もうすぐ、迎えに行く」
 誰しも願う、しかし誰もが叶えることのできぬ望みを呟くその男を、闇に溶けた黒蛇の黄色い眼だけがじっと見つめていた。


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