「……お前はお前のために生きろ、か……」
ふと、記憶の中で頭を擡げた言の葉が、石田の口をついて零れた。それを聞いた前田が、なんだと目線で問うてくる。
「……家康が、嘗て私に告げた言葉だ」
当時は憤慨すると共に酷く失望したものだ。彼の男ならば、己の心を理解すると思っていた。只一人の主君に仕えることこそ、自分の望んだ人生であり、願いであると。しかし彼の男までも、それを理解してはくれなかった。
「アンタは家康を、信じてたんだな」
前田の慈しむような言葉に、石田は面を上げて反論しかけるも、具合の良い言葉が見つからず、結局口を噤んだ。石田が顔を伏せると、前田はけど、と言って腰を上げた。
「誰も彼も、相手のこと全てを解る人間なんて、いないよ」
だからこそ人は、相手を深く知りたいと思い、友宜を交わすのだ。
は、と石田は視線を上向け、前田の背を見上げた。滑らかな茶色の髪を風に舞わせ、彼はゆっくりと庭の中央に足を進める。つられるように石田も腰を上げ、すると前田は立ち止まって腰を捻って彼の方を顧みた。
「アンタの生き方だ。俺としては、それを否定するつもりはない。けど」
月明かりを背負った彼の顔は、影に溶け込んではっきりとしない。けれど今もきっと、笑顔を浮かべていることだろう。あの、何処か哀しげな笑顔を。
「『秀吉のために』を、言い訳にしないでくれ」
そう言いおいて、風は音もなく去って行った。










甲虫の脱殻










時は少し遡る。それは微風が石田のもとを訪れる、前日のことであった。
寝所で横になっていても落ち着かない石田は、気晴らしも兼ねて城を歩いていた。そこでふと、あの裏切り者はどうなっているだろうかと思い至ったのである。
裏切り者―――豊臣を討った徳川のことではない。関ヶ原の戦において、西軍を裏切り東軍へ走った小早川秀秋のことである。
小早川は元々、豊臣傘下の一武将であった。豊臣が徳川の手によって倒されその仇討の狼煙が上がった時、石田は彼も共に徳川を討たんとするだろうと思っていた。しかし小早川はあろうことか徳川から東軍へ誘われ、それを甘んじて受けようとしていた。だから石田は彼に誓わせたのだ。徳川を裏切り、西軍に入ると。
小早川からすれば殆ど脅しのようなものであったが、石田としては豊臣の恩を忘れ仇敵に謙る腰の低さを正さんとしたに過ぎない。だからこそ彼は此度の戦で小早川が反旗を翻したことに憤らずにはおられなんだ。他者の目からすれば脅されて無理矢理結ばされた同盟、何時小早川が裏切っても可笑しくはなかったというに。石田は、己を信じすぎるが故に、他者を疑うことを知らない男であった。
さて、小早川の座敷牢は、石田の現在地からそう離れた場所にあるわけではない。二つほど角を曲がって見えた部屋に、石田は躊躇いもせず足を踏み入れた。
彼の座敷牢に限らず、此度の戦で捕虜とした武将たちには、監視の者を立ち会わせていない。強固な鍵で閉じられていて、そう易々と逃げ遂せるものではないからだ。
小早川は甲虫のような形の兜を外し、しかし常背に負っていた鍋だけはしっかりと胸元に抱きしめたまま、じっと座敷牢の片隅に座っていた。石田の侵入は音で気付いており、ちらと横目をやっただけで、別段口を開くこともしない。いつもなら怯えた目を返してくる彼らしからぬ、実に落ち着いた様子であった。
「金吾」
格子に近づき、石田はそう口にした。しかし次に何を言おうも、気紛れの訪問であったがため、言葉は浮かんでこない。暫く押し黙った石田に、何を思ったか小早川は小さく吐息を漏らした。
「三成くん、何か用?僕の処刑の日取りでも、決まったのかな」
処刑。いざ口にするとやはり恐ろしいようで、小早川は肩を震わすと鍋を更に強く抱きしめる。幼子が母の匂いのする布地に包まれて安らぎを得るように。あの鍋は、確か嘗て小早川が豊臣から承ったものであると石田は思い至った。
「……何故だ」
ぽつりと石田は溢す。小早川は首を回して彼を見上げた。
「何故豊臣を裏切り、家康についた」
そんなにもその鍋を大切に抱きしめるくせに。そうだ、彼はずっとその鍋を背負ってきた。それなのに、どうして。
「……僕は、自分を変えたかった」
小早川はそっと目を伏せ、ぽつりぽつりと切り出した。
小早川は一国の主として生きるには、あまりにも小心すぎた。元服して間もない、ということもあるかもしれない。しかしそれでも、戦国の世には珍しく争いを恐れ、平和を望む男であった。
「僕はいつも三成くんや大谷さん、秀吉さまに怯え、その命令に従ってきた。僕自身の意志とか、民を思って選んだ答は、只の一つもなかったんだ。僕はそんな自分が嫌いだったし、みんなだってこんな僕を失望の眼差しでしか見てくれなかった」
小早川の言う『みんな』とは、部下のことだろう。
「けど、家康さんは違う」
鍋を撫で、小早川は続ける。
「家康さんは豊臣傘下の中でただ一人僕を助けてくれた。僕を認めてくれたんだ」
―――家康さんから手紙貰ったんだ
―――僕を認めてくれたんだよ
少し照れたように俯きながら、とても嬉しそうに小早川は笑っていた。それをすぐ恐怖に色に塗り替え、彼を認めた男を裏切れと強要したのは、石田だった。認められることの喜び―――石田はそれをよく知っていた。
それと共に思い出す。あの鍋は、豊臣の怒りに触れた小早川を徳川が庇った際に、豊臣が気紛れから小早川に授けた物だった、と。小早川があの鍋に重ねているのは豊臣ではない。徳川だったのだ。
「もしあの時、君を裏切らず家康さんを裏切っていたら、僕は罪悪感で死にたいと感じたと思うんだ……今、後悔はないよ。僕は本当に信じたい人を信じて、その結果はこうして敗将にはなってしまったけど、自分の心に正直に生きれたんだ……初めて、自分の信念を貫けた気がするんだ、心地良い」
初めて感じる、高揚とした気分。後悔のない人生の終わりとは、このようなものなのだろう。小早川は目を閉じ、その心地良さに身を任せた。
「僕は国主としては、結局、駄目な人間だったね。みんなには、申し訳ないけど」
石田は思わず拳を握った。小早川軍を捉えた直後、あまりにも落ち着き払った彼らの態度を不審に思った長曾我部が問うていたのを思い出したからだ。「アンタらは大将のせいで裏切り者になっちまったのに、恨みはねえのか?」と。答えたのは、小早川軍の将の一人だった。
「何故あのような局面にて、常のように石田殿たちに従順でおられなかったのかと、そう思わないわけではありませぬ。しかし……幼き日よりお傍にて見守ってきた身としては、嬉しく思わざるを得なんだ。あの殿が、強者に泣きながら従順しておった殿が、自身の心で感じた行動をして下さったことに。殿がそうと決め、我らはそれに従った。その結果が何であれ、最後まで付き従うが臣下よ。今まで殿の気弱さを諌められんが罪滅ぼしとは言いませぬが……我ら小早川軍一同、殿と共に首を刎ねられるなら本望よ」
彼の返答とそれに同意するかのような他の者の様子に、長曾我部は酷く苦い虫を噛み潰したように顔を歪めていた。情に厚い彼の男のことである、罪悪感が芽生えてしまったのだろう。
そんな回想に石田が浸っていると、小早川はいつの間にか蹲り、小さな嗚咽を漏らしていた。いつも石田や毛利に足蹴にされてはしていたように。今は鍋を腹に抱えて、小さく何事かを呟いていた。
「……鍋が……鍋が、食べたい……天海さまと、三成くんと、家康さんと……刑部さん、幸村くん、長曾我部くん、官兵衛さん、半兵衛さまや、秀吉さまも一緒に……みんなで鍋を、食べたかったんだ……!」
それはずっと小早川が己の内に秘めていた、たった一つの叶わぬ夢であった。戦を忘れ、恨みを忘れ、皆で笑い合って小早川の大好きな鍋を食したい。もうずっと、しかし変わらず、彼はそう願ってきた。既に果たせないと知っている今でさえ。
「戦なんて……嫌いだよ……!」
声を上げて泣きじゃくる小早川の脳裏に浮かぶのは、嘗て豊臣の元で催された宴会の風景だ。豊臣に突き飛ばされた小早川に手を差し伸べ、悪戯っぽく笑う徳川は、彼にとっての英雄の姿だった。人の上に立つべき人間の姿だと。
己は、心の何処かで徳川に親近感を抱いていたのだろう。生まれて間もなく豊臣に養子に出され、実の父母の手を離れて育てられた。その後、毛利家の養子候補に挙げられたことを切欠に小早川家の養子にされたのだ。親の愛を知らず、国の道具として各地を盥回しにされる。年齢の差もあって徳川ほど回数は多くないものの、小早川も確かに運命に翻弄された武将の一人であった。
「うぁああああ……!」
戦国の世では生きにくいほど弱く優しい心を持った武将の泣き声は、根っからの武人で死を賭して忠義を定める石田にとって今は、赤子の駄々にしか聞こえぬのであった。




20131201
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