第6話 chapter1
オファニモンFMとラグエルモンの融合体の異様に細い足が、地面に触れる。固い土である筈のそこは、何故か水面のように波紋を立てて足をずぶずぶと飲み込んだ。太腿の中ほどまで沈ませると、融合体は手を地面についた。ぬかるみのように少し沈んだが、足ほど飲み込まれた様子はなく、融合体は腕で身体を支えるような体勢になった。
とぷん、とぷん。融合体の足を飲み込んだ地面が、ゆっくりと波打つ。それはやがて黒く淀んだ泥のように変化して、ジワジワと範囲を広げていった。
それは、暗黒世界の破片。泥はデジタルワールドのデータを飲み込み、暗黒世界のデータに書き換えて行く。この泥が全てデジタルワールドを飲み込んだとき、それこそ、暗黒世界の到来である。
小高い丘の上に避難した太一たちは、少しずつ泥に変わって行くデジタルワールドの大地を見下ろした。
ゴクリと、唾を飲みこむ。
彼らの胸に浮かんでいたのは、紛れもなく絶望だった。

◇◆◇

「……さん……ヒカリさん!」
緩く身体を揺すられ、ヒカリは暗闇の中、目を覚ました。
果てのない闇。一目見た世界の感想は、それだった。
ヒカリはムクリと身体を起こす。その様子にホッと息を吐いたのは、隣に膝をついていた芽心だった。
ヒカリも膝を曲げた状態で座ったまま、きょろりと辺りを見回した。
地平線の見えない暗闇。天と地の境など分からない場所だが、何故だか芽心とヒカリの身体だけはしっかりと視認することができた。
「ここは一体……」
どこだろう、と芽心は震える手を胸元で握り閉める。
そのとき、ピピ、と機械音が響いた。
音の発信源はヒカリが身体を動かすと、コロリと地面に転がった。彼女が耳につけていた、通信機だ。落としたそれをヒカリが拾うそぶりを見せないので、芽心が指で摘まんで口元に寄せた。
「はい、望月です」
[望月!]
聴こえてきた声は、太一のものだった。
[無事か? ヒカリは?!]
電波が安定していないのか、太一の声は不安定に揺れている。
「ヒカリさんもいます。場所は……分からないです」
ここへ辿り着いた経緯をどう説明したものか、と望月は言葉を濁した。すると、太一は何を思ったのか、沈黙した。「八神くん?」と芽心が声をかけると、通信相手が代わり[僕です、光子郎です]と言葉が聴こえてきた。
[落ち着いて聞いてください]
常より上ずった声で、努めて平静に光子郎は言葉を続ける。
[恐らく、望月さんとヒカリさんは、オファニモンとラグエルモンの中にいます]
「え……」
ひゅ、と芽心の喉が音を立てる。ピクリ、とヒカリも僅かな反応を見せた。
[先ほど、こちらには大きな光の柱が見えました。その直後、現れた白い巨大デジモン……データの反応から、オファニモンフォールダウンモードとラグエルモンの融合体です]
そして、そのデジモンが現れてからデジタルワールドに闇が訪れ、泥で覆われ始めた、と。
「闇って、じゃあ、周りがこんなに暗いのはそのせい……」
[いえ、恐らくその闇は別のものかと……]
少し言い辛そうに口ごもり、光子郎は言葉を止めた。
[……僕たちのデジヴァイスには、追跡機能があります]
既に受けたことのある説明だ。芽心は相手に見えないと分かっていながら、癖で頷いた。
[ヒカリさんのD3の位置反応が、僕たちから見えるオファニモンたちの融合体と、同じ場所なんです]
「それって……」
そこでハッとして、芽心はこの場所に辿り着いた瞬間のことをはっきりと思い出した。姫川が手にしたD3とデジヴァイスを中心に広がった光。それに飲み込まれたことを。
[恐らく、その闇はオファニモンたち自身です]
芽心は天を見上げる。果てなき暗闇。その持ち主が、自分のよく知るあの子のものだとは、俄かに信じられない――いや、信じたくない。それほどの冷たさが、ここにはあった。
「テイルモン……違う。この闇は……私の……」
床に手をつき、ヒカリは深く項垂れる。ポツリと呟いた言葉は、涙のように手の甲に落ち、スッと消えていった。

暗い硝子に映ったパートナーの顔。隔てる硝子を打ち破ろうと、テイルモンは拳を振り上げた。
「ヒカリ!」
しかし硝子は壊れる素振りを見せず、衝撃を向こうへ伝えた様子もない。それでもかまわず、テイルモンは何度も硝子を殴った。
「無駄だがん」
もう一度拳を振り上げるテイルモンの背後に、声をかける影が一つ。メイクーモンだ。
二体がいる場所は、ヒカリたちがいる暗闇と同じような場所だった。ただ一つ違うのは、テイルモンたちには床の下にパートナーがいるように見えている点。
「本当のメイたちは、今デジタルワールドに暗黒を呼んでる。ここにおるメイたちは、たった一つ残った心。もうすぐ消えるだけのメイたちに、メイコたちへ声を届けることはできん」
「そんなの知ったことか!」
キッと歯を剥きだして叫び、テイルモンは叩きつける拳を止めない。
「『私』が、私の残した最後の優しい心なら、余計にここで諦めたままにはできない! ヒカリを、暗闇に残したままにはさせない!」
ガッと拳を叩きつけ、テイルモンは悔しさに顔を歪めた。
絶望に沈むパートナーの元へ、この声を届けたい。
「ヒカリ……! 気づいて、私はここだ! 光は、いつだって……!」
絞り出すように呟いて蹲るテイルモンを見つめ、メイクーモンは「どうして」と呟いた。

◇◆◇

とぷん、とぷんと泥が大地を這って行く。光子郎が解析したところによると、あの泥は暗黒世界の破片であるらしい。この泥がやがてデジタルワールドを覆いつくすとき、暗黒世界が完成される。
「とにかく、あのデジモンを止めよう」
成熟期のデジモンたちに連れられて高台に避難した子どもたちは、ヤマトの言葉に頷いた。それからパートナー同士頷き合うと、デジモンたちは駆け出す。
「ガルルモン!」「バードラモン!」「カブテリモン!」「トゲモン!」「イッカクモン!」「エンジェモン!」「グレイモン!」
――超進化!
「ワーガルルモン!」「ガルダモン!」「アトラーカブテリモン!」「リリモン!」「ズドモン!」「ホーリーエンジェモン!」「メタルグレイモン!」
進化の光を纏い、デジモンたちは飛び出す。
パートナーの背中を、子どもたちは祈る想いで見つめた。
光子郎は融合体の生体データをアナライズし、泥の速度等の計算を続ける。デジタルワールドが泥で覆われるまでの時間と規模を、算出しようとしているのだ。
その隣で太一はデジヴァイスの点滅する光に目を落としながら、通信機で芽心たちへの呼びかけを続けていた。
「望月、ヒカリ。諦めるな。俺たちも外からあのデジモンを止められないかやってる。二人が体内にいるなら、そっちからも何か方法があるかもしれない」
[で、でも何をどうしたら……]
「融合体の中でもヒカリさんたちが意識を持って動けるのは、何か意味がある筈です。とにかく、進化の元になったデヴァイスを探してください」
先ほど望月に確認したところ、ヒカリのD3も芽心のデジヴァイスも手元になかったらしい。あれだけの進化と融合を行った以上、エネルギー受け渡しの媒介となるデヴァイスが、遠く離れた場所にあるとも考えにくい。
位置情報から言っても、二人の近くにデヴァイスがある筈なのだ。
「リリモン!」
「ズドモン!」
悲鳴のような声が聞こえ、ハッとして太一は意識を通信機から仲間たちの方へ向けた。
デジモンの背から伸びる黒い羽根が、完全体のデジモンを払い落としていくところだった。羽根の一撃と泥に身体を侵され、デジモンたちは見る間に退化していく。
慌てて駆け寄ろうとしたミミは、丈に腕を掴まれて引き留められた。
他の子どもたちも足を踏み出して、そして止めた。彼らの頭上に大きな影が差したのだ。
泥が、津波のように押し寄せる。
「――!」
太一はグッと悔しさに顔を歪めた。

◇◆◇

空が、黒い。
先ほどまで積乱雲の見える夏空だった筈だ。それが今はどうだ。あらゆる自然災害が訪れても可笑しくないような、黒々とした帳が天を覆っている。
「……何か、起きているのか――デジタルワールドで」
病室の窓から外を見上げていた望月は、そっと室内へ視線を戻した。
個室に設置された見舞客用の机と椅子。そこで机に突っ伏すようにして座る男は、意識を失ったままのように動かない。
男の向いの椅子は、つい先ほどまで誰かが座っていたかのように、不自然な位置にあった。
机の上にあるパソコンは、真っ黒な地図を開いている。
「芽心……」
デジタルワールドへのゲートを開くとほぼ同時に姿を消した娘の安否を思い、望月はグッと拳を握った。

◇◆◇

何か嫌な音が通信機から聞こえてきた。芽心は慌てて呼びかけるが、太一たちから応答はない。
ヒヤリとした感覚が芽心の背筋を撫でた。最悪の事態が、頭を掠める。しかし芽心はすぐ頭を振ってその光景を否定した。
太一たちは強い。この数か月だけでも、十分実感できるほどだ。芽心なんかが案じずとも、きっと大丈夫。そう言い聞かせ、芽心は自分のすべきことをするために立ち上がった。
「ヒカリさん、泉くんの言う通り、D3を探しましょう」
さぁ、と手を差し伸べるが、項垂れたままヒカリは動かない。
「ヒカリさん?」
「……私に、できることなんてない」
ポツリ、とヒカリは呟いた。髪の隙間から見えた瞳は、辺りの闇を切り取ったように暗い。
「闇に呑まれてしまえば、光は何の意味もない……私は、自分だけでなくテイルモンさえ、闇に引きずり落としてしまった。そんな私に、もうできることなんて……」
芽心はビクリと肩を震わせた。
――私が元凶だったのに……これ以上、皆さんに合わせる顔がありません。
目の前で項垂れる少女が、嘗ての自分に重なった。

泥の津波に呑まれた子どもたちは、せめてパートナーとは逸れぬようにとしっかり腕に抱きしめた。
そのまま波に揉まれた子どもたちは、樹の幹や岩に身体をひっかけた。
「ぷは、大丈夫かい、ゴマモン、ミミくん」
「ケホケホ、ええ、なんとか……パルモンは?」
「だいじょうぶよ、ミミ」
「オイラも〜」
丈とミミは岩場にしがみつき、お互いの無事を確認する。口内に泥が入ってしまったような気がして、ミミはペッペと舌を出した。
少し離れた岩場に何とか辿り着いた西島は、片方の手に掴んだハックモンのマントを引き上げた。
「くそ、死ぬかと思った……」
「まずい状況になったな」
ペッと口端についた泥を吐き捨て、ハックモンは眉間に皺を寄せる。

光子郎とタケル、そして空たちは、背の高い樹に引っかかっていた。
「光子郎はん〜」
「テントモン!」
少し離れた枝に引っかかったテントモンへ腕を伸ばし、光子郎はホッと息を吐いた。
「良かった、パタモン……」
「タケリュ〜……ここは?」
「はぐれちゃったみたいよ、空」
ピヨモンの顔についた泥を拭いながら、空は不安に彩られた顔を辺りへ向ける。
「ええ……太一とヤマトくんたちは、大丈夫かしら」

深い泥の海に、沈んでいく。微かに淡い色が見えて、そちらが水面なのだと理解できた。
海水よりも重く身体にまとわりつく泥は、太一を水底へ引きずりこもうとしている。腕を動かしても、うまく上昇できない。しかもこれは暗黒世界の破片であるという話だから、あまり長時間触れていて良いものでもないだろう。
(アグモンは……)
藻掻きながら辺りを見回すと、少し離れた場所でゆっくり沈んでいくアグモンの姿を見つけた。その向こう側には、太一たちと同じ状態のヤマトとガブモンの姿もある。
うまく身体を動かせない様子のアグモンとガブモンへ向かって、太一とヤマトは腕を伸ばした。
『私に、できることなんてない』
泥の中、鈍く反響するようにして声が聞こえた。それは慣れ親しんだ、太一の妹の声だ。
『闇に呑まれてしまえば、光は何の意味もない……私は、自分だけでなくテイルモンさえ、闇に引きずり落としてしまった』
融合体の中で捧げられる、ヒカリの懺悔。泥を呼び出す融合体から伝わって、泥の中に響いているのか。それとも彼女の後悔が、この泥へエネルギーを与えているのか。
ヒカリの声は、岩場に上った丈やミミ、樹にしがみつくタケルたちにも聞こえていた。
『そんな私に、もうできることなんて……』
太一とヤマトは、目を大きく見開いた。泥を飲み込まないよう口を引き結び、精一杯手を伸ばす。アグモンとガブモンもそれに応えようと、必死に身体を捻った。
太一とアグモン、ヤマトとガブモンの手が触れ合った瞬間、カッと真下から天へ向けて、光が柱のように突き上がった。
「!」
それと一緒に、身体にかかっていた負荷がなくなり、無重力に晒されたようにふわりと浮き上がる。

それは泥の水面を突き破り、暗雲へ向かう。
タケルたちにも、その光はよく見得ていた。
「……意味のない光なんてない。光だって希望だって、いつも傍にあるじゃないか」
胸にパタモンを抱きしめながら、タケルはグイと目元を拭った。
あの光は、きっと。

「ぷは!」
太一とヤマトは、アグモンとガブモンを抱きかかえて水面に顔を出すことができた。光の柱は威力を弱めていたが、まだ彼らの足元を照らしている。
「太一!」
「ああ、これはもしかして……」
光に感じた懐かしさ。それは、きっと。
思考の網に引っかかったそれを手繰り寄せようとする前に、太一の頭は甲高い少女の声に叩かれた。

『ヒカリちゃんの、馬鹿――!!』

バチン、と頬を叩かれたような衝撃だった。鼓膜を貫いた声に、ヒカリは目を丸くし、顔を上げる。

『ちょ、ちょっと落ち着いてください』
『そうですよ、やっと声を届けることができたからと言って……』
『開口一番それだぎゃ?』
『俺だって言いたいことがある!』
『今そんなことしている場合じゃないだろ……』
『はあ……もう収集つかないじゃないか』
『ど、どんまいだよ』

「この声は……」
突然どこからともなく、頭を叩くように聞こえてきた声。何と緊張感のない、と空は頬を引きつらせた。
そう言えば、ゲンナイに彼らのことを問いただすのを忘れていた。
[こちらも、意図して隠していたわけではない]
呆気に取られる子どもたちの通信機から、ゲンナイの声が聞こえてくる。彼は、幼年期デジモンたちと四聖獣の結界に避難していた筈だ。少し申し訳なさそうな声で、ゲンナイは説明する。
[暗黒世界の影が見え始めた頃、彼らに調査をお願いしていたんだ。しかし予想以上に浸蝕が激しく、それを抑え込むために、今まで尽力してくれていたのだ]
幸か不幸か、暗黒世界がデジタルワールドへ流れ込み始めたため、彼らとの通信が復活したということか。
光子郎の考察を、ゲンナイは「そういうことだろう」と肯定した。

『そんなことよりヒカリちゃん!』
ズバッと話を切って、少女の声がヒカリを名指しする。ビクリとヒカリは肩を揺らした。
『どうして一人で暗い方へ行っちゃうのよ! なんで、もっと頼ってくれないのよ! そんな簡単に消えちゃう光だったわけ?!』
「……」

『……僕にも言わせてください。タケルさん』
「え、僕?」
唐突ともいえる指名に、タケルはキョトンと目を瞬かせた。
『絶望なんかに負けないでください。あなたの希望は、みんなの希望なんでしょ!』
「……」

タケルはギュッとD3を握りしめる。
ヒカリはそっと胸元へ手を重ねる。

「そうだったね、伊織くん」
「ありがとう、京さん」

パリン、と硝子が割れる。
芽心とヒカリのいた空間が、鏡張りの部屋だったかのようにひび割れた。ポロポロと落ちて行く黒い破片の中、飛び出してきたかけがえのないパートナーを、ヒカリは強く抱きしめた。
「ヒカリ!」
「テイルモン……!」
強く抱擁し合う二人の頭上に淡い桃色の光を纏ったD3が現れた。
「ごめんなさい、私……」
「いいや、大丈夫だ。私は信じていた――ヒカリの中にある光を」
涙を浮かべて見つめ合うヒカリとテイルモン。二人を見ていた芽心は、唐突に思い至る。あの暗闇の中、ヒカリたちの身体が見えていた、その意味を。
「光はいつだって、心の中に!」

融合体の胸部から、暖かい桃色の光がこぼれだした。融合体が苦しみだす。泥が大きくうねったので子どもたちはまた浚われないよう、岩や樹にしがみつく腕へ力を込めた。

――テイルモン、ワープ進化!

「オファニモン!」
真の姿を取り戻した天使型デジモンが、禍々しい融合体の胸を切り開いて飛び出した。その腕には、ヒカリと芽心の姿もある。
「オファニモン……」
「綺麗……」
美しいエメラルドグリーンの装甲に、空は感嘆の声をもらす。
仰向けに崩れ落ちていこうとする融合体は、融合部の片割れを失ったためか、ドロドロと溶けかけている。
オファニモンは一度融合体から離れると、まだ無事だった近くの丘に二人を下ろした。それからもう一度融合体の方へ飛んでいき、両手を掲げる。その手に、神々しい盾と槍が現れた。オファニモンはエネルギーを貯める。
「エデンズジャベリン!」
槍から放たれた光線が、崩れかけの身体を貫いた。
穢れを払うような一閃が煌めき、パッと暗雲が割れた。
天使の裁きを受け、終末を引き起こそうとした堕天使は、引きつった叫び声を上げながら崩れ落ちる。
割れた暗雲から零れた陽光が、凛と背筋を伸ばすオファニモンを照らした。
「オファニモン……」
輝くパートナーを見上げ、ヒカリは胸元で手を握りしめる。今はここにいない友へ、感謝の言葉を捧げて。
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