コポコポと音を立てて、ガラスのポットに熱湯を注ぐ。中に散りばめていた桃色の蕾が、熱と水によって解けていく。ヒラヒラと視界を横切る札をちょっと除けて、春は花開くお茶に頬を緩めた。砂時計を逆さにしてから、それらすべてと湯のみを乗せた盆を持ち、春は暖簾をくぐった。後ろからは、二頭の大熊猫がついてくる。
客間ではソファに身を沈め、彼の相棒である始が眉間を揉んでいた。始の向いには先日都へ向けて旅立った筈の恋と、彼が連れてきた金髪の少年――恋は駆という名だと紹介した――がピンと背筋を伸ばして座っている。二人の足元では飽いて疲れたのかウトウトと船を漕ぐ別の二頭の大熊猫の姿があり、その可愛らしさに春はついついクスリと笑った。その声で気づいた始は、ジロリとした視線を春へ向ける。「お茶を淹れてきたんだよ」盆を少し掲げて見せ、春は、始と二人を隔てる机にそれを置いた。
己の隣に座る春から恋たちへ視線を戻し、始はソファから身体を起した。大陸一の拳法家になると意気揚々旅立って行った彼が、二三日で帰還したときは何をやらかしたのかと思ったが、まさかそんなことで。
「……恋、お前にはしっかり獄族と人間の契約について教えた筈だが」
「えっと、その……」
春が膝に抱える二頭と、自分たちの足元で眠る二頭を見比べ、恋は「あはは」と乾いた笑い声を溢す。始がまた大きく溜息を吐くと、「あ、三分経った」と春は砂が全て落ち切った砂時計を持ち上げた。春が花茶を注いで四人の手元へ湯のみを配り終えてから、始は膝の上で指を絡める。
「人間は、古くから獄族と呼ばれる種族と、支え合って生きてきた」
人間は自らの守護を、獄族は願いの成就を相手へ託す。それを、契約と呼ぶ――こまごまとした制約はあるが、今は割愛する――。その副産物として現れるのが、彼らの手元にいる大熊猫であった。始と春も契約した人間と獄族で、春が抱える大熊猫がその笹熊だ。
「笹熊――大熊猫――は、互いの魂の化身といわれている。人間は獄族の、獄族は人間の魂から生まれた笹熊を手元に置くことで、契約の破棄を防ぎ、絶対を定める」
「え、えっと……?」
「えっとね、恋は駆の、駆は恋の笹熊を連れ歩くことになるんだけど、そうすることで相手の魂をその手に握ることになる――つまり、相手を生かすも殺すも自分次第、ってこと」
人質のようなものだと、春はニッコリとした笑みで言う。ゾッと顔を青くする恋たちの様子に、やり過ぎだと始は春の頭を小突いた。
「じゃあ、こいつらは妖魔の類ではないんですね……」
「お前ら自身から生まれたものだ。お前たちが妖魔だというのなら、その可能性もあるが」
そうなのか、と始が冗談で問うと、恋と駆は滅相もない! と首を大きく横に振った。二人の様子が可笑しくてクスクスと笑う春へ、呑気なことを、と始は睨みをくれる。
「それで、二人は何を交換したの?」
始の視線を無視して春が訊ねると、恋たちはキョトンとした顔で目を瞬かせた。もしやと、嫌な予感が始の頭を過る。春も笑顔を崩していないが、口端が僅かに引き攣っていた。
「……恋、お前には座学の時間は無駄だったみたいだな」
頭を抱え低い声で呟く始に、恋は「ひっ」と喉を引き攣らせた。
契約には、手順がある。互いに契約することを合意し、証として『何か』を提供しあうのだ。『何か』は物質でも良いし、生命力のような形ないものでも良い。始たちの場合は前者で、春の首には澄んだ紫水晶の首輪が大人しく収まっており、始のゆったりとした袖から覗く手首には翠玉の腕輪が煌めいている。
「交換……」
「そもそも、願いは何だ」
別に、契約したことを咎める気はない。恋はもう子どもではない、寧ろ旅をする上で獄族と契約を交わしていた方が都合よいだろう。今回の問題は、彼らが如何にして契約したかである。この二人の様子では、契約を自覚して行ったとは思えない。互いに友好的であったからと言え、明確な合意や交換なしに契約が施行されるものだろうか。眉間に皺をよせて考え込む始の隣で、春は「あれ」と恋の髪を注視した。
「そんな髪留め、持ってたっけ?」
恋は指摘されて思い出したように「ああ」と頷いた。
「駆から貰ったんです。二人とも都が目的地だったから、これからよろしくって……俺は桃まんを……」
結った髪を手に取って話していた恋は、徐々に語尾を小さくする。ちら、と春たちを見ると、僅かに視線を逸らしながら彼らは小さく首を振った。
「それだな」
「ええ〜! 俺が言うのもなんですけど、ゆるっゆるじゃないですか!?」
「知らん」
確かに桃まんと髪留めは交換するように手渡しをしたし、その直前には互いの夢について語り合った。しかしそんな、世間話の一つのようなものにまで適応されようと、誰が思うか。始は大きく溜息を吐いて、頭へ手をやった。
「しかし駆、お前、獄族なら笹熊についても知っていたんじゃないのか?」
まさか恋と同じおつむの持ち主かと、始は不安になる。この二人だけで再度旅立たせて、本当に良いのだろうか。駆は「えっと」と頬をかき、言い難そうに視線を逸らした。
「実は、俺……――記憶喪失なんです」
「うみゃぁ」と春の膝の上で笹熊が鳴く。え、と恋の口から間抜けな声が漏れた。始は目を見開き、春は小さく息を飲んで傍らの始を見やる。
「……どういうことだ」
「……」
目が覚めたとき、そこは楼閣の最上階だったのだと駆は言った。埃は薄らと積もり、壁紙やカーテンは僅かに色褪せている。上等なビロードを踏んで楼閣の外へ出ても、人の姿や気配はない。荒野にポツンと、楼閣だけが佇んでいた。駆は見上げていたそれから目を外し、当てもなく足を動かしたのだ。
「世界を見てみたいって……」
「うん。本当のことだよ。目が覚めてからずっと、心の中にあったんだ」
もしかしたら忘れてしまうほどぐっすりと眠る前に、願っていたことなのかもしれない。狭い箱庭を出て広い世界を見てみたいと、そう願って眠りについたのだろうか。自分のことであるのに、全て憶測でしか語れない。その寄る辺なき不安は、恋の想像を超えるものだろう。
始は何かを考えるように顎へ手をやり、不意に春へ声をかけた。「春、あれを」と指示語だけであったが、意思は伝わったらしく、春は一つ頷いて席を立った。暫くして春は、元は菓子折りが入っていたと思われるような大きさの箱を持って戻ってきた。蓋がない菫色の箱には、様々な種類の短冊と、使い古されて先が黒ずんだ筆と、墨の瓶が入っている。
「好きな短冊を選んでね」
「これは?」
「呪符の材料だよ」
春は自身の額からぶら下がる札を突いて、ニコリと笑った。獄族は普通なら、陽の時間に活動することができない。しかし契約した獄族は、契約相手が作った呪符を身に着けることで、それが可能になるのである――因みにこの館は始特製の結界が貼られており、呪符なしでも獄族は自由に動くことができる――。
恋は赤い短冊をとると、墨の瓶の蓋を開けた。スラスラと動く筆に、隣で覗きこんでいた駆は感嘆の声を漏らした。
「恋、呪符なんて書けるの?」
「一応、呪術の勉強もしたんだよね」
これで良し、と筆を置き、恋は自慢げに呪符を駆の額へと押し付けた。青黒い墨の文字が薄く発光し、駆はピクリと肩を揺らした。
「少し違和感はあるだろうけど、時期に慣れるよ」
「はあ……」
呪符が貼りつく額を掻き、駆は頷く。始は恋へ木札を差し出した。五角形に切られたそれには、墨で住所が書かれている。
「俺の知り合いの家だ。都についたら、そいつを訪ねろ」
「御友人ですか?」
恋の質問に、始は不機嫌そうに黙り込み、春は「クスクス」と弛んだ口元を袖で隠した。
「え、えっと……」
「気にしないで。昔のちょっとした知り合いだよ」
春はそう付け加えたが、あの始が渋い顔をする相手だ。近寄り難い雰囲気を持つ彼だが、他人を毛嫌いするような人間ではない。余程悪い思い出があるのか、癖が強い相手なのか。
(霜月、隼……)
土地名と番地の下に添えられた名前を指でなぞり、恋は口元へ手をやった。

「眩しい!暖かい!」
青空へ両腕を伸ばし、駆は降り注ぐ日光に目を細めた。初めて太陽の下を歩く駆にとって、感動的な体験だった。元気いっぱいな駆の様子を微笑ましく見守っていた恋は、遠慮がちに肩を叩かれた。振り返ると、柔らかい色の髪を揺らした青年が立っていた。
「葵さん!」
「やあ。昨日は大変だったみたいだね」
はい、と葵は浅葱色の風呂敷包みを差し出してくる。今朝新しく作ったばかりの菓子だという。肥えた始の舌が鼓を打つ葵の菓子は、恋も大好物だ。湧きあがる涎を飲みこみ、「ありがとうございます!」と包みを受けとった。
「多めに作ったから、彼と半分こしてね」
葵はチラリと、万歳をしたままの駆を一瞥する。恋は大きく頷いて、包みを抱きしめた。
「俺は契約していないから、獄族との契約とかよく分からないけど……」
当てはまる言葉が見つからないのか、葵は頬を掻いて視線を左右に動かした。
「頑張って。自分の信じた道を、夢を諦めないで」
「……はい!」
恋は強く頷く。葵は少し照れたように笑った。恋の声で葵の存在に気が付いた駆が、何を話しているのだと首を伸ばしてくる。菓子を貰ったのだと恋が伝えると、駆はたちまちだらしなく相貌を崩し、葵に大声で礼を言った。
「お兄ちゃん」
駆の勢いに戸惑う葵を見て笑っていた恋は、その声にキュッと口元を引き締め、緊張した面持ちで声の聴こえてきた方へ身体を向けた。
「愛……」
恋と同じ桃色の髪をふわふわと風に遊ばせた少女が、車椅子に座って見つめていた。車椅子を押していた艶やかな黒髪の少女は、そっと目礼する。愛と呼ばれた少女は口元へ手をやって、クスクスと笑った。
「昨日、もう帰ってきたって聞いたとき、てっきりどこかの誰かに、コテンパンに負けてしまったのかと思ったの」
「そうじゃなくて良かったわ」少女の軽口に、恋はぎこちなく口角を上げる。愛はクスクスとした笑い声を収め、そっと恋を見つめた。
「いってらっしゃい、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、私の誇りだよ」
「……」
恋は少し口を開きかけ、グッと閉じた。愛の、毛布に隠された下半身を一瞥し、顔を背ける。そんな兄の様子に、愛は眉尻を下げた。葵は緊張を覗かせた顔で二人を見守り、彼の隣で駆は雰囲気の違う恋を不安気に見やった。

クスリと笑いが零れた。肩に乗る笹熊が、フンフンと濡れた鼻を頬へ押し付けてくる。その擽ったさが半分、もう半分は別の理由からだ。屋敷の二階から覗ける領地の門外では、数人の少年少女が何やら言葉を交わしている様子が見得る。隣に並んで同じようにその様子を見守っていた始が、ジロリと視線を向けた。彼へにこやかな笑みを向け、春は窓辺から離れた。
「獄族って、何なんだろうね?」
春は少し冷えた茶をカップへ注ぐ。始は何が言いたいのだと問うような視線を向けたまま、ドカリとソファへ腰を下ろした。
「見目は人間とそう変わらない。陰の時間であれば、常人よりも優れた身体能力と術力を発揮できる」
ふわり、と鼻をつく香りに口元が弛む。始はクッションへ肘をついて、ふむと頷いた。
「人間と獄族を動物学的分類で分けるには、あまりにも近しいな。人種として見るべきか」
「それか進化系と見るべきか」
始の前へカップを置き、春は向いに座ると笹熊を抱き上げた。ごろごろと喉を鳴らす笹熊を微笑ましく見つめ、春は目を細める。
「陰の時間しか活動できなかった獄族が、陽の時間に適応していくうち、身体能力が衰えてしまったというわけか?」
「――あるいは、進化の順が逆かもね」
始は眉間に皺をよせた。「例えばの話だよ、戯言だね」と春は笑って、膝の上でウトウトとする笹熊を抱き上げる。
「ハジュを寝かせてくるね」
そう言って部屋を出て行く彼の背を、始はじっと見つめていた。



20170301
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