―――泣くでない、竹千代。立派な男であろう
愛用の金扇を振りながら、公家上がりの武将はカラカラと笑う。自分は涙の溜った目で彼を見上げ、グスリと鼻を鳴らした。
―――お馬さんをしてやろう、きっと楽しいでおじゃ
上等な着物であろうのに、男は膝を折って涙と鼻水に塗れた顔を、その袖で拭った。
―――そしたらまた、笛を聞かせておくれ
―――ワシの笛は、人に聞かせるようなものじゃ……
うつけと名高い男から、遊び半分に受け取った小さな笛だ。男の持つような、竹林を吹き抜ける風の音など、決して出ない粗末な笛だ。そも、それを持つ自分の技術も拙い。
―――まろは好きでおじゃ、竹千代の音色は優しいでおじゃ。けど、一人で奏でるのが嫌なら……










糸竹のなきこえ









徳川への劣等感の昇華方法を見出せぬまま、真田は彼の元へ通う日々を送った。
政は石田を中心に毛利・大谷の補佐の基、滞りなく進んでいる。疲弊した国力を回復することが目下の課題となっており、それは奇しくも徳川の掲げた天下泰平と同じ道を辿っていた。そもの戦の発端が豊臣秀吉の仇討であり、政に関する意見の対立ではないから、そこに異を唱える者はいなかった。真田は根っからの兵と称されるほど、戦うためにしか生きておらぬ。政務も自国のことだけで手一杯で、大阪に登城することは免除されていた。
態々上田城を訪れる者もいない。真田には西軍の中で懇意にしている武将がいなかったからだ。面倒見の良い長曾我部が、時折近況を尋ねる文を送ってくる程度である。そんなわけだから、徳川を匿うのは存外簡単であった。前田は良い判断をしたものだ。
真田は猿飛手製の餅を手に、今日も徳川の眠る部屋を訪ねた。障子戸を開けた先にいた徳川は、ここ数日変わりなく布団に臥している。その枕元に胡坐をかき、真田は大口で餅を頬張った。中に詰まった餡ごと咀嚼する間、真田はじっとその寝顔を見つめていた。
例えば、ここで彼が目覚めたとしてだ。彼は真田が前田の言葉通り匿ったと聞いて、どんな顔をするだろうか。驚いたように目を丸くして、しかしそれと共に苦い顔を押し隠して笑う姿が、容易に想像できた。あちらとて、真田を得意としているわけではないと、承知している。身勝手な話であるが、真田はその事実が一番気に喰わないのであった。自身とて彼を好いているわけでもあるまいに、彼が己を苦手とし離れようとするのには腹が焼けつくような怒りを覚える。まるで幼子の我儘のようだと、自覚はしている。
徳川が真田に抱くのは、虎の後継者を横取りしたという罪悪感だ。真田がそのことに思い悩んでいたと知るから、余計に。けれど彼自身それを嬉しく思うわけだから、己が浅ましさに自己嫌悪にも陥っているのだろう。全く、面倒なことである。
「ん……」
そんなことをつらつらと考えながら、指についた粉を舐めていた真田は、小さな呻き声にはたと固まった。それは紛れもなく徳川の口から零れたものであり、見れば眠る彼の顔に皺が寄っている。悪夢でも見ているのか、少々苦しそうに顔を歪め、徳川は掛布団を掴む。それからゆっくりと瞼が開き、蜂蜜色の瞳が数日ぶりに現れた。
「……徳川殿」
その言葉が真田から零れたのは自然なことで、彼自身呟いてから自覚した。ハッとして口元を抑える真田に、徳川は首を少し動かして視線をやる。寝起きでぼんやりとした瞳が真田を映し、徳川は薄く開いた唇を動かした。
「……誰だ、お前……」
「……!」
脳天を焼かれるような衝撃が、真田を襲った。しかしそんな彼の様子を知らぬまま、徳川はゆっくりと身を起し、未だぼんやりとした瞳を部屋に滑らせる。
「此処、どこだ……?義元さま……」
「徳川、殿」
ひやりと背が冷える。何処か舌足らずなのは、寝起きだからか。思わず名を呼んだ真田を、とろりと溶けそうな瞳が映した。
「お前、新入りか?義元さまは何処にいる?」
次の言葉ははっきりと真田の耳に届き、半ば呆然としていた彼は慌てて忍の名を呼んだ。

「彼は、徳川家康じゃない―――松平竹千代だ」
徳川と二三言葉を交わした猿飛が口にした名は、真田が先日聞いたばかりのものだった。今二人がいるのは、徳川を寝かしていた部屋の隣だ。真田は膝の上で作った拳を更に固く握りしめた。
「……それは、どういう意味だ」
「そのまんまさ―――あの男は、松平竹千代になってしまった」
猿飛の言葉を口内で反芻し、ゆっくりと飲み下す。
松平竹千代―――それは嘗て、人質として生きていた頃の名。
「記憶喪失、ということか」
「うーん。少し違うかもね」
ポリポリと頭を掻いて、説明し難そうに猿飛は顔を顰める。やがて彼は手を下ろし、大きく息を吐いた。キッと主を見据えた瞳は、これから話すことの真実性を保障し、落ち着いて受け止めるよう語りかけていた。
「徳川は、記憶を退行させたんだ」
理由は定かでない。嘗ての知己と争うことになったからか、盟友と敵同士になったからか、絆を解きつつ拳を振るう矛盾に、耐えられなくなったか―――何れにせよ、全ての発端は関ヶ原にあるのだろうと猿飛は睨んでいる。石田との決戦、松永の奇襲を受けたあの場所で何かがあり、これまでの記憶を失うことを望んだ。恐らくは、彼の人生の中で最も楽しかった時代。人質と言われながらも、織田・今川の元で十分に愛され育った時代まで。
―――義元さま!
槍を捨てる前の幼い少年が満面の笑みを浮かべる様子が、真田には容易に想像できた。自分が師に対しするときと、同じだろうと。
「……もう、思い出すことはないのか」
当時はまだ、真田と出会ってもいない。武田のことさえ、知っていたか怪しい。つまり、あの状態の徳川に、真田は全くの接点を持たないのだ。
(それは少々……困る)
何故、とは解らなんだけど。
猿飛は気まずげに顔を歪め、思いつめたように俯く真田から視線を外した。
「記憶を捨てたのか、閉じ込めたのか―――どっちか知らないけど、彼が望まない限り『徳川家康』は『死んだ』ままだろうね」
からり、と障子戸が開いた。ハッとして猿飛がそちらに視線をやる。その反応で畳に落とした影の正体を察し、真田はゆっくりと面を上げた。
いつの間にか立ち込める曇天の隙間から、ほんの僅かに零れる日を背に、彼の人物は立っていた。今まで話題に上っていた男は、年齢にしては若干幼い顔にあどけない笑みを乗せ、真田を見返した。
「お話は終わったか?」
キラキラと日を受けて輝く蜂蜜色に、真田の良く知る虎の魂は垣間見えない。嘗て真田の名を呼び何処となく困ったように笑う男のそれと重なり、真田の胸をちくりと刺した。





20131012
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